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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



37.セルス


「わぁ、綺麗……!」
 ゆるやかな草の道を登り終えて、一息ついた空は、思わず感嘆の声を上げた。
 隣では、エシュタンドが涼しい顔で腕を組み、空と同じ方角を眺めている。
 部屋に運ばれた食事を取り終えた二人がやってきたのは、聖殿の立つセルスの地が見渡せる丘の上だった。
 眼下に広がるのは、目にも眩しいほどの緑一色で、朝の清涼な太陽の光に照らされて、明るい輝きを放っていた。
「ここ、セルスの地はミディスで一番森の深い場所にあるからな。聖殿以外には、小さな村がいくつかあるだけで、あとは全て森に囲まれた土地だ。それだけに他の三つの聖殿よりも更に澄んだ、美しい空気を誇る聖域だ」
 藍色の瞳を木々の緑に向けながら、エシュタンドは話す。
 当然のごとく披露される知識よりも、それを語る落ち着いた表情に、空は思わず瞳を奪われ、あわてて首を振った。
 そんな空に気づかぬまま、エシュタンドは豊かな森を越えた、遠くを見つめている。
 沈黙に落ち着かなくなった空は、澄んだ草の匂いを嗅ぎながら、そのまま地面に腰を下ろした。
「……こんな、豊かな森も、病んでいるっていうのかな……」
 心に浮かんだ精霊の影を消すこともできずに、空は小さく呟いた。
 エシュタンドも同じことを考えていたのか、冷静な顔を崩さぬまま、振り向いた。
 そして自然な動作で空の隣に腰掛ける。
 見上げた空を少し悲しげな瞳で見つめてから、エシュタンドは眉を寄せて、息をついた。
「すまなかった――」
 突然の謝罪の言葉に、目を大きく見開いた空の反応に苦笑して、エシュタンドは前を向いた。
 優しい風が、彼の短い金髪をそよがせていく。
「お前の心など考えもせずに、自分の気持ちを押し付けた。この世界がお前にとって未知で恐ろしいものであることも、突然に巻き込まれた全てのことに、お前がどれほど傷つき、怯え、混乱しているのかも、何も本当にはわかっていなかった。
 自分の中に生まれた強い感情に支配され、引きずられ、ただ求めるばかりで――まるで子供も同然だ。私は……自分が思っていたよりも情けない男なのかもしれない」
 低く、自嘲に満ちた言葉を、思わず遮ろうとした空の動きは、藍色の瞳に止められた。
 穏やかな中に浮かぶ、強い光が、そのまま聞くようにと告げているようだった。
 黙った空に、エシュタンドが優しい笑みを浮かべる。
 その奥に見える、痛みのようなものに、空は釘付けになった。

 きらめく陽光の中で、エシュタンドは金色の髪をかきあげ、何かを思い出すように瞳を閉じた。
 そして再び開かれた藍色に、空はまだ新しい記憶の内で微笑む女性を想う。
 それをまるで共有するかのように、エシュタンドが語りだした。
「あの肖像画を初めて見たのは、十にも満たない少年の頃だった。それまでの私は、自分の藍色の瞳を憎んでいた。
何もわからぬ子供だったその時は、この不気味な瞳の色こそが、周りの人々を遠ざけ、恐れ、嫌われる原因なのではないかと思っていたからだ。
母の出自のことも、大人の世界のことも、おぼろげな知識しかなく、理解もできなかった私にとって、父にさえも愛され、優しくされることがないのは、きっとこの瞳のせいなのだと、そう思わずにはいられなかった。
 顔も知らぬ母のことなど、恨みこそすれ、想うこともできなかった。また、それさえも許されないほど、母の記憶は無にも等しく、何の知識も与えられなかったからだ」
 冷たいまでの無表情であるのに、エシュタンドの瞳には重く、深い悲しみが見えた。
 空は胸が締め付けられる思いで、ただ耳を傾ける。
 口をはさむことなど、できるわけもなかった。
「それが変わったのは、ミディスの歴史を学ぶためという名目で、一人訪れることとなったこの聖殿で、偶然あの地下室を見つけた時だった。
 一目見た瞬間、母だとわかった。なぜか、確信した。そして感情が浮かぶより前に、私は泣いていた。
 不気味であるはずもない、稀有な宝石のようなあの母の瞳を見て、悲しみと、怒りと、悔しさと、様々な気持ちが入り乱れて、ひとしきり泣いた。
 それまで乾いていた心に、母の存在が染みとおっていく気がしたのだ。それが今まで見聞きした、冷酷な陰口と繋がったと同時に、許せなかった。
 私を嘲った者も、そして母をないがしろにした全ての者も――そう思った時には飛び出していた。
 夢中で走り、どこをどう行ったのか、目の前には茨の茂みがあって、気づいた時には滅茶苦茶にそこを通り抜けていた。
 そして辿り着いたのは深い森で、傷だらけの腕も気にせず、私は叫んでいたんだ。強くなりたいと、誰よりも強くなって、そして見返してやるのだと――」
 こみ上げてくる感情を抑えているような静かな口調で、一気にそこまでを語り終えて、エシュタンドは空を見た。
 空を見ているようで、その瞳はどこか遠くを見ているようでもあり、彼の痛みと苦しみが、空の心に流れ込んでくるようだった。

「その時だったと思う、あの精霊と出会ったのは……」
 視線をはずして、エシュタンドは蘇る記憶を探っているかのように、一呼吸置く。
「精霊って、もしかして……」
 空のためらいがちな問いかけに、エシュタンドはようやく微笑んだ。唇の端にだけでも浮かんだその微笑に、空はどこかほっとする自分の心を感じていた。
「そう、あのルーラという、眠る精霊だ。もっともあの頃は、眠ってなどいなかったが」
 エシュタンドの口調は、少しずつ記憶の幻から抜け出しているように、いつもの皮肉げなものに戻りつつあった。
 遠くをさまよっていたような瞳も、今は空をまっすぐにとらえている。
「強くなりたいと叫んだ私に、お前は真の王者になり得る者だと、そう言った。私を見て、確か『見事な光』を放っているとか……」
「『光』を?」
 訊ね返した空の怪訝そうな顔に、エシュタンドは頷いてみせる。
「ああ。それから泉の瞳を持っている、とも言っていたな……私のこの瞳の色には何かの意味があるのかもしれん」
 考え込みながらそう答えるエシュタンドを見ながら、空は記憶の琴線に何かがひっかかるのを感じた。
「そういえば、巫女のディーラさんも、何か似たようなこと言ってたかも……ああ、そう! 生命の光が燃えているのが見える、とかなんとか――」
 巫女も精霊も、似たような力を持つものだとしたら、ルーラが言ったのは、エシュタンドの生命の光だったのだろうか。
 空が導き出した答えと同感なのか、エシュタンドも藍色の瞳を伏せて、何かを考え込んでいる。
「エシュタンド……?」
 心配そうにかけられた空の声が、再び彼を現実に引き戻したようだった。
「いや、とにかく――そう、そこで彼女に渡されたんだ。あの緑の宝石を」
「想緑珠を?」
「結局、想緑珠とは一体どういうものなのか、我々にどう使えというのか、何も聞けなかったな。全く勝手に人を呼びつけておいて、肝心なことを教えんとは、失礼な精霊だ」
 その冗談めかした口調に、空は少し笑った。
「そうだね、まあ、魔が現れたとかで仕方がなかったんだろうけど……」
 確かに中途半端に残された謎には、空も消化不良な気分だった。
「それにしても、あの光は何だったんだろう――あの時、あなたが助けに来てくれた時、確かに光ったよね?」
 唇に指をあてて、思い起こす空に、エシュタンドは頷いた。
「それに熱を帯びていたようだったが……」
「そうそう、まるで石が生きてるみたいに熱くて、脈打ってでもいるみたいだった」
 あの不思議な感覚は、自分だけが感じたものではなかったんだと、空の声は大きくなった。
「二つの石が近くに集まったから? なんだかまるで――」
「……二つの石が、惹かれあってでもいるかのように」
 考えていたことを言い当てられて、空の言葉は止まる。そしてその内容に思わず重ねてしまうのは――。
 空の瞳に浮かぶ動揺を、藍色の静かな瞳が見ている。そのまま二人の間に沈黙が横たわった。
 急に落ち着かなくなって、空は足元に視線を移した。
 緑濃い森から吹き渡る風が、二人の頬を撫でていく。
 空は優しすぎる静けさに、自分の心を見透かされてしまいそうで、思いついた疑問を口に出した。
「そういえば、あのアルネンスとかいう精霊が言ってたけど、『おかえりなさい』っていうのはどういうこと? あのコルトスの森にも行ったことがあったの?」
「いや――私も考えたんだが、幼い頃にどういうわけか迷い込んだあの森が、彼らの住まう特別な森だったんだろうな。
 このセルス付近の森と、コルトスの彼らの森を、何かの力が一時的につなげていたか、もしくは……常に空間を一部共有してでもいるのか」
 
 エシュタンドの冷静な分析を聞きながら、空は豊かな森を見下ろしていた。
 精霊の不思議な世界に思いをはせるほどに、空の表情は険しくなっていく。
 彼らに託された宝玉の謎までも知りたいと思うことは、同時に彼らの望みを叶えるという責任を負うことにつながるのだ。
 ただの高校生である自分が、一体どうしてそんな重大な役目を与えられるのか。
 何も特別なこともできない、そんな力も度胸もない、ましてや彼らの運命まで背負うほど強くもない、そんな自分がどうして選ばれてしまったのか。
 そもそもそんなことが本当なのか、それすらも疑ってしまう。
 できることなら逃げ出したい。このまま、眠って目が覚めたら、全てが夢だったならいいのに。そんなことまで願ってしまう。
 自分はこんな、弱い人間でしかないのに――。
 そこまで考えてから、空を叱咤するかのようなルーカの瞳が浮かんだ。
 空を暁の娘だと、そう言い切った彼女の言葉。当然のごとく義務を果たすべきだと、空に突きつけた、あの少女。
 彼女が言った言葉の続きを思い起こして、空は膝に埋めていた顔を上げる。
『次期国王となる者よ』――エシュタンドにそう言ってのけた彼女は、少女ではなく、長い年月を生きてきた精霊の顔をしていた。
 エシュタンドは、一体どうするつもりなんだろう。
 自分のことだけに気をとられていて、そこまで及ばなかった思考は、たちまち不安を呼び寄せる。
 重い責任を負うのは、むしろ彼のほうなのかもしれない。
 森を、しいては国を救うだなんて、とてつもない役割を負わされて、エシュタンドだって平気ではいられないはずなのに。
 彼のそばにいて、少しでも助けになれたなら――考えかけて、それがどれだけ恐ろしい選択なのかに思い至る。
 それは自分の故郷を、平和な生活を、家族を、友人を、皆を捨てることなのだ。
 たちまち震えだす体を、空は両手できつく抱いた。そうしないと、恐ろしくてたまらなかったから――。
 自分を見失いそうな心に怯える空を止めたのは、エシュタンドの温かな手だった。
 震える手を、大きな手のひらで包まれて、空はただ彼を見上げる。
 藍色の瞳に込められた感情が何なのか、全く読めなかった。それでも強く、静かに自分を見つめるエシュタンドに、なぜだか苦しくなる。 
 握り締められる手の強さと温もりに、反射的に鼓動が速まる。こんな状況だというのに、その瞳に目を奪われていく。
 そんな内心が恥ずかしくなるほど、エシュタンドは真剣な表情で空を見つめていた。
 何かの思いと戦うかのように、眉を寄せて、一度俯いてから、エシュタンドは空に向き直った。

「森のことは、このミディス王国の問題だ。国が抱える運命を背負うのはお前ではない。王子である私の役目だ。だから――」
 一つ一つはっきりと、意思をのせて伝えられるエシュタンドの言葉が、空の胸を打つ。
 深い感情を抑えきったような、冷たいほど美しい藍色の瞳に、吸い込まれそうだった。
「お前は、お前の心のままに、進めばいい。今度こそ約束しよう、お前が戻りたいと願うなら……私もそのために全力を尽くそう」
 告げられた瞬間、心を鋭い刃で突き刺されるような、そんな感覚が空の言葉を奪った。
 何も言えないでただ見つめ返す大きな瞳を、エシュタンドは一瞬だけ見つめて、何かを振り切るように握っていた手を外した。
 途端に遠ざかっていく彼の体温が、まるで彼の心そのものに感じられる。
 今までのように抱きしめることもせず、甘い言葉をささやくでもなく、余裕たっぷりの瞳でからかわれるでもなく、ただ淡々と語られているだけだというのに。
 それなのに伝わってくる彼の想いは、とても優しく、切ないくらいに深く響いた。
 喜べばいいはずなのに。重荷をおろしてしまえばいいのに。
 なぜ、悲しいのだろう。
 その手が離れてしまうことが、どうしてこんなに苦しいのだろう。
 泣きたいほど、自分が欲しているものは、一体何なのか。
 わからないままに、空は唇を噛み締める。
 立ち尽くしていた二人の沈黙を奪ったのは、遠く聞こえる馬のいななきだった。
 その声に引き寄せられるように振り返った空の瞳に、数台の馬車と、それを守るような騎馬兵たちの姿が、聖殿前に続々と集まっている光景が映る。
「お迎えのようだな」
 エシュタンドが、静かに呟いた。

 ――そうだ。王宮に二人のことを知らせておいたと、巫女たちが教えてくれていた。
 白に立派な金の縁取りがされた、王宮の馬車と、厳重な武装をした兵の数が、事の重大さを示しているようだった。
 仮にも一国の王子が姿を消していたのだから、これぐらいの扱いは当然なのだろう。
 それでも空に、頭の端に追いやっていた様々な火種を思い出させるには十分すぎるほどの光景だった。
 そして同時に、これからの自分の進むべき道を思うと、空の心は今にも壊れそうに、きしみをあげていた。
 まるで全身を、見えない糸で絡み取られたような、触れることのできない不安に蝕まれるような、そんな体を必死に奮い立たせて、空は草の道を踏みしめる。
 背後で見つめる藍色の瞳が、苦しげに揺れていたことを、空は知る由もなかった。

   












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