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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



48.本心


 扉が閉まってから、エシュタンドの笑顔が消えた。
 何事か訊ねる間も与えずに、エシュタンドが空の手を引く。
「ちょっ、どうしたの、突然……エシュタンド?」
 問いかけても、目の前の背中は、答えることさえ拒否するように、振り向きもしない。
 そのまま、乱暴に連れて行かれた先は、寝台だった。
 強い力で押し倒されて、さすがに空は顔色を変えた。
「なっ、何するの!」
 あわてて起き上がろうとする空の腕を押さえつけて、エシュタンドが無言のまま、覆いかぶさってくる。
「やっ、やだ――やめてよっ」
 突然のことに混乱しながらも、空は身をよじって抵抗する。
 痛いほどの力で空の手首をつかんで、エシュタンドは無表情に見下ろしていた。
「エシュタンドってば……どうしちゃったの? ねえっ」
 ゆっくりと下りてくる彼の瞳は、金の髪に隠れて、見えなくなった。
 それだけで、急に怖くなった。
「エシュタンド――」
 呼びかけた空の言葉を無視したまま、エシュタンドは捲れた空のドレスに目をやる。
 あわてて直そうとしても、両手を捕えられて、どうすることもできない。
 暴れると、逆にどんどん捲れて、太ももまであらわになっていた。
 空の素足の間を膝で割って、エシュタンドが馬乗りになる。
 思わず見上げた空は、怖いくらいに真剣な藍色の瞳に息を呑んだ。
「やっ、いやだ――エシュタンド……!」
 両目を固く閉じて、空が必死で叫んだその瞬間、今にも触れそうだったエシュタンドの唇が、止まった。
 強く掴まれていた手が、嘘のように離される。
 にじみ出た涙でぼやけた視界に、厳しい表情を浮かべたエシュタンドの顔が映った。
 自由になった両手で、震える口元を押さえる空に、彼の短いため息が届く。

「……お前は、あんまり無防備すぎる。相手が男であろうが、何であろうが、簡単に気を許し、打ち解ける――それが、どれほど危ないことか、わかっているのか」
 突然の言葉に、空は意味も飲み込めずに、ただ彼を見つめ返した。
「男のそばにいるということは、こういうことだ」
 冷たく、言い放たれたその言葉は、彼の先ほどの行動の意味を指している。それはわかっても、突然すぎて、空は言葉も出せずにいた。
「いつ、こういうことをされても、不思議はないんだ。それがわかったら、もう少し、緊張感というものを持つんだな」
 きつい藍色の目で睨まれて、空は、固まっていた体に、ようやく体温が戻ってきたような気がした。
 その途端、涙がこぼれる。
 安心するのと同時に、体が震えて、空は子供のように泣き始めた。
「ソラ――」
 あわてて触れようとする手を払いのけて、空は涙に濡れた瞳で睨みつける。
「ひっ、ひどいよ……本当に、びっくりしたんだから――」
 動けないでいる空の体を、エシュタンドがゆっくりと起こした。
「す、すっごく……怖かったんだからっ」
 嗚咽の合間に訴えると、今度こそ、エシュタンドの瞳から、剣呑な光が消えた。
 空の抵抗がなくなるのを待って、エシュタンドがそっと空を胸に引き寄せる。
「――悪かった。やり過ぎたな」
 優しく頭を撫でられて、ゆっくりと、空の嗚咽がおさまっていく。
 揺れる蝋燭の炎を眺めながら、空の髪を撫でていたエシュタンドが、ため息をついた。
 やっと落ち着いてきた空が見上げると、藍色の瞳が、どこか悲しげな色を浮かべていた。

「エシュタンド……?」
「お前は、自分を子供だと言ったな」
 唐突に言われて、空はただ瞬きをして、エシュタンドを見つめた。
「そして、私を大人だとも言った」
 その言葉で、ようやく先ほどのエーデレードの件での会話を思い出した空に、エシュタンドは笑った。
「お前は、わかってない――まるで自覚がなしに、人を魅了して、心を掴んで、いてもたってもいられないほど、かき乱しておいて……それに気づいていないなんて、罪作りなのは誰のほうだ」
 低く、甘いほどの声音で囁かれる言葉は、まったく意味がわからないものだった。
 空の怪訝そうな目つきに、エシュタンドはまたため息をもらす。
「ほら、これだけ言ってもわかっていないだろう。お前は、自分のことも――私のことも、何一つ、わかっていない」
 そこまで言われて、空は眉を吊り上げる。
「わかってない、わかってないって……だから、一体何の話――」
 言いかけた空の手を、エシュタンドが掴んで、素早く引き寄せた。
 たちまち勢いが弱まった空の耳元に、エシュタンドが口付ける。
「私が、どれほど自分を抑えているか――どれほど、お前に心奪われているか……全く、わかっていないと言っているんだ」
 その言葉と優しい唇の感触に、空は心臓が貫かれたような気がした。一気に熱くなった頬に、彼の手が触れて、空の鼓動をますます速める。
「大人で、余裕たっぷりだと? そうであれば、どれほどいいか――お前の肌も、笑顔すらも、他の男になど見せたくない。
 お前に触れるものは、例えマントであっても、他の男のものなど許せない。お前の心も、体も、全て――私一人のものにしたい。
 そんな欲望を、衝動を、必死で抑えつけている、まるで子供のような独占欲と、嫉妬のかたまり……それが、今の私だ」
 視線をそらして、吐き出すように、一気に言い切ったエシュタンドは、息を吐いて、空を見た。
 藍色の熱い眼差しが、空の体を呪縛する。

「どうだ、がっかりしたか?」
 乾いた笑いと共に、自嘲気味に訊ねる彼に、空は戸惑いがちに見つめ返すことしかできなかった。
 その態度を肯定と取ったのか、エシュタンドは頬に触れていた手を下ろした。
「一国の王子であっても、普通の男にしかすぎんというわけだ。まさか自分が、こんな風になるなんて、思ってもみなかったがな。
 本気でのめりこむということは、こういうことだと、初めてわかった」
 肩をすくめてそう言って、エシュタンドは寝台から離れ、窓際へ歩み寄っていく。
 ためらいがちにその姿を目で追っていた空は、おずおずと、口を開いた。
「……本当、に?」
 空の言葉に、振り向いたエシュタンドは、苛立たしげに眉を寄せていた。
「これだけ言ってもわからんのか、一体どれだけ私に言わせれば……!」
 怒りといってもいいぐらいの、彼の反応に、空はあわてて首を振る。
「そっ、そうじゃなくて、あの――」
「……何だ」
 窓枠にもたれて、憮然と問い返すエシュタンドに、空はゆっくりと近づいていく。
 一歩を残すところまで来て、空は立ち止まり、おそるおそる彼の瞳を見上げた。
 訝しげな表情に、空は一度俯いてから、決意したように顔を上げる。
「ほ、本当に……あたしが、初めてなの?」
 何を言うんだ、といわんばかりの整った顔。やわらかそうな、金の髪、長い睫、引き結んだ唇、そして、強い色をした、藍色の、瞳。
 全てを必死で見つめて、空は口を開いた。
「本気で、好きになったの――本当に、あたしが初めて?」
 少し頬を染めて、訊ねた空に、エシュタンドは瞬きをした。
「あっ、あなたが今までに、たくさんの女性と付き合ってきたんだろうってことぐらい――あたしにだって、想像できる。
 それは、正直気になるけど……それでも、初めてちゃんと好きになったのが、あたしだって、そう言ってくれるなら――」
 言いながらどんどん恥ずかしくなってきて、空は後悔に言葉を濁した。
 まっすぐに見られなくて、今エシュタンドがどんな顔で聞いているのかもわからない。

 ――あたしってば、何を言ってるんだろう。い、今更なかったことになんて……。
 できないよね、と見上げた先で、エシュタンドは、いつもの笑みを取り戻していた。
 いや、いつも以上に磨きがかかった、余裕たっぷりで、大人な、甘い微笑み。
「そう、言ってくれるなら、何だ?」
 反則だ、そう言いたくなるくらいに、どきどきする瞳を向けられて、空は言葉が出せなくなった。
 悔しいような、腹立たしいような、変な気持ちで、答えを探そうとした空の背中を、簡単に引き寄せて、エシュタンドが抱きしめた。
「本当だ」
 吐息にも似た囁きで、そう答えて、エシュタンドは腕の力を強める。
「神にでも、精霊にでも、何にだって誓ったっていい。女を恋しいと、愛しいと思ったのは――お前が、初めてだ」
 まさに至近距離で、凶器とも言えるほどの熱い瞳に捕えられ、空は目眩がしそうになった。
「求めすぎて、気が狂いそうになるくらいだ。もう少し触れ合えば、自分を抑えられなくなる。それがわかっていても、誘惑に逆らえないほど――お前が欲しい」
 まさに溶かされそうな、そんな言葉と抱擁に、空は力が抜けていくのを止められなかった。
 あと一歩で、本当に何も考えられなくなる、その瞬間に、ごとりと何かが音を立てた。
 ソファの隅に置いてあった、赤い表紙の本が、床に落ちたのだ。
 それを見て、ぎりぎりまで高まっていた二人の熱が、急激に冷やされたような、そんな気がした。
 収穫祭まで、あともう数日を残すのみ、そう言われたことを思い出したのだ。
 ハルトの剣、白水晶の滝、儀式、そんな単語の数々が、頭によぎる。
 ――そう、収穫祭、今のあたしたちがなすべきこと――そして、それが終わったら……。
 急に冷たくなったような自分の手を握りしめる空の隣で、エシュタンドが深いため息をついた。

「もう、夜も遅い。先に寝ていろ」
 どこか突き放すような言葉をかけられて、空は思わず、通り過ぎようとしたエシュタンドの服を掴んだ。
「エ、エシュタンドは……?」
「私のことは、気にしないでいい。まだやることがあるんだ。収穫祭まで、色々と忙しくてな」
 振り向きもしないエシュタンドは、先ほどまでの熱っぽい態度が嘘のように、遠く見えた。
「で、でも……」
 何を言えばいいかもわからないまま、言いつのる空に、白い衣装の背中が振り向いた。
「明日から収穫祭まで、お前には剣舞や儀式の準備がある。忙しくなるから、今日のうちに、ゆっくり休んでおくんだ。
 しばらく私は――宮にも戻らんかもしらんが、心配することはない。お前には、信頼できる人物を残しておくから」
「そっ、そんな、突然……」
 思わず抗議しかけた言葉は、藍色の瞳に遮られた。
 熱のかけらも見せないで、氷のように硬い、エシュタンドの眼差し。
 空を見ているはずなのに、遠くを見ているような、何も見ていないような、不安をかきたてられる瞳だった。
「――すまん。私も、できる限りのことはするから……」
 一度だけ、肩に触れられた手のぬくもりだけが、いつものエシュタンドのものだった。
「エシュタンド――」
 呼んだ空の声に、エシュタンドは一瞬だけ空を見つめて、そして、背中を向け、部屋を出て行ってしまった。
 彼が消えた部屋の中は、急に広く、淋しく感じて。
 空は天井を振り仰ぎ、長いため息を吐き出した。

 ――好き、ただそれだけのことが、こんなにも重くて、熱くて、苦しいことだなんて。
 何もかも忘れてしまいそうなくらい、心の底まで支配されたかと思うと、突然、声も届かないような、遠い存在になってしまう。
 これが、自分たちの置かれた立場で、先が見えない、細い糸の上に乗っているような、危うい繋がりでしかない。
 わかっているはずなのに、思い知らされた気がして、空はその場にしゃがみこんでいた。
 収穫祭で、儀式を成し遂げること、それが空にとっての今の目標であり、この世界に残る目的だ。
 だって、それができたら、エシュタンドを助けることができるから――。
 ほんの少しでも、彼の、そして彼の生きる世界の、力になれる。そのためだけに、王と約束したのだから。
 決して、自分がこの世界に残るためじゃない。
 この世界で、彼と共に生きるためじゃない。
 そんなことは、わかっているはずなのに……それでもなお、心の底で望んでいるのは――。
 恐ろしい答えを、空は心に封印する。
 気づいてしまわないように、考えてしまわないように、思考を止める。
 今はまだ、その時じゃない。
 決断は、まだ先でいい。
 やるべきことが、今はあるのだから。
 そのために、頑張ること――ただ、それだけを考えなければ。
 わかっているのに、なぜ、こんなに苦しいんだろう。
 なぜ、こんなに、切ないんだろう。
 涙が出そうになるのは、どうしてなんだろう。
 一人の部屋は、あまりに淋しくて、空っぽで、彼がいないだけで、空気まで冷えていく気がする。
「エシュタンド……」
 呼んでも届かないことはわかってる。
 それでも、なお、呼ばずにはいられなかった。
「エシュタンド――」
 胸に残る、彼の熱い吐息と、狂おしげな瞳の色を想いながら、空は繰り返していた。
 泣きたいぐらいに、空の心を捕えている、王子の名を――。
 


今日も、二話連続で更新しました。
続きもお楽しみに!

それから、この前急いで更新したためか、レイアウトがおかしいところがあったので、また修正しておきました。
すみませんでした。
どこかおかしいところがあれば、いつでも教えてくださると助かります。











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