1.闇の森の魔女
森の奥。その場所は闇に覆われていた。その闇は、光が存在しないその結果として生まれる闇ではない。闇そのものが実体を持っている。その実体を持った闇は、その森に始終漂っている深い霧と雑じり合い、辺りに充満していた。
闇の中には、数知れない未知の魔物達が蠢いていた。どう分類し、どう定義すれば良いのかも分からない異形の魔物達。その魔物達は互いに殺し合い、貪り合い、せめぎ合いの中で常に進化していた。そしてその結果として、新たな魔術が生まれ続けてもいた。
魔女はその光景を、もう長い間見続けている。そればかりでなく、彼女は魔物達が生み出すその新しい魔術を吸収してもいた。魔物達は彼女には手を出さない。何故なら彼女はこの闇の森の主であり、そして核のような存在でもあったからだ。彼女はこの闇の森という場で進化し続けているのだ。だがしかし、それは彼女が望んだものではない。しかも、森は彼女の自由にはならなかった。いや、そればかりか、彼女は自分自身の身すら自由にはできなかった。つまり、彼女は主でありながら、ほぼこの森に囚われているのだ。彼女は、既にもう百年という長い歳月をそこに縛り続けられたままで過ごしていた。
この闇の森は、恐ろしく忌まわしい場所として、遠く彼方の地にまで知られていた。この大陸に起こった三十年戦争の大きな代償の一つ。戦争末期、その終焉の頃にこの闇の森は誕生をし、以来、誰一人寄せ付けない魔の領域となったのだ。そして闇の森の魔女は、その主として恐れられてもいた。もちろん、本当は彼女が囚われの身である事を知る者など誰もいない。
だから。
彼女を退治しようとその闇の森に向かう者達は数多くいた。闇の森ではなく、魔女こそがその元凶と信じ、殺意を向ける者ども。それは、軍隊ほどの規模の場合もあったし個人の場合もあった。だがいずれにしろ、ことごとく死んでいった。誰一人として、生き残った者はいない。それもそのはず、それがどんな魔術であったとしても、この森はそれを吸収し自らの力にしてしまう。そればかりか、魔力までも根こそぎ奪う。つまり、魔法を使う者では、この森には勝てない。しかし、では普通の戦士ならば勝てるのかと言えば、それもまず不可能だった。数多くいる魔物達に、魔法の力を借りずに勝てる者などいない。或いは国全体の軍事力を全て用いれば勝てるかもしれないが、差し向けられる軍隊に限りがあるのは当然の話だ。
結果的に、この闇の森は不可侵の場所となってしまったのだった。
――闇が垂れていた。
魔女は虚ろな瞳でそれを眺めている。闇と雑じり合った霧が樹木に付着して水滴となり、更に寄せ集まって一つの塊となったものが垂れ落ちているのだ。
何人、殺しただろうか?
魔女はそれを見ながら思う。その闇は、多くの人間達の魂を吸っているはずだった。ここ最近は、流石に彼女を殺そうと思うような身の程知らずは近寄らなかったが、それでも好奇心旺盛な変わり者や、何か金になるものを狙う欲の深い者達は闇の森に入って来た。もちろん、後悔し早めに引き返さなかったほとんどの者達は、この森の餌食になったのだが。
この森に囚われてから、何十年が経ったのか魔女には分からなかった。彼女には時の感覚が既になかったのだ。そして。この先、何十年、何百年、闇の森に囚われ続ける事になるのかも彼女には分からない。彼女は思う。もしかしたら無限に、無限に自分は魔術を吸収し続けるのかもしれない。泣き叫ぶ愚かな人間達の姿を見続けるのかもしれない。その魂を吸い続けるのかもしれない。もう、嫌だ。
……誰か、助けて。
魔女は常にそう祈ってた。しかし同時に、それが虚しい祈りである事も知っていた。この森に勝てる者がいるはずもない。せめて、これ以上森に入る者がないように努力をするくらいしか自分にはできない。
だから、誰か森に侵入した者が現れると、いつも彼女は警告を発していた。『これ以上、入って来るな。死ぬ事になるぞ』と。効果のある場合もあるが、ない場合もある。そしてその警告が無視をされた時、彼女はその人間を憐れみつつも酷く憎むのだ。警告を無視した挙句に森に殺されて、自分に苦しみを与えるその愚かさを。もちろんそれは、彼女が“人間”を渇望している事の裏返しでもあった。彼女自身は気付いていなかったかもしれないが、彼女は人間を求めていたのだ。
ある日、久しぶりに森へ侵入をする者の気配を彼女は察知した。闇の中を進んでくる。彼女への敵意は感じられなかった。欲深な感じもしない。彼女はそれで単なる好奇心旺盛な物好きが入って来たのだとそう思った。どうやら青年のようだ。そういう者は、少し脅せば引き返す事が多い。だから彼女はこう警告を発したのだ。
『これ以上は森の奥に進むな。魔物に殺される事になるぞ』
しかし、その青年は引き返さなかった。どうにも様子がおかしい。普通の人間とは雰囲気が違う。魔女は違和感を覚える。単なる好奇心からこの森に入ったようには思えなかったのだ。その時、大きな声が響いた。
『侵入者を殺す事は、あなたの意志ではないのですか?』
それはどうやら、魔法によって発せられた声のようだった。声の規模が、何倍にも増幅されている。
『馬鹿かお前は。そんな声を発すれば魔物に気付かれるぞ。直ぐに餌食だ』
それで魔女はそう言った。それを聞くなり、青年はこう返す。
『なるほど。何となく、事情は察しました。あなたは、この森に利用されているだけなのですね』
それから直ぐに青年は森から姿を消した。魔女はそれに安心をする。ただし、それと同時に、自分を理解しようとしたその青年の存在が消えてしまった事を、少し寂しくも思っていた。だがしかし、それからしばらくが経つと、再度その青年は森に侵入して来てしまったのだった。
『愚か者。何故、再び、この森の中へと入って来た?』
魔女はそう問いかけた。青年はそれにこう答える。
『少し準備をしてきました。あなたの状況をもう少し詳しく教えてください。もしかしたら、力になれるかもしれない』
準備?
その言葉に魔女は驚く。少しくらい装備を整えたくらいで、この森を攻略できるはずがない。
『力になる? お前程度の人間が何を言っているのだ?』
そう言い終えた後で、“まさか”と彼女はそう思う。この男、わたしを救うつもりでいるのか?と。青年は更に奥深くへと入って来た。そろそろ、危険な領域に近付いている。
『やめろ。本当にこれ以上は近づくな。殺されて終わりだ』
魔女のその言葉に、青年はこう応える。
『確かに僕一人の力ではそうなるでしょう。しかし、あなたの協力があれば違ってくる。教えてください。あなたの状況を。あなたには何ができて、この森の事をどれくらい知っているのですか?』
そして更に歩を進めた。青年の傍には魔物が沸き始めていた。鋭い牙と爪。大きな赤い目で青年をギロリと見ている。獲物。餌食。食べてやる。
駄目だ、と魔女は思う。もう、この青年は殺されてしまう。
『お願い。お願いだから引き返して。あなたが殺されてしまう。もう、わたしにそんなものを感じさせないで…』
気付くと、魔女はそう言っていた。懇願の言葉。しかしそれでも青年は足を進めた。それから、魔女は思う。祈るように。この森を打ち破れる者などいないの。だから逃げて。諦めて逃げて。わたしを救おうとする者を殺す苦しみを、その魂を吸う苦悩を、わたしに与えないで。魔女の周囲の闇が、濃くなったように思えた。
憎い。この男が。いや違う。わたしが、わたしを囲むこの闇の森が。この闇が。憎い。憎い。憎い。嫌だ。魔女は思った。もう、嫌だ。もう、わたしは……。
――わたしが消えてしまえば……
そして、魔女はそう呟いた。
青年、オリバー・セルフリッジは、その時森が変化していることに気が付いた。濃い闇の霧が晴れ始めている。しかも急速に。近くにいた魔物達の気配が薄らいでいく。断末魔の叫びすらも発さずに消滅していく。青い空が、もう微かに見え始めていた。
何が起こった?
少し考えるとセルフリッジは、ある考えに達した。闇の森から闇が消える原因は、彼には一つしか思い浮かばなかった。
……過去の文献などから情報を収集していた彼は、魔女のいる大よその位置を把握していた。彼には感知能力がある。それさえ分かれば、魔女の正確な位置を掴む事は容易だった。彼を誘っていた“闇の森”は、魔女の位置を隠してはいなかったのだ。
セルフリッジは、走って森の中心を目指した。魔女がいるだろうその場所を。早くしないと手遅れになってしまう。
森の中心には巨大な老木があった。そして、その老木の洞に寄り添うにして、朽ちかけた小屋が建てられている。危険な可能性もあったが、彼は躊躇せずに小屋の中へと入った。その中には、腐った樹木が土になりかけているような切り株があり、そしてそこには若い女性が一人埋もれていた。セルフリッジは戸惑う。この女性が闇の森の魔女なのか? しかし、それ以外に人間の姿は見当たらない。その予想外の姿に驚きながらも、セルフリッジは彼女をそこから救い出すと、魔力を与え蘇生術を試みた。恐らく、彼女は自ら命を絶ったのだ。セルフリッジの命を守るために。
闇の森の魔女、アンナ・アンリが目を覚ました時、彼女はその眩い光にやられ、しばらく目を開けられなかった。彼女はもう随分と長い間光を目にしていない。慣れない光にいきなりさらされた所為で、彼女の目には激痛が走っていたのだ。その彼女に向けて、「大丈夫ですか?」とそんな声がかけられる。誰?と彼女は思った。やがてようやく目が光に慣れ始めると、そこに優しそうな青年が微笑んでいる姿があるのを彼女は認めた。その青年は、少し背が高く、全体として痩せた印象だった。彼の背後には少し紅葉しかけた緑の木々と青い空が広がっている。その光景を見たアンナは、ここは何処だろう?と混乱した頭でそんな疑問を思った。闇の森は何処に行ってしまったのだろう?
「水を飲みますか?」と、それから青年はそう言った。彼女は無言のまま頷くと、差し出されたコップをつかみ水を飲んだ。それを見ると青年は心底安心をした様子で、
「良かった。取り敢えずは、大丈夫なようですね」
と、そう言う。どうして、この青年は自分を心配しているのだろう?と、アンナはその様子を見て不思議に思う。自分は闇の森の魔女なのに。そして少しずつ思い出していた。自分が自ら命を絶った事を。それで気付く。光に包まれてはいるが、今いるこの場所こそが闇の森である事を。いや、かつて闇の森だった場所と言うべきか。
アンナが水を飲み終えると、青年は自分の名を名乗った。
「僕の名は、オリバー・セルフリッジといいます。以後、よろしくお願いします」
アンナは反射的にこう返す。
「わたしは、アンナ・アンリです」
言ってしまってから思わず自分が本名を名乗ってしまった事に彼女は気が付く。しかしそれから、自分の本名を知る者など誰もいないはずだから大丈夫だと思い直した。何の問題もないはずだ。
「なるほど。アンナさんですか。
色々と話さなくてはならない事がありますが、その前に取り敢えず、身支度を整えましょう。あの、この服は着られますか? すいません。準備はして来たのですが、サイズが大き過ぎてしまったようで」
簡単な挨拶を終えると、セルフリッジはそう言った。見ると布団のようにして、アンナの身体に服がかけられてある。男ものの旅行服のようだ。見るとアンナのかつて着ていた服は既に朽ちていた。それで、アンナはそれに着替えることにした。足が弱っており、初めは上手く立てなかったが、それでも何とか着替えられそうだった。ただし、セルフリッジの言う通り、服のサイズも靴のサイズも大き過ぎたのだが。足が弱っている上にこれでは、歩くのに苦労しそうだ。アンナが着替えている間、セルフリッジは後ろを向いていた。アンナの裸身を見ないようにする配慮だろう。“恐ろしい闇の森の魔女を相手に、無防備にも背を向けるとは、この男は馬鹿なのだろうか?”と、アンナはそれを見てそう思う。それに既にかなり歳を取っている自分に気を遣う必要もないのに。
しかし、着替えながらアンナは気が付いた。かなり汚れてはいたが、自分の身体が若い女のそれになっている事を。腕を見てみても、皺一つない。身体は柔らかく、胸は充分過ぎるほどの膨らみを持っていた。アンナはその事実に驚く。
「池で顔を洗いたいのですが、よろしいですか?」
着替え終えると、アンナはそう言った。水面を鏡代わりにして、自分の姿を見てみたかったのだ。セルフリッジは頷き「ええ、もちろん」と笑顔でそれに返した。
池に向かおうとしても、足の弱っていたアンナはなかなか上手く歩けなかった。直ぐによろめいてしまう。それをセルフリッジは助けてくれた。肩を抱える。どうしてこの青年は、自分にこんなにも親切にしてくれるのだろう?と彼女は不思議に思った。何百人何千人という夥しい数の人の命を奪ってきた魔女が恐ろしくはないのだろうか?
池はそれほど遠くにある訳ではなかったが、そこに辿り着くだけでもアンナはかなり疲労してしまった。それで、足だけでなく、身体全体が弱っているのだと彼女は悟る。魔力もほとんど残っていない。もし今、襲われたなら少しの抵抗もできずに殺されるだろう。そう彼女は思った。それから、池の水面を見て彼女は自分の姿に驚愕した。
――若返っている?
そう。彼女のその姿は、少なくとも二十歳くらいの若さには見えた。汚れてはいたが、水で洗い落とすと可憐な女性の顔がそこに現れる。
――婆様の仕業だ。
少し考えると、彼女はそう結論付けた。婆様とは、そもそもこの“闇の森”の魔術システムを創り上げた張本人で、彼女の師でもある。既に死んでしまっているが、本当ならばその婆様が、この“闇の森”の主になっているはずだったのだ。
……若返りたかったんだ、あの人。と、その後でアンナはそう思った。「大丈夫ですか?」と、そこでセルフリッジが尋ねて来る。少しの間、何も反応がなかったから心配したのだろう。彼女はその声に反応して彼の顔を見つめる。彼は笑顔のまま、自分を見つめるその視線に少し不思議そうにした。そこで彼女は思った。
“そうか。この人、この姿を見て勘違いをしているんだ。わたしを、森に囚われていただけの単なる女だと思っているのだろう”
それから、少し考えるとこう思った。
“ならば、それを利用してやろう。この弱った身体のままでは、生き残れない。こいつにしばらく世話をさせてやる”
彼女が何も言わないでいると、「顔を洗っただけで、見違えましたね」と、そうセルフリッジは言って来た。こう続ける。
「実は少し謝らなければいけない事があるんです。あなたの髪を切らせてもらいました。いえ、樹木に髪が絡まって、そのままではあなたを救い出せなかったものですから」
そう言われて、アンナは自分の髪を見てみた。あまりの事に、髪にまで意識が向かっていなかったのだが、確かに小刀か何かで乱暴に切られたようになっていた。セルフリッジは、こう言った。
「落ち着いたら、後で整えましょう」
アンナはそれに黙って頷いた。それからセルフリッジは、ポケットの中から何かを取り出す。氷のような何か。そしてそれをアンナに渡した。
「これは?」と、アンナが尋ねると、「氷砂糖ですよ、アンナさん」と彼はそう答える。
「疲れた身体を癒すのに良い。舐めてください。あなたはとても弱っているはずだ。何しろ、さっきまで死にかけていたのだから。それに長い間閉じ込められていた所為で、身体が随分と貧弱になってもいるようです」
アンナがそれを口に入れると、甘い味が口の中に拡がった。確かに疲れが癒されるような感じがする。
「美味しい」と、アンナは呟いた。それを聞くと、「良かった」とセルフリッジは言い、それからこう続けた。
「少し休んだら、街に向かいましょう。まずは身体を癒さなくては。宿を取ってあるんです」
街に?
その言葉に、アンナは少し緊張した。闇の森に囚われる前から、随分と長い間、街になど行っていない。人間がたくさんいる場所。もしも、自分が闇の森の魔女だと知られたなら…… 自分の今の姿から考えて、その可能性がとても低いと頭では分かっていながら、それでも彼女には不安だった。彼女は人々を恐れている。彼女の中で、人間は残忍で残酷で愚かな存在だったのだ。
少し休むと二人は街に向かって歩き始めた。しかし、しばらく進んだだけで、もうアンナは歩くのが酷く辛くなってしまった。体力の消耗が激しい。まだ数百メートルしか歩いていないのに、足が少し痛くなり始めていた。セルフリッジはそんな彼女のペースに合わせて歩いてくれていたが、それでは街に着くのは明日になってしまいそうだった。
セルフリッジに負担をかけるのを無意識の内に嫌がっていたアンナは、無理をしてでも速く進もうとしていたが、そんな彼女を彼は止めた。
「止まってください」
その言葉を聞いて、不思議そうに不安そうにアンナは彼を見る。「足を見せてください」とそれからセルフリッジは言った。アンナが戸惑っていると、彼は無理矢理にアンナの靴を脱がせて彼女の素足を見た。瞳を歪めると、彼は言う。
「もう、靴擦れが起こっています。これだけサイズの合わない靴では当然かもしれませんが」
アンナの足は、まるで生まれたての赤ん坊のように柔らかくやわに見えた。そんな足が、赤く傷ついている様子は痛ましい。セルフリッジは軽くため息を漏らすとこう言った。
「アンナさん。この状態では、歩くのは無理のようですね。ここから街までは、僕があなたを背負っていきます」
その言葉に、アンナは驚いた。
「え?」
まさか、そんな言葉が出るとは彼女は考えてもいなかったのだ。彼女はむしろ、彼が怒ると思っていた。ゆっくりとしか進めない彼女の事を。そしてそれから彼女は、セルフリッジに負担をかけてしまうという罪悪感と、彼の厚意に対する戸惑いを同時に感じる。彼女は人の善意に触れた事がほとんどない。だからそれを安心して受け止められなかった。その彼女の様子を察したセルフリッジは、ニッコリと笑うとこう言った。
「安心してください。こう見えても、重い荷物を背負って旅を続けていますから、それなりに体力はあるんです。それに、」
その後で彼は、荷物の中から何かを取り出した。まるで大きな袋のように思える何か。それを広げると、彼は続けた。
「ちゃんと準備もして来たんですよ。これは、人を長距離運ぶ為のものです。これを使えば、負担もそんなにありません」
どうやら、それは、その袋のようなものの中に人を入れれば、人を背負い易くなるという、そういうものであるようだった。
「あなたが、あの森に囚われてから既に百年が経っています。足腰が弱るのには充分過ぎる歳月です。その可能性を考えて、準備をして来たんです。僕一人でも、あなたを運べるように。僕は、あなたをここから連れ出す為に、この森に入ったものですから」
それからまるでアンナを説得するようにセルフリッジはそう語った。アンナは戸惑ったまま、その優しそうな表情に向けてゆっくりと頷いた。
アンナを背負うと、セルフリッジは軽快に歩き始めた。他にも重い荷物を持っているにもかかわらず。本当に体力はそれなりにあるようだ。
無防備な後頭部。脊髄。彼のそれが背負われている彼女の目の前にあった。もしも彼女に魔力が残っていたのなら、直接、そこに魔法をかけて心を壊し、この男の意思を完全にコントロールするのも容易だった。この男、本当に警戒心がない。それで、アンナは改めてそう思った。
「これ、救命運搬の為のものでもあるんですが、元は人さらいの為の道具だったそうです。これに子供を入れて、運んでいたのだとか」
歩きながらそう言い終えると、セルフリッジは「ふふ」と少し笑い、こう続けた。
「人さらいと勘違いされなければ、良いんですが」
アンナはそれを聞くと、こう呟く。
「人さらい……」
彼女の中にある遠い記憶。彼女には、これと似たようなもので運ばれた経験があった。幼い頃。しかもそれは紛れもなく人さらいだった。だがしかし、幼い彼女はその時、不安を感じてはいなかった。むしろその中は温かく安心できた。幼い彼女は何故かその時、自分はこれから救われるのだとそう思っていた。
あの人も優しかったっけ……
と、それからそう心の中で呟く。
百年。さっき、この人はそう言っていたか。囚われてから、もうそんなに長い時間が流れていたのか。やはりあの森は、わたしの時間の流れの感覚を麻痺させていたらしい。それからアンナは、セルフリッジに向けてこう尋ねた。
「あの… わたしがあの森に囚われてから、何が起こったのでしょう? 戦争はどうなりましたか?
それと、あなたは何者なのです? どうしてわたしを助けてくれたのですか? しかもこんなに親切に……」
セルフリッジは少しの間の後で、それに答えた。
「順を追って徐々に詳しく説明したいと思いますが、先に大雑把に述べましょう。まず、ここが完全に闇の森と化した時期に戦争は終わりました。クロノ・クロノス王国が、この大陸のほとんどを統一したのです」
クロノ・クロノス王国が……。
アンナはそれを聞くと、心の中でそう呟いた。それほどのショックは受けていない。彼女にとって予想外の情報でもなかったからだ。森に侵入してきた人間達からの情報で、ある程度は予想してもいた。それに彼女には、自国に対する帰属意識もほとんどなかった。自分の国が跡形もなく滅んでいても、或いは何も感じなかったかもしれない。
「僕はそのクロノ・クロノス王国の行政機関、特殊科学技術局の一員です。この機関の主な仕事は、今の時代は既に失われてしまった魔術などの技術の回収でしてね。各地に封じ込められていたり、この闇の森のように、忌地と化してしまっている場所を調査研究し、可能なら時には戦闘すらも行い、それらを処置し安全な形で回収します。そしてそれら回収した技術を、科学の俎上に載せて吸収し社会に役立たせる、というのがその最終的な目的になります。
と言っても、僕はほとんど戦闘も研究も行いませんが。大体は調査ばかりです。しかも、ほぼ単独ですね」
そのセルフリッジの説明を受けると、アンナは呟くように疑問の声を上げた。
「科学?」
「ああ、あなたの時代はこの言葉はまだ誕生していなかったのですね。そうですね。哲学や技術が、経験を重要視された上で纏められ、体系付けられたようなものだと思ってくれれば良いかもしれません。
そのうちに、もう少し詳しく説明しますが、今はもうちょっと戦争の終焉と、その後の国の体制の話をしたいと思います。あなたに、現状を知ってもらいたいですから」
それからセルフリッジは、大体の戦争の終結の流れを説明し始めた。
三十年戦争の末期、クロノ・クロノス王国が取った戦略は巧妙だった。自分の国に帰属すれば、安定した楽な暮らしが待っていると各国の民衆に宣伝したのだ。その当時、クロノ・クロノス王国は、新たな農業技術の開発に成功しており、それにより食糧事情が大幅に改善していたのだ。だから、それは全くの嘘という訳ではなかった。王国に帰属すれば、農業技術の提供を受けられ、飢えに苦しむ事はなくなる。しかしそこには誇張が含まれていたのもまた事実だったのだが。
王国は、まるで帰属した国を平等に扱うかのように宣伝したのだが、実際は、多くの富を奪っていた。その国の力を削ぎ、反乱を起こす芽を摘んでおこうというのがその主な目的だ。もっとも、生活ができないほど力を奪う訳ではない。更に、狙われるのは領主クラスの権力者のみでもあった。
長い戦乱の間で疲弊し、苦しみに耐え切れなくなっていた各国の人々は、クロノ・クロノス王国の言葉に従った。だから、クロノ・クロノス王国が侵略をしかける前に、ほぼ勝敗が決まっていた例も多くあった。そして、その為にクロノ・クロノス王国は、強力過ぎる魔術の封印や廃棄を相手国に促した。帰属する意志があるのなら、高い戦力を誇る魔術兵器を放棄せよ、とそう各国の国民に働きかけたのである。内部的な反乱で魔術の封印や廃棄が行われる場合もあったし、全面的に国全体がそれに従うケースもあったが、とにかく、それにより各国の魔術や魔術兵器、魔人や魔物などは次々と壊されたり殺されたり封印されたりしていった。その中には、今の技術では、復元がほぼ不可能なものもある。そしてそれらは、失われた魔術… 通称、“ロスト”と呼ばれていた。
そこまでの話を聞き終えると、アンナは思わず「なるほど」と、呟いた。そして、心の中でこう続ける。
――だから、あの時、婆様は殺されたのだ。
彼女の魔術の師に当たる魔女は、強力過ぎる魔術を生み出す人間の一人だった。それで狙われる事になったのだ。そんな噂が流れていたのを彼女は思い出す。それほど気にしてはいなかったけれど。
「僕ら“特殊科学技術局”のターゲットは主にその時代に封印された“ロスト”です。この闇の森も、封印された訳ではないにしろその一つでした」
そうセルフリッジは語る。それから、辺りを見回すとこう続けた。
「もっとも、この闇の森については、その失われた魔術を役立たせるという目的よりも、この地を闇から解放する目的の方が優先度が上でしてね。この地が活用できれば、大きな利益になりますから。
今回の事で、その目的は達成できたような気もします」
少し前の闇の森の姿は既に見る影もなく、今は光が差し込み青空が見える陽樹の森となっていた。アンナすらも、この森のこんな風景は見た事がない。恐らくは、彼女が初めてこの森に入った時にはもう、闇の魔法がかけられてあったのだろう。これなら、何の危険もなくこの地を利用できそうだった。
「それから、百年間。クロノ・クロノス王国は、維持され続けています。それには、絶妙なバランスでの権力の分散に成功した事が関係してもいる。先にも言いましたが、王国は各国から反乱を起こすだけの力を奪いました。ですが、徹底的に略奪を行った訳でもない。生活に窮するほどの貧困に追い込めば、直ぐにまた死を覚悟しての反乱が起きると分かっていたからです。安定した生活が送れるのなら、無理して反乱を起こそうなどとは考えないでしょう。贅沢はできなくてもね。
他にも王国は権力のバランスに関して気を遣いました。司法・立法・行政と権限を三つに分け、権力が一部に集中し過ぎないようにしたのです。これにより、権力の一極集中を防ぎ、社会を安定化させた。権力が一部に集中すると、社会全体が疲弊し、崩壊に向かってしまうからです……」
それからセルフリッジは、少し黙った。アンナはその間を不思議に思う。それから彼はこう語った。
「それは確かに成功したのですが、それでも充分とは言えなかった。やはり、権力と富の集中は起きました。そして、更に、長期間を経ることで、制度は疲弊しました。今はその三権分立は、機能していません。腐っています。これは大きな問題です……」
そう語ったセルフリッジの様子は深刻そうだった。アンナは“どうしたのだろう?”と不安になる。どうやらこの男は、何かを抱え込んでいるらしい、とそれで悟った。それからセルフリッジは口調を明るくすると、話題を変えた。
「すいません。いきなり踏み込んで話し過ぎてしまったようです。少しずつ今という時代に馴染んでいってもらおうと思っていたのですが。
そうだ、アンナさん。“その中”は辛くはありませんか? 実はこれ、そんなに使った事がないのですよ」
“その中”というのは、今アンナが入っている運搬用の袋の事だろう。実を言うのなら少し窮屈だったのだが、歩き続ける苦痛に比べれば大した事はなかった。それでアンナは「大丈夫です。快適です」と返す。「それは良かった」と、それを聞いてセルフリッジはそう言った。
「帰ったら、まずお風呂に入って、それから食事にしましょう。僕はあなたがお風呂に入っている間に、良さそうな部屋着を用意しますから……」
その後は他愛ない会話が続き、アンナはいつの間にか彼の背中で眠っていた。彼女はなんだか懐かしい夢を見ていた。季節は晩秋で、日が暮れるにしたがって少しずつ空気は冷たくなってきている。しかし、彼の背中は温かった。