49.準備
もう、幾度目かの朝が来た。
収穫祭まで、あと三日を残すところまで来ても、不思議と実感がわかないまま、空はぼんやりと窓の外を見上げていた。
朝晩の冷え込みが、段々と季節の移り変わりを空にも感じさせてくれている。
このミディス王国では、日本と似た四季はあるものの、日本の気候とはだいぶ違うらしいと、昨日のリゴトの講義で改めて知った。
季節は、花の季節と呼ばれる春のような過ごしやすい時期と、雨の季節と呼ばれる短い夏、そして、収穫の季節である秋が終われば、雪の季節である、冬がすぐにやってくるらしい。
空がこの世界にやってきたのは、ちょうど雨の季節が終わった頃、涼しい気候のちょうどいい時期だったそうだ。
そう言われてみれば、夏のじりじり暑い中から、この世界へ来た時、涼しくは感じていたものの、色々なことが起きて、そんなことを考える暇もなかったのだ。
驚いていた空に、リゴトは以前にも同じ話をしたのに、と、憤慨していたけれど――。
「おはようございます、姫君」
すっかり朝日が染み渡った部屋に、扉を開けて入ってきたのは、ふくよかな侍女だった。
「あ、おはよう。えっと、マルカ」
少し考えてから、彼女の名前を呼んだ空に、マルカは嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、もう名前を覚えてくださったんですか」
手にしていた衣装を広げ、手際よく用意をしながら問うマルカに、空も笑う。
「うん。さすがに、こっちへ来てから、結構日がたつからね。一応、いつもお世話してくれる皆の顔と名前は、一致してきたよ」
少し自慢げに胸を張ると、マルカはまあ、と驚いたように満面の笑みを浮かべた。
その丸い顔の、優しい印象で、マルカは侍女たちの中でも、エマナの次に親しみやすい女性だった。
「ねえ、今日はエマナはどうしたの?」
そういえば、ここ最近顔を見ていない。気になっていた空の質問に、マルカは、ああ、と衣装を整えていた手を止めた。
「エマナは、収穫祭の準備にかりだされておりましてね。食材の買出しやら、衣装の発注やらで、飛び回っているんですよ。
あの子は結構、しっかりしてて、役に立つので……」
「そうなんだ……じゃあ、収穫祭まで、ずっと忙しいの?」
「そうですねえ、姫君のお世話は、当分の間、私たちで交代でさせていただくように、聞いておりますね」
「そっか……」
少し表情を翳らせた空に、マルカが優しい笑顔を浮かべた。
「エマナがおりませんで、お淋しいでしょう」
「そっ、そんなことないよ、あたしは――」
他の侍女たちに申し訳なくて、あわてて否定しようとした空に、マルカは訳知り顔で微笑んでみせる。
「いいんですよ、やっぱり、お年の近いエマナのほうが、姫君も落ち着かれるでしょうし、エマナも喜んで、姫君にお仕えしておりますからね」
少し目元に皺のあるマルカが、そう言って笑ってくれると、どこかほっとする。
それも確かだが、やはりマルカの言うとおり、すっかり友達のように付き合えるようになったエマナとのほうが、楽しいのは事実だった。
何と答えていいかわからずにいた空の髪を、優しく櫛で梳きながら、マルカは続けた。
「それに、殿下も最近大変お忙しいようですし、姫君が余計お淋しいのは、仕方がありませんよ」
その言葉に、空の眉が曇る。
少し俯き加減になった空に気づいているのか、どうなのか、マルカはそのまま丁寧に、空の髪を梳いてくれている。
――エシュタンド、か……。
あれから言葉通り、宮に戻りもせず、ここ数日、満足に顔も見られていない相手を思い浮かべて、空は自然とため息をもらしていた。
どうやら、収穫祭前に、魔のモノの探索だか、追跡だかで、クガルを始め、私兵隊を引き連れて、あちこちに出かけているらしいのだが。
空のほうはといえば、リゴトと連日、ほぼ一日中みっちりと、収穫祭だけでなく、ミディスの歴史やら、文化やらの勉強をさせられて、形だけは大人しく聞いている空も、さすがに嫌気がさしていた。
大嫌いな勉強も、大事な儀式をこなすため、そう思って耐えているというのに、その空に応援の言葉の一つもなしで、いくらなんでも、薄情というものではないのかと、浮かんだ藍色の瞳を、頭の中で睨みつける。
――あんなに、熱い瞳で見つめてきたくせに。
体中を奪い去られるほどの、彼の熱っぽい言葉も抱擁も、まだ目を閉じれば思い出せるくらいなのに。
そう思ってから、途端に湧き上がってくるおかしな感情を追い払おうと、空はあわてて首を振った。
「姫君? どうかなされましたか?」
髪を梳いていた手を止めて、訊ねたマルカに、空はごまかすように笑った。
「あ、ううん。何でもないの。ちょっと、風が冷たくて、寒気がしただけで――」
もちろん、そんなことはなかったが、マルカは心配そうに急いで窓を閉めに行ってくれた。
「まあ、お風邪でもお召しになったら大変ですわ。今日のお約束は、取り消しておきましょうか? あ、でも――今日は確か、西の聖殿の……」
困ったように言いかけるマルカに、空はあわてて口を開く。
「大丈夫、大丈夫! 今日は大事な儀式の練習があるんだもん、休んだりできないよ。あたしのことなら、心配しないで。しっかり、こなしてみせるから」
「でも――本当に、大丈夫でございますか?」
「うん! 体は丈夫なほうなんだ、あたし」
安心させるように笑った空に、マルカも胸をなでおろす。
そのまま、マルカに衣装を着るのを手伝ってもらいながら、空は改めて、自分を元気付けるように、顔を上げて、窓の外を眺めた。
朝日に、白い王宮の色が反射して、清浄な光を放っていた。
収穫祭の儀式は、毎年、東西南北、四つの聖殿の巫女が、交代で執り行うものだという。
儀式が執り行われるのは、王宮近くのハルトという小さな村。
村の守り神とも言われてきた、白水晶の滝――その美しさは、ミディスでも一、二を争うほどのもので、大昔に滝つぼから発見されたという、ハルトの聖なる剣で、滝の流れを切る儀式を行うことで、滝の精を鎮め、その力でいつまでも村を守護してくれるようにと、祈りを捧げる、そんな伝統が、いつの間にやら王宮に引き継がれて、収穫祭の伝統行事として、行われるようになった。
「この行事が無事に済んでこそ、ミディスの民は安心して、冬を迎えられると言われている――どう? 結構、ちゃんと覚えたでしょう?」
空の得意そうな声に、マルカは笑顔で頷いた。
「それだけではありませんよ、姫君。なぜ、滝の流れを切る、という儀式が、滝の精を鎮めることになるか、そのくだりが、抜けておるではないですか!
それに、なぜハルトの村から、王宮へ受け継がれることになったかというところも――」
たちまち厳しい顔で、長い髭に唾を飛ばしながら、口を開いたリゴトに、空は苦い顔をする。
「まあまあ、そのへんのことは、省略ってことで――」
「しょっ、省略ですと? そんな、適当なことでよろしいと思っておられるのですか!」
ますます皺を増やして叫ぶリゴトに、空はごまかすような笑いを浮かべた。
「ちゃんと、後でもう一度復習しとくから、ねっ?」
その言葉に、眉間に青筋を走らせて、卒倒しそうな顔になったリゴトを眺めていたマルカが、可笑しそうに笑う。
「まあまあ、姫君にかかっては、さすがのリゴト様も形無しでございますね」
「なっ、なんですと――」
「あ、リゴト様、もうお着きになったようですよ」
リゴトより一枚上手なマルカが、窓の外を眺めて素早くそう言うと、空も、リゴトも、瞬時に緊張した顔になった。
「よいですね、姫君。西の聖殿の、巫女殿は――あの月の巫女長様のような、お優しい方ではないのですから、とにかく言動には十分にお気をつけに――」
連日、口をすっぱくして同じことを言っているリゴトに、空も硬い笑みを返した。
「わかってますって! 失礼のないように、淑女らしく、姫君らしく、でしょ?」
「くれぐれも、礼儀作法には、お気をつけくださらんと……」
「はいはい。わかりました! じゃあ、もう行って行って! そんな顔でそばにいられたら、余計に緊張しちゃうよ」
追い払うような空の仕草に、また目を剥いたリゴトを連れて、笑顔のマルカが扉を閉めて出て行ってから、空は真顔になる。
リゴトに言われずとも、もう十分緊張しているのだ。
いくら、こういうことの苦手な空にしても、失敗はしたくない。
この行事がどれほど重要なものかはわかっているし、自分の言動が儀式の進行を妨げないように、とはよくよく、肝に銘じているつもりなのだ。
それにしても、今年の儀式の担当が、東の聖殿であったなら、どれほどよかったことか――。
いくら恨めしく思ってみても、もう決まっていることは仕方がない。
去年既に、東の聖殿によって執り行われた儀式は、今年は順番で西の聖殿の担当になっているのだそうだ。
それが、四つの聖殿の中でも、一番厳格で有名だという、西の巫女たちによって取り仕切られることが、空にとって、吉と出るか、凶と出るか――。
客人を迎えるための部屋であるという、この宮の一室で、一人になって、空は姿勢を正していた。
「姫君、西の聖殿の巫女殿が、到着されました」
使者の声と共に、扉が開いて、空はソファから立ち上がる。
それと同時に部屋へ入ってきたのは、セルスの地で見た、巫女の衣装とほぼ同じものを身につけた、数人の女性たちだった。
巫女たちの中央に立つのが、どうやら一番偉い女性であるらしい。
他の巫女たちとは格段に違う威厳を放ちながら、空に視線をやったのは、灰色の髪をきっちりと後ろにまとめあげた巫女だった。
よく見ると、並んだ巫女たち全て、髪の毛一筋も残さず、しっかりと後ろにまとめた髪型をしている。
ディーラをはじめとする、東の聖殿の巫女たちが、皆、自然と流したままの長髪だったことを思うと、まず髪型からして厳しそうに見えた。
「ミディス王国、第三王子のご婚約者であらせられます、姫君――お目にかかりまして、大変光栄にございます」
深々と頭を下げられて、空はあわてて同じように頭を下げた。
「西の聖殿にて、巫女長の補佐を務めております、メセルと申します。
今年の収穫祭は、私どもが担当となっておりましたので、国王陛下からのお達しにより、姫君に儀式の決まりごとをお教えするために、参りました」
――そうだ、巫女長は、直々にはこうした場には出ないものだったっけ。
てっきり一番偉い巫女が来るものだと勘違いしていた空が、一瞬遅れたその瞬間に、メセルは頭を上げて、薄い緑の瞳で、空を鋭く見つめた。
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします。突然のことで、申し訳ありません。王宮までのご足労、お疲れになったことでしょう」
予想以上に厳しい緑の瞳に、リゴトから教わっていた挨拶の言葉は、一気に頭から抜けてしまったものの、何とか取り繕って、空は微笑みを浮かべる。
空の言葉に、少しだけ眉を上げたメセルは、微笑みもせずに、再び頭を下げた。
「とんでもございません。儀式を任された巫女として、当然の義務でございますわ。それに、誉れ高い第三王子が、ついにお選びになった姫君にお目にかかれて、心より嬉しく思います」
――って、全然、嬉しそうに見えないんだけど?
メセルのぴくりとも動かない表情に、空は早くもたじろぎつつも、負けじと更ににっこりと笑ってみせた。
「私のほうこそ、由緒正しい、西の聖殿の巫女様方にお会いできて、大変光栄でございますわ」
リゴトから言われた通りの挨拶を、思い出したままに口にして、空はドレスの端を持ち上げて、優雅なお辞儀を返す。
エシュタンドが見ていたら、吹き出しそうな、『姫君』の仕草、何度も練習したそれは、メセルに通じたのかどうなのか――。
あいもかわらず、彫像のような無表情を守った巫女たちを見上げて、空は心の中で気合を入れ直すのだった。
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