55.心
二度目の休憩に入って、エシュタンドはカーテンの裏で、大きく息を吐き出していた。
先ほど給仕係から受け取った果実酒を、一気に飲み干して、いまいましげに藍色の瞳を大広間に向ける。
「苛々していらっしゃいますね、兄上」
ふとかけられた声に、振り向きもせずに、エシュタンドは笑う。
「お見通しだな、エカルド」
名を呼ばれて、隣に並んだ弟は、踊り続けた疲れも見せずに、いつもの笑顔を浮かべている。
「苛々するなというほうが、無理だろう。空には言葉すらかけてやれず、くだらない女どもの相手をしなければいけないのだからな。
まったく……王子である立場が、今日ほどいまいましく思えたことはない」
眉を寄せて、吐き出される本音は、まるで色とりどりの魚のように、大広間にあふれかえっている女性たちが聞けば、卒倒しそうなものだった。
エカルドは、眉一つ動かさずに、頷いてみせた。
「そうですね……僕も、近くにいながら、何もしてあげられないことが、不甲斐なくて」
その言葉に、エシュタンドは乾いた笑いを浮かべて、口を開く。
「お前のほうが、よっぽど空を助けていたさ。舞踏会の練習も、ずっと付き合ってやったのはお前だ。
改めて、礼を言うよ。お前のおかげで、すっかり舞踏会に恥じないダンスをしていた」
言葉の裏にある、自責の念に、エカルドは気づいているのか、曖昧な微笑みで返すだけだった。
「あいつは……大丈夫だろうか」
先ほど走り出ていった空の背中を、どれほどに追いかけたかったことか。
あと一歩で踏み出そうとする足を、なんとか抑えたのは、王妃の不気味なほどの笑顔だった。
――あれが、彼女の企みだったというのか。
くだらない嫌がらせで、空を追い出すこと。
そんなこと、そう思いながらも、いくら低俗な嫌がらせや陰口であろうと、空がどれほどに傷ついたかを考えると、許せなかった。
瞳を伏せて、空になった杯を下ろすエシュタンドの肩を、エカルドが軽く叩く。
「大丈夫ですよ。姫君は、あれで結構強い方です」
励ますようなエカルドの言葉に、エシュタンドは唇の端だけで笑った。
――強い、か……確かに、意外なほど弱いかと思えば、驚くほどに強い。そんな娘だからな。
王妃の企みをも、はねかえすような強さが、空にはきっとあると信じている。
そんな自分がいることにも、エシュタンドは気づいていた。
大広間に入場してきた時の、彼女の輝き。あれに驚いたのは、自分だけではあるまい。
周りで皆が息を呑むのが聞こえていた。
その場にいた、姫たちの誰よりも、美しく、清らかな光を放っていた。
あの清らかさは、一体どこから来るものなのだろう。
いつも見ているはずの少女が、光り輝いて見えた瞬間だった。
休憩も終わり、そろそろ宴も終わりを告げる時刻となった。
戻ってこない空を心配しつつも、エシュタンドは王子たちのための席へと一旦戻る。
姫たちもまた列を成して、静かに佇み、誰もが正面の王を見据えていた。
そして、王が何事かを告げようと、口を開きかけた、その瞬間、大広間の扉が開き、そこに佇む人影に、皆の瞳が釘付けになった。
その姿をみとめて、藍色の瞳が大きく見開かれる。
「申し上げます。姫君の、お召しかえが済みましてございます」
侍女長のレアーデが、そう深々と礼をする。その隣に立っているのは、大きな黒い瞳でしっかりと前を見据え、少し頬を紅潮させた、空だった。
身につけているドレスは、ほとんど黒に近い、濃い藍色で、体をぴったりと包み、裾のふくらみを少し抑えた、落ち着いた印象のものだった。
先ほどとは違い、豪華な刺繍やレースもついていないが、その不思議な色合いと、裾に散りばめられた、小さな白い宝石が、まるで夜空に浮かぶ星のようで、見る者の瞳を奪わずにはいられない。
輝く宝石も身につけていないというのに、濃いドレスの藍色と対比するように、白い、空の素肌が際立って見えて、エシュタンドはどきりとせずにはいられなかった。
濡れたように光る、黒い瞳、そして夜風に静かになびく、黒い髪が、艶やかで、先ほどの化粧を全て落とした、素顔であるにもかかわらず、とても美しかった。
息を呑んで、全員が見守る中、空はゆっくりと大広間の中央へ、歩み出てくる。
姫たちが並ぶ横を通り過ぎ、居並ぶ王子たちと、正面の王に静かにお辞儀をした。
「遅れまして、申し訳ございません」
凛とした顔で、そう告げた空に、王妃の瞳がたちまちつりあがる。
「あいにくだけれど、もう舞踏会は――」
王妃がそう言いかけた、その時、王がそっと、彼女を制するように、手を出した。
「陛下……!」
何か反論しかけた王妃に、王が灰褐色の瞳を向ける。
「まだ、宴の最後を飾るものを、用意してあるではないか」
静かな王の言葉に、王妃の表情は落ち着いていき、微笑みすら浮かべて、頷いた。
「そうでしたわね、お集まりの姫君方へのおもてなしが、まだ残っておりましたわ」
気を取り直したように呟くと、王妃が、控えていた家来に、何事かを指示する。
そして頷いた彼が片手を上げるのを合図に、壁際の楽団が、高らかに笛を吹き、それと同時に、大広間の扉が開いた。
「私が招いた、お客人ですの。今宵の宴を締めくくるにふさわしい、素晴らしい歌を聞かせてくださるそうよ」
空とエシュタンドを交互に見て、水色の瞳がにやりと細められた。
思わず空と瞳を合わせてから、エシュタンドは扉のほうへ目をやる。
皆の視線が移動した先に、立っていた人物――それは、赤銅色の髪と瞳を持った、浅黒い肌の青年だった。
その独特の色に、皆が声なき声で、驚きの吐息をつく。
長く、うねるように流れる、その髪は、無造作に束ねられ、瞳は、まっすぐに広間を見渡していた。
「吟遊詩人の、フェルでございます。今宵はお招きいただきまして、大変な喜びでございます。
舞踏会にお越しの姫君方、そして王族の皆様を祝福する歌を、うたわせていただきたく存じます――」
澄んだ、低い声が、耳に心地よく響く。
フェル、と名乗った青年は、視線を集めたまま、楽団のもとへと歩み寄り、自らも弦楽器を取り出して、座り込んだ。
そして、唐突に歌い始めたのは、王を称え、国を称える語り歌。
合わせることも忘れた、楽団の全員が、揃いも揃って口を開けて、見つめている。
その表情は、ゆっくりと穏やかで、幸せそうな笑顔に変わっていった。
大広間の皆が静まり返って耳をすませるほど、その声は、とても美しく、魅力的だった。
続いて、気を取り直した楽団の演奏と合わせながら、フェルは自然の美しさを歌い、大空を舞う鳥や、大海原を泳ぐ魚、そして美しく微笑む乙女を歌にした。
この世の全てが、彼の歌を通して語られたような、そんな不思議な感動を覚える頃、フェルは静かに歌い終えた。
赤銅色の瞳をゆっくりと開き、彼は正面の王妃を見つめた。
それに応えるように、王妃が拍手をし、そして大広間に、大きな拍手が響き渡る。
上品に礼をしてみせた彼に、王妃が満足げに口を開いた。
「大変、素晴らしかったわ。ところで、フェルとやら、貴方は聞くところによると、占術にも長けているとか……」
首を傾けながら、思いついたように言ってみせる王妃に、エシュタンドは眉をひそめる。
何も気づいていないような、皆の前で、フェルは何事もないように、頷いてみせた。
「ええ、おっしゃるとおりでございます」
その答えに、王妃の顔が不自然なほど、明るくなる。
「そうだわ、では……何か、占ってごらんなさい。そうね、今日の舞踏会の主役である、エシュタンド。
あなたのことを占ってもらうのはどうかしら」
素知らぬ顔で、エシュタンドを見る王妃に、藍色の瞳が厳しくなる。
「かまいませんが……一体、どのようなことを?」
フェルが問い返す声が聞こえる。エシュタンドが何かを言う前に、王妃が口を開いた。
「そうね、彼の恋、なんてどうかしら。どうも、最近、よからぬ相手に、心を奪われているようなのよ。不吉でならないような、気がしてなりませんの。
彼の恋が、祝福されるべきものなのか、占ってもらえれば、安心なのだけれど――」
その言葉に、思わず視線をやった先で、空の曇った表情が見えた。
「母上、それは……!」
「結構ですよ」
エシュタンドが言いかけるより先に、堂々と承知したフェルに、皆の視線が集中する。
そして懐から取り出した、丸い水晶を手に、瞑想するようにフェルが目を閉じる。
それを見つめる王妃の水色の瞳には、勝ち誇ったような輝きがあった。
――これが、狙いか!
唇を噛んだエシュタンドが、思わず立ち上がりかけた、その時、閉じられていた赤銅色の瞳が、大きく開いた。
「さあ、どうなの。皆の前で、言って御覧なさい――」
高らかに、誘うようにそう促す王妃に頷くと、フェルはゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。
「殿下の恋でございますが――大変、吉兆を示しております」
「な、なんですって――?」
あせったように声を上げた王妃に、フェルはにっこりと笑って、首をかしげる。
「何か、驚かれる理由でも?」
その言葉に、浮かびかけた怒りの顔を、何とか飲み込んで、王妃はゆがんだ笑みを浮かべた。
「いいえ、べ、別に……」
王妃の答えを受けて、フェルは、水晶を撫でながら、皆を見つめた。
「私が占ったところ、殿下は、まさしく運命の恋をされているご様子。この恋は、殿下だけではなく、王宮をも塗り替えるほどの、素晴らしい恋でございます。
殿下が、大切に想われているお相手は、真の美しさを持った、尊い姫君――お二人の前途に、幸あらんことを!」
光りを反射する水晶を高く掲げて、そう告げたフェルの声は、大広間に波のように広がっていく。
エシュタンドが、驚きを抑えて、空を見る。なんとも言えない気持ちを交わしながら、二人は微笑み合う。
それを許せないかのように、王妃は、立ち上がった。
「もう結構! ご苦労でしたわ、さあ、どうぞお帰りを――」
姫たちの囁きあう声がもれはじめる中、王妃が赤い顔で大広間の出口を指差した、その時。
「まあまあ、母上。せっかく遠いところをお越しいただいたお客人です。もうしばらく、今宵の宴を盛り上げていただこうではないですか」
今までただ沈黙を守っていたエーデレードが、静かな笑顔で王妃の言葉を止めたのだ。
「エ、エーデレード……一体、どういう……」
意外な相手に邪魔されたことで、王妃は狼狽している。
その隣で王が、金の椅子から、少し体を起こした。
「どういうことだ、エーデレード。説明してみよ」
同じ色の瞳で、王を見上げて、エーデレードは笑った。
「どういうことかと、問われるほどのことでもありませんが……ただ、今宵の主役を、私なりに祝福したくなっただけですよ」
まだわからないように、瞳を細める王に微笑んでから、エーデレードは立ち上がった。
「カル、私のターレを」
壁際に並んでいた自分の私兵隊長である青年に声をかけ、エーデレードはゆっくりと歩き始めた。
左足を、少し引きずっていることに気づいた空が、エシュタンドのほうを見る。
ゆっくりと、広間の中央へ歩み出る兄に視線が集中している間に、エシュタンドは立ち上がって、空のそばへ行った。
「兄上は、足が不自由なんだ。日常生活には支障はないが、昔、落馬したことが原因らしい」
そっと耳元で教えてやると、空はようやく納得したような顔になり、心配そうにエーデレードへ視線を戻した。
カル、と呼ばれた青年が、すぐさま小さな竪琴を持って、戻ってくる。
手渡された楽器――ターレを手に、エーデレードは、佇んでいた吟遊詩人のほうを見た。
「趣味で奏でる程度ですが……あなたの歌と共に、演奏させていただいても、よろしいですか?」
一瞬だけ驚いたように瞳を瞬かせてから、フェルは、優しく微笑んだ。
「もちろん――光栄でございます」
答えたフェルに満足げな顔をして、エーデレードは王のほうへ振り返った。
「というわけなんですが……いかがでしょう、父上?」
しばらく黙って彼を見つめていた王は、いいだろう、というように頷いてみせた。
たちまち、大広間にざわめきの声が広がる。
その騒然とした空気をものともせぬように、エーデレードはフェルと共に、楽団の並ぶ位置へとついた。
「それで……どのような歌をご所望でしょうか」
気品すら感じさせる仕草で、フェルが訊ねると、エーデレードは一瞬だけいたずらっぽい笑みを浮かべて、何ごとかを彼に囁いてみせた。
姫たちを通り越して、灰褐色の瞳が、空とエシュタンドを捉える。
「さあ、今宵の主役のお二人に捧げる演奏です。どうぞ、中央へ」
おどけた調子でそう促したエーデレードに、エシュタンドも少しだけ笑って、頷いた。
戸惑う空の手を引いて、中央の、誰もいない空間へと導いていく。
そして、流れ出したのは、どこか、懐かしいような、優しい旋律――切なげにすら響く、ターレの音にのせて、フェルが歌い始めた。
皆が見守る中、エシュタンドは、空に向かって、優しく手を差し出した。
きょとんとした様子で、見上げてくる黒い瞳に、エシュタンドは愛しげに微笑んだ。
「私達のためのダンスだ。さあ、お手をどうぞ――我が愛しの姫君」
想いを込めてそう囁いた彼に、空は頬を染めて、信じられないように、その手を取った。
フェルの流れるような歌声と、優しく溶け合うような演奏が、二人の息を合わせていく。
そして、足を踏み出した途端、空が何か驚いたような顔をする。
握った手に、少しだけ力を込めて、エシュタンドは笑ってみせた。
「本当のダンスとは、どんなものか教えてやる。力を抜いて、私に全て任せろ――そう、いい子だ」
硬かった空の体が、エシュタンドの腕の中で、自然と落ちついていく。
先ほどの形だけのダンスとは、全く違うエシュタンドの瞳と、その仕草に、突き刺すような視線が向けられているのがわかる。
全く無視したエシュタンドは、他の姫を気にしているような、空の顔を自分に向けさせた。
「私から、目を離すな。私のことだけ、考えるんだ」
ほとんど唇がかすめるくらいに、近くで囁いた彼の行動に、軽い悲鳴が上がる。
――悔しがるのは、まだ早いぞ? お嬢さん方。
瞳の端にかすめた光景を、どことなく嬉しそうに見てから、エシュタンドは、空の体を、より近くに引き寄せた。
途端に赤くなる空に微笑んで、エシュタンドはゆっくりとステップを踏み続ける。
「これは、ミディスに伝わる、恋の歌だ。恋人たちのための曲にふさわしい、ダンスを見せてやらなくてはな」
エーデレードが奏でる、優しい音色は、フェルの歌声と重なって、大広間を二人だけの甘美な空間へと変えていくようだった。
先ほど堂々と歌い上げた時とは別人のように、甘く、切ない歌をうたいあげるフェルに、いきり立っていた姫たちの顔も、次第に陶酔するようなものになっていった。
何度も続く、切なげな旋律に合わせて、エシュタンドは空の体を優しく右へ、左へと導く。
ゆるやかな回転を繰り返し、そして高まる音楽と共に、ほぼ抱き合うほどに、空の体を腕におさめた。
真っ赤になった空の顔が、目と鼻の先にある。
「あ、あの……」
近づいた距離に戸惑ったような空の声に、エシュタンドはそっと囁いた。
「照れるな、思いきり、見せつけてやればいい。二度と馬鹿な考えを起こさせないようにな」
王妃をちらりと見て、藍色の瞳が空を映した。
それでも恥ずかしそうに体を硬くする、空の抵抗を、エシュタンドは楽しげな笑みで崩していく。
「それから、万が一にも、私の婚約者に手を出そうというような輩がいては、困るからな。
お前は、私だけのものだと、はっきりとわからせてやらなければ――」
あいかわらず、何のことだかわからないような顔をする、鈍感で、愛しい姫君を、エシュタンドは力強く、抱きしめた。
彼のその動作を待っていたかのように、フェルの歌は、鮮やかに終わりを告げたのだった。
誰も、何も言えないような、そんな大広間の静寂を打ち破ったのは、拍手の音だった。
振り仰いだ全員に、優しく微笑んだのは、エカルドの水色の瞳。
「とても素晴らしいダンスでした。そう思いませんか、母上」
自らの息子に言葉を振られて、王妃は、目を剥いたまま、固まった顔に、なんとか笑みを浮かべる。
それでも、まるで屈辱に耐えるように、唇だけは硬く結ばれていた。
エカルドの笑顔を受けて、エシュタンドは空の手を握ったまま、王のほうへ向き直る。
「今宵の宴、存分に楽しませていただきました。どうも、ありがとうございます、父上――」
その言葉に片眉を上げた王に、エシュタンドは藍色の瞳をきらめかせて、微笑んだ。
「改めて、我が婚約者の魅力がわかりました。この場にいる誰もが持ち合わせていない、ソラだけの魅力が……」
姫たちの視線を背中に感じながらも、エシュタンドは握った手に力を込めた。
そっと彼を見上げた黒い瞳にだけ、微笑んでみせて、再び玉座を見上げる。
「その娘だけの、魅力だと――?」
興味深そうに見つめてくる灰褐色の瞳に、エシュタンドは自信に満ちた頷きを返した。
「そう、着飾っただけでは、手に入れられない、本当の美しさ――この、清らかな心です」
はっきりと言い切ったエシュタンドは、背後の女性たちに挑戦するかのように、藍色の鋭い瞳を向けた。
「どんな宝石も、豪華なドレスも、ソラには必要ない。私が心惹かれたのは――彼女自身なのだから」
強く、大広間に響き渡った彼の声に、誰もが何も言えずに立ち尽くす。
それを見届けてから、エシュタンドは握っていた空の手を、ゆっくりと口元へ持っていき、大切そうに、そっと口付けた。
その仕草を見る、空の大きな瞳に、大粒の涙が盛り上がる。
透明で、きらりと輝くその涙すら美しいと、エシュタンドは思うのだった。
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