インテルメッゾ ~それぞれが背負う過去~ Ⅲ
もう日は暮れかかっている。
一人、部屋に取り残された後……動く気にもならず、何を考えているのか考えていないのかもよく分からないまま、クリスはただぼーっとして椅子に腰掛けていた。
部屋の窓からは西日が鮮やかに差込み、室内を赤丹色へと染め上げる。
一人で、と聞いたその時から妙に心が落ち着かないのだけは自分でも痛いほど分かっていた。
クリスが姉を探し始めたのは三ヶ月前くらいからとなる。
二ヶ月ほど一人で捜し歩き、それからエリオットと出会って旅をしてきた。
「たった……一ヶ月なのに……」
その一ヶ月前の頃にはもう戻りたくない、と思っているのだ。
独りは嫌だ、と。
単に寂しいだけなのか、それともそれなりにエリオットを気に入ってしまっているのか、そこは自分では判断出来ない。
白く美しい陶の机に突っ伏して、目を閉じて考える。
エリオットはクリスとは違う、普通のヒトだ。
何やら深い事情がありそうなルフィーナとも、クリスと同じように素性の分からないレクチェとも違う。
ただ、ローズを助けたいという気持ちでこの大きな問題に立ち入ってしまっているだけのただのヒトなのだ。
ここまで大きく発展してしまった問題に、これ以上首を突っ込むだなんて周囲が許すはずなど無いし、首を突っ込んでもまた大怪我をしてしまうかも知れない。
いや、今度は死んでしまうかも知れない。
はぁ……と一人重く溜め息をついたところで、
『クリス様、少しいいだろうか』
背中に背負いっ放しの槍から、頭に直接声が響く。
「どうしましたか?」
周囲から見たらただの独り言にしか見えないであろうが、突っ伏したまま精霊の声に答えた。
『あのエリオットという男は、決して普通ではない』
「急に何を?」
まるでクリスの思考を読み取っていたかのような言葉に、思わず聞き返してしまう。
それまで会話を全くしていないのに、何が普通ではないのか判断しようも無い。
『……実は、クリス様と私は良くも悪くも相性がとても良い。だからクリス様が何を考えているのか、馴染んだ今は大体こちらに伝わってきている』
「えっ、じゃ、じゃあ……」
その声に思わず顔を上げた。
『あの男は、ただのヒトではない。その証拠に、私に触れてもまだ生きている』
ということは、普通ならやはり持ったら死んでしまうのだろうか。
エリオットが辛うじて生きていたこともあって、クリスはてっきりその話は誇張なのだと思っていた。
『普通は「持つ」と言う、武器に干渉する行為に反応して私の力が持ち主に流れ込み、それに拒絶反応を起こして死ぬのだ。無論、直接肌に触れずとも干渉があった時点でそれは起こる。だが、あの男に力が流れた時……何かが違った』
「何かが……」
『申し訳ないが何が違うかはよく分からなかったが、あの男の体に私の力は……言うなれば、流れ込みにくかったのだ』
だからこの槍を持って投げる間、ノーダメージとはいかずとも、彼は耐えることが出来たらしい。
精霊が述べる言葉に、少しだけ心が浮く。
「じゃあ、実は私と同じ種族の血が薄く入っているから耐えられたとか?」
『いや、全く違う。クリス様の場合、私の力は貴方の体にスムーズに流れている。その上で拒絶反応を起こさないだけなのだ』
否定されて少し気恥ずかしいクリスは、ぽり、と頬を掻いて誤魔化す。
そんな主の反応を気に留めることもなく、精霊は話を続けた。
『私はあの男のような肉体反応を示す人間とは、一度たりとも出会ったことは無い』
この槍がいつこの世界に創られたのかは分からない。
だが、最低でも何千、何万年という歴史は見取って来ているだろう。
今のクリスとは違う意味で、エリオットは本当に唯一無二の『独り』なのだ、と。
その事実に、精霊の主である子供は言葉が詰まってしまう。
エリオットは、間違いなく何者なのか生まれが断言出来る環境で育っているはずだ。
それなのに、これはどういうことなのか。
突然変異という言葉で片付けられる問題とも思えない。
『更に考え事を増やしてしまったようで申し訳ないが、もう一つ伝えておかねばならないことがある』
どことなく語尾が重苦しいような雰囲気で言葉を綴る精霊。
クリスは黙って続きを待った。
『姉君は、既にダインに喰われきっている。あれでは手放させても、ダインを折っても、救えない』
……ダイン?
クリスはあまり理解出来ずに、首を傾げた。
『ダインとは、大剣の精霊の名だ。アイツも私の事をニールと呼んでいただろう。一応だが私達は名前らしきものなら持っている』
「そうだったのですか、では次からは名前で呼ばせて貰いますね」
もっと早く教えてくれてもいいのに、と少しだけ不満を抱きつつ、ニールの言葉の中にあった「事実」を少しずつクリスは飲み込んでゆく。
要は、姉は精霊に喰われきっていて、助からない、と。
「そ、それじゃあ……」
『姉君を救うにはダインに思い直させて、喰った魂を返させるしか無いだろう』
ニールの提案は、現実的な案では無い。
姉の美しい顔をあそこまで醜く歪ませて笑うことの出来るあの精霊に思い直させるなど、クリスには不可能としか思えなかった。
『あいつの場合は私達の逆だ、相性が悪いから同調させることが出来ず、喰うことで無理やり操っている。喰われきる前に手放させる事が出来れば良かったのだが、見た限りもう遅いと思う』
ニールの言葉はクリスを絶望させるのに充分足るものだった。
椅子に座っている事すらも維持出来ないくらい、体の力が抜けていく。
ガタン、と椅子の上でバランスを崩して床に倒れてしまった後、声にもならない嗚咽が漏れ、碧い瞳から涙が溢れ出す。
拳を力いっぱい握り締めて、床を何度も叩いて当たり散らし、自身の爪が刺さって手の平からは血が滲み出てくる。
自傷行為も同然の暴れ方だったが、クリスの想いが伝わっているのであろう精霊はしばらく無言だった。
クリスがどれだけ姉を愛していたか。
自身でその半生を振り返れば姉を想わぬ日など無いほどに……
クリスには、姉しか居なかったのだから。
◇◇◇ ◇◇◇
――それは聞いたことのある童話によく似た情景だった。
違うのは、この森の先にお菓子の家も泣ければ魔女も居ない、クリスは道しるべにパンを落としたりしてもいない。
月の光が木々の葉の間から差し込み、かろうじて足元が見えるものの、それも不確か。
クリスはその姉と共に森の中で、父の後を必死に着いていった。
父と言ってもきっと実の父ではない。
家に居るはずの母もきっとそうだろう。
クリスはその事実を直接聞いてはいないが、見た目・態度共にそう感じる部分は多々あった。
そして今晩は、この森に捨てられるのだろう。
ローズもクリスも、分かっていて着いていく。
飢え死ぬことになるかも知れない。
けれど、家に居るよりはずっとマシだと思うから。
毎日母から折檻を受ける日々よりも、生を終えてしまったほうがどんなに良いことか。
「お父さんはちょっと用事があるから、ここで大人しく待っているんだよ」
想像していた通りの言葉に、二人はお互いの碧い目を見合わせる。
とりあえず頷いたら、そこで父が見えなくなるまで座った。
姉は隣の幼子を不安にさせまいとしてか、終始、笑顔だった。
その後幸運にも二人は獣人の老夫婦に拾って貰うことが出来る。
思えばその頃が一番幸せだったのではないだろうか、と思えるくらい。
しかし老夫婦が二人を看ていられる力が無くなり、数年して教会へと二人で預けられる。
姉は容姿も良く、程なくして引き取り手が見つかり、それからクリスは教会の司祭や他の孤児達のみと過ごすことになった。
姉とはそれ以来会っていない。
姉と最後に交わした言葉は「元気でね」とあっさりしたもので、別れ際だというのに姉は少し目を伏せるだけで、笑顔は絶やさなかった。
クリスはそんな姉を尊敬し、そして少し悲しく想う。
結局姉は決してクリスに弱さを見せることは無く、一度たりともその胸の内を知ることは出来なかったのだから。
けれど、姉はいつだって自分を大切にしていてくれた……それだけは心から感じ取れる、間違えようのない絆。
いつか一人立ちして姉を迎えに行くのだと、それだけがクリスの生きる目標となっていた。
必死で司祭として持つべき聖職者としての技術をただひたすら学んだ。
天使のような姉とは違い、時折悪魔のような姿に変化してしまう自分を、強く制する意志を持った。
おかげで周囲とは違う見た目でいじめられることは無くなった。
そして槍術を鍛え、司祭の仕事に必要な魔術式や魔法を覚える。
そうしているうちに自分の年齢が壁となり、少しでも大人に近づこうと幼いなりにも背伸びをする。
周囲の孤児達からは浮いていたが、今はそれで構わないとひた走った。
全ては姉の為、と。
……だがローズはクリスが迎えに行く前に道を踏み外していた。
賞金首として届いたその知らせにクリスはただ愕然とする。
引き取られた家庭の先で何があったのか、想像は容易なようでそうではない。
あの笑顔の下に、姉はどんな想いを抱えていたのだろうか。
そしてどんな想いで道を誤ってしまったのだろうか。
その知らせはクリスを一人旅立たせるのに充分なものだった――
◇◇◇ ◇◇◇
何と滑稽な話だろう。
もはや姉を救うのは絶望的だとすれば、今までしてきたことは一体何になると言う?
「姉さん……」
クリスは泣き疲れて、今度は笑いが込み上げてきた。
その感情に抗うことなく、ははは、と力無く笑ってみた。
こういう時の人間は、壊れそうな自分の心を守る為に笑うのだろう。
起き上がる気力も無い、力を入れていた拳も気付けばだらしなく緩み、微かな血だけが床に擦れる。
傷一つ無い美しい床に頬を張り付けたまま、クリスは笑った。
このまま、何もかも投げ出して、生を終えてしまいたい。
そう弱気になっているところに、
『クリス様にはまだやることがあるのでは無いか?』
反論するように、ニールは問いかけてきた。
「何を、しろと言うのです……」
声を出すのも面倒臭いが、一応聞き返す。
『私はダインのやっていることを否定する気は無い、あいつの行いはある意味私達の存在理由に一番素直に従っているようなものだからだ』
「そうですか……」
存在理由?
もうそんなことどうでもいい。
いや、そうだ、別に姉と一緒になって全てを壊しても構わない。
それならあのダインとか言う大剣の精霊も自分を傍に置いてくれるだろうか。
精霊の意のままに動くという約束で姉を元に戻してくれるだろうか。
終始投げやりなクリスの思考に、ニールはまた問いかける。
『間違うな、クリス様。それは本当に自身の意志か? 姉君の意志か? 私は今まで色々な主を見てきた。この世界そのものの敵となる、全てを敵に回してでも遂げなくてはならない使命に苦悩する主達が大勢居た。自ら滅ぼされることを願う者も居れば、本能的な破壊衝動に身を任せる者も居た。結果として、種の存続が危ぶまれるのは最初から分かりきっていたことだった。
クリス様は選ばなければならない、選べない姉君の為にも』
「……姉さんの為?」
その言葉に微かに反応する。
力抜けていた体が、ぴくりと動いた。
『姉君は、そのどちらを選ばせて貰えることも無く、ただ人形のように動かされている。クリス様はそれを許せるのか?』
「そんなの……許せないです……」
『私も、同じ精霊武器としてあのやり方は良いとは思っていない』
――姉さんを、せめて解放しなくてはいけない、あの性悪精霊から。
虚ろだったクリスの瞳に再度光が灯る感覚、焦点が合ってくる。
『我が主よ、返答は要らない。これより私は、他でも無い貴方だけの物となる』
背負った槍が凄まじい風を竜巻のように部屋で巻き起こし、その力を収束させる。
風が落ち着いたと同時にほのかに背の槍から伝わる温もり。
今までにはない何かをその槍から感じられた。
例え手放しても、この槍は必ず自分の元に戻ってくる……そう運命付けられたのが何故だかクリスには分かる。
寝転がっていた体を起こし、腰を落として床に座り直した。
背の槍の紐を解いて自分の手前に持ってきて、まじまじと見つめてみる。
「決めました。例え死なすことになったとしても、姉さんを解放する……あれですね、人に取られるくらいなら殺してしまえ、みたいな」
『それは違うと思うぞ、クリス様……』
◇◇◇ ◇◇◇
クリスが新たな決意を胸に決めた頃、ルフィーナはレクチェを連れて北方の都市ツィバルドの街中を歩いていた。
レクチェは、あの場は危ないと彼女に言われ連れられて逃げたものの、どうしようも無い不安に未だに苛まされていた。
クリスやエリオットの安否も心配だが、それ以上にまた飛んだ意識が彼女を怯えさせる。
空白の記憶とは、他人が思っている以上に当人にとって恐ろしいものなのだ。
紅瞳のエルフが気を遣って何度も和まそうとしてくれているが、レクチェは彼女の親切さが逆に怖かった。
何だかよくわからないが彼女の優しさには何か背景が見え隠れするからである。
「……クリスさん達、無事なのかな……」
「無事よ」
「本当に……?」
断定するエルフに疑問を浮かべる。
「えぇ、本当よ。だって貴方がここに居るからね」
「……?」
その言葉の真意を図りかねるレクチェは、更に不安を掻き立てられていた。
けれどそれ以上の説明はして貰えない。
「貴方は私が護ってあげる、絶対に」
レクチェの右手を握り、強い意志を持って彼女なりにレクチェに訴えかける。
芯まで凍るような寒さのこの街で、ルフィーナはもどかしさに耐えながらも改めて彼女なりの決意を胸に宿していた。
◇◇◇ ◇◇◇
【第一部第六章 インテルメッゾ ~それぞれが背負う過去~ 完】