61.白水晶
流れ落ちるのが、汗なのか、血なのか、既にわからなくなっていた。
歩いても、歩いても先の見えないままの、薄暗い道の中、エシュタンドは視界がぼやけてくるのを感じていた。
岩につまずいて、足がふらつくのを、なんとか壁に手をついて、その場に留まる。
「ソラ……」
先ほどから、もう何度目かもわからないほどに呼び続けた名前を、無意識のように口にする。
ただそれだけで、少し力がわいてくるような気がするのだった。
意識が遠のきかけたあの瞬間、胸元に潜ませた想緑珠が熱を帯びた。
確かにあの時、空の声が聞こえたような気がしたのだ。
この先で、きっと彼女は待っている。そんな根拠のない思いが、エシュタンドの足を進ませていた。
どうしようもない氷の壁に苛立って、何かのきっかけにでもなればと、覚悟の上で、力を揮った。
その瞬間、いきなり薄暗いこの空間へと、自分一人だけが引き込まれたことを思っても、これは絶対に空につながる道だと思えるのだった。
自らの放った力が、まるで凍りついた滝に撥ね返されでもしたかのように、阻まれ、返ってきたことはわかった。
滝の意思なのか、それすらもはっきりしないものの、何かの力が、自分を阻止しようと働いたことだけは確かなのだ。
空から遠ざけるのなら、滝の外に撥ね返してしまえばいいところを、こうして洞窟のような内部へ引き入れたということは、完全に阻まれたわけではない。
二つの相反する力が、自分を拒み、また、引き寄せてもいる――そんな不思議な感覚に導かれているように思えた。
「それにしても――時間の問題だな」
我ながら苦しげに響いた声は、一人きりの暗闇に飲み込まれていく。
痛みは感じないものの、体のあちこちから流れる血が、ゆっくりとエシュタンドの体力を奪っていた。
自分の力で、傷つけられるとは――なんとも皮肉な状況だと、エシュタンドは眉をひそめて、知らず笑みさえ浮かべていた。
呼吸の乱れすら、はっきりと聞こえるほどの静かな空気。
確実なのは、魔の力ではあり得ないほどの清浄な場所だということ。それを思っても、この状況を招いた相手が、一体どういう存在なのか、確信できるような気がした。
「滝の精であろうと、何であろうと――ソラを傷つけでもしたら、絶対に許しはしない」
低く、呟かれたその言葉で、なぜだか一瞬空気が震えるような、奇妙な感覚が彼を包む。
まるで誰かが、取り返してみろ、と笑ってでもいるような、そんな空耳にすら襲われて、エシュタンドは頭を振った。
そして上げた藍色の瞳は、傷ついた体とは反するように、ますます、強く、深い想いに燃えていた。
彼の想いに応えるように、胸元の宝玉が、呼吸でもするかのように、ひときわ大きく脈打った。
熱い、強い、緑の輝きが、膨らんでいく。
「自分を使え、と……そう言ってるのか?」
思わず、問いかけた彼の前で、想緑珠は、ますます輝きを強めていく。
以前、空を捜して入り込んだあの森で、強い光が、二つの石を呼び寄せるように放たれたことを思い出す。
あの時も、彼女の無事を願って、ただひたすらに、捜していた。
それを助けるかのように、輝いたあの石――それは決して、偶然ではなかったのだ。
頭の中で符号が合っていく。何も確実なことなどない。
それでも、エシュタンドは、既に何か確信に似た思いを抱いていた。
「石よ――私を、ソラの元に導いてくれ……!」
流れてきた血を乱暴に払って、エシュタンドは叫んでいた。
その声に応えるかのように、緑の光が、岩に囲まれた道をまっすぐに照らし出した。
手のひらの中で、脈打つ石の熱が、彼の中にも伝わってくる。
不思議な温かさに包まれながら、必死で願ったエシュタンドは、大きく揺れた地面に、倒れそうになるのをなんとか堪えた。
まるで、爆音にも似た音が、彼のいる空間を轟かせる。反響する音の方向を探した、エシュタンドの目に、濃い緑色の光が映る。
その光が指し示す方角を振り返ったエシュタンドは、強く巻き起こった風に思わず腕を上げ、瞳を閉じた。
小石のようなものが、風と共に吹きつけた後、ゆっくりと開けられた彼の瞳は、大きく見開かれる。
「……ソラ――!」
彼の叫びに、同じように瞳を大きく見開いて、空は、自らの目にしているものを確かめるように、何度も瞬きをした。
手にしていた、大ぶりの剣を下ろして、目の前に開けた空間を、もう一度信じられないように見つめてから、空はゆっくりと口を開く。
「エシュタンド――!」
泣きそうにゆがんだ顔で、こちらへ駆けてくる黒髪の少女を、エシュタンドは心から湧き上がる安堵と共に、見つめ返した。
周りに飛び散った石を避けながら、走り寄ってくる空の体を、受け止めようと伸ばした手は、ずきりと疼いて、思わずその場に膝をつく。
「エッ、エシュタンド! 大丈夫?」
途端に心配そうに、そっと彼の体を支えた空に、エシュタンドは精一杯の微笑みを向けた。
「大丈夫だ。まったく……これくらいの傷で、情けないな――」
作ったつもりの笑顔は、今更感じ始めた痛みで、ゆがんでしまったようだった。
それでも、無事な彼女を抱きしめようと、起こしかけた体は、またしても傾いだ。
「エシュタンド、しっかりして……!」
力を失った彼の体を、空が抱きとめたその瞬間、突然どこからか、軽やかな音が響いた。
「いやあ、お見事! ご苦労さま。君ならできるって、信じてたよ」
拍手しながら、笑顔を浮かべた少年の姿に、エシュタンドは遠のきかけた意識を必死でつなぎとめた。
「貴様、か……ソラをこんな目に合わせたのは――ただで済まされると思っ……」
言いかけた言葉は、またしても疼いた体中の傷によって阻まれる。
それでも彼の意図を飲み込んだように、少年は高らかに笑った。
「まだそんな口が聞けるんだ。もうふらふらのくせに、強気だね」
「彼を笑うのはやめて! もういいでしょう? あなたが言った通り、彼と出会えた。この岩の壁も、砕いた。
これで、満足でしょ? 早く、あたしたちを外に出して!」
怒りを込めた空の叫びに、少年の笑顔がゆっくりと消える。
「あれ? この剣はいいの? ご褒美にあげるって言ったじゃない」
滑らかな白い手で、優雅に指し示された、その剣は、先ほど空が手にしていたもの――目を凝らしたエシュタンドは、ようやくそれが、ハルトの聖剣であることに気づいた。
「そんな、剣なんかいらない! 力なんて、いらない……あたしが望むのは、ただエシュタンドの無事だけ。
早く彼の手当てが必要なの! だから、お願い――外に出してよ!」
傷だらけのエシュタンドの体を悲しげに見て、空は搾り出すように、少年に向かって叫び返した。
その声を、ただ黙って聞いていた少年は、ゆっくりと、美しい笑みを浮かべた。
「いいだろう……合格だよ。まあ、無意識の結果みたいだけど、剣は君を拒まなかったし。選ばれたかどうかは、試してみればわかることだ。
二人の想いの強さは、いやってほど、見せてもらったしね。まったく、そんな男より、僕のほうがよっぽどいい男なのになぁ……」
軽い調子で、呟かれた言葉に、空はただ眉をひそめた。
エシュタンドが目つきを鋭くしたことに、すぐに気づいたように、少年はいたずらっぽく舌を出した。
「冗談だよ、そんな怖い顔しないでよね。大体、僕は精霊なんだから、そんなに恐ろしい真似、するわけないだろ?
もう少し、信じてくれたっていいのにさ――僕が本当に、永遠にでも閉じ込めるとか、思った?」
拗ねたように問われた質問で、空は何とも言えないような顔で、ただ少年を見返していた。
空が口を開くより前に、少年は両手を合わせて、明るい瞳で二人を映した。
「確かめたかっただけだよ、君たち二人が本当に、力を手にすべき存在なのかをね」
「力、だと――?」
飲み込めない話を、なんとか頭に理解させようと、エシュタンドが問い返す。同じ疑問を持ったように、空も少年を見やった。
「そうさ。石にも選ばれ、剣も認めたとしても、万が一、道を踏み外すような者だったら、困るからね。
その力を得るにふさわしい二人なのか、ただこの目で見たかっただけ」
「あたしたちを、試したってこと――?」
複雑な瞳で、問い返した空をちらりと見て、少年は笑顔で肩をすくめてみせた。
「ま、そういうこと。僕って、本当は親切なんだよ? だって、口数の少ない、森の奴らに代わって、身をもって、その石の使い方も教えてあげたんだからね」
今は先ほどまでの輝きも熱も失った、ただの石を、空もエシュタンドも握り締める。
その様子を笑って眺めて、少年は大きく伸びをした。
「もうわかったと思うけど、その石は、二つの石を手にする者――想い合う二人を、つなぐ石。その想いが強ければ、強いほど、その力も強くなる。
どんな風に働くかは、さっき見た通り、二人を引き寄せることもするし、他にも、色々と役に立つ。
まあ、堅苦しい森の奴らの宝玉にしたら、良く出来てると思うよ。大事にするんだね」
「じゃ、じゃあ……あたしたちは、この石のおかげで、引き寄せられたってこと?」
おそるおそるそう訊ねた空に、少年は頷いてみせる。
「それだけじゃなく、君は白水晶の剣も使っただろ? 滝そのものの意思を司る、この剣に、君は命を下した――道を開け、と。
無意識にしろ、何にしろ、その強い想いに、剣は応えた。その意味は、君は、この剣に見事選ばれたってこと」
「剣に、選ばれた……?」
まるで予想もしなかったような言葉に、ひたすら驚いているように、空は呟いた。
黙って見ているエシュタンドの服を、そっと握ってくる。その手を取ろうとしたエシュタンドは、思ったよりも言うことを聞かない体に、小さなうめきを上げた。
「エシュタンド! 大丈夫?」
たちまち覗き込んでくる空に、唇だけで微笑んだものの、既に声も出せないほどの痛みを、隠すことで精一杯だった。
「セリル、さん――お願い、彼を助けられないの? このままじゃ、エシュタンドが……」
セリル、と呼ばれた少年は、嬉しそうに空を見た。
「やっと、僕の名前呼んでくれたね。さん、はなくてもいいのに」
「そっ、そんなこと言ってる場合じゃ……」
苛立ったような空の声に、セリルはまあまあ、というように片手を上げてみせた。
「大丈夫。そんなこと、君が手にした剣の力を持ってすれば、わけないよ。あとで、彼の体にのせて、願ってごらん。
癒しと浄化の力を持った、白水晶の剣なら、そんな傷ぐらい、たちどころに治してくれるさ。
ただし、その想いが、純粋で、強いものでなければ、だめだけどね」
「癒しと、浄化の力――?」
不思議そうに問い返した空に向かって、セリルは剣を差し出した。
「もう、抜けるよ。君は、この剣の、持ち主だからね」
ハルトの聖剣と呼ばれたものと、全く別の物のように、古びていた剣の鞘も、柄も、全てが輝きを取り戻していた。
錆びていた色が、鮮やかな水色に変わっていく。その表面に刻まれたのは、白い模様――まるで、流れ落ちる水の姿を現したような。
その剣をためらったように見つめていた空が、おそるおそる受け取った瞬間、内側から、まばゆいほどの光が放たれた。
「その剣は、必ずこれから君たちの役に立つ。力の発動には、想緑珠と同じように、二人の想いが必要だ。
魔をはらい、清める剣――正しい想いで、使うように」
そう言い放ったセリルは、先ほどまでの気楽な少年の姿には見えなかった。
外見はそのままでも、あふれるほどの力と、威厳に、神々しいほどにも美しい、まぎれもない精霊の姿だった。
「さあ、そろそろ、滝たちも退屈してくる頃だ。いつまでも凍らせてるわけにはいかないからね。
行きなさい。君たちを、心配してる者のところへ――」
優しい瞳で二人を見つめたセリルは、そっと手を広げた。
その動作と共に、大きな音が響き出す。
滝が流れ出したのだと、見えぬままにも感じながら、立ち上がろうとしたエシュタンドを支えて、空はセリルを見やった。
「待って! あの、ラウレカさんのこと、知ってるって本当なの?」
突然出てきた母の名前に、エシュタンドも視線を上げた、その時、セリルは水色の不思議な瞳を揺らめかせて、微笑んだ。
「ああ、知ってるよ。清らかな力にあふれた、可哀相な、巫女――彼女も、君の大切な恋人も、泉の力を受け継いだ者。
彼女の場合は、聖なる力に、彼の場合は、魔の力として現れた……でも、どちらにしろ、大きすぎる力は、人間には凶器になる。
君も、気をつけたほうがいいよ。でないと、さっきみたいに、自分の力に傷つけられるだけでは済まなくなるかも――」
エシュタンドの藍色の瞳に向けて、静かに呟かれたその声は、今までのような、ふざけた調子のものではなかった。
それだけに、空が隣で息を呑むのが聞こえた。
「どっ、どういうこと――?」
心配そうに問いかけた空に微笑んで、セリルは静かな瞳で周囲を見渡した。
「ああ、血の匂いに、そろそろ滝が嫌がり始めてる……もう、限界かな。
とにかく、お互いを助け合うことさ。二人の想いが、一番大切なんだから。そのためには、ソラ――」
思いがけなく名を呼ばれたことに動揺したのか、口をつぐんだ空の隣に、いつの間にか近寄ったセリルは、何事かをそっと囁いた。
大きな滝の音にも阻まれ、エシュタンドには聞こえなかったその言葉で、空の顔色がわずかに変わる。
そんな空の頬を優しく撫でて、セリルは愛らしいまでの微笑を浮かべた。
「さあ、お行き。またいつでも、遊びにおいで、歓迎するよ――」
少年の姿には似つかわしくないほどの、優しい声音で、そう言って、セリルは素早く空の頬に口付けた。
一瞬何が起こったのかわからないような空を、楽しそうに見つめた後、セリルは何もない空間に、溶けるように姿を消してしまった。
胸に湧いてくる複雑な思いを、とりあえず隠して、エシュタンドはしっかりと空の手を握った。
振り返った黒い瞳が、エシュタンドの姿を映したのが見えた、その瞬間、突如まぶしい光が二人を襲い、怒涛のような音と水飛沫に囲まれていく。
「たっ、滝――?」
辺りを見渡した空と、エシュタンドがあわてて抱き合った次の瞬間、周りを占めていた岩肌がなくなり、突然水の中へと、放り出されていた。
激流ともいえるぐらいの、水の中、飲み込まれた体を、必死で空と抱き合いながら、エシュタンドは意識が遠のくのを感じていた。
頭の中に、自分を呼ぶ空の声だけが、こだましていくようだった。
*
村人たちに案内された先の、小さな洞窟の入り口には、またしても氷の壁が立ちはだかっていた。
王によって下された命で、王宮軍が氷の壁を砕こうとした、その瞬間、突如洞窟をも揺るがすような音が響き、一瞬にして、融けた氷の激流が兵たちを襲った。
近づこうとしていたクガルたち私兵隊は、あわてて飛びのき、水の渦を避けた。
「皆の者、無事か!」
叫んだ王の声に、洞窟から続く、小川の中ほどまで流された兵たちは、なんとか立ち上がり、無事を示す。
その様子にクガルもほっとした、その瞬間、少し離れて見ていた村人たちが、にわかに歓声を上げるのが聞こえた。
「巫女様だ! 巫女様が現れたぞ!」
「王子様もご一緒じゃないか!」
口々に喜びの言葉を叫ぶ、村人たちの声で、すぐさま振り返ったクガルの瞳に映ったのは、水が滴り落ちる洞窟の中、座り込んだまま、まぶしそうに瞳を細めた、空の姿であったのだ。
顔を輝かせたクガルは、空の膝に抱えられた、傷だらけのエシュタンドを目にして、顔色を変えた。
「殿下! 殿下、一体どうされて――」
小川の浅瀬を走りぬけ、駆け寄ってきたクガルの姿を見て、空はほっとしたように息を付いた。
「クガルさん――よかったぁ……ちゃんと外へ出られたんだ」
辺りを見渡して、心から安心したようにそう呟いた空に、クガルも力強く頷く。
「はい! 姫君、よくぞご無事で……しかし、殿下は、一体どういうことなのですか?」
瞳を閉じたまま、ぐったりと力を失っている主の様子に、クガルは心配の色を隠せずに訊ねた。
クガルの問いに、空も疲労の色濃い顔を引き締めて、エシュタンドの体と、自らの膝の間に挟まっていた大ぶりの剣を見やった。
「姫君、その剣は――?」
訊ねかけたクガルの周りに、兵たちも集まり、そして、王までも空とエシュタンドを見下ろすように、洞窟の入り口へと降り立った。
「ソラとやら、よく無事であった! エシュタンドはどうしたのだ、傷ついているようだが……」
直接訊ねられ、空はゆっくりとエシュタンドの体を膝から下ろし、岩の上に寝かせた。
「あ、あの――説明は、あとでゆっくりしますから……今は、とにかくエシュタンドの傷を治さないと」
「傷を、治すだと?」
訝しげに問い返す王に、空は頷いた後、先ほどの剣を手に取った。
「何をする気だ、その剣は――?」
「滝の精霊が言うには、癒しと浄化の力を持つ剣だそうです。これなら、エシュタンドの傷が治せるって……」
質問に答えるのももどかしそうに、空は剣を片手にかまえ、ゆっくりとその鞘に触れた。
「滝の、精霊……」
口々に信じられないような呟きをもらす兵たちをものともせず、空は一呼吸すると、鮮やかな水色をしたその鞘から、静かに剣を抜き放った。
そして、現れたものに、その場の全員が息を呑んだ。
抜かれた剣の刀身は、光り輝く、白水晶そのもの――剣の形に磨き上げられた、白水晶の結晶だったのだ。
皆が声を出せずに見守る中、空は一瞬だけ洞窟の奥を見やると、心を静めるように、瞳を閉じ、そしてエシュタンドの胸の上に、そっと水晶の剣をのせる。
「剣よ――どうか、エシュタンドの傷を治して……!」
固く目を閉じて、祈りを込めて呟かれた空の声――その言葉が届いたかのように、白水晶の剣が、ほのかな光を宿し、一瞬にして、それは辺りの空気をも染めるほどの、強い光に変わった。
空自身も、そして、周りの誰もが眩しさに瞳を閉じ、そして再び開く時には、既にその光はおさまり、何事もなかったかのように、剣は静かにそこにあるのみだった。
全ての視線を集めていたエシュタンドの瞳が、そっと瞬き、しっかりと開かれる。藍色の強い輝きが、彼の意識が戻っていくことを示していた。
「エシュタンド――!」
空の呼び声に答えるかのように、エシュタンドはゆっくりと上半身を起こし、そして信じられないようにその体を見つめた。
そう、彼の体のあちこちにあった、切り裂かれたような傷跡は、全て綺麗になくなっていたのである。
「ソラ……」
ほっとしたように瞳を合わせたエシュタンドに、空はすぐに抱きついた。
二人の抱擁を見つめていたその場の兵たち、そして村人たちからも、ゆっくりと歓声がわきあがる。今、起こった出来事が、信じられないままに、クガルもようやくその表情に安堵の色を浮かべた。
「エシュタンド……一体、どうなっているのだ」
ただ、呆然と、事態を見守っていた王が、ようやく言葉を発した頃には、エシュタンドはいつもの表情を取り戻し、笑顔すら浮かべて、王を見上げた。
「道すがら――ゆっくりとご説明いたしますよ、父上。その前に……」
藍色の瞳を腕の中の少女に向けて、エシュタンドは微笑んだ。
「ソラの、着替えと、休息が必要なようです。メセル殿――お願いしても、よろしいでしょうか?」
エシュタンドの胸に、力尽きたように体を預けて、子供のような顔で眠る空の姿に気づいたメセルは、優しい笑顔で頷いてみせた。
馬車に運ばれる空を見送って、エシュタンドもクガルに渡された着替えに袖を通す。
そして、王宮のある方向を強い瞳で見つめた彼の背中を、既に暮れはじめた夕日が照らすのだった。
|