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香らぬ香りは芳しく。

作者: 浅梛 実幻

 相思華堂(ソウシカドウ)――それがその店の名前であった。

 荒廃した街中でひときわ異彩を放つひっそりかんとした香水店。そこにいるのは"最高の香水"を求め続ける無骨な店主と幼い使い。

 彼らの手で作られた香水は持ち主に幸せをもたらす、という風の噂は街人の中では知れ渡っていたもので、悩みを持った子羊(・・)達が遥々遠方から幸せを求めてやって来ると言う。

 が、しかし幸せの香水を手に入れるには相当の対価が要るとか要ないとか。

 なにぶん店に行ったきり帰ってこない客もいるそうな――。




  ∞




 青薔薇に型どったドアベルがちりんりん、と鳴った。


「ただいまもどりました。リコリスにございます」


 まだまだあどけなさの残る少女は喪服の裾を正すと、山ほどサンプル瓶が並ぶ人気のないカウンターに向かって行儀よく一礼した。

 ミニハットについたレースが少女の短い赤髪にひっかかり、少女は小さな手でそれを直す。それからもう一度口を開いた。


麝香鹿(ジャコウジカ)香曩(こうのう)をいくつかと、あとは近所の方からいただいた花にございます。この花はラベンダーに似た香りがするというらしいのですが」


 少女は顔にはめた銀製のマスクに花を当てた。そのマスクは少女には不釣り合いなほど重々しく、耳や首にかかる鎖は少女の肉に食い込んでいた。


「いかがなさいましょう。芳香成分を抽出しましょうか」


 ようやくカウンターの向こう側から重たい足音が響いた。

 現れたのは無骨な店主。顔半分が長い銀髪に覆われ、表情こそ見にくいものの精悍な顔つきの中年だ。彼はペリドットに似た黄緑色の瞳で少女を捉えると、むんずと花を奪い取り、匂いを嗅いだ。


「――いらん」


 その花を押し付けるように少女に突き返すと彼はカウンターに肘を付き、再び口を開いた。


「俺の求めている香りじゃない」


 店主が踵を返し、奥に戻ろうとした時だった。少女は表情一つ変えないまま店主の袖を掴み、何時にもまして小さな声で店主の名前を呼んだ。


「ゲオルクさま」


 ゲオルクは黙ったまま、ぎらりと左目でリコリスを見やる。少女は怖じ気づくことなく早口でこう続けた。


「申し訳ございません。ゲオルクさまがお求めになっている匂いかもしれないと思い。わたしに……わたしに鼻さえあれば、こんな面倒をあなたさまに押し付けたりしなかったのですが」


 少女はそう言うと俯いて銀のマスクを手で押さえた。少女の目元以外全てを覆うそれはあまりにも重たいものだった。それでも相変わらず彼女の瞳は何も語らせないくらい真っ黒でそこから涙が溢れることもなかった。


「悪くはない」


 店主はそう言うと少女から再び花を奪い取って、もう一度匂いを嗅いだ。


「"最高の香水"には足りないだけだ。……気が変わった。自室に飾っておけ。赤色がお前の髪に似ている」


 ゲオルクがその赤い花を手渡し、そばにあった赤い香水瓶も一つリコリスに差し出すと少女はそれらを胸に抱き、じっと店主を見つめた。


「……なんだ」

「いいえ。ただ、わたしは……一度転んだら意地でも二度と起き上がらないような人間ですから」


 木偶の坊があなたさまに伺候させていただけているのが幸せなのです、という呟きは銀のマスクの中で小さく木霊し、誰の耳に届くこともなかった。


「リコリス、屍体の処理を手伝え」

「麝香鹿のものでしょうか、それとも?」


 店主は口を閉ざしたまま、そばにあったオリーブ色の香水瓶を手に取り、小さな使いの体に執拗なほど振りかけた。


「行くぞ」

「はい、ゲオルクさま」


 ステンドグラスの扉を開けると、月が今宵も二人を明るく照らしていた。

 青薔薇のベルが再びちりんりん、と鳴るとそこには立ち眩むほどのきつい芳香だけが残されていたのだった――。


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