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ある朝、タンスの向こうに
作:文樹妃



29.ルーラ


 緑の色に酔いそうなほど深い森の中、むせかえる木々の匂いのあふれる空間に、それはあった。
 いや、存在していた。
 太い、古い幹の中にまるで埋め込まれたように、女の体があるのだ。
 大木に同化するかのように立った姿勢のまま、瞳は閉じられている。
 時折吹く風に、薄緑色の長い髪がわずかな揺れを示すことで、生命の灯火を感じさせるぐらいで、ほとんど生きているとは思えないほどだった。

「こ、これは……」
 ためらいがちに出た空の声に、アルネンスは微笑んだ。
 その微笑みは今までの穏やかなものから、少し切なげなものに変わったように見えた。
 そして胸の前で交差した、その女の手に優しく触れた後、アルネンスが空のほうへ向き直った。
「これはルーラ、ここにいるルーカの姉であり、我々と同じ森の精です」
「眠って、いるの……?」
 静か過ぎるこの場所と、どこか悲しげなルーラの体を見ていることに耐えられず、発せられた空の疑問は、思いがけずルーカにまた怒りの火を灯したようだった。
「そうよ! 眠っているのよ。あんたたち人間のせいでね!」
 憎々しげに吐き出された言葉にどうすればいいかわからないでいた空の背中に、アルネンスが優しく触れた。
「姫君のせいではありません。これも時代の流れの生み出す悲しい結果だといえましょう。ルーラだけではない、私にも、ルーカにも遠い未来ではないのですから」
 その言葉に、今まで呆然とルーラの方を見つめていたエシュタンドが振り向いた。
「一体、どういうことだ……森に何か起こっているとでも言うのか」
 エシュタンドの問いに、アルネンスはしばらく沈黙し、悲しげな笑みを浮かべる。
 遠くを眺める視線は、それでもとても穏やかなものだった。

「森は、滅び行きつつあるのです」
 ようやく紡ぎだされたその言葉に、空は一瞬、戸惑ってから、口を開いた。
「滅び行く、って……こんなに木々が茂ってるのに?」
 自分の言葉を裏付けるような豊かな森の木々たちを指し示す。
 枯れかけているような様子もなく、木々の緑は目にも眩しいほどだ。
 空の疑問に苛立ったように、ルーカが大きく息を吐いた。
「これだから、人間は……目に見えるものが全てではないのよ! 器がただそこにあるというだけで、真実の姿に目を凝らそうともしない。そんなだから姉様は……」
 ルーカの言葉は、最後は呟きと化していた。
 怒りと、悲しみと、悔しさと、複雑な色を宿した薄緑色の瞳は、空たちから逸らされ、そこにある木々のどこか奥を見つめているように見えた。
 何も言えないでいる空に詫びたのは、またアルネンスだった。
「ルーカの言葉を、どうかお許しください。精霊とはいえ、やはり姉と呼ぶべき存在には、特別の想いがある。その想いを絶たれそうな今、ルーカの心は乱されずにはおれないのです」
「……どういうこと? 森が滅んでいくのは、人間のせいなの?」
 森が滅ぶと言われて、空の頭に浮かぶのは、森林伐採や自然破壊といった人工的な要因であり、それと反するような森の様子に納得が行かなかったのだが、ルーカの口ぶりでは、それ以外の要因を人間が持っているとでもいうことのようだった。
 静かな静かな森の中、アルネンスは空に向き直った。
 その薄緑の双眸は、ただあきらめのような光を宿している。

「世界ができた時、神は自然と人とを同じだけ愛おしみ、創造しました。
そこには無垢な想いしか存在せず、純粋な共存関係を育んだ両者の間には、慈しみと愛があり、その想いは、精霊を宿す力となりました。
しかし、その関係は徐々に崩れていきました。人が我欲に走り、この世界は自らが築いたものででもあるかのように、王国を発展させ、そして強いては全てを支配しようと、それぞれの国が各地で争いを始めた。人の純粋な想いというものと結びついていた自然世界は、少しずつ、少しずつ綻び始め、人間たちの負の感情に侵食されていったのです。
物質的なところに被害はなかろうと、この森、いや、ミディスの森全てにいまや影響を及ぼしています。木々に宿る心とでも呼ぶべき内面は、少しずつ抉られ、削られ、傷つけられている。そしてそれは彼らを愛する我々精霊の心にもつながっている。
精神的な存在である精霊には、心の穢れが存在自体の命を脅かすのです。
ただ、生まれ、ただここに在るだけの私たちには、その世界の流れを憂い、悲しむことしかできない。ただ、変化を受け入れ、それが世界の意思であれば、従うほかない。
必要とあれば、消えていくしかないというわけです」
 長い長い悲しみを、ゆっくりと空気ににじませるように、アルネンスは語る。
 
 そこまで聞いて、耐えられず空は彼の言葉を遮った。
「そ、そんな……消えるって死ぬってこと?」
 空の言葉に少し笑ったアルネンスが、静かに答える。
「精霊は精神的存在ですから、死ぬという表現が正しいかはわかりませんが、存在がなくなることを死と表現するなら、そうですね」
「でも、あなたたちはすごい力を持ってるんでしょ? どうしてその力で人間を止めようと思わないの?」
 少し興奮しかけた空の声に、ルーカが嘲るように笑った。
「そんな考えだから人間は我欲に走るのよ。力を揮おうと、力で得られるものは結局それだけのものでしかない。そんなかりそめの平和を手に入れようと、負の影響は止められない。だってそれは真実の状態ではないんですもの。真実の想いでなければ、森との関係は取り戻せないのよ」
 ルーカの語る内容は、少女のような外見からは想像もできない、深いものだった。
「あたしたち精霊は、自分たちのために何かを曲げようとなんてしない。
例えそれが、間違った世界の流れだとしても。それが世界の行く先なら、受け止めるだけ。
だけどいくら精霊にだって、悲しみ、嘆く心はある。大事な存在だってある。
それが不公平なところよね」
 そう言いつつも、ルーカの表情は、複雑にひしめいた感情を示して、とても人間に近く見えた。ただその憂いの深さみたいなものが、この少女のような精霊の生きてきた長さを感じさせる気がした。
「滅び行く森を見るのはしのびないと、お姉様は眠ることを選んだ。それが彼女の選択。
でもあたしにはできない。例え滅びを受け入れるにしても、いくら精霊であっても、何もせずに嘆いているだけなんて、いくらなんでも悲しすぎる。あたしは森を愛する者として、行く先を見届けることを選んだ。でも、それは悲嘆にくれるためだけじゃない」
 空をきつい眼差しで見上げたルーカは、アルネンスにもその瞳を向けた。
「アルネンス、あなたがいくら甘やかそうと、あたしは言うわ。たとえわずかでも、森を救える可能性があるのなら。そしてルーラ姉様に再び目覚めてもらうために」
 アルネンスは、ルーカの真剣な瞳を受け止めて、ただ静かな微笑みを浮かべた。
 そして今度は、止めはしなかった。
 アルネンスの無言の了承を得て、ルーカは振り返り、空の瞳をまっすぐに見る。
「あたしたちがあなたを呼んだのは、森を救ってもらうため。ミディスの危機に遣された、暁の娘、あなたにね」
 空がその言葉に息を呑むのと同時に、今まで沈黙を守っていたエシュタンドが空を見る。
 藍色の瞳を驚愕に見開いて、彼が口を開く前に、ルーカが次の言葉を発した。
「そしてあなたもよ。ミディスの第三王子、いえ、次期国王となる者」
 ルーカの幼い容貌は、いまや完全に威厳ある精霊の気を宿して、先ほどまでの軽口を叩いていた少女には見えなかった。エシュタンドの瞳にそのまま問いかけるように、ルーカは言った。
「もう思い出したのでしょう? ルーラ姉様と出会ったこと、そして託されたもののことを」

 
 ――あたしが、森を……救う? それに、エシュタンドが、次期国王?
 頭に入り乱れる様々な言葉を、必死で整理しようとしていた空の傍らで、エシュタンドはしばらく黙っていたかと思うと、低く、呟いた。
「……なるほど」
 どこか楽しげなその声に目を上げた空は、ゆっくりと笑みを浮かべるエシュタンドの顔を見た。その微笑は、いつもよりも静かで、様々な感情を内に秘めたようなものだった。
「……エシュタンド?」
 何を考えているのかがわからなくて、思わず不安げな声で彼を呼ぶ。
 そんな空に気づいたように、エシュタンドは表情をゆるめた。
 心配するな、とでもいうように空に微笑んでから、今度はアルネンスのほうに目を向けた。
「言いたいことはわかった。それで、森を救うのと、この石と、どういう関係があるんだ」
 そう言って衣服の胸元からエシュタンドが取り出したのは、先ほど空が手渡された想緑珠と同じ石だった。空の瞳がその石に釘付けになるのと、エシュタンドが意味ありげに空に微笑むのとが同時だった。
 その瞬間、空の掌にずっと握られていた緑の石が、少し熱を帯びたような気がした。
 先ほどのように光ることはないものの、まるで脈打つかのように空の手に熱を伝えてくる。

「こ、これは……」
 どうなってるの、と続けようとした空の言葉は、突然の風に掻き消された。
 あまりに強く、一瞬吹いた風が森の木々全体を揺らしたように感じる。
 そして、ふらつく空の肩を、エシュタンドがしっかりと受け止めた。
 風がおさまった後、アルネンスが静かな声を上げた。
「残念ですが、もう限界のようです」
 そう言って、少しだけ厳しい瞳で辺りを見渡して、アルネンスは言った。
「森の結界が脅かされています。あなたたちをこれ以上引き止めておけないようだ」
「どういうことだ」
 眉を寄せて問い返すエシュタンドに、ルーカが先に答える。
「魔の気配が迫ってる。この森に人間を内包していることを嗅ぎつけたのかもしれないわ。
とにかく今はあんたたちを吐き出さないと、森が危ない。精霊と相反する魔の空気は、森を傷つけるの」
「魔の気配って、魔のモノがいるっていうの?」
 またあんな化け物に遭遇することになるのかと、空が顔色を変えたその時、アルネンスが安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、安全なところに出られるようにしておきます」
 その言葉が終わるやいなや、エシュタンドと空の体が何か違う空気に包まれていく。
 いつの間にか出現した緑の葉たちが、二人の体を取り巻きだした。
「おい、待て! まだ話は……」

 エシュタンドの声は、最後まで紡がれることはなかった。
 一気に力を増した、まるでつむじ風のような空気が、二人の体を押し包み、持ち上げていく。
 もはや周囲を見ることもかなわないほどの葉が舞い上がり、緑の濃い匂いが鼻をついた。
 そして二人の意識が途切れる寸前に、頭の中に響くように、アルネンスの優しい声が聞こえていた。
 












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