59.滝
規則正しく響いてくる、静かな音――それが、水が滴り落ちる音だと気づいた空は、咄嗟に起き上がっていた。
「わっ、何、ここ――と、あたたた……」
身を起こした途端、割れるような頭痛に襲われて、顔をしかめる。頭を押さえながら、なんとか開けた空の瞳に映ったのは、薄暗い空間だった。
足元に見えたのは、すべすべした岩肌。そう、まるで先ほどまでいた、滝の前の――。
そこまで考えた空は、ようやく蘇ってきた記憶に、思わず両手で頭を抱えた。
「ちょっと待って、あたしってば……嘘、だよね? 滝に飲み込まれるなんて――」
不安を落ち着けるかのように、必死で言葉にしながら、瞳を細めて、空は周囲を見渡した。
同じような岩肌が、四方を囲んでいるのが、ぼんやりと見える。
「ここ……洞、窟? それとも、まさか滝の中だなんてことは――」
「ご名答!」
突然明るく響いた声に、空は弾かれたように振り返った。
「やっと目が覚めたんだ。いい夢は見れたかい?」
やあ、と言わんばかりに片手を上げて挨拶してきた目の前の人物に、空は思いっきり後ずさった。
悲鳴も喉に張り付いて、声が出ない。
空の驚愕の表情に、心外だとでもいうような仕草で肩をすくめたのは、少年だった。
「そんなに驚くほど、怖い顔はしてないと思うけど……あ、言っとくけど、頭痛は僕のせいじゃないよ。
なんか変な薬の匂いがしたから、清めといてやったんだから。逆に感謝してほしいよね」
よく回る舌で、透明な響きの声を紡ぐ少年の顔は、彼の言うとおり、怖い顔ではない。
それよりも、美しいのだ――信じられないぐらいに。
長い、薄い水色の髪は、綺麗に一つに編みこまれていて、彼の膝ぐらいまで垂れている。不思議にも、その髪のところどころは、彼の滑らかな肌や、ギリシャ神話から抜け出てきたような衣服を透けて見せている。そう、まるで――流れ落ちる、水のように。
ただ、何も言えずに震える手で、そばにあった岩にしがみついて、おそるおそる見つめ返す空に、彼は小首を傾げて微笑んだ。
「まだ、ぼーっとしてるみたいだね。さっきの薬が、抜けてないのかな?」
「く、薬……?」
愛らしい微笑みを向けられて、空は無意識に口を開いていた。答えが返ってきたことが嬉しかったのか、少年はますます笑顔を深めて、頷く。
「そう。おそらく、痺れ薬の一種かな。まあ、毒性は強くはないけどね、飲み物にでも混ぜれば、効果はゆっくりと現れ、そして長い間持続する。
そういう意味で言えば、恐ろしい薬とも言えるな。君、誰かに恨みでも買ってるらしいね。まあ、よくある人間同士の諍いってとこだろうけど」
僕には関係ないけどね――軽くそう言い捨てて、楽しそうに空を見つめた少年。
その口ぶりに、空は嫌な予感を抑えられずにいた。
「も、もしかしてあなた――」
目の前でにこにこしている少年は、そう、確かに先ほど辺りを見渡した時にはいなかった。いや、自分の目には、見えなかっただけなのか――。
疑いを深めた空の視線に、少年は悪びれることもなく、両手を優雅に広げて、お辞儀をしてみせた。
「ご挨拶が遅れましたね、姫君。僕はセリルアージュ。面倒くさいから、ただのセリルでいいよ。一応、この滝の精ってことになってる。
っていっても、そんなに敬わなくたっていいよ。別に偉いわけでも何でもないからさ」
髪と同じように、不思議なゆらめきを見せる水色の瞳で見つめられ、空はただ、息を呑んだ。
セリルと呼べ、と言った少年は、身軽な動きで近寄ってくると、空の目の前に腰掛ける。興味深そうに眺められ、空は微妙に距離を取りながら、姿勢を正した。
「そ、それで……あたしを一体どうするつもり?」
「そんなに身構えなくたって、危害なんか加えるつもりはないから安心してよ。僕ってそんなに怖そうに見える? そんなことないと思うんだけどなぁ」
自分の頬を撫でながら、おかしいなぁ、と独り言を言うセリルに、空は少しだけ表情をゆるめた。
「怖そうとか、そういうんじゃなくって……だって、あたしのこと怒ってるんじゃないの?」
精霊だと言われても、何の緊張感も感じられないような、目の前の少年に、空の警戒心も少し解けて行く。
空の問いに、綺麗な水色の瞳をぱちくりさせて、セリルは首を傾げた。その仕草で、長い三つ編みの髪が揺れる。
「怒ってる? なんで、僕が初対面の君に怒らなきゃいけないの? なんか怒るようなことしたっけ、君」
「え、だって……巫女でもないあたしが、儀式をやったから、滝の精――であるあなたの、怒りを買ったのかな〜って……それで、滝の中に引き込んだりしたんじゃないの?」
子供のようなセリルの口調につられて、空までも軽い調子で答えてしまう。それでもセリルは気にした様子もなく、ぽりぽりと頭を掻いた。
「あ〜巫女って、あのいつも、滝の前でなんかやってる女の人たちのこと? 儀式だかなんだか知らないけど、別にそんなのどうでもいいよ。
君が巫女だろうが、何だろうが、別に何の儀式でも、好きにやればいいと思うけど? どうせ僕には興味もない話だし」
聖なる儀式、厳かに営まれてきた長年の伝統を、セリルは全くどうでもいいもののように、笑いながら流した。
そのことに開いた口がふさがらない空を、面白そうに眺めて、セリルは笑ったのだ。
「まあ、君が『巫女』だなんて、退屈なものじゃないことは知ってる。だから、ちょっと呼び寄せちゃったんだけどね」
強引だったかな〜、なんて呟きながらも、悪びれる様子もなく、セリルは空の黒い瞳をまじまじと覗き込んだ。
「なっ、何……」
近くなった距離にためらって、空がまた離れようとした、その時、セリルは自分の髪をもてあそびながら、軽く肩をすくめた。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。君とは仲良くしたいな〜と思ってるんだから……暁の娘さん?」
その言葉で、空がセリルの瞳を凝視したその時、一際大きな水の粒が、天井から滴り落ちた。
それと同時に、何か細い光のようなものが、岩にふさがれた向こう側から差し込んだように思えて、空が振り返る。
どこかに出口でもあるのかと、閃いた希望も、光が消えるのと同時に、ふさがれたような気がした。
「結構しつこいな〜……せっかく二人きりでゆっくりお喋りしたいと思ってるのに、あんまり邪魔されるなら、滝ごと移動しちゃおうかな〜。でも力使うのも、面倒くさいし……」
いたずらを邪魔された子供のような顔で、ぶつぶつと文句を言う彼の様子に、空は眉をひそめた。
「邪魔って……一体、どういう……」
言いながら思い浮かんだ藍色の瞳に、空は思わず立ち上がる。
「あ、ちょっと、どこ行くの?」
背後から追いかけてきた声にかまわず、空はさっきわずかに光が差し込んだ方角へ歩み寄る。
「きっと、すごく心配してる。無事だってことだけでも、知らせないと……」
既に何の気配さえ残ってもいない、岩の壁に手をついて、空はあせったように辺りを見回した。
「無駄だよ。ここから出ることなんて不可能だ。僕が出してあげない限りはね」
澄んだ声で、恐ろしいことを言われて、空はおそるおそるセリルを見た。振り返った先で、セリルは先ほどと何も変わらない、愛らしいまでの微笑を浮かべていた。
「だから、そんなに怖がることないって。別になんかしようってわけじゃないんだから。ただ、君と話がしたいだけ。お客さんなんて、本当に久しぶりなんだもん。
それとも、森の奴らとは話せて、僕とは話したくないって言うのかい?」
すねたような表情で、そう言われて、空は思わず瞳を見開いた。
「森、って……あの精霊と会ったこと、どうして知ってるの?」
空の驚きを、何ともないことのように、セリルは両手を広げてみせた。
「言っとくけど、僕、精霊だよ? そんなことぐらい、寝てたって耳に入ってくるんだから。どうやって知ってるのかって聞かれても困るけど、とにかく僕らには色々聞こえてくるもんなの」
ちっとも精霊らしく見えない相手に、空はためらったように口をつぐんだ。
「って、あんな森の堅苦しい奴らのことなんか、話そうと思ったんじゃないんだよ。さ、僕とお話しようよ。ねっ? あ、お茶でも入れてあげよっか?」
おどけたように提案したセリルに、空はゆっくりと首を横に振る。
「え〜なんでさ? そりゃあ僕ら精霊には、お茶なんてもの、必要ないけど、君には入れてあげることくらい簡単なんだよ。遠慮しなくていいよ」
今にも何か力を揮おうとするセリルを、必死で見つめて、空は更に首を振った。
「なんで……? 僕と話するの、そんなに嫌なの?」
悲しげに言われて、空はあわてて首を振る。
「じゃあ、何なの。なんで、そんなに悲しそうな顔するのさ?」
唇をとがらせて、そう聞かれて、空はようやく口を開いた。
「待ってる人が……いるから。少しぐらい、あなたと話をするのは構わないけど、その前に、無事を知らせてあげたいの。きっと今頃……すごく、心配してる」
ためらいながらも、強い調子で答えた空を、セリルは無表情で見つめ返した。
「待ってる奴って、あの藍色の瞳をした男のこと?」
「ど、どうしてわかるの?」
大きく目を見開いて訊ねた空に、セリルは面白くないような顔で肩をすくめた。
「だってさっきから、一番必死にここを探してるからさ。普通の人間になら、気配すら感じ取れないはずなのに、なぜか段々近づいてくる。
魔の力だか何だか知らないけど、気に食わないな。特に、あの目の色がやだね。昔の馬鹿を思い出してさ」
「目の色って……」
問い返そうとした空は、セリルの顔に浮かんだ冷たい表情に驚いて、そのまま口をつぐんだ。
空の様子に気づいたのか、美しい顔を笑顔に戻して、セリルは岩肌のほうを見つめた。
「あ〜あ、頑張ってるね……無駄なあがきだって、早く気づけばいいのに」
笑顔と明るい口調には似合わないような言葉を吐いたセリルを見つめて、空も岩の壁に視線をやった。まるで、その向こう側でも見えているかのようなセリルの口調に、空も必死で見つめてみるが、冷たい岩がふさいでいるだけで、何も見えない。
「エシュタンドは、その向こう側にいるの?」
思い切って訊ねた空に振り返って、セリルは笑った。
「エシュタンドって、あいつの名前? 恋人なの? そんなに気になる?」
はぐらかすようなセリルの言葉に、空は思わず詰め寄った。
「お願いだから、ちゃんと教えて! 無事だって知らせたいの! あたしを捜して……彼が危険な目にでも合ったら、あたし、あなたを絶対許さない!」
見えないからこそ不安が大きくなって、空はいてもたってもいられない気持ちを、必死な目にこめてセリルを見つめた。
「ふうん……ぼんやりしてると思ってたら、君も結構、気が強いんだね。精霊を敵に回しても、怖くないわけ?」
相変わらずの優しい顔は、何を考えているのか全く読ませてくれない。
物騒な台詞を耳にして、空は内心の不安を抑えながら、睨み返した。
「こっ、怖くないわよ! 精霊だろうが、何だろうが、大切な人を守るためだったら、誰を敵に回したって、怖くない!
それに、精霊って、そんなに攻撃的な存在じゃないはずでしょう? 精霊は我欲のためだけには、力を揮ったりしないって、そう聞いたもの!」
震える両手を握り締めて、言い切った空をまじまじと見つめて、セリルは可笑しそうに声を上げて笑った。
「なっ、何が可笑しいのよ!」
予想外に笑われて、空は少し顔を赤くしながら、セリルを睨んだ。
「いやいや、別に。可笑しくないよ。そうだね、その通り! 君、やっぱり面白いや。気に入った!」
笑いをおさめて、嬉しそうに答えたセリルに、空はどうしていいかわからずに口をつぐんだ。
「人間って本当不思議だよ。弱いはずなのに、大切なものを守ろうとすると、突然強くなったりするんだもん。そういや、昔そんな目をした子がいたなぁ……。
なんか君の衣装、あの時の子のに似てるね。なんか懐かしいような匂いがしたと思ったら、そういう訳か」
一人で納得したかのように、頷きながら呟くセリルの言葉で、空ははっとしたように、自分の衣装を見下ろした。
「衣装って……あなた、もしかして、エシュタンドのお母さんを――ラウレカさんを知ってるの?」
もし本当なら、目の前の少年が、やはりまぎれもない精霊であることを証明することにもなる。そんな昔の話を、ついこないだの話のようにしている彼を、空は真剣な目で見つめた。
しばらく黙ってその視線を受け止めていたセリルは、長い髪の束を自分の指に巻きつけながら、ゆっくりと微笑んだ。
「さあね。知ってるともいえるし、知らないともいえる」
饒舌な少年の、あえてはぐらかすような言い方に、空はむっとしたように詰め寄った。
「はぐらかさないで、ちゃんと教えて! あなたは一体何を知ってるの? あたしに何を話したいって言うの? 話がしたいって言うんなら、全部隠さないで話してよ!」
岩に囲まれた空間で、空の必死な声が響き渡る。セリルはその空間を静かに見渡した後、空に向かって、にっこりと微笑んでみせた。
「あせらなくても、ちゃんと話してあげるよ。そのつもりで呼んだんだから。――そうだね、まずは順番。最初に、取引をしようじゃないか」
「取、引……?」
思ってもみなかった言葉に、空が戸惑いながら訊ね返すと、セリルは嬉しそうに笑った。
「そう。君が、僕の出した条件を見事打開してみせたなら、君にとっておきのご褒美をあげる」
「ご褒美って――」
問い返そうとした空を見越したように、セリルは片手を上げて、指を鳴らした。
その手の上に、突如姿を現したもの――それは、まぎれもない、ハルトの聖剣だった。
まるで、重力など存在しないかのように、セリルの手から少し離れて、ふわりと浮かんでいるその剣は、ほのかに発光さえしているように見えた。
「この剣はね、僕ら滝の精が、代々受け継いできたもの。人間の手に渡してあげたのは、どうせふさわしい者以外が持っても、がらくたでしかないから。
でも、この剣に選ばれた者が手にすれば――素晴らしい力を発揮する、聖なる剣ってわけ」
世間話でもするかのような気軽な口調で、セリルは古びた剣を瞳で指し示した。
「滝の精が、受け継いできた剣……この、ハルトの聖剣が?」
なんとか答えた空に、セリルは人差し指を振って、肩をすくめた。
「それは、人間たちが勝手につけた名前さ。この剣の本当の名前はね、白水晶の剣。この滝そのものを現してるんだ」
「滝、そのもの――?」
繰り返しながら、あの堂々とした大きな滝の流れを思い出す。確かに、白水晶の束のような、美しい滝だけれど、そのものを現す剣って――。
空が思案する間にも、セリルは話を進めるべく、にっこりと笑った。
「そう、今は凍らせてあるけどね」
「えっ?」
造作もないことのように言われた言葉が、一瞬理解できずに問い返した空の前で、セリルは空中に浮かべていた大きな剣を、簡単に片手で持った。
空が手にした時は両手でもずっしりと重く感じた剣が、セリルの手の中では、まるで重さなどないかのように見える。
「見せてあげるよ、君の愛しい恋人の姿をね」
片目をつぶってみせてから、セリルはもう片方の手で、何もない空間をすっと撫でた。
それと同時に出現した映像に、空は言葉も出せずに目を見開いていく。
まるで、枠のない鏡でもあるかのように、その場に突然映し出されたもの――それは、傷だらけのエシュタンドの姿だったのだ。
「エ、エシュタンド――!」
映像の中の彼に近寄って、空が叫ぶのを、セリルはただ静かに眺めていた。
「いっ、一体どういうこと? あなたがやったの? 彼に何が起こったって言うの――?」
混乱の中、睨みつけた空に、セリルはとんでもない、とでもいうように笑った。
「そいつが自分でやったんだよ。馬鹿な奴、僕の聖域で魔の力なんか爆発させたら、自分に返ってくるに決まってるっていうのにさ。
まったく、力で戦うことしか能がないから、こういうことになるんだよ」
せせら笑うかのようなセリルの言葉に、空は瞳を怒りに燃やして振り返った。
「彼を馬鹿にするのはやめて! これ以上、彼を傷つけたら、あなたを絶対許さない――!」
空の叫びも、セリルの余裕の表情を崩すことはできなかった。大きな剣を、まるでおもちゃのようにもてあそびながら、セリルは正面を顎で指し示したのだ。
「僕に怒ったって、どうしようもできないよ。言っただろ? 僕が直接やったんじゃない、滝そのものが、彼を拒否しているからさ。
いいの? このままじゃ、彼、死んじゃうかもよ」
その言葉で、再び目にした鏡には、ふらつき、その場に膝をつく、エシュタンドの姿があった。
風の力を使ったのか、金の髪は乱れ、白い衣装は泥で汚れて、その体には、まるで切り刻まれたようにいくつもの傷跡がある。
額に垂れる血を乱暴に拭いて、エシュタンドは目の前の氷の塊を睨みつけていた。
まだ、強い意思が見える藍色の瞳に、少しほっとしながらも、空はたまらずに、映像の中の彼に触れようとしたが、目の前にあるはずなのに、何もない空間が阻んで、手も届かなかった。
「それで……あたしにどうしろって言うの――?」
低い声で、震える手を握り締めて顔を上げた空に、セリルは肩をすくめて、映像のほうを指し示した。
「やっと話が通じたみたいだね。簡単なことさ、君が自分でこの中から出るか、もしくは彼のほうを呼び寄せるか、二つに一つ。
自分たちの力だけで、それをやり遂げてごらん。そしたら、君にこの剣をあげる。それから、知りたいことも教えてあげるよ。
どう? かなり優しい提案だと思うけど――ただし、僕は一切手助けしないから、そのつもりで――途中で彼が死んだとしても、ね」
天使のように綺麗な顔で、にやりと笑ったセリルは、まるで、この世のものではないほどの、恐ろしい存在に見えた。
無言で、セリルを見つめ返す空の額には、冷たい汗が流れていた。
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