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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



32.エカルド


 誰もが緊迫したその状況下で、エカルドの笑顔は優美すぎるほどのものだった。
 その隣には、いつの間にかエシュタンドの白い愛馬を従えている。
 皆の驚愕の視線を受けて、エカルドは少しだけ馬の首を撫でたあと、そばで待つ馬車のほうへ、馬を促した。
 静まった森の中に、馬蹄の音だけが響く。
 無事にエカルドの御者へと受け渡されて、エシュタンドの愛馬が一鳴きしたのを合図に、クガルはようやく口を開いた。

「で、殿下――領主の屋敷でお待ち頂いていたはずでは……」
 エシュタンドと空の捜索の間、エカルドには領主の屋敷で待機してもらっていたはずだった。
 もう一人の王子までもが消息を絶つ、などという万一の事態を危惧してのことである。
 王宮へ送り届けることも考えたクガルだったが、道中何が起こるとも限らないと、迷った末、そう決断を下した。
 そのことはエカルドも了承してくれたはずであった。
 それがなぜ――。
 そんな戸惑いをそのまま声に出したクガルの問いに、エカルドは優しく頷いた。
「ああ、そのつもりだったんだが……ただ待っているのに耐えられなくなったんでね」
 エシュタンドや空に対するものとは違う、エカルドの口調。
 クガルや目下のものに使う、くだけた言葉遣い――耳にするのは初めてではない。
 それが、なぜかこの場ではいつもと異なる雰囲気を醸し出している。
 それはこの状況での、不自然ともいえる微笑みのせいであろうか。
 黙ったまま、見つめるクガルの前で、エカルドは着ていた白の暖かそうな上着を脱いだ。
 そして、そのまま上空に浮かぶ女を見上げながら、ゆっくりと兵たちの前方へと歩んでいく。

「殿下! 危険でございます! どうぞ、後方へお戻りを――」
 クガルのあせった声を耳にしても、エカルドは優雅な歩みを止めなかった。
 頭上の女もそれに気づいたように、視線を向ける。
 何か好奇な光が閃いた赤茶色の瞳に、クガルの背筋が寒くなる。
 兵たちの数人があわてて王子を守ろうと飛び出してくるのを、エカルドが片手を出して遮った。
「よい、下がっておれ」
 その威厳に満ちた声は、いつもの穏やかな第四王子のものではなかった。
 鋭く発せられた命令に、兵たちも圧せられたように従う。
 悠々と女を見上げたエカルドの水色の瞳は、どこか妖しく、自信に満ち溢れて見えた。
「これだけの擬態をしてくるとは……確かにミディスの危機というのも頷ける」
 独り言のようにそう言って、エカルドはあでやかな笑顔をそのまま女に向けた。
 しばらく黙って見守っていた女は、少し小首を傾げてから、負けないくらいの甘い微笑を浮かべ、エカルドを見下ろした。
「さっきとはちがうけど……なんかおいしそう」
 結局のところ、女は食欲しか頭にないらしい。
 クガルの結界に手間取らされていたことはもう忘れたのか、赤茶色の瞳は、エカルドのみを映している。
 青い翼が、女の興奮を表すかのように強張って、巻き上げられてゆく。
 女の物騒な言葉と態度にも、エカルドは微動だにしない。

「で、殿下――」
 クガルの呼びかけは、女と対峙しているエカルドには届かなかったようだった。
 女の様子をただ眺めていたように見えたエカルドが、ふと表情をゆるめ、短く嘆息したのだ。
「美女の賛辞なら嫌いではないが」
 皮肉げに笑ってから、エカルドは肩をすくめてみせる。
「醜い化け物の餌になる趣味はないんだ」
 余裕たっぷりに、冷たく放たれた返答。
 侮辱されたことを理解したのか、女の表情がみるみるうちにゆがんでいく。
 一瞬の隙を逃さぬかのように、エカルドは目線は動かさず、クガルにのみ告げた。
「結界を解いてくれ」
 ――そんな、この状況で結界を解けばどうなるか……!
 クガルの困惑とあせりを微笑みで受け流し、エカルドは言葉を紡ぐ。
「大丈夫だから、早く」
 エカルドの水色の瞳から、強い自信が伝わってくる。
 ――一体、何をしようというのか。
 いつも控えめで、穏やかだった末の王子が、まるで知らない人物に見える。
 クガルの戸惑いと迷いは、上空からふいに巻き起こった風によって消されることとなった。
 そう、女の青い翼が、高く舞い上がり、また振り下ろされたのだ。
 それは、明確な、攻撃の合図。
 結界の存在など頭から消し飛んだのか、勢いをつけて、一気に下めがけて突っ込んでこようとしていた。
 黒く、鋭い両の爪をとがらせて――。

 クガルが汗のにじんだ両手をついに離し、結界を解いた、その瞬間。
「よくも……」
 女の震える声が風に乗って届いた。
「あんたたちなんか、ただのえさのくせに……」
 子供のような口ぶりと、対照的ななまめかしい肌が怒りのせいか、薄赤く染まっている。
 自分の言葉で更に興奮したかのように、女はエカルドを刺すように睨み付ける。
「あたしは、みにくくなんか……ない――!」
 憤怒に満ちた女が上空から叫ぶ。それを機に、美しかった女の口が一気に裂け、獣の咆哮のような音が森の中に響き渡った。
 木々の合間を縫うように、女が勢いを増し、飛んでくる。
 青い翼にいまや沈みかけようという夕日が反射し、不気味な光を放つ。
 やはり、エカルドを守るべきかと私兵隊全員が動こうとした、その時だった。

 エカルドが右腕を持ち上げる。
 次の瞬間、持ち上げた腕の、白いブラウスの袖口から、青白い光が現れた。
 光は、ほのおへと姿を変え、渦を巻きながら、腕全体を包んでいく。
 怒りに支配された女は、それに気づく様子もなく、そのまま、エカルドめがけて突進していく。
 大きく開かれた女の口から、生々しい涎が垂れるのが見える。
 目前に迫った魔の女に、思わず兵も、クガルも攻撃体勢をとった。
 いざという時には殿下を守らなくてはならないと、クガルも先ほどとは違った形に両手を結び、自らの気を集中する。
 しかし、その力が放たれるよりも前に、予想以上の速さで、女の爪はまさにエカルドを捕らえかけた。

 息を呑んだクガルの目の前で、エカルドは笑っていた。
 その水色の双眸に、冷たい光を宿しながら――。
 青く、不気味にエカルドの右腕を彩っていた焔の渦は、まるで意思を持つかのように、魔の女めがけてその触手を伸ばした。
 いまさら気づいた危機に顔色を変えた女は、自分を包む青い焔に、苦しみながら、空中で暴れ狂った。
 わめき狂う獣の声が、その苦しみを物語るようだった。
 半身人の姿でありながら、既に人とは見紛うこともないほどに、魔の本性をさらけ出し、女は猛り、身悶え続けた。
 しかし、青い鞭のような焔が、締め上げ、巻きつき、女の動きを奪っていく。
 焼き尽くすほどの熱はないのか、ところどころを焦がすのみにとどめて、焔は燃え続ける。
 容赦のない青い呪縛に、女の動きは徐々に奪われていく。
 ついにうめき声を絶え絶えにもらすのみになった女は、意識を失ったのか、ぐったりと動かなくなった。
 空中に倒れこんだ女の体は、青く包みこむ焔の檻ごと、ゆっくりと地面に落ちていき、緑の草の上に、その姿を横たえる。
 一部始終を静かに見守っていたエカルドは、全てが済んだと判断したように、一息ついて、少し乱れた金の巻き髪をかきあげる
 そして、白く、細い指を、まるで合図であるかのように鳴らすと、青い焔は急速にその勢いを弱めて、渦を巻きながら、エカルドのほっそりとした腕に戻っていった。
 焔の全てを腕に受け止めて、エカルドがゆっくりと微笑んだ時には、もう既に青い焔はどこにもなく、まるで何事もなかったかのように森の中に佇むエカルドの姿があるばかりだった。
 

 クガルは声も出すことができなかった。
 冷たい汗が背中に流れて、初めて、自分が固まっていたことに気づく。
 その全てを見届けたというのに、今起こった出来事が信じられず、夢か幻に支配でもされていたかのような、奇妙な感覚に包まれていた。
 ――あれは一体、誰なんだ。
 ようやく、頭に浮かぶのは、そんな疑問。
 冷たく、恐ろしいくらいの自信に満ちた態度で、見たことのない焔を操る、それは、エカルドであり、エカルドでない別の人物のようだったのだ。
 強張っていた肩に、優しくかけられた手に、クガルは弾かれたようにおもてを上げた。
「大丈夫か? 顔色がよくない」
 そう気遣うエカルドの口調も、表情も、既にいつもの穏やかさを取り戻している。
 しかし、その袖口から先ほどの青い焔の切っ先が見えるようで、思わず目をしばたいた。
 そんなクガルに、エカルドの静かな声がかかる。
「やはり、兄上ほどはいかないな。捕縛までしかできなかった」
 エカルドの自嘲気味な口調よりも、その内容で、クガルはようやくその場の状況を思い出した。
「し……私兵隊全員! 速やかに魔のモノを縛し、捕らえおけ! それから、ルスト――!」
 指示を出しかけたクガルの言葉が一瞬止まる。
 呼ばれた副隊長も真剣な瞳でクガルの様子を伺う。
 思わず仰いだ先のエカルドは、水色の瞳を細め、ただ微笑んだ。
 クガルは、唇を噛んで、すぐに何かを振り払うかのように告げた。
「王宮へ戻り、王宮軍と守護龍の出動を要請するんだ。一刻も早く、魔のモノの処分と、事態への対処を――」
 複雑な色を栗色の瞳に秘めて、クガルが指示を出す。
 その言葉を最後まで聞くより前に、突如、予想だにしない声が響いた。

「その必要はありませんよ」
 日も暮れかけた森に響いた、強く、澄んだ声。
 それは――。
 倒れた魔の女を、対魔用の縄で縛り上げていた兵たちも、クガルの指示に動こうとしていた副隊長も、そして眉を寄せて最後の指示を与えようとしていたクガルも、全員が目を見開いて振り返った。
「お……王妃、殿下――!」
 そう、そこに佇むのは、薄暗い森に光る、きらびやかな衣装を身に着けた、王宮からそのまま抜け出てきたような、王妃の姿であったのだ。
 信じられない相手の登場に、思わず立ち尽くしていたクガルは、あわてて地面に膝をつけ、正式な礼の姿勢をとった。
 そのクガルに続き、次々と兵たちがひれ伏すのを、興味もなさげに見て、王妃はエカルドに視線を向けた。
「母上」
「おお、エカルド……あなたが無事で何よりです」
 無事な姿を確かめるように、歩み寄ってきたエカルドの体に触れてから、王妃は表情を和らげた。
「どうしたのです、直々にこのようなところまで」
 息子の疑問に、王妃は声高に告げる。
「それはもちろん、あなたの無事を確かめるために決まっているでしょう! 
東の聖殿から使いの者が来て、あなたたちがまだ辿り着いていないと聞いて、いてもたってもいられずに、こうして……」
「使いの者、ですって?」
「ええ、そうよ。今朝、王宮へ着いて、陛下もご心配なさって、もうすぐ王宮軍と守護龍がこちらへ到着する頃です」
 そこまで言って、ちらりとクガルを見る。
「だから、もう使いの必要はないの」
 手にした扇が揺れて、こちらに見えた王妃の顔からは、もう息子を心配する母親の表情は消えていた。
 まるで目の前の餌に口を開ける、蛇のように、冷酷な笑みが浮かぶ。
「ところで……他の二人の姿が見えないようだけれど」
 冷たい色の水色の瞳を向けて、王妃はひれ伏すクガルに言葉を放った。
「一体、どこへ行ったのかしら」
 突き立てられた剣のような問いに、クガルはただ、栗色の瞳を地面に向け、唇を噛み締める。
 凍りついた空気を後押しするかのように、森は既に夜の闇に包まれようとしていた――。












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