34.序奏
豪華で美しい建物、そんな空のイメージを裏切るように、静かに聖殿は立っていた。
あくまで装飾はおさえられたような、簡素な造り。
アーチ型で繋がれた丸い柱が並び、長方形の石を並べ、築かれた四角い建物。
何の模様も刻まれておらず、彫刻などもない。
唯一目立つのは、中央の柱のアーチ部分に刻まれた、印のようなもの。
そう、それはエーネの持つ、三日月のような角を模って彫りこまれたように見える。
聖獣の角は、何か聖なるものの象徴なのだろうか。
それが聖殿の印にでもなったのだろうか。
聖殿を形作る滑らかな灰色の石は、月に照らされて、ほのかな光沢を放っていた。
その静かな印象が、逆に目の前の建物にどこか神々しい印象を与えているようだった。
ディーラと空たちが聖殿前の石畳に立った瞬間、中から女性が数人迎えに現れた。
「ディーラ様、おかえりなさいませ」
並んだ女性たちは、ディーラと同じような衣装を着ていたが、その生地は灰色で、髪もそれぞれ異なった色だった。
ディーラと比べると格段に地味ではあるが、それでもどこか彼女に似た雰囲気が感じられる。
やはり彼女たちも巫女なのだろうか。
そばに佇む空の存在に驚きもせず、女性たちはその場で静かに頭を垂れた。
彼女たちに軽く頷いて、歩み寄ったディーラが何事かを指示すると、すぐさま数人が動き、エシュタンドを載せたエーネを、聖殿の中へ連れて行った。
その行き先を心配そうに見つめる空に、ディーラが微笑んだ。
「大丈夫よ、先に休める部屋を手配させただけです。あなたはこちらに」
ディーラと空は、並んだ女性たちの間を通り、聖殿の中央にある大きな扉をくぐった。
聖殿の明るい空間へと足を進めながら、空は入る前に感じた違和感のようなものが解けるのを感じていた。
そうだ、静か過ぎるような気がしたのは、王宮と違っていたからだ。
どこを通る時も存在した守護兵が、ここには一人もいないことだった。
巫女たちの他には、誰もいないように見える。
それだけこの地が安全だということなのか。それとも聖殿は何かの力で守られているのだろうか。
見上げた先の三日月形の印に、先ほどまで共にいた聖獣のことを思い出す。
あの穏やかそうな美しい生き物が、この地を守っているのだろうか。
そんなことを考えていた空の後ろで扉は閉まり、広い回廊を案内されていく。
辿り着いた先は、ひときわ大きな扉だった。
中は広い空間で、目の前に大きな台座が一つ。壁にはたくさんの蝋燭が並び、幻想的な光を灰色の壁に反射させている。
揺れる蝋燭の灯りが照らすのは、台座に面して位置する椅子の列だった。その様子からして、空も見たことのある教会の中を思わせる。
ただ違うのは、その台座の向こう側の壁にも、どこにも、何か宗教的シンボルや神の像のようなものが見当たらないことだった。
簡素な台座にわずかに彩りを添えるのは、花瓶に飾られた色とりどりの花々や季節の果実らしきものが載った籠ぐらいのものである。
それを見渡して不思議そうな顔をしている空に、ディーラは椅子の一つを勧めた。
ディーラと空を残して、巫女たちは下がってしまい、扉の閉められた空間は一段と静かに感じた。
「さて、何か色々聞きたそうな顔をしているわね」
空の表情を見て、可笑しそうにディーラが言った。
恥ずかしそうにディーラに視線を戻した空は、あることに気づいた。
先ほど外では銀色に見えたディーラの髪が、聖殿の中ではほとんど白に見えたのだ。
――あれ? 確かにさっきは銀色だったのに……。
そんな空の考えは、表情に出ていたのか、視線を読み取ったのか、ディーラが自分の髪を手に取った。
「ああ、これね。普段はこんな色なのだけれど、月光の下に行くと、銀色に近く見えるのよ。おかげでというべきか、私の別名は月の巫女、だそうよ」
まあそんなこと巫女の役目とは何の関係もないんだけどね、と付け加えて笑うディーラにつられて、空も少しだけ表情を和ませた。
「そうね、まず何も知らないあなたのために、この聖殿について説明でもしましょうか」
優しく微笑む薄紫の瞳に、空も頷く。蝋燭の淡い明るさも手伝ってか、部屋の空気も穏やかで落ち着いていた。
「ここ東の聖殿だけでなく、聖殿というものは、ミディスの神々を敬い、祈りを捧げ、このミディスの大地の安寧を保つために建てられました。
現在では、エスタリア大陸を作ったといわれるエス神信仰が主だけれど、聖殿では古き時代からの教えを守り、エス神だけではなく、ミディスの地に宿る幾多の神々――言い換えると、精霊たちにも祈りを捧げているの。そのための特別な力を持った女性たちがミディス全土から集められ、教育を受け、そして巫女として選ばれた女性たちのみがこの聖殿で暮らしています。その巫女たちを統括しているのが、一応この私で、巫女の長という役割を与えられているわ。長は、聖殿自体を守り、導いていく役目も果たしています」
そこまですらすらと喋って、ディーラが空に質問を許すように一息おいてくれた。
そういえば、あのリゴトという老教師も似たようなことを言っていた気がするが、やはり現実に目にして本人から聞くのでは頭への入り方が違った。
言われたことを整理しつつも、空が口を開く。
「あの……ここには神の像みたいなものはないんですか?」
質素すぎる台座を目で示して問う空に、ディーラが不思議そうに目を瞬いた。
「神の像? そんなものをどうやって作るの? 誰もエス神の姿など目にしたこともないし、第一、神や精霊とは本来精神的存在でしょう。
それを像にすることなど不可能だし、そんな必要はあるのかしら」
そう言われてみると、確かにそうだなと空は思った。
けれど自分のいた世界では宗教だとキリスト教にしろ、仏教にしろ、何かしら神の像などがあったし、それを奉って祈るのが当然のような気がしていたのだった。
――あ、でも神社とかには神の像なんかなかった気がする。
他にも、偶像崇拝禁止とか、何とか宗教の授業で聞いた言葉も思い浮かぶが、熱心に聞いてもいなかった空にはそれ以上の知識はなかった。
思い悩んでいる空を見つめていたディーラが、少し微笑む。
「私たちが祈りを捧げるのは、このミディスの地に存在する全ての神々なの。だから、ミディスの森や、川や、大地、花々、全てのものが神からの恵みなのよ。
その恵みに感謝しながら、祈るだけ。それに何かの像などは必要ない、それだけよ」
――まあ、自然や生き物、食べ物、全てに感謝するってそういうことと思えばいいのか。
そう思ってしまえば、簡単であり、その考え方のほうが好きだと空は納得する。
それで、台座の上に花々や果物が捧げられてあるのだろうか。
空が少し納得したことを理解したのか、ディーラは立ち上がって、飾られた色とりどりの花の匂いを嗅ぎながら、言った。
「こういう基本的な感謝や信仰を忘れつつある人々も多いのだけれどね。それで、精霊たちは憂いているのね」
少し哀しげな色を浮かべた紫色の瞳で見つめられ、空は思わず立ち上がる。
「あ、あなたもご存知なのですか? 森が滅びつつあるって……!」
胸に突き刺さったままの緑の記憶に押されるように、手を握り締める。
そんな空に、ディーラは視線をわずかに遠くへやりながら、答えた。
「もう随分前から、綻びはじめていたわ。それが色濃くなってきたのは最近のこと。この聖殿から出ることのない私の耳にまで、精霊の嘆きが聞こえるようになってきたの。
それまでにも、エーネの心を通して伝わってきていたけれど」
言われた内容を頭で噛み砕こうとしていた空に微笑んで、ディーラが済んだ声を紡ぐ。
「エーネのような聖獣の心には、このミディスの地に住まう精霊たちの声が届くらしいの。あの子と契約を交わした私の耳にも、それは少し聞こえてくるわ。
森の精霊と接触したなら、聞いたでしょう、彼らの口から。あなたたちの体に残った彼らの香りから、大体の記憶は伝わってくるけれど」
巫女や聖獣の不思議な力の片鱗が、彼女の語る言葉から伝わってくる。
先ほどエシュタンドの無事を体に触れただけで読み取ってしまったディーラ。
とにかく空の想像を超えた力を色々と持っているのだろう。
そうは思いつつも、自然と口が開くのを止められなかった。
「あなたたちも、やはり受け入れるしかないと……そう思って黙っていたのですか? 森が滅んでいくのを、人が曲がっていくのを知っていて、止めようとは思わなかったんですか?」
空の疑問に、ディーラは伏せていた瞳を上げた。
「だって、そんなの寂しすぎる。そんなの、悲しすぎるじゃないですか!」
脳裏によぎったのは、眠る緑の髪の女性。
あの悲しげな、それでいて透明な彼女の表情は、空の胸にまるで小さな針を刺されたかのように残り、少しずつ痛みを伝えてくるようだった。
滅んでいくとわかっていながら、あきらめている青年。それでもあきらめきれずに嘆く、少女。受け入れたまま、秘めたまま、眠りについた女性。
彼らの思いがあまりにも重く空に迫っているような気がしたから、口にせずにはいられなかったのだ。
しばらくの沈黙を破って、響いたのはディーラの少し明るい声だった。
「そんなあなたになら、救えるのかもしれないわね」
「……え?」
銀の衣装を揺らしながら、空に近づいてくるディーラの表情は優しかった。
「私たち巫女も、精霊と同じで、与えられたものを受け入れて生きていくだけ。それしか許されてはいないし、事実抗うことを許されたとしても、人々の心を動かすことは難しいの。
第一、そんなことを信じてくれる人たちは、今のミディスには少ないから」
そんな、という顔をした空の頬に静かに片手を添えて、ディーラは笑う。
「けれど、そうやって純粋に怒ってくれるあなたになら、何かができるかもしれない。心を痛めてくれるあなたになら、この流れを止めることができるのかも。彼らも、そう思ったから、あなたたちに託したのね」
そのディーラの言葉に空が反応するより先に、扉がそっと開き、巫女の一人が入ってきた。
ディーラのほうへ、古びた木箱を差し出して、巫女は何事かを告げた後、すぐに下がっていく。
木箱の蓋を開け、中身を確認したディーラが、空のほうへ向き直った。
「彼の衣装の胸元から見つかったと聞いて、用意させたものよ」
ご覧なさい、そう穏やかに空の手元にディーラが差し出したもの、それはあの想緑珠だった。
――そうだ、あの森から飛ばされてから、いつの間にか手放してしまったんだ。
それがどうしてエシュタンドの衣装に二つともあったのかわからないが、ともかく無事に、二対の宝玉が木箱の中に並んで収められていた。
「あの、これは――?」
木箱の中にあったのは、想緑珠だけではなかった。
金と銀の、二つの腕輪らしきものが、緑の石に並んで置かれている。
どちらにも刻まれている模様は、何か植物の蔓や葉、花などをレリーフにしたようなものだった。
そして二つとも、真ん中にくぼんだ穴のような部分がある。まるでそこにはめるべきものがあるかのように――。
蝋燭の淡い光に照らされて引き立つ緑の石と、金属の腕輪を交互に見比べていた空がしばらくして顔を上げると、ディーラが確信のこもった笑顔で頷いてみせる。
「その腕輪はね、代々ここ東の聖殿で守ってきたものなの。宝玉を受け止めるための器として、あるいは媒介として、作られたものだと伝え聞いているわ。
金のほうが王の腕輪、銀のほうが妃の腕輪と呼ばれていて、宝玉のみならず、腕輪にも不思議な力が宿っているそうよ。
それを手にしたものは、いまだかつていない。だからそれがどんな力なのかは、私にもわからないわ」
その言葉に、木箱を持つ空の手が、思わず震えた。
足元から、底知れぬ冷たさとも寒さともいえぬ感覚が立ち上ってくる。
「その石の持ち主となるべき二人によってでないと、石は腕輪に宿らない。つまり、その石をはめることができるかどうかで、あなたたち二人の真価が問われるということ」
「真、価――?」
ようやく口にした問いに、ディーラはあくまで静かな微笑を浮かべる。
「そう、あなたが本当にこの世界を救うべく遣わされた、暁の娘なのかどうかもね」
穏やかな口調でありながらも、その凛とした響きは、紛れもない真実のみを伝えていた。
驚愕とも、不安とも、何ともいえない表情が、空の顔を覆う。
開きかけた口は、どんな言葉も選ぶことができずに、再び閉じられた。
頭の中を、あの舞い上がる木の葉の香りと、鮮やかな木々の緑が埋め尽くしていく気がする。
思わずくらりとした空の体を、ディーラの細い腕がしっかりと支えた。
「一度に多くのことを伝えすぎたわね――ごめんなさい、あなたには休養が必要だわ」
優しいディーラの声に、なんとか倒れそうな意識と体をつなぎとめて、空は頷いた。
今日はゆっくりと休みなさい、全てはそれから――そう、ディーラが告げた途端、空の体に眠気が襲ってきた。
やわらかな何かにいざなわれるように、空の意識は遠のいていく。
ふわりと受け止められた先に、あの優しい、聖獣の瞳が見えた気がした。
「抗おうとする心が、私の中にもあるのかもしれないわね。だからこそ、あなたに救いの光を求めるのだわ――『希望』という名の娘、ソラ……」
ディーラがどこか自嘲気味に呟くのを聞いたような、幻に似た銀の光を見たような、不思議な残像は、空の中で曖昧にぼやけていくのだった。
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