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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



36.ラウレカ


 無我夢中で走って、走って、気がついた時には一つの扉の前にいた。
 夜明けの光が差し込める回廊の突き当たりにある、古びた扉。
 頭の中はまだ混乱が満ちていて、逃げ場を求めるように、空はその扉に吸い寄せられていった。
 何の飾りもない木製の扉は、近づいた空をまるで誘うように、わずかに開いていた。
 何も考えぬままに触れた扉は、ゆっくりと開いていき、その中に広がる空間を見せた。
 扉の向こうには、地下へと続く階段があり、その暗い空間に、ほんのりとした灯りがもれてきている。
 一歩足を進めると、灯りと共に何かの香が焚かれるような匂いが立ち上っていることに気がついた。
 荒い呼吸を落ち着かせてくれるような、どことなく懐かしさを感じさせてくれるような、やわらかい香り。
 段々と濃くなるその香りにいざなわれながら、空は階段を下りていった。
 
 
 狭く、小さな階段を下りた先は、蝋燭のあたたかな光に照らされた空間があった。
 両側の壁には、乾燥させた花々や、干した果物がつるされ、何かの薬草らしき束が壁に沿って置かれている。
 奥の壁に並んだ燭台に立てられた、青い蝋燭から、その優しい香のような匂いは漂ってきているようだった。
 そして見上げた先の壁に見つけたものに、空の瞳は瞬かれた。
「美しいでしょう?」
 突然響いた聞き覚えのある声に、空は弾かれたように振り返った。
 艶やかに微笑を返したのは、今は銀に見えぬ白い髪を一つにまとめた、ディーラだった。
「あ、あの……」
 咄嗟に何を言ったらいいのかわからず、空が口ごもる。
 その表情だけで全てをお見通しのように、彼女は笑みを深くした。
「いいのよ、謝らなくても。なんとなくあなたが来るような気がしていたの」
 巫女というのは、何でもわかってしまうのだろうか――空が戸惑いと不思議な安堵のような感覚に包まれている間に、ディーラは手にしていた花の束を手際よく壁に吊るしていく。摘みたての、朝露のついた黄色の小花が、壁の花々の横に並ぶのを、空はぼんやりと眺めながら、気づいた。端から少しずつ、その乾燥の度合いが違うことに。
 空の視線に、気づいたようにディーラが振り返った。
「気が向いた時に、摘んでくるの。あの子のことを想いたくなった時にね」
 手に残った朝露を拭き取りながら、ディーラが仰いだのは、空が先ほど目を奪われたもの――大切そうに飾られた、肖像画だった。
「この人は――」
 言いながらも、その肖像画の人物が誰なのか、空の胸に浮かぶ答えがあった。
 ――だって、この瞳は……。
 空の答えを見透かしたように、ディーラは頷いた。
「そう、藍の王子、エシュタンドの母親よ」
 ディーラがいうとおり、肖像画の中に描かれた瞳は、印象深い、あの藍色の輝きをしていた。
 白く滑らかな肌、繊細な顔立ち、冷たいほどの美貌、その全てがエシュタンドと同じものだった。
 ただ違うのは、その淡い金色の髪が、まっすぐに背中の中ほどまで流れていること。
 そして、身にまとうのが、胸の下を紐で結んだ、あの巫女の衣装――。
「彼女はね、この東の聖殿で巫女をしていたの。あれは、私が巫女に選ばれて、この聖殿へ配属されたばかりの頃よ。
 孤児として当時の巫女長に拾われてきた少女がいたの。それが彼女、ラウレカよ。親に捨てられ、あちこちの家を転々として過ごした彼女が、偶然長に出会った。
 その時、長にはわかったのね、彼女が聖なる力にあふれていたことを――その時から、ラウレカは私と一緒に毎日を祈りと修練に捧げて過ごしていたわ。ともすれば、私などよりも巫女長にふさわしいほどの力を持った人だった。その彼女の運命を変えたのが、エシュタンドの父親。現、エスクラルド王よ」
 懐かしそうな、遠い目で、ディーラは肖像画の中の美しい女性を見つめる。
 儚げな笑顔が、エシュタンドとは違う印象を与えるが、藍色の双眸は、深い海の底を描いたように、鮮やかで、そして見るものの心を捉えずにはおけないほどの、圧倒的な光を宿していた。
 その彼女に惹かれたというのは、王ならずともわかる気がした。
 空の沈黙の前で、ディーラは肖像画を名残惜しげに見つめていた瞳を逸らし、独り言のような説明に戻る。
「彼に見初められて、彼女は――ラウレカは、巫女の座を捨てることとなった。そして王宮へ入り、エシュタンドを生んだ後、すぐ亡くなったわ。
 私たちはもちろん悲しみ、泣いたけれど……彼女の寿命ははじめからそう長くはなかったのかもしれない。その身に宿る力は大きすぎて、どこか命を燃やすような危ういものだったから」
 悲しげに語られる内容に、空は胸を突かれた。エシュタンドから少しは聞いていたものの、実際に彼女の肖像画を前に話を聞くと、現実味を帯びて迫ってくるような気がした。
 空の沈んだ表情に気がついたように、ディーラは口元に笑みを浮かべた。
「それでも私にはわかるの、ラウレカは幸せだったと。命の輝きを燃やし尽くして、愛を得て、そして自らの命を受け継ぐ、素晴らしい宝をこの世に残して逝ったんだもの」
 ラウレカの笑顔に、エシュタンドを重ねて、空は思わず胸に手を当てて、服を握り締める。この切ないほどに美しい女性が生んだ、藍色の王子。
 その彼の存在は、空の胸を大きく支配していた。

「……どうかした?」
 たちまち歪んだ空の顔に、ディーラが静かに問いかける。
 その言葉が終わるよりも前に、空の瞳に涙があふれた。
「あたし……」
 涙と共にあふれ出すのは、先ほどまでの記憶と想い。
 言葉にすることもできずに、空は震える唇を抑えた。
 突然に迷い込んだ知らない世界、王宮、はびこる魔の存在、そして滅び行く森の精霊たち、全てが空を押しつぶそうとしているように重かった。
 暁の娘、想力珠、王妃の腕輪――そんなもの、あたしに押し付けないで……あたしが求めたものじゃない、あたしが望んだのは、こんな恐ろしい運命じゃない!
 空が望んだのは、普通に学校へ行って、バスケの練習をして、友達と文句を言いながらテスト勉強をして、平凡な幸せに包まれた家庭で過ごす、普通の毎日だった。望んでいるとも知らないほどの、それが当然の毎日だった。そしてそれがこの上ない幸せだったなんて、こんな恐ろしい世界に放り込まれて初めてわかったのだ。
 瞼に浮かぶのは、台所で夕食を用意する母親の後姿。部活で疲れて帰ってきた空に、優しく微笑んだ母の顔。仕事で毎日遅い父が、たまの休日にソファでだらけている姿。文句を言いながら掃除機をかける母と、苦笑いする自分。
 あの朝、タンスを開けるまでは、そんな日々がずっと続いていくと思っていたのに。
 前日の夜、おやすみも言わずに部屋に入った。疲れて面倒だと母親の会話を遮った自分。父親の背中をそのまま通り過ぎた自分。
 そんなものが浮かんで仕方なくて、空の涙はたえまなく零れ落ちていった。
 ――会いたい、会いたい、お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。友達に、皆に会いたい。
 今頃自分がいなくなってどうなっているのか、自分はどうなってしまうのか。
 何もかもがわからなくて、恐ろしい。裸で放り出された赤ん坊のように、世界の真ん中に一人ぼっちのような、そんな気分だった。
 それなのに、こんな状態なのに胸に浮かぶのは、あの、藍色の瞳。
 やるせない声で空を呼んで、切なげに囁いて、抱きしめた、彼の体温。
 彼の本心を聞いて、湧き上がってきた、喜び。
 語られた愛の言葉に、胸が締め付けられるほど嬉しかった、自分。
 そんな自分が何よりも恐ろしかった。恐ろしくてたまらなくて、体が二つに裂けそうなほど、苦しくなって、それで飛び出してきてしまったのだ。
 走りながら、気づいていたのは、その中に隠された、自分の心。
 エシュタンドに惹かれて、止めようもないほどに傾いていく、気持ち。
 どうすればいいというのか。
 爆発しそうな不安と混乱を、空は嗚咽に絞り出していた。
 そんな空を静かに抱いて、優しく背中を撫でていたディーラが、空の嗚咽が止まるのを待って、ぽつりと呟いた。

「全てはね、あなたが選ぶことよ」
 その声にそっと顔を上げた空を見ていたのは、ディーラの穏やかな紫の瞳だった。
「森も、この世界も、私たちも、自然の流れの中に生きている。それは私たちの運命であり、あなたにはあなたの運命がある。
 それは私たちが勝手に決めていいことではないし、あなたの自由を奪う権利など誰にもないの。
 あなたをこの世界に呼び寄せた、アメ神にさえもね。どのような力が働いたのか、この先どうなっていくのか、私にもわからないけれど、私はあなたに無理強いもしない代わりに、哀れみもしない。それは、あなたが選ぶべきことだからー―」
 はっきりとした口調で、言い聞かせるように空に伝えようとしているのは、ディーラの中の真実であるようだった。
 巫女の長としてではなく、個人として心から言い切ってくれているのがわかる。
 見つめ返した黒い瞳に、ディーラは笑った。
「そしてもしあなたが決断を下したなら、きっと道は開けることでしょう。あなたが帰りたいと願うなら、アメ神もその願いに応えるかもしれない。
 その時は私も全力で協力するわ。そしてもし、あなたが戦いたいと願うなら――」
 区切られた言葉の隙間に、ディーラは深い思いを込めているようだった。
 目を上げた時には、いつもの美しい微笑が浮かんでいた。
「その時には、私もできる限りのことはするわ。運命を受け入れるしかない巫女であっても、やはり希望は捨てきれないから……」
 その言葉は、空の中に静かに染み込んでいく。
 揺れるばかりの心は変わりないものの、涙はいつしか止まっていた。
 ディーラはその紫の瞳に全ての感情をしまいこんだように目を閉じて、そして空の肩を支えた。
「涙に暮れていては、前に進むことはできないわよ。”希望”という名のお姫さま」
 いたずらっぽく告げられた言葉に首を傾げると、ディーラは空の頭を優しく撫でて、微笑む。
「ミディスに伝わる、古き言葉――もう私たち巫女ぐらいしか知りはしない言葉では、あなたの名はそういう意味なのよ。
 これも何かの理由がある気がしない?」
 瞬きをして、その言葉の意味を噛み締める空の隣で、ディーラはもう一度ラウレカの肖像画に向き直った。
「そして、ラウレカ――これはね、きちんとした名も持たなかったあの子のために、長が名づけた名前。古き言葉で“藍色の泉”という意味よ。
 このことは、王子にも話したことはなかったかもしれないわ。ここを出たら、朝食にしましょう。そろそろあなたたちにお迎えも来る頃だし、その前に空腹を満たさなくてはね。さあ、行って、そして話しておあげなさい、あなたが思うことを正直に。その扉の向こうで心配している彼にね」
 片方の瞳をつぶって、巫女らしくない笑顔を浮かべたディーラの言葉に、空が思わず振り返ると、そこに立っていたのは、エシュタンドだった。
 ディーラに見透かされて出てきたのか、扉の前で決まりが悪そうに佇んでいる。
「エシュタンド……」
 名を呼ばれて、彼は曖昧に微笑んで見せた。
 ディーラが何もかも承知のように、紫の瞳を細めて、出て行った後、二人は残され、そしておそるおそる見合わせた顔には、空が思うような怒りは見えなかった。
「お前を捜していたら、ここに辿りついてな。別に立ち聞きするつもりではなかったんだが――」
 言い訳のように横を向いて口にするエシュタンドに、思わず表情をゆるめた空は、深く、息を吸い込んで、そして笑った。
「ううん、いいの。それより、お腹ぺこぺこ! 食事にしよう!」
 おどけたように言ってから、本当に久しぶりの食事だということに気がついた。
 空腹を感じることも忘れていたのだと、空は緊張が解けなかった体をほぐすように、エシュタンドに向かって歩み寄っていった。
「そうだな――」
 そして、話は後に。口に出さなくてもお互いの気持ちは一致している。
 まだどこかに残る不安の波を避けるように、それでもしっかりと歩き出した空の後に、エシュタンドも続くのだった。
 いつの間にか蝋燭が消えた部屋は、静かな薄闇に沈んで、優しい残り香に包まれた中で、ラウレカの笑顔だけが変わらずに咲いていた。






最近、頑張って連続更新しています。
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また次の執筆、頑張ります。











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