56.恋歌
「はぁ〜疲れた……!」
大きな伸びと共に、息を吐いた空は、誰にも気兼ねなく、くつろげることの喜びを感じていた。
一人きりのエシュタンドの部屋で、寝台に寝転んで、ほっと一息つく。
夜着に着替えて、顔も洗い終えた空は、ようやくすっきりした気分でいた。
化粧と香水の匂いが充満していた控えの間を思い出し、身震いする。
さすがに舞踏会を終えて、それぞれの屋敷へと出発する姫たちは、空に何も言いはしなかったが、舞踏会が始まる前よりも更にきつい、明確な悪意を込めた瞳で見ていたからだった。
その理由とも言える、エシュタンドの言葉を思い起こしながら、空は一人、笑みを浮かべた。
舞踏会の緊張と疲労をも和らげるほどの、充実感が、空の胸に広がっていく。
二人だけのダンス、夢のようなあの空間、そして彼の言動は、空の感じていた不安も、傷ついた心も、何もかもを癒してくれた。
手袋越しだったにもかかわらず、まだ優しく押し付けられた唇の感触が、手の甲に残っている。
あの瞬間、大広間の全てを忘れて、ただ、藍色の瞳に見つめられ、彼に包まれていくような気がしたのだった。
思わず枕に顔を埋めて、にやついた顔を落ち着けようと空が奮闘していた、その時、扉がそっと開いた。
現れた人物に、当然のこととはいえ、また胸が高鳴る。
「何だ、随分と嬉しそうな顔をしているな」
目が合った途端、素知らぬ顔でそう言いながら、近づいてくるエシュタンド。
華やかな正装を脱いで、夜着に着替えた彼は、大広間での王子の仮面を取ったように、くつろいだ顔をしている。
エシュタンドが当然のように寝台に腰掛けるのを見て、空はあわてて起き上がり、夜着であるワンピースの裾を直した。
「な……なに?」
面白そうにその仕草を見ているエシュタンドに、思わず空が訊ねると、ただ藍色の瞳が楽しげに細められただけだった。
夜も暮れて、蝋燭の光だけが照らし出す空間は、沈黙を続けるには、少し雰囲気がありすぎる。
さすがに寝台の上で二人きり、という状況で、落ち着いていられるほど、空も鈍感なわけではないのだ。
というか、この前のエシュタンドの行動で、否応なしに自覚させられた、というべきか。
再び蘇ってきたあの時の光景に、どぎまぎする心を、なんとか抑えている空に、お見通しのようにエシュタンドが笑った。
「心配するな、もういきなり押し倒したりはしないさ」
その言葉に、余計真っ赤になる空を、いつもの皮肉げな瞳で見つめてから、彼は寝台から立ち上がった。
蝋燭の置かれた窓辺へと歩み寄ってから、空にも手招きする。
誘われるままに彼の隣に並ぶと、エシュタンドは先ほどまでの豪華な舞踏会の名残も見えない、王宮の庭を眺めて、一息ついた。
こうして今は、二人きりで静かに並んでいることが、なんだかとても贅沢なことに思えて、空は一人微笑んでから、ひどく優しい眼差しが注がれていることに気づいた。
「エシュタンド……?」
ただ黙って見つめてくる彼の名を、自然と呼んだら、エシュタンドはふっと笑って、空の頬を片手で包んだ。
「よく、頑張ったな」
そう言って、いたわるように、そっと抱きしめられて、空は言葉を失った。
何も言えないまま、見上げる黒い瞳に、藍色の瞳が優しくなる。
「言っただろう。私にそう言ってもらうために、頑張るんだと――そんなことでいいのなら、何千回でも、何万回でも言ってやる。お前が満足するまで、こうして抱いていてやろう」
エシュタンドの胸の中に包まれて、耳元で囁かれて、空はためらいながらも、彼の胸に、頭を預けた。
その頭を優しく撫でながら、エシュタンドは想いを込めたような息を吐いて、抱きしめる腕に力を込めた。
「本当に、よくやった……ソラ」
低い声が耳元で響いて、優しく髪を梳かれて、空の鼓動が速まっていく。
赤くなった顔を隠すように下を向いたら、エシュタンドの手が強引に顎を掴んで、視線を戻させた。
どきどきしながら見上げた先で、藍色の瞳がにやっと笑った。
「ところで、聞きたいことがあるんだが」
甘い雰囲気から、さらりと表情を変えた彼に、空は戸惑いながらも、質問の続きを待った。
「あのドレス、誰に貰った?」
急に言われて、空は瞳をぱちくりさせる。そんな空にふっと笑って、エシュタンドはもう一度口を開いた。
「着替えた後の、あの濃い藍色のドレスのことだ。あれは、王宮で用意されたものではないだろう」
「ああ……あのドレスね。えっと、あれはフェルさんから……」
簡単な質問だと、答えようとした空は、少し鋭くなった藍色の瞳に言葉を止めた。
「ほう――さっき見たばかりの吟遊詩人を名前で呼ぶほど、お前、いつの間にそんなに親しくなった?」
腕を組んで、瞳を細める彼に、空は、まずい、と瞳を逸らす。
「舞踏会の前にでも会ったのか? それとも途中でか? 私の知らないところで、どんなやりとりをしたと言うんだ」
次々と尋問のように聞かれて、空はあわてて両手を振った。
「べっ、別に何もないよ。ただ、庭で会って、ちょっと話して……ドレスを貰っただけで」
空の答えに、逆効果のように、エシュタンドは眉を上げる。
「ちょっと話して、なんでいきなりドレスを貰うんだ」
「そっ、そんなのわかんないよ。あたしのドレスが破れてたからかな……第三殿下の婚約者への献上品だって、そう言って、渡してくれたんだもん」
あせったように、必死で答える空を、エシュタンドの疑い深い視線が追い詰める。
「献上品だと? それで、なぜお前が婚約者だとわかったんだ」
「そっ、それは――」
フェルの言葉を思い出した途端、空の頬が赤くなる。それを見て、エシュタンドはますます表情を険しくした。
「怪しいな。お前、あいつに何かされたんじゃないだろうな」
「なっ、何言ってんの! されたわけないじゃん! そんな人じゃ……ないよ」
厳しい視線に、思わず語尾が小さくなりながらも、空は潔白を証明しようと、まっすぐに視線を返した。
しばらくじっと見つめていたエシュタンドは、突然表情を緩めた。
「まあいい。信じてやろう。とにかく――お前は油断ならんからな。変な男に気を許すなよ」
どこまでが本気なのか、エシュタンドに厳しく念を押されて、空は憮然としながらも頷いた。
途端に満足げに窓の外に視線を向けたエシュタンドを、今度は空が見つめた。
「どうしてあのドレスにこだわるの? あっ、もしかして、勝手にもらったりしちゃいけなかった?」
空の質問に、エシュタンドは少し笑って、肩をすくめた。
「いいや、お前への献上品だと言うんだ。お前が貰って何が悪い」
「だって――」
それにしては、妙な態度だと、眉をひそめて、抗議しかけた空に、エシュタンドが微笑んだ。
「お前、あのドレスの価値を知ってるか?」
突然の言葉に、勢いをそがれて黙った空を、面白そうに瞬いた藍色の瞳が見つめてくる。
「あの濃い藍色の布は――南方でしか手に入らない、貴重な染料で染めたものだ。そして、散りばめられていた、小さな白い宝石。
あれも、南方の海で育つ貝からしか取れない、白い涙と呼ばれる珍しい石だ。
見たこともないような奴らは知らんだろうが、あの場にいた女たちのドレスや宝石を全部合わせても、手に入れられんほどの、高価なドレス、というわけだ」
思ってもみなかったエシュタンドの話に、空は思わず息を呑んでいた。
確かに綺麗な色だとは思ったけれど、シンプルで、これぐらいのほうが、落ち着いて着れるな、なんて気軽に身につけた自分を、今更ながらに恥ずかしく思っていたのだ。
「まあ、もちろん、そんなことはお前は知るはずもないし、知ろうが知るまいが、十分に着こなしていたのだから、それでいいさ。
それにしても、あのフェルという男――ただの吟遊詩人、というわけではなさそうだな」
いつの間にか自分の思考へと入り込んでいくエシュタンドの腕を、空はあわてて掴んだ。
「それって、どういうこと? あの人に何かあるって言うの?」
考えを邪魔されて、少しうるさそうな顔をしながら、エシュタンドは瞳を上げた。
「あの男の肌を見ただろう、あの浅黒い肌は、南方の生まれだ。南方の島かあるいは……海の国、ビバスの者か。
とにかく、一介の吟遊詩人が、あんな高価なドレスを手に入れられるとは思えん。何者かが差し向けたのか、それとも――」
今度こそ、眉を寄せて、何かを考え込むエシュタンドを、しばらく迷ったように見つめていた空は、遠慮気味に口を開いた。
「で、でも……あの人、悪い人じゃなかった。あたしを励ましてくれたし、それに――」
「それに?」
いぶかしむように問い返すエシュタンドに、空は少しためらった後、続ける。
「あっ、あんな綺麗な声で歌える人に、悪い人なんているわけないよ!」
本当に言いたかったこととは、少しずれていたのだが、エシュタンドは一瞬面食らったような顔をして、可笑しそうに吹きだした。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃない……」
あんまり笑われて、空は恥ずかしそうに反論する。確かにちょっと子供じみた意見だっただろうか、と思いつつも、あの時の会話からしても、自分の直感には自信があったのだ。
「そうか。まあ、そういうことにしておこう。あの歌は、私も楽しませてもらったからな」
ようやく笑いをおさめて、皮肉げに言う彼を見ながら、空は突然、手を叩いた。
「――そうだ、思い出した!」
「なんだ、突然」
少し驚いたように聞かれて、空は思わず笑顔になる。
「さっきのあの歌だよ! あたし、さっきからずーっと気になってて、どこかで聞いたことあるな〜って思ってたんだけど……」
「あの歌?」
「そう、あのフェルさんが歌った、さっきの歌。あれ、どういう歌なの?」
嬉しそうに聞いた空に、エシュタンドは更に驚いた顔をした。
「どういう歌って……お前、歌詞がわからなかったのか?」
不思議そうに聞かれて、空は当然、というように頷いた。
「そりゃあ、そうだよ。だって、ミディスの言葉じゃ……」
言いかけて、言葉を止めた空を、同じような色を浮かべた藍色の瞳が見つめる。
「もしかして、歌も、文字と同じで、お前にはわからない――そういうことか?」
その言葉に、空も力強く頷く。
「そう、きっとそうだ――大して疑問に思わなかったけど、歌の歌詞は、すごく不思議な感じで、あたしにはわからなかった。
でも、なんだか懐かしい気がして……」
何か不思議な力で、自分たちの言葉が、翻訳でもされているらしいと、それは頭のどこかでわかっていたけれど、実際に違う言葉なんだと改めて思う。
「ねえ、あれはどういう歌なの?」
訊ねた空に、エシュタンドは気を取り直したように視線を戻した。
「あれは……さっきも言った通り、ミディスに伝わる、恋の歌だ。古くから、民衆歌として、歌い継がれてきたものだそうだが――切ない恋を歌っている」
「切ない、恋――」
思わず繰り返しながら、空はようやく、あの甘く切ない歌声の意味を理解できた気がしていた。
あの二人きりのダンスを、あんなに甘く酔いしれるような時間にしてくれたのは、その恋の歌のおかげだったのだと、空は納得しながら、浮かんできた疑問に気づく。
「……お前、あの歌を聞いたことがあったのか?」
エシュタンドに先に聞かれて、空はようやく顔を上げる。
「うん……ここでじゃなくて、あたしがいた世界で……小さい頃、田舎のおばあちゃんが、よくうたってくれた歌とすごく似てるの。
あんまり昔の記憶だから、歌詞とか曖昧なんだけど……大広間で聞いた時から、ずっと気になってて、さっきようやく思い出したんだ」
自信がなさそうな空の言葉に、エシュタンドの顔色が変わる。
「お前がいた、世界でだと?」
予想以上に真剣な反応に、空は戸惑いつつも、しっかりと頷いた。
「そう。っていっても、懐かしくて、童謡かと思ってたんだけど――そういえば、昔、クラスの子に聞いたら、知らないって言われたんだよね。
あれって、おばあちゃん家の地方にだけ伝わるものなのかと思ってたんだけど……」
独り言めいた空の答えを聞きながら、エシュタンドは藍色の瞳を細めていく。
「たぶん、よく似た歌ってだけだと思うけどね」
照れたようにまとめた空の前で、突然エシュタンドが歌いだした。
驚いて見つめる空を、まっすぐに瞳に映したまま、低く、歌われるその響きは、先ほどの大波のようなフェルの声とは違うものの、まるで吹き渡る藍色の風のように、空の胸を掴んでいく。
初めて聞いた彼の歌声――話し声とは違う、少し甘い響きで、空にだけ歌われる恋の歌に、胸が高鳴るのを止められなかった。
どきどきしながら見守っていた空をちらりと見て、歌い終えた彼は、何でもないかのように、口を開いた。
「どうだ、同じ歌かどうかわかるか?」
すっかり聞き入ってしまっていたことに気づかれないように、あわてて歌を思い返しながら、空は考える。
「うん……メロディーは、同じみたいだけど……歌詞はやっぱりわからないみたい」
そう言うと、エシュタンドは少し微笑んだ。
「――青い空、赤い空、遥かな空よ。あの人を連れてきて。愛しい、愛しい、あの人を。
短い夢、儚い夢、優しい夢よ。あの人を見せておくれ。恋しい、恋しい、あの人を。
空より高い、夢より近い、遥かな世界へ。いつかは共にと願うだけ。願いを空に、希望の空に、我らが愛しい、空の子に――これが歌詞の内容だ」
まるで詩でも朗読するかのような、美しい響きでそのまま語られた内容に、空の顔色が変わる。
「その歌詞……どうして――?」
両手で口元を押さえた空を見て、エシュタンドは何かを確信したような笑みを浮かべた。
「同じ歌、なんだな?」
驚きを隠せないまま、空が首を縦に振った途端、エシュタンドは空の手を取った。
「きっとこれは、偶然の一致などではない! お前だけが知る、故郷の歌が、このミディスに伝わる古い恋歌であるなんて――初めて、お前とミディスが繋がったんだ。
お前が、暁の娘である、その理由にもなり得るかもしれない。なぜお前なのか――それがわかる歌かもしれないんだ!」
珍しく興奮した調子で、空の両手を握るエシュタンドに、空は瞳を見開いて、見つめ返すことしかできなかった。
「もっと他に、思い出すことはないのか? お前の故郷と、ミディスに何か共通点はないか?」
藍色の瞳を輝かせて訊ねる彼を、空は戸惑いがちに見つめてから、視線を遠くへやる。
――何か……? おばあちゃんと、夏の川、浴衣、花火……。
思い浮かんでくる懐かしい情景を、一つ一つ吟味していた空は、思わず、あっと声を上げた。
「ホタル! ホタルだよ。ミディスにもいるってエマナに聞いて……」
「ホタル?」
眉を寄せたエシュタンドに、空はあわてて記憶の中を探る。
「えーっと、あ、そう、ラキス! ラキスっていうんだよね、こっちでは」
思い出した、と顔を明るくした空に、エシュタンドは考え込む素振りを見せる。
「ラキスが、お前の世界に――?」
「うん。それでびっくりしてたんだ。だからって、どういうことかは、わからないけど……」
この恋の歌と、ホタル、その二つがどういう意味を指すのか、空には全くわからなかった。
エシュタンドも、降参したかのように頭を振る。
「とにかく、また思い出したことがあれば、言ってくれ」
「そうだね、もしかしたら、何かの手がかりになるかもしれないし――」
勇んでそう答えてから、空は思わず口元を押さえた。
手がかり、だなんて、何の――?
自分で思いついてしまう、その答えに、空は知らず顔を曇らせていく。
そんな空の頭に、エシュタンドの優しい手が置かれた。
仰ぎ見た空に、エシュタンドはいつもの笑顔を向けていた。
「――そうだな。さあ、もう遅い。お前は、先に休んでいろ」
そう言って、すっかり残り少なくなった蝋燭を見たエシュタンドは、窓枠にもたれていた体を起こした。
「先にって……エシュタンドはどうするの?」
不安をそのまま声に出した空の頭を、くしゃりとかき混ぜてから、エシュタンドは笑った。
「心配するな、一人にするわけじゃない。まだ寝付けそうにないから、散歩でもしてから、戻ってくる。
先に寝ていろ、という意味だ」
何事もなかったかのように、そう微笑む彼を、遠慮がちに見上げて、空はそっと頷いた。
「明日は、大事な日だもんね。あたし、ちゃんとやり遂げてみせるから!」
エシュタンドの瞳に、少しだけ見えた影を消したくて、空は明るく笑いかけてみせた。
「ああ……信じている。もしも何かあったら、私が必ず助けに行くから、無理はするな」
真剣な顔で、空の頬を撫でたエシュタンドは、しばらく見つめてから、息を吐いた。
「エシュタンド――?」
問いかけた空に、微笑んでみせてから、エシュタンドは決意したように空を見た。
「明日の儀式が終わったら――お前に、話したいことがある」
「話したいこと……?」
怪訝そうな空の瞳に、優しい藍色の眼差しが返ってくる。
「ああ。大事な話だ。それから、明日、これを持っていろ。念のためだ」
寝台の側に置かれていた木箱を開けて、彼が渡したものを、空は神妙に受け取った。
「私も身につけておく。どんな効果があるかはわからんが、お守り代わりにはなるだろう」
手の平に置かれた途端、少し熱を帯びたその石を、空は大切に握り締めて頷いた。
「明日……頑張るね」
自分にも言い聞かせるかのように、静かに言った空に、エシュタンドも優しく頷く。
「お休み――ソラ」
そっと口付けられたのが、唇でなく、額だったことに、空は複雑な気持ちを感じながら、それでも笑顔を返すのだった。
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