50.迷い
森を吹き抜ける風が、少し開いた襟元を撫でていき、エシュタンドは小さく身震いをした。
その一瞬の動作にすぐに気づいたように、隣のクガルが近づいてくる。
「殿下、お寒いですか」
気遣うような栗色の瞳に、エシュタンドは森に向けていた視線を戻す。
「いや、大丈夫だ。そろそろ日が暮れるな、王宮に戻ろう」
白い愛馬の背を撫でて、彼が言うと、クガルは無言で同意を示し、散らばっていた私兵隊に号令をかけた。
「結局、大したモノは見当たりませんでしたね」
兵を集め終えたクガルに言われ、エシュタンドも頷く。
「そうだな。まるでどこかに集まって、隠れてでもいるかのようだ。不気味といってもいいほどの、静けさだな」
列を成して、馬を走らせながら、エシュタンドは背後に広がる、コルトスの森を見やった。
「何か、お感じになられますか」
クガルの問いかけに、藍色の瞳を細めて、エシュタンドは軽く息を吐いた。
「いや、大きな魔の気配は感じない。これだけの探索を行っても、姿を見せんとは、敵にも何か、考えがあるのかもしらんな。
とにかく、油断だけは禁物だ。帰って、父上とも相談してみよう」
「そうですね」
クガルの返事を最後に、二人とも馬の距離を離し、速度を上げる。
既に日が低くなったコルトスの街を背に、私兵隊全員も帰途についた。
収穫祭までに何らかの動きがないかと、魔のモノの探索に出てから、未だに何の成果も得られないでいることに、エシュタンドはわずかな苛立ちを感じていた。
あれほどの擬態を身につけた彼らが、このまま黙って引き下がるとも思えない。
しかし、あの時の様子を思うと、擬態力がまだそこまで続かないのか――。
エシュタンドの思考を読んだかのように、そばを走っていたクガルが、馬を少し寄せてきた。
「殿下、それにしてもあの魔の女――一体何だったのでしょう」
クガルもずっと同じことを考えていたのだろうか。眉を寄せて、思案しているような様子を見せている。
「ああ、あれほどの力を見せておきながら、突然、力尽きたのには、私も驚いた」
「ええ。しかも、急激にただの化け鳥の姿になって――あれが、あの女の実体だったのでしょうか」
クガルの言葉に、エシュタンドもあの奇妙な姿を思い出していた。
まるで、何かの術が解けてでもいくかのように、体が縮み、苦悶の顔を見せながら、人の半身だったものが、あっという間に鳥の姿に変わっていったのだ。
どこか拍子抜けした気分で、それでも兵たち全員が、ほっとしたような顔で、あっけない幕切れを喜んでいた。
「そうだな――何かの幻術の類でもなさそうだったし、確かに擬態はしていたようだが、我々との戦闘で力を使い果たしたか、それとも、何かの力を借りて擬態していただけだったのか……」
エシュタンドの答えに、クガルも頷く。
「とにかく、引き続き、調査は続ける必要がありますね」
そのまま、森の小道を抜け、王宮までの道のりが見えてきたところで、自然と話は途切れた。
魔のモノの実体は、いまだに謎に包まれている。
今までにその謎の解明に乗り出さなかったのは、ひとえに彼らの力がさほどの脅威を与えなかったからだ。
小動物などを食し、時々人の前に姿を現す程度であり、間違って傷を負うぐらいのことはあっても、彼らに襲われて、命まで失ったという前例は、今までなかった。
だからこそ、魔のモノを退治するためにも発達した、対魔の力や、魔の力で事足りていたのだ。
それが、あの女はあきらかに、人を餌として認識し、そのために力を揮っていた。それも、ほぼ人に似た姿までに近づき、言葉までも会得していた。
長い王国の歴史においても、初めての事態である。
まだ、エシュタンドが全力を揮わなくてはいけないほどの脅威は感じなかったものの、対魔の術においては、王宮軍の精鋭よりも優れているという噂の、エシュタンドの私兵隊が、圧されるほどの、恐ろしい力だった。
あの女一人だけとは思えない。既に水面下で、魔のモノたちが何らかの力を得て、あのような擬態をとげているはずなのだ。
それなのに――。
エシュタンドが知らず、唇を噛んだ、その瞬間、門から出てきた人物にぶつかりそうになった。
「はっ、で、殿下――大変、失礼なことを――も、申し訳ありません!」
大きな亜麻色の瞳を驚愕に見開いて、体が折れ曲がるほどにひれ伏したのは、エシュタンドもよく知っている、侍女である。
「お前は――確か、エマナ、だったか」
少し考えてから口にした名前に、彼女は驚いて顔を上げた。
「覚えておいでなのですか、私の名前……」
そう言いかけて、体を起こしたエマナの手にしていた籠から、色とりどりの野菜がいくつか転がり出る。
「あ、これは、あの――新鮮でよいものがたくさん手に入ったので、し、私兵隊の方々にお裾分けに……」
聞かれてもいないのに、あわてて言い訳のように口にしながら、エマナは野菜を拾い集めた。
足元に転がってきた、その中の一つを、エシュタンドが手渡してやると、エマナは恐縮しながら、急いで籠に収めた。
「お前は、ソラ付きのはずだろう。なぜ――」
全てを言わずとも、彼が聞きたかったことを把握したのか、エマナはあせったように、籠を抱えなおした。
「あ、あの……収穫祭の準備に借り出されておりまして――姫君のお世話は、現在別の者が……」
その言葉に、少しだけ眉を寄せたエシュタンドを、エマナの大きな瞳が見上げる。
「何だ」
頭に浮かんだ考えを、微塵も読ませないような彼の無表情に、エマナはためらったような顔をした。
「い、いえ。何でもございません……」
小さく答えたエマナに、エシュタンドが何か言いかけた、その時、門の向こうから、歩み出てくる人影があった。
「殿下――まだ、こちらにいらしたんですか」
先ほど厩舎に馬を戻しに行ったクガルは、またエシュタンドを捜しに出てきたらしく、ほっとしたような顔をしていた。
「直接、宮へお入りになられても、結構ですのに……」
「いや、そのつもりだったんだが、ちょっと考え事をしていてな」
私兵隊宿舎につながる門の前で、見渡せば既に松明の火が灯されていて、改めて考え事に耽っていた時間に気づく。
エシュタンドの近くに佇む小さな人影に、クガルはようやく気づいたように視線を下げた。
「これは、エマナ。こんな時間まで仕事ですか、収穫祭が近いから、侍女の方も大変ですね」
そのにこやかな顔に、エマナは少し頬を染めて、俯いた。
「い、いえ。とんでもございません――」
その手に抱えた籠を見て、クガルは笑った。
「それは――?」
訊ねたクガルに、あわててエマナは顔を上げて、改めて自分の持っていた野菜を思い出したかのように、クガルのほうへ差し出した。
「あ、あの……これ、私兵隊の方々にお裾分けですの。どっ、どうぞ――」
その重さのためか、震える両手で差し出された籠を、一瞬驚いたように見つめてから、クガルは受け取った。
「こんなにたくさん、よいのですか。あなた方の分も……」
言いかけたクガルに、エマナはぶんぶんと首を横に振る。その動作で、彼女の後ろに束ねた亜麻色の髪が揺れた。
「まだ、たくさんありますから! あの、ぜひ皆さんでと――そ、その、侍女長が申しておりました!」
どもりながら、半ば叫ぶように告げるエマナと、微笑みながらお礼を言うクガルを、エシュタンドは黙って眺めている。
その視線を意識したのか、エマナは余計に真っ赤になって、深々とお辞儀をして、あわてて立ち去っていった。
「で、それ、どうするつもりだ?」
腕組みをして門にもたれていたエシュタンドの問いに、クガルはやわらかい笑みを崩さずに答えた。
「もちろん――有難くいただきますよ」
近くを通りかかった兵の一人に、籠を渡して、クガルは遠くに見える宿舎を指差して、何事か指示した。
兵が籠を手に、宿舎へ向かうのを見送って、クガルは早足で戻ってくる。
「料理番に、渡すように言っておきました。明日の朝には、美味しい野菜のスープが食べられそうですね」
クガルの表情は、笑顔に守られたように、その中のものは見えない。
エシュタンドは少し口元を上げて、笑ってから、そのまま歩き出した。
松明の灯りが照らす小道を、連れ立って歩きながら、エシュタンドはクガルを見やった。
「何か?」
すまして訊ねるクガルに、エシュタンドは苦笑する。
「――いや。お前も、読めない奴だな、と思ってな」
「何が、でございますか」
いつもと同じ笑顔を向けられて、エシュタンドは藍色の瞳に、からかうような光を宿す。
「気づいているんだろう、あの娘の気持ちに」
あえて、名前を口に出さずに、エシュタンドは訊ねた。
ただ一瞬のやりとりを見ただけで、自分にもわかることだ。この飄々とした栗色の瞳に、それが見えないわけはないだろう。
決めつけたような視線に、クガルはかなりしてから、あきらめたように笑顔を収めた。
「……まあ、私も、もう子供ではありませんので」
そう言って息を吐くその顔は、いつも皆に見せる、優しいだけの顔ではない。こんな顔を見る人物が、他にそうはいないことも、エシュタンドは知っていた。
「それなら、何とかしてやるべきじゃないのか。優しくしてやればやるほど、女というのは、期待も深まるものだ。
まあ、そんなことは――私に言われずとも、わかっているだろうがな」
いつになく気遣うような主の言葉に、クガルは栗色の瞳を伏せて、視線をそらした。
「そうなんですが……女性には優しく、と死んだ両親に厳しく教えられてきたもので――なかなか、習慣というものは変えられないものですね」
ごまかしたような彼の答えに、エシュタンドは軽く笑って、肩をすくめた。
「まあ、お前の好きなようにすればいいさ。ただ、その気がないのに、期待を持たせると、後々面倒なことになるというのが、私からの助言だ」
冗談めかした言葉を、クガルは笑って受け止めた。
「はい。お言葉、胸に刻んでおきます」
今頃、勤務後の酒か、食事に勤しんでいるのか、宿舎前の道には、誰も姿を見せず、ただ、建物から漏れる明かりと賑やかな物音だけが、夜を彩っていた。
その中で楽しんでいるだろう兵たちも、まさか自分たちの主が通っているだろうとは、夢にも思っていないに違いない。
わざと人のいない時間を選んで、こうしてクガルの宮を訪れている足取りも、ここ数日ですっかり慣れたものとなっていた。
代々の私兵隊、隊長に許された個人の宮――そこならば、それほど気遣うこともなく、夜を過ごせるだろうと思ったからだった。
「おかえりなさいませ、殿下、隊長様」
クガルに付くだけあって、口の堅い侍女が開けた扉の向こうへ足を踏み入れながら、エシュタンドは自然とため息をもらしていた。
「殿下、お疲れでございますか」
客室で、エシュタンドのマントを受け取ったクガルに聞かれ、無言で長椅子に腰を下ろした。そのままもたれて、額に手をやる。
「少しな――さすがに連日、あちこち駆け回ったからな」
「では……口当たりのいい、果実酒でも、用意させましょう」
そう言って退室しようとする後姿を、エシュタンドは一瞬迷って、呼び止めた。
「どうかなさいましたか、殿下」
心配そうな顔で戻ってきたクガルに、エシュタンドは笑った。
「たまには、酒の相手をしてくれないか」
驚いた顔で瞬きをしたクガルが、ゆっくりと笑顔を浮かべる。
「もちろん――急いでご用意を」
――どうするつもりか、だなどと、訊ねられるべきなのは、自分だというのに。
わきあがってくる自嘲の思いを、甘酸っぱい果実酒で押し流しながら、エシュタンドはため息をついた。
窓の外に浮かぶ青白い月を眺めながら、杯を空けていくエシュタンドの向かいに、クガルは黙って座っている。
「何も聞かれないというのも、落ち着かないものだな」
苦笑まじりに呟いた彼に、クガルは瞳をあげて、微笑んで見せた。
「お望みであれば、色々とお訊ねいたしますよ」
「お前のそういうところが、気に障るんだ」
明らかに本心ではない言葉にも、クガルは顔色一つ変えない。食事もろくに取らずに流し込んだ酒が、エシュタンドのいつもの表情を崩していた。
「姫君でしたら――儀式のために、頑張っておられるようですよ。リゴト様の厳しい講義にも耐えられ、今日などは、西の聖殿の巫女殿ともご対面されたとか――」
すらすらと、何事もないかのように話すクガルに、エシュタンドはにこりともせずに、酒杯をテーブルに置いた。
「知っている」
「何だ。もう、ご自分でお調べになっておいでですか」
「違う。侍女たちが話しているのを、たまたま聞いただけだ」
憮然とした答えに、クガルは苦笑して、エシュタンドの空いた酒杯に果実酒を注ぎ足した。
「では、こちらも侍女から聞かれたでしょうか。厳しいことで有名なメセル殿とも、結構対等にやり合っておられるという噂ですよ」
いつの間にか、情報を仕入れておきながら、表面上何の変化も見せない童顔をねめつけて、エシュタンドは黙ったまま、赤い液体を飲み干した。
「姫君も、意外としっかりされておいでですし、まあ心配はいらないと思いますが……なにせ、突然にあれこれ詰め込まれているわけですから、お疲れで倒れられたりしないように、侍女たちにも十分気をつけてもらうよう、伝えておきましたよ」
それでも何も言わないエシュタンドに、クガルは自分の杯もゆっくりと飲み干して、笑った。
「あ、そうそう、ルストにも、よい話し相手になってさしあげるよう、私からも申し付けておきました」
その言葉に、さすがにエシュタンドは顔色を変えた。
「立ち聞きとは、趣味が悪いぞ」
恨みがましい視線を受け流して、クガルは肩をすくめた。
「決してそんなつもりでは――たまたま部屋の前を通りがかったら、聞こえてしまいましたので」
こんな時のクガルは、いつもの忠実な彼とは違って、少し楽しんでいるように見える。
エシュタンドは大きく息をついて、栗色の優しい瞳を睨んだ。
「お前、性格が悪くなったんじゃないのか」
「殿下がお変わりになられたので、つられてしまいまして……」
クガルは両手を上げて、悪ふざけを詫びるように笑顔になる。エシュタンドはあきらめたように、酒杯を戻した。
「お前の言いたいことぐらいわかるさ。私だって――これではいけないことくらい、わかっているんだ……」
金の髪をかきあげて、天井を見上げたエシュタンドに、クガルは瞳を少しだけ、真剣なものにする。
「殿下が何をお悩みなのかは存じませんが……私から、言わせていただけることは、ただ一つでございます」
その目に浮かぶ真摯な光に、エシュタンドは無言のまま答えを促す。
「大事な相手が、今、生きてそばにおられることは――素晴らしいことです。いくら想っていても――伝える相手を失っては、何にもならない」
背負ってきた過去からにじみ出た彼の言葉に、エシュタンドは言葉を失った。
「悔いを残すことは……辛いものです」
悲しい、微笑みを通して、彼の秘めているものが見えるような気がして、エシュタンドは眉を寄せた。
クガルは、無意識のように、衣装の首元に触れていた手を下ろして、立ち上がった。
「殿下の、お思いのままに――私は、殿下の幸せだけを望んでおりますよ」
明るく笑って、空になった酒瓶を持ち、クガルはそっと扉を開けて出て行った。
一人残された部屋で、エシュタンドは藍色の瞳を閉じて、長椅子にもたれる。
決して、望んではいけないと、あきらめたはずの娘――。
自分の心を凍らせて、断ち切ろうとしたはずの彼の想いに応えて、彼の手をとった、愛しい少女。
失いかけたと思った体を、両腕に収めた時、自分はまた、夢見てしまったのだ。
このまま、ずっと、共に過ごしていければ――そんな、儚い、苦しい夢を。
刹那だけでもいいと、心に決めたはずなのに――。
愛しい彼女の笑顔を、もう少しだけ、長く見られるなら、それでいいと、そう思ったはずなのに。
否、思おうとしたのだ。
必死の理性で壁を作り上げて、この時だけを共に過ごそうと、そう思っていた自分の心は、内側から爆発しそうな熱によって、崩されかけている。
止めようもないほどに、もっと、もっとと、求め続ける自分の声に耐え切れず、逃げてきたのは、自分自身だ。
冷静な仮面を被り続けることに疲れて、苦しくなって、離れてしまった。
そんな自分を、彼女はどう思っているのだろうか。
自然ともれる、深いため息は、彼自身を追い詰める。
もうすぐ、なのだ。もうすぐ、決断の時が来る。
逃げ続けていても、手を離さないといけない、瞬間はやってくるのだろう。
それなのに、あがいている、みっともない自分。情けなすぎて、笑えてくる――。
エシュタンドは、空の酒杯を見下ろしたまま、乾いた笑いをもらしていた。
「収穫祭まで、あと二日、か――」
一人呟きながら、窓の外の闇に、藍色の瞳をさまよわせ、エシュタンドは唇を結んだ。
クガルの言葉が、頭の中で、回っていた。
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