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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



45.エーデレード


「はぁ〜気持ちいい……」
 ――こんないい天気の日に、部屋にこもっていろっていうほうが無理だよね。
 勝手な言い訳を誰に対してでもなく、心の中でしながら、空は草の上に寝転んでいた。
 今日のドレスは裾が長くて、そんなに膨らんだデザインでもなく、寝転んでみても支障はない。ただ、やわらかい布に草が付くのが、多少申し訳なくは感じるが。
 そんな罪悪感を吹き飛ばしてくれるような青空が、空を優しく見下ろしている。
 食事を急いでとった後、エマナに言われた言葉で逆に部屋から逃げてきてしまった空は、エシュタンドの宮の裏、誰もいない草原を見つけて、こうして贅沢な休憩を満喫しているのだった。
 思わず想像してしまった老教師の怒った顔を、頭を振って追いやると、空は一息ついた。
 ぼんやりと雲が流れるのを見つめながら、また思い出してしまうのは、先ほどのエマナの言葉。

 ――『数多くの姫君を退けて』、確かにそう言ってた。
 エシュタンドが以前、女なんてありふれた、くだらないものだと思ってた、とか言っていたことも思い出す。
「それって、やっぱり、たくさんの女の人を知ってるってこと、だよね……」
 自分で呟いてしまってから、空は余計に嫌な気分になった。
 あれだけの美貌、整った立ち姿、振る舞い、そして力にあふれた、王子であること――どれをとっても、女性を引きつけるのは当然で。
 さして苦労などせずとも、女性のほうから集まってきたのだろう。
 何よりも、自分に対する言動や扱い方を見ていたって、わかるではないか。
 いつだって、からかわれてばっかりで、甘い言葉なんて簡単に言えてしまうような、そんな人だ。
 そんな彼に、女性との過去がないわけがない。
 ――何を、今さら……そうだよ、当然のことじゃない。当然、なのに……。
 考え始めれば、もやもやと胸に渦巻いてくる、奇妙な感情。
「なんか……いやな、感じ」
 頭上に広がる空は、気持ちがいいくらいに澄んでいるのに、頭の中は、なんだか灰色の雲に覆われてでもいるみたいだ。
 過去のエシュタンドが、一体どんな風に女性と過ごしていたのか、一体どれほど多くの女性を見てきたのか。
 今まで考えなかったことが、一度思いつくと、不思議なくらいに気になってきて。
 そんなことを考えている自分も、なんだか自分じゃないみたいで、気持ちが悪くて。
 心がぐちゃぐちゃになって、空は頭をぶんぶんと振った。
「やーめた、やめた! こんなこと、考えてたって、しょうがないって!」
 誰もいない草原に、空の声が響く。 空は大きくため息をついて、両腕をまっすぐ伸ばした。
 ――本当に、やめやめ! こんなに気持ちのいい天気なのに、暗くなってたら、もったいないよ!
 そう決めた空の心をまるで知っているかのように、吹いてきた優しい風。

「あ〜あ……バスケ、したいな……」
 気持ちのいい風に吹かれて、ふとよぎった考えに、空は伸ばした両手を真上に掲げ、ボールを持つように三角の形を作る。
 瞳を閉じると、浮かんでくるのは体育館。
 バッシュがきゅっきゅっと音を立てる、磨かれた床。汗の匂い。皆のかけ声。
 厳しい練習の合間に急いで飲む、麦茶の味。ゴールが決まった時の、なんともいえない爽快感。練習後の、仲間とのお喋り。
 全てが懐かしく思えて、なんだか胸が痛くなった。
 ぎゅっと瞳を閉じて、すぐに空は起き上がった。
 ――落ち込みはじめたらキリがない。色々思い悩むのは、やめたんだから。
「大体、らしくないんだよね」
 そう、ウジウジ悩むのは性に合わない。こんな窮屈な生活も。
 空は一気に立ち上がると、ドレスの裾を持ち上げ、太もものあたりで結んだ。そのまま、上品な靴を勢いよく脱ぎ捨てる。
 それだけで体が軽くなった気がする。空は満足そうに笑って、誰もいない草原に向かって、裸足で走り出した。

「パス、パス、もっと速く!」
 ボールも、バッシュも、何もないけれど。いつもの練習を思い出して、空は走る。
 パスを出して、受け取って、ひたすら前を目指して。目には見えないゴールに向かって、思いっきり駆けていく。
 ちょうどいいところへパスをもらって、ドリブル、ドリブル、フェイントでディフェンスをかわして、右、左、踏み込んで……ジャンプシュート!
「ナイッシュー!」
 着地した素足で草を踏みしめて、空は叫んだ。
 心地いい解放感に、全身を伸ばして青空を眺めた、その瞬間。
 突然、背後から拍手の音が聞こえた。
 あわてて振り返った空の目に映るのは、背の高い、細身の男性。
 誰もいないと思っていた空間に、いきなり現れた男性は、拍手を終えて、にっこりと微笑んだ。
「素晴らしい! 何の踊りか、武術の形か、わかりませんが、素敵でしたよ」
 優しい笑顔でそう言われて、空は顔を赤くした。
 ――しまったぁ……変なとこ見られちゃった。
 何にもないのに、さながらパントマイムみたいなことをしていた自分が、急に恥ずかしくなる。
 解放感は、あっという間に羞恥に変わり、空は思わず視線をそらした。
「すみません、別に勝手に見るつもりではなかったんですが」
 たちまちあわてたような声で謝罪する、その仕草で彼の長い髪が揺れた。
 背中の中ほどで結ばれた髪は、金のあせたような色。その細身の体を包むのは、白い衣装。
 気づいた空が何か言おうとする前に、優しい灰褐色の瞳が微笑みに細められた。
「どうも――直接お話するのは初めてですね、暁の姫君」
 胸に片手を当てて、一礼した彼は、確かに何度か遠目に見たことがある、エシュタンドの兄だった。
「あ、いえ、こちらこそ、初めまして――えーと……殿下」
 呼び方に困ったあげく、空はとりあえずそう呼んでみた。
 今まで王や王妃との対面でいつも緊張していて、他の王子のことまでじっくり見る余裕もなかったが、こうして近くで見ると、やはりエシュタンドやエカルドに劣らないぐらい、綺麗な顔だった。
 空のためらったような顔に気づいたように、彼は笑った。
「エーデレードですよ。一応、第一王子と呼ばれていますが……そんなにかしこまらなくて大丈夫。第一王子だなんて、名ばかりなんですから」
 そう言う彼の表情には、嫌味も、卑下したような様子もない。ただ、気どらない笑みを浮かべているだけだった。
「は、はあ……」
 何と答えていいかわからなくて、空はただ彼を見つめる。
「さっきのあれは何ですか?」
 緊張を和らげてくれるような、優しい笑顔でエーデレードは訊ねた。
「え、あ、あれですか? あの、バスケットボールっていう、スポーツで……」
 また醜態を思い出し、頬を染めて答える空に、エーデレードは意味がわからないように見つめ返してきた。
「あ、そうか、スポーツっていってもわからないんだ……えーと、えーと……運動? そう、運動の一種です!」
 困ったあげくの空の答えは、納得が行くものだったのかどうなのか、エーデレードは少しきょとんとしてから、優しく笑った。
「そうですか……とにかく、面白い物を見せてもらいましたよ。女性があんな動きをするなんて、驚きました」
「え、そ、そうですか?」
 驚いて問い返すと、エーデレードは頷く。
「ええ。女性というと、静かに刺繍をしたり、ドレスや宝石を選んだり、お喋りに興じたりしている印象しかないもので。まあ、王宮以外の女性はどうか知りませんが」
 エーデレードはどうでもよさそうにそう言って、また空に微笑みかけた。
「あなたの国では違うのですか? 姫君」
「え、ええ、まあ……女性だからって体を動かすことも許されないとしたら、世界中の女性が怒るかも。あ、でも女性がお喋りが好きなのは、どこでも一緒ですよね」
 何と答えたらいいのかわからずに、空はただそう言って笑った。
 エーデレードは少し目を見張ってから、同じように笑ってくれた。
 また沈黙が訪れて、空が話題を探し始めた時、エーデレードが一筋垂れた長い髪をさらりと流して、青空を見上げた。
「それでは……あなたがこの国で生きるのは、難しいかもしれないな」
 ぽつりと呟いたエーデレードの声は小さく、一瞬聞き間違いかと疑うほどだった。
 彼を見上げた空と目を合わせて、エーデレードは何事もなかったように微笑んだ。
 その澄んだ瞳の色が、一瞬王に重なって、ぎくりとする。
 そうだ、エーデレードの髪や瞳は、まさに王とそっくりだった。その身にまとう雰囲気の穏やかさに、気づかないでいたけれど。
「あの……王子?」
 おそるおそる話しかけた空を、エーデレードは優しく見つめた。
 エカルドのどこかあでやかな微笑みとも、クガルのほっとするような微笑みとも違う、静かな、微笑み。
 彼の優しい笑顔は、全てを内に秘めたような、静寂の色をしている。
 不安そうに見上げた空に気づいたのか、エーデレードは笑みを深くした。
 そして、楽しそうに、口を開く。
「あなたとこのままお話していたいとは思うのですが――あまり大事な姫君を独占していたら、エシュタンドに怒られそうなので」
 彼の言葉の意味を量りかねて、瞬きをした空の黒い瞳に、エーデレードはいたずらっぽく微笑んだ。
 そしてそのまま空の足元を手で指し示す。
「ご婦人がなさるには、少し刺激的な格好かと思いますよ」
「え……あっ!」
 言われるままに足元を見て、空はあわててドレスの裾を下げた。
 さっきバスケの真似事をする時、めくりあげていたことも、靴を脱いでいたことも、話をするうちにすっかり忘れていたのだった。
 短パンを履いている時のことなどを思えば、全然照れることもないはずなのに、エーデレードに言われると、なんだかとんでもないことをしていたように思えた。
「大丈夫、エシュタンドには内緒に――」
 笑いながら、エーデレードは言いかけて、ふと振り返り、言葉を止めた。
 急いで靴を履いていた空が、つられて彼の目線を追うと、そこには、宮の裏扉にもたれて腕組みをしている、エシュタンドの姿があった。
「誰に、内緒ですか? 兄上」
 渋い顔でそう訊ねてくる彼に、エーデレードは可笑しそうに肩をすくめる。
「なんだ、もう見てしまったのか、エシュタンド。せっかく私しか見ていないと思ったのに――残念だったな」
「兄上」
 咎めるように見すくめられて、エーデレードは声を上げて笑った。
「冗談だ、エシュタンド。怖い顔をするな」
 肩を叩かれて、面白くないような顔をするエシュタンドが、弟らしく見えて、空が思わず口元をゆるめた時、藍色の瞳が鋭く向けられた。
 あわてて表情を引き締めた空を少しだけ睨むと、エシュタンドは短く息を吐いて、歩み寄ってくる。
「帰るぞ、ソラ――リゴトがお待ちかねだ」
 その言葉に二重で顔をしかめた空を、半ば連行するように、エシュタンドが背中を押す。
「では、兄上。また後ほど」
 一礼して、短くそう告げるエシュタンドの隣で、空もあわてて頭を下げる。
「あの、すみません。じゃあ、また……」
 挨拶もそこそこに、エシュタンドに手を引かれていく空に、エーデレードは笑って手を振る。
 その灰褐色の瞳はただ、静かに、澄んだ光を浮かべていた。


 












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