33.聖殿
どこかで梟の鳴くような声が聞こえる。
頭は割れるように痛み、体が動かない。
何がどうなったのかを思い出せなかったのは一瞬で、意識を取り戻した頭は、急速に先ほどまでの出来事を頭の中に蘇らせていく。
森の精、想緑珠、眠る女……鮮やかに反芻される映像は、空の胸深くまで重石を載せられたように沈み込んでいった。
――そうだ、あたし、あの森から……。
森の精である青年にどこかへ飛ばされたのだ、ということを思い出してから、空は重い瞼を無理やりこじあけた。
まず見えたのは、夜の闇。そして、半分雲に隠れた白い月。
どこへ飛ばされたのか、どれくらいの時間が経ったのか。
とにかく確かめなくてはと、あわてて起き上がろうとした空は、自分の体に巻きつく腕に気づいた。
しっかりと空を抱いて、隣に横たわっていたのはエシュタンドだった。
彼の白い上質な衣装は、ところどころ擦り切れ、体のあちこちは土で汚れ、草がついている。
自分の無傷な衣服を目にして、空は手や足を動かしてみたが、どこにも痛むところはなかった。
そういえば、意識がなくなる寸前に、温かい腕に包まれたような記憶がある。
まだしっかりと目を閉じたままのエシュタンドの顔が青白く見えて、怖くなった。
「エシュタンド」
名を呼んでも、固く閉じられた瞼は動かない。
自分を抱く腕を緩めて起き上がり、体をそっとゆすってみる。
「エシュタンド、しっかりして」
それでも何の反応も返ってこないことに、不安になった。
どこにも外傷はないようだが、強く落ちて頭でも打ったのかもしれない。
嫌な胸の鼓動を打ち消すように、空はエシュタンドの胸に耳を当てた。
少しして、聞こえてくる心臓の音。
規則正しく脈打っていることに安心しながら、異世界でもやはり同じ人間なんだ、などと妙に冷静な考えも浮かんでしまう。
それと同時にいっそう心配になった。
「どうしよう……ねえ、エシュタンド、起きてよ」
呟きも呼びかけも彼の耳には届かないようだった。
こうして目を閉じていると、月の光で浮かび上がる淡い金髪と、白い綺麗な肌は人形のように見える。
端整な顔なのに、冷たく見えて、いつもの藍色の皮肉げな瞳が見られないことに、自分でも戸惑うほどの痛みを感じた。
「エシュタンド、しっかりして! 起きて、あたしを見てよ……」
そう言った瞬間、また遠く響いてきた鳥の鳴き声に、空は身を震わせる。
ぼんやりと月が照らし出すのは、暗い森。
どこの森なのかもわからないが、どうやら先ほどとは違う森の外れに出たようだった。
森を抜けた草原のようなところに空たちは倒れていたようだが、暗くてよくは見えなかった。
夜露に濡れた草の上に座り込んでいた空は、急に吹いてきた風に身を縮めた。
横たわるエシュタンドに目を移して、気づいた。
先ほどまでは、彼がしっかりと守ってくれていたから寒く感じなかったのだと。
考えてみると、王宮の外で夜を過ごすのも初めてだった。
見知らぬ世界で、見知らぬ国で、それでも恐ろしいとは思わなかったのは、彼がいてくれたおかげだということに、今更ながら気づくと同時に困惑する。
どうして、自分はここまで彼を頼りきっているんだろう。
安心しきって、彼の腕の中にいられるんだろう。
そして、なぜ、こんなに彼を心配しているんだろう。
まだ意識を取り戻しそうにもないエシュタンドを見ながら、彼の服を握り締める。
一国の王子だというのに、こんなただの、出会って間もない娘のために、心配して、一昼夜捜し回って、助けに来て、そして見つけてくれた。
こんな状態になってまで、自分を守ってくれた。
森で再び会えた時の、彼の切なげな囁きが耳の奥で蘇る。
無事でよかったと、言葉だけでなく全身で告げながら、空を抱きしめたエシュタンド。
藍色の瞳で自分を見つめ、名前を呼んだ時の彼の姿が、目を閉じると鮮やかに浮かんでくる。
自分の存在を確かめるように、きつく抱いたエシュタンドの体温までも思い出し、胸の奥が熱くなる。
あの射止めるような藍色の眼差しは、今は見えない。
――どうしよう、このまま目を覚まさなかったら。
ふと浮かんだ考えに急に体が絞られるような恐怖を覚えた。
「エシュタンド、いやだよ……お願いだから、気がついて」
夜の冷気にこぼれていく空の呟きは、取り残された子供のように、おぼつかないものだった。
ここはどこなのか、一体どうなってしまうのか、夜の森で怖いのはそんなことよりも、エシュタンドの安否であるなんて。
自分の心を占める彼の存在がここまで大きくなっていたことに、否応なしに気づかされる。
それでも、その理由なんて今は考えられなかった。
エシュタンドの力を失った手を握って、彼の名を呼ぶ。
「エシュタンド、しっかりして。ねえ……」
答えの返ってこない静けさに、耐えられずに涙が落ちた。
重く圧し掛かるような闇に、突如動物の遠吠えが響く。
そういえば、さっき魔のモノがいるとか、森の精が言っていた。
こんな状態で襲われてはひとたまりもない。どうしたらいいのかわからなくなって、空はエシュタンドの胸にしがみついた。
「お願い、起きて……いやだよ、エシュタンド――!」
ついに破裂しそうになった不安と恐怖の入り混じった空の叫びは、暗い草原に吸い込まれて消えていくようだった。
空の顔が涙に歪んだ、その瞬間だった。
「大丈夫、彼は目を覚ましますよ」
済んだ、やわらかな声が、後ろからかけられたのだ。
振り返った空の前に佇んでいたのは、月の光がそのまま形を成したように美しい女性だった。
限りなく白に近い銀糸のような髪は、足元まで、まっすぐに流れていて、彼女の細身の体を包んでいる。
その体に纏うのは、胸の下を紐で結んだ、銀の長い衣装。
驚く空を安心させるように、薄い紫の瞳に笑みをたたえて、彼女は続けた。
「気を失っているだけです。しばらくしたら気がつくから、安心なさい」
そして、体重を感じさせない、軽い足取りで、ゆっくりとエシュタンドに歩み寄る。
かがんでエシュタンドの体にそっと触れた後、彼女は呟いた。
「やはり、彼らの力によるものね。何かを感じたから来てみたけれど――ついに接触したというわけね」
空に向けてというよりも、独り言のように確認した後、立ち上がった美しい姿をぼんやりと見ていた空は、我に返ったように口を開く。
「あ、あの……」
空の声に、彼女は自分の考えに入っていたような顔を上げた。
「本当に、大丈夫なんですか? あの、どうして、そんなことが……」
一目見ただけでわかるのか、と問いかけようとした空の瞳を読み取ったように、微笑む。
「彼の生命の光は、まだ消えていないからよ。それどころか、しっかりと燃えているのが見えるわ」
「生命の、光……?」
言われたことがとっさに理解できず、空はただ問い返した。
そんな空に、彼女はああ、と思いついたように言った。
「ごめんなさいね。まだ自己紹介してなかったわね」
美しい紫色の瞳を、少女のように細めて、彼女は優雅なお辞儀をしてみせた。
「私はディーラ。このセルスの森にある、東の聖殿の巫女です」
嫣然とした微笑とその言葉に、空はただ開いた口もそのままに見つめ返すことしかできなかった。
ここがまさに、自分たちが目指していた聖殿の土地だったなんて、予想もしていなかったのだ。
そして、この美しい女性が聖殿の巫女であろうとは。
ミディスで一番初めにできた、由緒正しい聖殿だと聞いていて、てっきり巫女もある程度年をとった、威厳ある女性なのだろうと空は想像していた。
それがこんなに若くて綺麗な女性だったことに、純粋に驚くばかりだった。
巫女というよりも、まるで月の女神が降り立ったかのようだと、改めて月光が溶け出したような銀の髪を見つめていた空に、ディーラは苦笑する。
「そんなに驚かせてしまったかしら」
その言葉にあわてて開いたままだった口を閉じた。
自分が間抜けな表情をしていたことが恥ずかしくなり、空は小さく首を振って下を向いた。
「私からしたら、あなたのほうがよっぽど不思議よ。異世界からやってきたお姫さま」
冗談めかしてそう言うディーラに、一瞬驚きかけた空の表情がゆるむ。
――ああ、そうだ。もう私たちが訪れることは聞いていたんだ。
きっと王宮からの知らせで自分のことも知っていたのだろう。
そうは思うものの、自分のほうが異世界からやってきたことが、不思議な気がする。
あくまで空は普通で、空以外の全ての人が、世界が、不思議であるのに、こちらでは自分が異邦人なのだ。
空の少しの混乱は、更け行く夜の闇に妨げられた。
段々と冷え込んでいく空気に、体を震わせた空がエシュタンドを気遣うのと、ディーラが言葉を発するのとが同時だった。
「森の夜は冷えるわ。さあ、続きは聖殿で話しましょう」
言って、横たわったままのエシュタンドに紫の瞳を向ける。
「彼もこのままにしておくわけにはいかないしね」
「あの、でも、どうやって……」
女性二人で彼を担ぎ上げるのも大変だろうと、問いかけようとした空の背に優しく手を置いて、ディーラは微笑んだ。
何の心配もいらないと、安心させるようなその笑顔に空が口をつぐんだ、その時。
背後の闇に目をやったディーラが、銀の髪を静かにかきあげて、言った。
「そろそろ顔を見せても大丈夫よ、エーネ」
彼女が見つめる暗い空間に、ふわりと淡い銀色の光が浮かんだ。
何かと思う暇もなく、突如目の前に現れたのは、彼女の背丈ほどもある、白銀の獣だった。
それを目にした空の瞳は大きく見開かれる。
――馬? じゃ、ない……これは、映画なんかで見る、あの……。
そう、優しい銀の光をまとったその生き物は、物語などに出てくる一角獣によく似ていた。
銀の絹糸のような毛並みから、優しい月光に似た光を放ち、額の中央からは角が突き出ている。
ただよく目にするようなねじれた角ではなく、まるで、三日月のような湾曲した形の、青白く、細いものだった。
息を呑んだ空を見返してくる獣の瞳は、穏やかで、ディーラと同じ薄い紫色をしていた。
少し鼻を鳴らしながら、まるで甘えるようにディーラの体に身を寄せる。
そんな獣を愛しそうに撫でてから、ディーラは笑った。
「また驚かせてしまったようね。この子はエーネ、聖殿を守る聖獣よ」
巫女に、聖獣と、次々に現れる驚くべき存在に、空はそれ以上どうすることもできず、ただ頷いた。
十分すぎるほどの不思議な出来事に遭遇して、空はもう頭で考えることは放棄せざるを得なかったのだ。
見守る空の前で、エーネと呼ばれた聖獣は、そっとディーラに促され、横たわるエシュタンドに鼻先を近づける。
そしていつの間にかエシュタンドをその背に乗せてしまった。
触れもせず、首を傾けただけで、自然とエシュタンドの体を操ったかのように見えたが、一瞬だったので、空にもよくわからなかった。
「エーネも一人しか運べないから、私たちは歩いて聖殿へ行きましょう。大丈夫、すぐに着くわ」
ディーラに優しく背を押され、空も歩き出す。
数歩先をゆっくりと進むエーネの背には、銀のたてがみに顔を埋めたエシュタンドが乗せられている。
歩みに合わせてぐったりとした体が上下するのを見つめながら、空は眉を寄せて、唇を結んだ。
――エシュタンド、すぐに目を覚ますよね。きっとこの人たちが助けてくれるよね。
お願いだから、早く目を開けて。
空の願いは、天上の青白い月に向けられる。
あの深い藍色の瞳で、いつものように彼が笑ってくれたなら。
この足元からゆっくりと襲ってくるような不安は、きっとどこかへ消し飛んでしまうに違いないのに。
色々なことが起こりすぎて麻痺してしまいそうな頭も、倒れそうなこの体も、受け止めてくれるだろうに。
いつの間にかそれを期待している自分の身を両手で支えながら、空はただ前へと足を踏み出す。
脳裏を、遠く深い森の香りがかすめたような気がした。
|