自慢の姉
※ 息抜き短編につき、他の連載作品の更新が遅れていることに対しての苦情、誹謗中傷は受け付けませんのであしからず。
朝比奈 小春には自慢の姉がいる。
姉の名前は朝比奈 夏生。
ただ小春とは七歳ほど年が離れているためか、やや姉妹というにはよそよそしい関係だ。
会ってもあまり会話は進まず、小春といるときの夏生は退屈そうに口を真一文字にして眉間に皺をよせている。
小春といてもつまらないのか、二人きりになるとすぐに立ち上がって部屋から出ていってしまう。
小春が幼稚園に通っていた頃の夏生はこうではなかった。
仕事でいつもいない母の代わりに小春の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる夏生が小春は大好きだった。
だというのになぜか夏生はある時を境に小春に距離を置くようになった。
それまで当たり前に抱きつけば、にっこり笑って頭を撫でてくれたというのに、抱きついても体を強ばらせる。しばらくすると小春が抱きつこうとするのをひどく警戒するように常に一定の距離以上に近づけさせないようになってしまった。
それまでいつも見せてくれていた笑顔もなくなり、眉間に皺を寄せ、ひどく不機嫌そうな顔をするようになった。
きっかけはわからない。小春が夏生に嫌われるような真似をしてしまったのかと聞いても、「貴女のせいじゃないから」とそっけなく言われるだけだった。
悲しくて悲しくて。それでも姉を嫌うことができない小春は夏生に纏わりつく。
そしてそんな小春を夏生は鬱陶しくなったのだろうか。
夏生は中学に入ると同時に全寮制の有名な進学校に入り家から出て行った。
それ以来高校、大学と一人暮らしを貫いた夏生はたまの休みに家に帰ってくる程度で、小春と年に何度と会うこともなくなった。
距離を置かれたせいか、小春も昔ほど姉にべったりはできず、その距離はどんどん離れていった。
帰ってきても母とは普通に会話するのに、夏生は小春と会話するときはひどく口数が少なくなる。
母と三人でいれば、それなりに話すが、それでもこちらに視線が向くことはなく、二人きりになればほとんど会話がなかった。
子供が苦手なのか。戸惑いに眉根を寄せるその顔を見るのがひどく辛くて、小学校中学年あたりから小春は意図的に姉と二人きりになることを避けた。
そうして数年で姉妹の仲はひどくよそよそしいものになった。
しかしそれでも、時折帰ってくる姉は小春にとって憧れの存在だった。
小春は姉である夏生をとても綺麗な人だと思っている。
黒い髪は艶やかで癖がなく真っ直ぐで、涼しげな目元と左目の下にある泣きボクロが色っぽい。
頭も良く、運動神経も良い。面倒見の良い性格で、誰からでも頼りにされている凛々しい姉御肌。
その姿は近所でも有名で、姉を褒められる度、小春は自分の事のように誇らしかった。
通う学校は全国的に有名な進学校で中学、高校とも生徒会に所属し、最高学年では生徒会長をしていた。大学はもちろん日本の最高学府だ。
茶色のくせっ毛をいつも爆発させている野暮ったい小春とは大違いだ。
いつまでも子供っぽい見た目と精神しか持たない小春とは違い、いつも静かな表情で落ち着いた大人の女というのが小春の姉だった。
そんな夏生は小春が持っていないものをなんでも持っている。
知性も運動神経も、人望も名誉も名声も。
―――――そう。小春がいくら望んでも手にできないあの人、小日向さえも。
夏生の彼氏である小日向と初めて出会ったのは小春が中学二年の時だった。
さほど頭のよくなかった小春は姉と異なり一般の公立中学に通っていた。
そんな小春と母の暮らす実家に夏生が突然連れてきた異性の友達というのが小日向だった。
小日向は当時大学生の夏生の同級生で、初めて家に連れてきた夏生の彼氏だった。
夏生がはっきりと彼氏だとは紹介しなかったけれど、初めて家に連れてきた異性の友達だったのでおそらくそうだろうと、母が話していた。
その時は特別なにも思わなかった。
夏生は小日向を連れてきたものの紹介など一言されただけだ。それも廊下でばったり出くわしてしまった故の、渋々といった感じだった。
それからすぐに二人は部屋に篭ってしまったから、その時の小日向の容姿もおぼろげな記憶しかない。
その背のすらりと高い俳優みたいな優しい甘い顔立ちにさすが、姉の彼氏だと思ったくらいの印象しか残っていなかった。
小春が小日向と再会したはそれからしばらく経ってからだ。
小春が高校一年生の時だった。。
小春は姉の姿に憧れ、少し無理をして姉と同じ高校を受験した。
猛勉強の末、なんとか受かったが、その後が悲惨だった。
無理に無理を重ねて受かった学校では当たり前だが、小春以外の生徒は皆頭の良い生徒ばかりだ。
その中にかなり無理をして入った小春は早々に落ちこぼれた。授業についていけず、頑張っても赤点スレスレの点数しかとれない。
姉が学校にいた時代を知る教師も何人かいて、その教師からは本当にあの姉の妹かとあてこすられる始末だった。
中学時代に仲の良かった友達の同じ学校に行こうという誘いを断って、小春だけがこの学校を受験したため、学校に知り合いはいない。
さらには入学して早々実力テストでひどい点数をとり、勉強に必死になっていたら、うっかり友達作りのスタートダッシュに乗り遅れ、気がつけば孤立していた。
小春は入学後数ヶ月でこの高校の受験を後悔した。
勉強は難しくてわからないし、それに掛り切りになり、いつも一人だ。
そんな小春を心配したのか夏生がメールをくれることもあったが、その度に先生の当てこすりが頭によぎって、素直に姉に頼れなかった。
学校の授業にもついていけず、その日も前日の夜遅くまで練習問題と格闘していたため、学校が終わった頃にはひどく疲労していた。
相変わらず一緒に帰る友達もおらず、一人で帰宅するためにバスに乗っていた。
姉の通っていた時代は全寮制だった学校も現在では、寮か自宅通学か選べるようになっており、小春が出て行くと一人になってしまう母のためバスで自宅通学をしていた。
その日は近くの公園のグラウンドで野球大会があったらしく、その帰宅ラッシュとかち合ってしまいバスはいつも以上に混んでいた。
出入り口のタラップにすらはみ出すほどの人の群れに小春は驚いたが、疲労に早く家に帰って休みたいという気持ちが勝った。無理やりその人の群れに身を押し込んだ。
なんとか扉がしまりバスは発車したものの、バスはすし詰め状態で空気すら薄い気がする。
タラップの一番下で扉に押し付けられるようにたっていれば、小春はだんだん気持ちが悪くなってきた。
しかし道路上のバスの中に逃げ道はない。早く目的地につかないかと、フラフラする頭を扉に寄りかからせる。
バスの扉の窓を覗けば、バス停が近づいていたのは知っていたが、人はおらず、後ろの扉は開かないだろうと完全に油断していた。
「っ!」
プシュー、ガチャン。
突然小春が寄りかかったバスの扉が開く。
なぜ?と思う暇こそあれ、小春は弾き飛ばされるようにバスの外に放り出された。
「きゃああ!」
夏生と違い、運動音痴の小春は受身を取ることもできず、バスのタラップから落ちかける。
思わず目をつぶってしまった時だったときだった。
「危ないっ!」
突然バスから伸びた手に小春は腕が取られ、なんとか落下を免れる。
突然のことに驚く小春の目に飛び込んできたのは、びっくりするくらい整った顔の優しそうな印象の男性だった。
どこかで見たような気がしたら、突然名前を呼ばれ驚く。
「大丈夫だった?小春ちゃん」
目の前の男の人の顔に見覚えはない。だがどこかで見た気がしてその顔をまじまじと見つめる。
「どこで会ったか」と聞こうと口を開く、背後からスピーカー越しに聞こえた運転手の安否確認の声に遮られる。
慌てて無事であることを伝えると、運転手は扉が締まることだけ伝えると、スピーカーは沈黙した。慌ててバスの内側に身を寄せると、同時に扉が音を立てて締まった。
そして、そのまま何事もなかったようにバスは動き出した。
その素っ気無さは気になったものの、その時の小春はそれより気になることがあった。
一連の時間、小春の腕は男の人に掴まれたままだ。狭い車内で抱き込まれるような形になってしまい、思わず羞恥に頬が染まる。
小春は今のところ男の人と付き合ったことがなく、免疫がない。男の人と言えば随分に前に亡くなった父くらいしか周りにおらず、おぼろげに覚えているその父と違った角ばった大きな手にドキドキした。
「あ、あのすみません。手を……」
「え?ああ。すまない」
言えば、すぐに男の人は手を外してくれた。
それに安心するのと同時に少しだけ残念な気がした。
その感情がなんなのか自分でもわからなかったが、一応バス内であまり大きな声を出すのはまずいかと思い、小春は小声で男の人にお礼を言った。
「あ、あの。助けてくださってありがとうございます」」
「いや、小春ちゃんが無事でよかったよ」
再度名前を呼ばれて小春は小首を傾げた。
「あの、なんで私の名前を?」
「え?……ああ、覚えていないかな。あれから結構時間が経ってるから。」
君の姉、夏生の同級生だった小日向だけど、と告げられれば数年前の記憶が蘇り小春は目を見開いた。
もう何年か前になるかな、と言う小日向とおよそ二年越しの再会でだった。
その後は何事もなく、すぐにバスは小春の目的地に着いた。
小春は小日向に再度お礼をいって、バスを降りて別れた。
小日向の姿のあるバスを小春は見えなくなるまで見送った。バスは始終混んでいて、おそらく終点の駅まであのままだろう。
その混み具合を考え、ふと思い出す。
そう言えば、小春は投げ出されて以降、人に押し潰される圧迫感がなくなり、いつの間にか苦しくなくなっていた。
思い出せば小春を囲うように小日向の腕が壁を抑えており、人の圧迫からさりげなく守ってくれていたのだということを今更ながら気づいた。
そのことに対するお礼を言いたくて、姉に伝言を頼もうかと思案していた次の日にバスの中にも小日向がいるのを見つけて驚いて声をかけた。
どうやらこのバスは小日向も仕事で定期的に使っているもので、よく乗っているらしい。
昨日のお礼を言えば、「気にしないで。女の子は守るものだから」ということをサラっと言われ、思わず小春の胸は音を立てる。
流石は姉の彼氏だと思った。スマートでかっこいい。当たり前だが小春の周りにこんな素敵な男性はいなかった。同級生の男子はもっと子供だし、デリカシーもかけており、乱暴で小春は苦手だった。
その点、姉の同級生である小日向は七歳年上で、はっきりと大人である。小春への対応も物腰も柔らかく、安心して話せた。
それから小日向と小春はバスで会えば互いに挨拶し、会話するようになった。
そうなれば時間があれば、お茶をするくらいの仲にはすぐになった。
小日向とのお茶の時間は小春にとって思いのほか楽しいものだった。
小日向は話題が豊富な大人で、彼から見ればまだ子供でしかない小春にもわかりやすい話題を振ってくれた。
考えてみれば当時既に二十代の小日向に高校生の小春に合わせた話題は退屈だったろうに、小春に合わせて嫌な顔ひとつ見せなかった。
たまに勉強も見てくれて、学校の先生よりもずっとわかりやすい教え方に、小春の成績は上向いた。
そのおかげか、生活に余裕ができて、友達も出来て学校がずっと楽しくなった。
小春から学校での出来事を聞くのが、小日向は好きらしくいつも優しそうな笑みを浮かべ聞いてくれる。小春はあまりしゃべるのが得意ではないが、小日向の相槌は絶妙で、ついしゃべりすぎて時間を忘れてしまう。
時間を忘れがちな小春にしかし、紳士な小日向は気配りを欠かさない。
会話が弾みすぎて夜遅くなりそうになると、そっと不快にならないタイミングで話を遮り、小春を止めてくれる。
それから当然のように、家まで送ってくれる。
帰り道に道路を歩いてもさりげなく車道側を歩いてくれて、身長差がかなりあるというのに小春の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる。
それに気づいたのは学校の行事などで他の男子の横を歩いた時だった。
あまりにスマートすぎて気づけないほど、小日向のエスコートは完璧だった。
大人の男性である小日向は恋人の妹である小春に特別優しかった。それでも小日向は小春に「恋人の妹だから」とは言わない。
だから、小春は忘れないように自分に言い聞かせる。
小日向が小春に優しいのは夏生の妹だからだ。それ以外の他意はない。
何度も何度も言い聞かせ、その度ひどく悲しくて辛くて胸が痛かった。。
そう感じたことで小春は小日向に惹かれている自分の気持ちに気づいた。
もちろん彼を好きになってはいけないことはわかっていた。
小日向は夏生の恋人だ。
しかし、気づいたときには遅く、小日向の存在は小春の中で消せないほど大きなものとなっていた。寧ろ恋してはいけないと言い聞かせればするほど思いは募る。
小日向から姉の話は何度か聞いていた。
それは親しい友人について語るような気安い様子で、それは恋人同士の熱のようなものは感じなかった。
しかし、それはきっと小春が夏生の妹だからだ。流石に家族の前でのろけるのを遠慮してのことなのだろう。
そのことが小春にはたまらなく辛かった。
小春は小日向が好きだが、夏生も好きだ。
憧れているし、そっけなくとも大事な家族で幼い頃大好きだった姉だ。家族として大事な存在だった。
だが、それとは別にどうしても自分とは違い優秀な姉に嫉妬してしまう。
なんでもできる、なんでも持っている姉が羨ましく憎らしい。
小日向の恋人の位置にいる姉がひどく妬ましかった。
そんな思いを姉に対して抱いてしまう自分が小春はひどく惨めだと思った。
小日向と姉との関係はずっと続いているらしく、学校を卒業したというのに二人は同じ会社に就職し、同じ仕事に従事しているらしい。
姉は今のところ仕事が楽しいらしく、小日向とは未だ結婚どころか婚約もしていない。
しかし、二十も半ばを迎える姉もそろそろ結婚を考える年だ。
母も「そろそろ小日向さんと落ち着いてくれたらいいのに」とよく愚痴をこぼしている。
その言葉を聞くたびに小春の胸が張り裂けそうに傷んだ。
小春は小日向が好きだ。愛している、と言ってもいい。
その思いは日増しに強くなる。
彼が何気なく繋いでくれる手も、子供みたいにだが、頭を撫でるその仕草も何もかもが嬉しく、愛おしい。大好きだ。
あるとき小春が別のものに気を取られ、車道に飛び出しそうになった。それに気づき、背後から抱き寄せるようにして体を救われ小日向に助けられた。
突然のことで小日向の腕の中で固まる小春に「心配させないで」と耳元で囁かれた。小日向の声はひどく切羽詰ったように聞こえて、小春は泣きそうになった。
小日向はとても優しい人だ。恋人の妹にまでこんなに気をかけてくれる。
(勘違いしちゃダメ)
小日向が大事にしてくれるのは小春が夏生の妹だからだ。
何度も何度もそう自分に言い聞かせる。
それでも、小日向の声を聞くたび、その暖かさを思い出すたびに、この人が他人の、それも姉のものであることを思い出し、小春の胸は悲鳴を上げる。
思いが強くなれば強くなるほど、小春は夏生に合わせる顔がなくなった。
ある時たまたま休みがとれたらしく、夏生が家に帰ってきた。一週間ほど滞在するという姉の久しぶりの帰宅に話を聞いたときは素直に嬉しかった。
しかし、実際に家にある姉の姿を見るたびに、小日向と仲睦まじい夏生の姿が蘇り、小春の胸は張り裂けんばかりに傷んだ。
いつもながら美しい姉の姿に小春は惨めな気持ちになり、夏生を普段よりも意図的に避けてしまっていた。
流石にそんな小春の様子を不審に思ったのか、珍しく夏生の方から声をかけてきた。
「小春ちゃん、なにかあった?」
普段は反らされるはずの視線が真っ直ぐ小春に向けられる。
その瞳は幼い頃に感じたものと同じ。小春を心配する色が称えられ、その暖かさと美しさに小春は罪悪感から視線を合わすことができなかった。
心配そうな姉に精一杯「なんでない」と笑おうとして失敗する。
姉に対し笑いかけられない自分があまりに惨めで醜く感じ、小春は姉の視線から逃げるように部屋に戻った。
そんな姉はそれ以上追いかけては来ず、小春は残りの数日を姉を避け続け姉はそのまま一人暮らしの部屋にそのまま戻っていった。
そんな姉とのやり取りを経て、小春は危機感を募らせた。
このままじゃいけないと思って、一度もう会わないと小日向にそれとなく伝えると、ひどく悲しそうな顔をされた。
その顔に思わず「冗談です」と言ってしまった。
好きな人の幸せのために嫌われる覚悟もない小心者の自分が情けない。
さらには小日向の冗談だと流した後の安心した顔を見て、それが小春に会いたがってくれているように思えて、ひどく嬉しい自分がいた。
それがなおさら惨めだった。
その後もズルズルと気持ちを引き摺り、小春は小日向と会い続けた。
高校の卒業式には白いバラの花束を抱えた小日向が姉と一緒に来てくれた。
相変わらず甘い雰囲気はない。しかし、長い年月の付き合いのためか、阿吽の呼吸で夏生の言葉に返事を返す小日向の仲睦まじい様子に、小春の報われることのない惨めな気持ちはいっそ高まった。
しかしせっかく来てくれた二人の前でそんな顔をするわけにはいかず、精一杯笑顔を装った。そうして、家に帰って一人になると一晩中泣いた。
大学生になっても小春は小日向と二人で会うことをやめられなかった。
罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、それでも小日向の隣はひどく居心地が良かった。
小春の気持ちに敏感で、欲しい時に欲しい言葉をくれて触れてくれる小日向と共にいる時間が小春にとっては幸福でもあり、姉に対する嫉妬に苦しむ地獄でもある。
あまりに辛くて、苦しい。そんな小春の現状を高校時代から知っている親友の一人が、大学二年のある日、大学の合コンに誘ってくれた。
曰く「他に男を作れば忘れられるよ」ということらしい。
とはいえ、小春は小日向以外の男性は得意ではなく、あまり乗り気にはなれなかった。
しかしこの誘い自体友達の好意だというのも分かっていたので一度だけ付き合うことにした。
だが合コン会場に行った途端後悔した。
友達とは会場に着くなり離され、小春は見知らぬ男性にはさまれ座ることになった。
もちろん合コンとは男女が知り合う飲み会というのは理解いていたが、まさか早々に友達から離されるとは思わなかった。しかも合コンに来ている男たちというのが、小日向のような紳士的なものはおらず、小春に対し遠慮なく肩などを触ってくる。話も自分の自慢話だったり車などの自身の趣味の話だったりと、小春にはちっとも楽しくない。
それを感じるたびに、「小日向さんはこう言わない」とか比べてしまい寧ろ気持ちは暗くなる一方だった。
小日向を基準に考えてはいけないのはわかっていたが、同世代の男の気遣いのなさに小春は恐ろしくなった。そのためどうしても口数が少なくなり会話も弾まない。すぐに黙ってしまう小春を持て余したように男性たちは他の人に話しかけ始めた。
助かったと思ったものの、その分することのなくなった小春は、ひたすら飲み物をちびりちびちと飲み続けるしかできなかった。
それがいけなかったのか。合コンが一段落する頃には小春はひどく酔っ払ってしまっていた。
足元のおぼつかない小春に友人は心配していたが、頭は体と違いはっきりしていたし、一人になりたかったため、送るという女の友人を断り一人帰宅の途についた。
そうして一人でフラフラと駅に向かっていたら、突然男に声をかけられた。
茶髪にヒゲをはやした軽い感じの男だった。
知らない顔に首を傾げれば、先ほどの合コンの出席者らしい。
男は同じ駅まで行くらしく、友人に頼まれて駅まで送ると言った。
あまりに小日向のことばかり考えすぎて、出席者の男の顔を全く覚えていなかったことにわずかながら罪悪感を感じ、男性の言葉に「駅までなら」と頷いた。
するとそれをどう勘違いしたのか、男は馴れ馴れしく小春を名前で呼んだ。
「あのさ、小春ちゃんってさ」
「え?」
突然名前を呼ばれ困惑すると、相手は「あれ?小春ちゃんて名前じゃなかったけ?」と慌てるので、首を振る。
「いえ、そうですけど」
小春が困惑気味に頷けば、「驚くから焦ったよ」と男に苦笑いされる。
それにどう答えていいか分からず困惑する。小春としてはさっき初めて会ったばかりの男性に、名前で呼ばれるとは思ってもみなかったのだ。
小春には社交的な姉とは違い、男友達などいないため、名前で呼ぶ男性などいない。小日向が最初から名前で呼んでいるのは、彼が姉の恋人だからだ。
苗字は姉と同じだし、姉も最初から「妹の小春」と紹介したので、違和感はない。
しかし、目の前の男は姉のことなど知らないし、先ほどの合コンでも小春は自己紹介で苗字しか名乗らなかった。
友達からは名前で呼ばれていたので、名前が知られていることに不自然さはないが、馴れ馴れしい男に僅かな嫌悪感が募る。
しかし男はまるで小春の様子など気づかないように無視して話しかける。
「小春ちゃんってさ、彼氏いる?」
聞かれて、やはりどう答えていいか分からず、俯けば男は小春の答えなど聞く気もないのか返事を待たず続ける。
「いないよね?いたら合コンとか来ないだろうし」
ぎゃははは、と大声で笑う男の言葉に小春は口を噤む。
夜中に大声もそうだが、会話の内容もデリカシーに欠け、嫌悪感はますます募るばかりだ。
周囲を見れば、夜のためか人通りがまばらなのが幸いか。男の声に近所迷惑になっていないかそれだけが心配で、一緒に歩くのがたまらなく不快だった。
しかし男に小心者の小春は何も言えず視線を地面に落とす。
「小春ちゃんってさ。無口だよね?もしかいて男と付き合ったことないとか?」
失礼な質問に、小春は答えない。それを恥ずかしがっての是ととったようで男はにやにやと嫌な笑みを小春に向ける。
「あ、当たっちゃった?じゃあさ、俺、小春ちゃんの最初の男に立候補しちゃおうかな?」
もう少しいったところに休憩所があるけど、どう?という男の誘いに凍りつく。
あまりのことに一瞬なにを言われたことがわからなかった。
しかし、いくら奥手な小春でも、大学生になってその言葉の意味を知らないわけではない。嫌悪感はひどく、鳥肌が立つほど男の存在は不快だった。
「冗談はやめてください。あなたとは会話もしなかったはずで……」
「冗談なんかじゃないよ?さっきの飲み会でもさ、小春ちゃん可愛いって思ってたし」
男に距離を詰められ、ぎくりとする。いつの間にか周囲には人はいなくなっており、街灯が一つきりの深夜に虫の声だけが響いている。
男の手が伸びてきて小春の腕を掴む。その強さと知らない他人の体温にぞわっと鳥肌が立った。
「あの、離して……!」
「くくく、怯えてんの?かわいー」
下卑た顔で笑われ、小春は怯えた。
触れる手も近づく顔も表情も、何もかもが不快だ。
何もかも知っているそれと違う。嫌悪感に小春は思わず叫んだ。
「やだ、離してよ!小日向さん!!」
「その薄汚い手を離せ」
突然かけられた声と共に長い脚がものすごい勢いで繰り出され、小春の腕を掴んでいた男を蹴り飛ばした。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴を残し、男は勢いよく吹っ飛んだ。
言っておくが決して男は小柄ではない、平均的な大人の男性と同じ体格であり、普通軽々吹き飛ばされるものではない。その吹き飛ばした脚力がすごいのだ。
あまりの光景に何が起こったのか。驚きに固まっていると、足の主である小日向が小春に近づく。
「大丈夫?小春ちゃん」
小春は呆然とする。確かに名前を読んだが、まさか本当に現れるなんて。
「小日向さん……」
「ダメだよ。小春ちゃん、そんな無防備な顔しちゃ」
安心させるように小日向は小春の肩をぽんぽんと軽く叩く。
先ほどの男には触れられるだけでおぞましかったのに、小日向に触れられた部分は不快感などなく、熱を帯びたように熱くなる。
癒されるような感覚に、いつの間にか凝っていた肩の力が抜けた。
「な、何なんだよ。おまえ!」
男の声が聞こえて、先ほどの嫌悪感と恐怖が蘇り、身が竦む。
そんな小春を小日向は守るように片手で小春の頭を抱え込む。
驚いたが、慣れた体温に思わずしがみつく。
小日向の臭いのするシャツが視界を覆い、それだけで守られている気がして、男がまだいるというのに小春はひどく安心した。
「消されたくなかったらさっさと行け。そして金輪際小春ちゃんに近づくな」
頭上から、低い声が聞こえて、次いで「ひっ」と短い悲鳴が聞こえたかと思うと、去っていく足音が聞こえた。どうやら小日向の一喝で男はしっぽを巻いて逃げてしまったらしい。
流石は小日向だ。あまりのかっこよさにドキドキと胸を高鳴らせていると、腕が緩んで小日向が小春の顔を覗き込んできた。
「小春ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。」
「本当に?ちゃんと見せて?」
言われて頬に手をかけられ、思いがけず近い顔に小春は顔を赤らめた。
「……ん?もしかして小春ちゃんお酒飲んでる?」
「え?」
指摘を受けて小春は青ざめた。結構飲んでいたので、もしかして酒臭かったのだろうか。
好きな男に酒臭い女と思われるなんて、最悪だ。
小春は思わず涙目になる。
「ご、御免なさい。お酒臭かったですか?」
「あ、いやそんなことないけど。……でもそうか。小春ちゃんもお酒が飲める年になったんだね」
妙に感慨深げな小日向の言葉がなぜか小春の胸に深々と刺さった。
「子供扱いしないでください」
小春の言葉に、一瞬小日向は驚いたように目を見開いたかと思うと、次の瞬間には何時もの子供に向けるような柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん。そうだよね。二十歳のレディに対して失礼……」
「それが子供扱いって言うんです」
すかさず遮ると小日向は困ったように苦笑を浮かべている。困らせている自覚はあったが、なぜだかこの時は小日向の言葉が癪に触って仕方がなかった。
助けてもらったというのに失礼な話だ。
しかし言い訳するなら、おそらくこの時小春は酔っ払っていた。
自分ではしっかりしていたつもりでも感情も行動もコントロールできていなかった。
だから小春は感情に任せてやってはいけないことをした。
「私、もう子供じゃないんです。だから小日向さんともこんなことできるんです」
小春は、小日向の首に腕を回し、背伸びして強引に小日向の唇に自分の唇を重ねた。
ずっと想像でしかできなかった小日向とのキスは思った以上に柔らかく甘い。そして塩辛かった。
それは自分が泣いているからだと小春は気づいた。
小日向は小春の行動に一瞬驚いたように目を見開くが、それ以上の動揺は見られなかった。
それが小春には小日向の返事のような気がして悲しかった。
それでも気持ちが抑えきれず、小春は絶対口にしないと決めた言葉を口にした。
「小日向さん、好きです。ずっと好きなんです」
胸が痛くて日本語すらおかしくして、小春はぽろぽろと涙を流した。
自分の感情がコントロールできずに泣く小春の腕をやんわりと外し、小日向はいつもと変わらないやさしい表情を見せる。
「……小春ちゃん。酔っ払ってるね?」
「よってなんかないです」
「酔っぱらいは大抵そういうものだよ。」
さ、送るからと手を出されるが、小春は拒否した。
「ヤダ!小日向さん!本当に好きなんです!」
そうして再び小日向にしがみつく小春に困り果てた小日向の溜息が聞こえてくる。
呆れられた、わがままな子だと嫌われたかと思うと胸が軋むが、小春はどうしても思いを告げることをやめられなかった。
小日向はとてもやさしい大人の男だ。こんなどうしようもない子供みたいな小春を無理やり引きずって帰ったりしない。ちゃんと言葉で諭そうとしてくれる。酔っぱらいだからといって話を切ったりはしない。
だから小春はそんな小日向のやさしさに付け込んだ。
「小日向さん。私を抱いてください」
流石の小日向も、一瞬体が硬直するのを感じる。しかし、ふっとなにか考えついたように笑いをこぼし、小春の背を優しくぽんぽんと子供にするみたいに叩いた。
「小春ちゃん?……もう、してるよ?」
小春をやんわり抱きしめながら笑って誤魔化すような、小日向の言葉に悲しくなる。
しかし、もうあとには引けない小春は言い募った。
「小日向さん。私はさっき子供じゃないって言いました」
そう言えばおそらく小日向はわかる。なにせ小日向の方が大人なのだ。
ごまかさないで、欲しいと言えば、流石の小日向もそれ以上言わなかった。
小日向の胸にすがりついて小春は懇願する。
「一度で、いいんです。一度だけ……。」
小日向は姉の恋人だ。そんなことはわかっている。
わかっている、これは罪だ。してはいけないと思っても小春には自分が止められない。
例えその先に未来がなくても思い出が欲しかった。
初めてを一番大好きな人に捧げることができる。それだけで小春はいずれ訪れる姉と小日向の結婚の時でもなんとか生きていける気がした。
「お願いします。小日向さん。一度だけ、私を抱いて……」
涙を流しながら、すがり付く小春には小日向の顔は見れない。
呆れられただろうか。はしたない娘だと幻滅されただろうか?
もしそうであって、二度と顔を見たくないと言われたら。そう思うとどうしようなく痛む胸に、死んでしまいそうになる。
溺れる者が藁を掴むように小春は小日向にしがみつく。
小日向の優しさに付け込んでいるのは重々承知だ。
例え、小日向の中の小春は夏生の妹という立場でしかなくても、やさしい小日向だ。
ここまで長く付き合った恋人の妹を邪険にしないだろう。
それは限りなくゼロ近い一縷の可能性。あまりに勝手な打算。
小日向の情に訴える。
それがどれだけ卑怯で最低な方法かはわかっていたが、小春には他に手はなかった。
どれだけの時間が経ったのか。
おそらく小日向の逡巡はそう長いものではなかったと思うのだが、小春にはひどく長く感じる時間だった。
そうして、訪れた瞬間。
溜息を吐きながら、小日向はそっとしがみつく小春の背に腕を回してきた。
その手が腰を撫でる動きに、小春は思わずびくりと体を跳ねさせた。
しかし、そんな小春の様子すら無視して、小日向は感情の見えない低い声で囁いた。
「……小春ちゃん、本気?」
「……冗談でこんなこと言えません」
「酔っ払ってたからとか、あとで言っても聞けないし、待ったもなしだけど……」
「そんなこと言いません!」
すかさず答えれば、深い小日向の溜息が聞こえてきた。
それから無言で小日向は小春の腰に腕を回したまま歩き出す。それはいつにないくらい強い力で思わず怖くなる。
しかし、何も言わない小日向に小春は怖くて何も聞けなかった。
そのまま小日向に抱き込まれる形で連れて行かれる。
小日向がどこに向かっているのか小春はわからなかったが、駅に近づいていることだけは道でわかった。
このままやはり家に返されてしまうのかと絶望しかけたとき、小日向が一つの建物に小春を連れ込んだ。
それはいわゆる休憩を目的としたホテルで、そんなところを小日向が知っているとは思わず小春は驚く。しかし、小春の動揺など無視して小日向は部屋を借りる手続きを澄ますと、小春を強引に連れて行く。
そのまま、意外に狭くシンプルな部屋に連れ込まれ、部屋の中央に置かれたベッドに押し倒され、唇を奪われた。
それは先程小春が小日向にしたようなもととはまるで違う別物のようなキスだった。
隙間のないほど深く唇を合わされ、まるで全てを奪い取ろうかとするほどの激しさに小春はクラクラした。だが、その手が服にかかった瞬間、慌ててその手を払う。
「ちょ、小日向さん待って!」
意外なほどに強引な展開に小春は混乱するが、流石に合コン後の風呂にも入っていない状況ではできないと抵抗したが、小日向の返答は短く、簡潔だった。
「待ったはなしだって言ったよ」
あっさりと、腕をまとめられ抵抗を封じられる。小日向がネクタイを緩める姿が見えた。
その姿を下から見上げれば、ひどく扇情的な光景で小春は顔を真っ赤にして俯いてしまった。その姿になにか勘違いしたのか小日向が少し声のトーンを落として囁くように小日向が小春の耳に口付けた。
「ごめんね」
なぜか降ってくる謝罪の言葉に、小春は泣きたくなった。
何に対しての謝罪なのだろうか。
姉への裏切りへの謝罪だろうか。そうである可能性が否定できないのは小日向が優しすぎるからだ。
恋人の妹の涙ながらの懇願に、根負けして願いを聞いてしまうような優しい人。
なんて優しく、そして残酷な人だろう。
そしてそんな人の腕の中でこれ以上ないほどの幸せを感じている自分がどうしようもない。
小日向は小春が望んだ通りにしてくれた。
体中につけられる小日向の印に小春は喜び酔いしれた。
そしてどうしようもなく絶望する。
この幸せは一夜限りのものだ。
小日向の熱を帯びた視線も、愛しそうに触れてくる手も。何もかも本来全ては姉のものだ。それを今夜だけ小春に向けてもらっているだけに過ぎない。
その事実に小春は涙を流す。自分にはその資格はないとわかっていながら止められなかった。
そうして初めての行為と荒れ狂う感情に泣き疲れた小春はいつの間にか眠るように意識を手放した。
◇ ◆ ◆
不意に誰かの身じろぐ音が聞こえた気がして、小春は目を覚ました。
同時に目の前に小日向の寝顔があってどきりとする。そのことで昨晩のことを思い出す。
そしてそのどうしようもない事実に今更ながら絶望する。
死んでしまいたいほどの後悔と、同時にどうしようもない虚脱感に襲われ小春はすぐには動けなかった。
しかし、このままでいるわけにはいかない。小日向が目を覚ます前にここを去らなければ。
小春は小日向を起こさないように、そっとベッドから這い出る。
昨夜のことで下腹部が痛みを訴えるが、そんなことを言える立場ではない。
小春は投げ出された衣服を身に付ける。正直体中がベトベトで風呂に入りたかったが、音で小日向が起きるかもしれないし、時間もないので、無理やり袖を通す。
身繕いだけ整え、そっと部屋を出た。幸い外に出るまで、誰にも会わなかった。
外に出れば、空は暗いが徐々にその明るさを増していた。
その光景を小春は呆然と見つめた。
どんな絶望的な夜であっても夜明けはくる。
明けない夜はないように、終わらない夜はないのだ。
その事実が今の小春にはどうしようもなく悲しかった。
兎に角ホテルから離れるべく小春は歩き出す。
心もそうだが、体中が痛い。特に激しい下腹部の痛みに早くは動けず、ゆっくりだが、少しでも遠くへと考え、歩みを進める。
痛みを意識するたびに、姉の恋人である小日向と寝てしまった事実はもはや消せないことを実感した。
後悔はしないと思っていたが、とんでもなかった。
罪悪感に今にも死んでしまいたかった。
姉とも小日向とも今まで通りにはいられない。
小春は二人を裏切ったのだ。
自分の勝手で小日向を好きになり、そして優しさに付け込んだ。
二度と二人に顔向けできないと思った。
このまま、どこかに消えてしまいたかったが、今の小春はまだ学生の身分しかない。
貯金もないし、そんな人間が一人で暮らしていけるほど世間は甘くないだろう。
とりあえず、家に帰るにしてもなんにしても電車が動き出してからだろう。
スマートフォンを取り出し、時間を確認する。
ボタンを押して画面を表示して、小春はぎくりとして思わず立ち尽くした。
大量の着信とメールが入っていた。
そのどれもが姉の名前を表示している。メールを開けば「今どこにいる?」や「連絡ください」といった内容で、無断外泊した小春を心配してのものだろうことは見て取れた。
百件は軽く超える着信履歴と、小春の安否を心配するメールの群れに小春は泣きたくなる。
普段そっけない姉だが、本当はいつだって小春を気にかけてくれているのだ。
毎年欠かさずに送られる誕生時刻に合わせたメールやプレゼント。
やや放任主義の母親と違い、普段はあまり視線を合わさないのに小春の小さな変化を見逃さずに気づいてくれる。
いつだって心配し、小春を大切にしてくれる夏生。
そんな夏生の恋人を小春は奪うような真似をしたのだ。
なんという裏切り。なんという罪か。
それでも昨晩のことを思い出すと、幸せな気分が蘇り嫌になる。
目を閉じれば、小日向の声が耳の奥に再生される。
甘く囁くように小日向に自分の名前を呼ばれる度に勘違いしそうになった。
まるで愛されているようだ。姉ではなく自分こそが。
何度も口づけられ囁くように呼ばれる自身の名前はまるで毒薬のように小春を蝕む。
だがあまりにも惨めな勘違い。自分の都合ばかり良い夢のような解釈に自分が情けない。
本当にどうしようもない自分に涙が出そうだった。
そんな風にゆっくりしていたのがまずかったのか。
「小春ちゃん!」
「っ!小日向さん!?」
背後から聞こえた声に驚く。
見るとホテルの入口から走ってくる小日向の姿があった。
その姿は慌てていたのかネクタイもなくシャツも僅かによれている。
小日向の姿に小春は青ざめた。
すぐに追いつかれる程度の距離に、自分で進んでいたようで、あまり進んでいなかったらしい。
それでも少しでも遠くに逃げようと慌てるが、急に下腹部の痛みが意識され、走れずあっさりその腕に捕まった。
その掴まれた場所から昨日の小日向の体温を思い出し、思いがけず顔が赤くなる。
だが、あれは昨晩だけのことだ。
勘違いしないように自分に言い聞かせ、小日向の手を振り払う。
「は、離してください!」
「何しているの?こんなところで」
「初めてのあとなんだから辛いだろうに」との小日向の言葉に思わず昨晩のことを否が応にも思い出され、赤面する。
そんな小春をいたわるように支えてくる小日向の優しさが今は心をえぐった。
今は触れられるだけで自分の罪の意識に押しつぶされてしまいそうだった。
ああ、本当になんてことをしてしまったのか。
「離して……」
「まさか本当に昨夜一度きりのつもりだったの?」
言い募れば、なぜか小日向の怒っているような気配を感じ、小春はぎくりとする。
見上げると、その瞳は今まで見たこともないほどの怒りをたたえていた。
小日向の肩を支える手の力が増し、小春の肩を圧迫する。痛みに小春は悲鳴を上げた。
「っ!小日向さん、痛い」
しかし小日向の力は緩まず、冷たい視線が小春を貫く。
「ねえまさか本当に?昨夜のことなかったことにするつもりだった?」
「そ、それは……」
普段にない小日向の様子に思わず目をそらす小春にかけられた声があった。
「……あんたたち、そんなところで何してるの?」
その聞き覚えのある声に、小春は固まる。
いま一番聞きたくなかった声だった。
もはや凍りついて動けない小春に変わって、小日向が呆然と声を上げた。
「……夏生」
そこにはスマートフォンを片手にした、夏生がなぜか立っていた。
◆ ◇ ◇
立ち尽くす小春たちを呆然と見つめる姉の視線に小春は凍りついた。
小春の体を抱きかかえるように立つ小日向。そして数メートル先にはホテル。
その様子に姉は状況を悟ったらしい。
だが流石は常に冷静で頭のいい姉だった。
その場で恋人の不貞をなじるわけでもなく、取り乱す様子もなく、小日向から小春の身柄を奪うと、小春の体を支えるようにして歩き、とある場所に連れて行く。
小日向ももちろんついてきた。三人は無言で向かった先にはビルの半地下に店を備えたバーだった。
時間が時間だけに小春などは店などやっているのと心配だったが、夏生は気にせず扉を開けた。
半地下の店内は薄暗く、しかし意外に広くテーブル席とカウンターが見えた。
カウンターにいた中年のダンディなバーテンダーが驚きの声を上げ、夏生と小日向の名前を呼ぶ。
どうやらここは夏生や小日向がよく来る店らしい。
そんな些細なことに姉と小日向の繋がりのようなものを見て、ちくり、と胸が痛む。
しかし、夏生はそんな妹の様子に気づいているのかいないのか。
小日向には店のテーブルで待つように指示し、小春を「スタッフオンリー」とかかれた扉の奥に連れて行った。
それから「話は後で聞くから」とタオルと着替えと渡し、奥にあったシャワールームに小春を押し込んだ。
バーの奥に入浴施設があるのは驚きだったが、今はそんなことを考える余裕は小春にはなかった。
あまりの状況に思考を止めた小春は言われたとおりのろのろと服を脱ぎ、シャワーを頭から浴びた。
徐々に体が温まり、それまでベタベタと気持ちの悪かった体が洗い流されていく気持ちよさを感じ、ようやく思考が戻ってくる。
状況を整理するようになぞり、そして小春はその場にしゃがみこんだ。
すくずくと痛む下腹部を抱え、小春は正直バスルームを出て行きたくなかった。
姉は言った「話は後で聞く」と。つまりはここを出たら、姉と全面対決しなければならないということだ。
どう考えても、小春は夏生に勝てる気がしなかった。
小春の中で夏生はまさにスーパーウーマンだった。
何でも出来て、いつだって冷静で、美人で隙がない。
そもそも小春に小日向をめぐって夏生と争う気はない。
勝てる気がまったくしないからだ。
だがそれではダメだと思った。
昨晩酒の力を借りてではあったが、小日向に小春は思いを告げた。
そして小日向は優しさや同情だけであったとしても小春の懇願に応えてくれた。
そんな小日向の優しさに自分だけが甘えていいわけではない。
優しい小日向を小春の口車に乗せて、姉を裏切るような真似をさせた。
その事実は消せない。
ならば、どれだけ卑怯と売女と泥棒猫と罵られようと、小春は小日向を擁護しよう。
それが例え姉と対立することになってもだ。
小春は小日向の不幸せなど望んでいない。
小春は知っている。姉といるときの小日向は小春といる時と違い、ひどくリラックスしている。素をさらけ出していると言っても過言ではない。
それに比べて、いつだって自分に接するときの小日向はひどく優しい。猫をかぶっているようにしか見えなかった。
自分にはまるで素直な感情を見せてくれない小日向を恨めしく思い、姉に嫉妬した。
だが、それが小日向の中の姉と自分の差だ。
小日向が楽に感情を吐き出せるのは姉の前だけ。
そんな安息地を小春が奪うわけにはいかない。
だから、小日向と夏生の仲が壊れないように、姉に自分が悪いのだとわかってもらおう。
それがどれだけ身勝手で独りよがりなのかはわかっている。
そもそも彼らの関係にヒビを入れたのは誰でもない小春だ。
それでも姉も小日向も小春にとっては大切な人間だ。
二人が不幸にならないように関係を修復させるのはもはや小春の義務だ。
小春は意を決すると、水を止め、シャワールームから外へ出た。
タオルで水気をきり、姉からどこから調達したのかわからない白いワンピースに袖を通す。
誂えたように小春にぴったりのそれのそばに置かれた銀色の光にぎくりとする。
それは銀色の包装の中に入った小さな錠剤だった。
おそらく避妊剤だろうが、あまりの用意の良さに小春は思わず怖くなった。
だが姉の好意なのかなんなのかわからないが、飲むしかあるまい。
水道から水をもらい、小春はそれを飲み込んで、洗面所にあったドライヤーで軽く髪を乾かし意を決して扉をくぐり、姉と小日向が待つであろう店内に戻った。
◇ ◆ ◆
半地下の店は薄暗い。既に朝日が昇っているというのに、窓のない空間に日の光はなく、独特の雰囲気を醸し出している。
見回せばカウンターの中でグラスを磨いているダンディな男性バーテンダーが微笑み僅かに会釈してくる。それに軽く頭を下げ、店内を見れば、テーブル席のひとつに姉と小日向の姿が見えた。
他に客の姿はなく、姉は戻った小春を見つけ、近寄ってきた。
「小春ちゃん」
声をかけられるが、なんと言えばいいか分からず俯いてしまう。そんな小春に夏生は未だに優しい言葉をかけてくれる。
「ちゃんと髪拭いた?まだ濡れてるよ」
そう言って手に持ったタオルで小春の髪を拭いてくれる。
その仕草が幼い頃の記憶に重なり、小春は泣きたくなった。
普段よそよそしいが、気まぐれに構ってくるときにはひどく優しく世話焼きな姉だ。
その優しさが今ひどく辛かった。
「お、おねえちゃん。私、もう子供じゃないんだから大丈夫」
やんわり姉の手を遮れば、少し傷ついた顔をされた。
その顔に罪悪感が募る。
「そうだよね。ごめんね?……小春ちゃんはもう子供じゃないものね」
なぜか姉の後半の声に空間の空気が下がった気がした。
ぞくっと背筋に寒気が走り、小春は震えた。
夏生はそんな小春からすっと視線を外すと目を細め、夏生は背後を振り返る。
その視線にさらされた小日向の肩がびくりと跳ねた。
「……こいつのせいで」
低い低い声が夏生から漏れた。
その声で小春は夏生がやはり怒っていることを感じ、泣きたくなる。
当たり前か。姉の男と知っているのに小春は小日向を好きになり、あまつさえ誘惑してしまった。だだをこねて小日向の優しさに付け込んだ泥棒猫だ。
許されるはずもない。
「お、おねえちゃん。御免なさい!」
小春は崩れるようにそばに膝を着き、土下座した。
体は痛むが、それどころではない。
突然の妹の土下座に、夏生が慌てる気配がする。
「っ!ちょっと、小春ちゃん、どうして貴女が謝るの!?」
顔を上げてと、珍しく慌てた様子の姉の言葉に地面に頭をつけたまま小春は首を振った。
「小日向さんは悪くないの!私が、私がいけないの」
私が無理に誘ったから。
小日向さんは優しいから。
そんな言い訳を繰り返す小春に夏生は言葉を遮らない。
こういう時の夏生は本当に小日向に似ていた。
最後まで相手の話を聞いてからしか結論を出さない。
だが最終的にその思考に相手の言い分が反映させるかどうかは、わからない。
姉は言い訳をされても自分が正しいと思っていることを曲げないからだ。
逆に言い訳が一定の正しさを秘めているならば、きちんとそれを反映した結論を出してくれる。
小春はそんな清廉潔白な姉を尊敬しているが、この場合はその潔白さが恐ろしかった。
姉の表情を知りたいと思いつつ、姉の目に軽蔑の色があるのを知るのが怖くて俯いてしまう。
やがて、状況の混乱からさらにどう言えばいいのか分からず、言葉が尽きる。
沈黙がいくらか流れたのち、夏生は口を開いた。
「小春ちゃん、立って?」
だが立てない。夏生の顔が怖くて動けない小春に夏生は再度声をかけた。
「小春ちゃん立って?そうじゃなきゃ……」
小日向を原型止めないくらいにしばき倒す、と冷たい声で言われ、小春は慌てて立ち上がろうとする。しかし
「悪いのは小日向さんじゃなくて私……っ!」
「小春ちゃん!?」
急に動いたせいか、下腹部の痛みに小春は崩れ落ちる。それを素早く、支えたのはいつの間に近づいていたのか小日向だった。
「小春ちゃん、大丈夫?」
そう支えてくれる力強い腕に、不覚にも小春は涙ぐんだ。
こんな時にもこの人が愛しいと思う自分の罪深さに呆れた。
小日向は抱えるように小春の体を浚い、一番近い椅子に小春を座らせた。
「昨日の今日なんだからあんまり無理しないで」
労わるように覗き込まれた小日向の左の頬はなぜか赤く腫れていた。
それで瞬時に姉に殴られたのだと気づいて罪悪感に胸が傷んだ。
だが姉の一撃を甘んじて受けてくれたことに小日向の誠実さが見えた気がして、己の独りよがりが招いた事態に小春は顔を青ざめさせた。
そのくせ、小日向の優しさに満ちた視線に、勘違いしそうになる自分がいて、小春は自分を叱咤した。
こんな状態の自分たちを見る姉の視線が気になって、そっと伺えば、姉は小春と小日向の様子を見たこともない冷たい目で見ていた。そこにちらちらとたぎる冷たい嫉妬の炎を見た気がして、小春は思わず震えた。
怯えた小春に気づいたのか、夏生はすぐに視線を逸した。
しかし、一度見た姉の嫉妬の炎は小春の目に焼きついていた。
あの聡明で美しい姉の瞳にあんな色が宿るなんて。
ああ、やはり自分は許されないか。
絶望する小春は、座った状態で姉を見上げた。
相変わらずスレンダーでシミ一つない白い肌に暗い中でも光を反射する艶やかな黒髪の姉は美しい。
黒いスーツに赤いヒールの大人の女性。蠱惑のラインを描く足のラインは特にきれいだ。
二十代後半となってそのさらに洗練された大人の美貌に思わず同性で家族であるはずの小春が見惚れるほどだ。そしてやはり同じように洗練され大人の男である小日向の隣はまさに彼女のような女性がいるべきであるとすら思えて、小春は惨めな気分になった。
「遥斗」
夏生が小日向の名前を呼ぶ。小日向遥斗というのが彼のフルネームだった。
だが、相変わらず優しい小日向は小春から視線を移さない。
それが嬉しくて、そしてそんな自分が大嫌いな小春はどうしてよいか分からず何も言えない。
そんな小日向に再び夏生の声が響いた。
「遥斗。立って?……そして、歯ぁ食いしばりゃあ!!」
緊張する小春の目の前で、次に夏生のとった行動に小春は目を見開いた。
突然姉が叫んで、ステップを踏んだかと思うと華麗な回し蹴りが小日向の胴を襲う
「ぐはっ!」
流石の小日向もその攻撃を予想していなかったのか、夏生の回し蹴りは綺麗に決まり、小日向の体は勢い込んで吹っ飛んでいく。
だが倒れた場所には誂えたように家具はなく、小日向は床にひっくり返った。
「このロリコン腐れ外道め!やっぱり許せん!」
その様子に唖然とする小春を置いてけ堀にして夏生は倒れた小日向に容赦なくヒールの一撃を加えていく。
「人の可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い妹、キズモノにしてくれさってからにいいい!」
「殺す殺す殺す!」とその後も何度もスカートがめくれるのも構わず、夏生は小日向をヒールで足蹴にする。
「あたた、夏生!ヒール刺さってるって、やめろ!死ぬ!」
小日向の悲鳴に、姉は「やかましい!」と一蹴する。
「できていたらどうする!しかも小春ちゃん似の女の子を!」
「くうう、想像しただけでたまらん!」と頬を染め、夏生は自分の腕を抱きしめた。
うっとりとよだれさえタラさんばかりにだらしなく恍惚とした表情を浮かべる夏生に、小日向がげんなりした視線を向ける。
「既に、女の子は決定か。相変わらずの変態ぶりだな」
「やかましいわ!それよりどうするつもりだ?」
「まさかこのままとは言うまいな?」と目をギラギラと光らせ夏生が睥睨する。
その様子は視線で人が殺せるならば殺せるほどの破壊力を持っているが、長い付き合いで慣れているのか、怯える様子もなく、小日向は真剣な顔をした。
「その時はきちんと責任をだな……」
「ほおお、ということはお前はそういう可能性を視野に入れてあたしの妹に手を出したんだな?……やっぱり殺す!」
むちゃくちゃな夏生の言い分に流石の小日向の顔もひきつる。
「そ、それはいくらなんでも理不尽じゃないか?」
「やかましい!それだけのことをしたんだお前は!くううう!あたしの可愛い小春ちゃんにあんなことやこんなことを……!」
「羨ましすぎる!」と何時ものクールな印象など微塵もなく、本当にだしだしとその場で地団駄を踏む姉の様子に小春は驚愕に固まる。
本当に姉なのかと不安になり恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……。おねえちゃん?」
「っ!小春ちゃあああん!」
小春の言葉に夏生が勢いよく振り返ると泣きながら抱きしめてきた。
その暖かさに幼い頃の記憶が蘇る。
まだ小さい頃はこんなふうに姉は小春を抱きしめ、抱っこしてくれていた。
その体温の心地よさは微塵も変わっていない。
「ごめんねごめんね?こんな腐れ外道を貴女に近づけて」
おいおい泣きながら抱きしめて、謝罪される。寧ろなじられ殴られる覚悟をしていたというのにこの状況はなんなのだろう。寧ろ恋人の敵とでも言わんばかりに、姉に成敗されたのは小日向である。
あるいは浮気男に対するそれとも思えなくもないが、それにしては姉の様子がおかしすぎる。
混乱する小春の視界に、こちらの様子をさも日常の光景のようにニコニコと微笑みながら見守るバーテンダーの姿が見えた。
「本当に夏生ちゃんは小春ちゃんが大好きなんだなあ」
バーテンダーの言葉にその意味するところを知り、小春は目を見開き固まる。
夏生はひとしきり泣いたあと、暗い目で小春を離すと小日向にどんよりとした視線を向けた。
「やっぱり許せない」
やはり今からでもこいつを海の藻屑に、と迫る姉を慌てて止める。
「ちょ、ちょっと待って!お姉ちゃん!」
慌てて、姉の言葉を遮る。あまりの状況に混乱していたがこれだけは確認しておかねばならない。
「お姉ちゃんと小日向さんって恋人じゃないの?」
聞けば、突然綺麗な姉の顔がひどく歪んだ。どす黒いオーラが見えた気がして、怯える小春に気づいたのか、夏生のそれはすぐに収まるが、嫌悪の表情は消えない。
「ああ?誰が、あんなのと?」
あれと付き合うくらいなら、家庭に潜む最凶害虫とダンスしたほうがましとまで言い放ち、顔を歪める姉の表情に混乱する。
小春の表情にようやく復活した小日向が苦笑いを浮かべるのが見えた。
「なんか変だな、と思ってたけど。そんな勘違いをしていたのか」
「え?だって、昔、家に連れてきて……」
「ええ?確かに連れてったけど、あれはちょっと学校とか外で話せない話があったからで……」
なぜか姉は気まずげな様子で言葉を濁すが、次には首を傾げる。
「でも、ただ家に連れてっただけで、なんでそんな勘違いに?」
姉に不思議そうに聞かれて小春が「お母さんが…」と思わず母に理由を押し付けてしまう。その答えにまたあの人の早とちりか、と姉が頭をかく。それからびしっと小日向を指差し、姉は胸を張って言い放った。
「あたしはこんな外道と過去の一度も付き合ったことはないし、その予定もなければ、恋情を向けた覚えはない」
「そうそう、夏生さんの恋人って僕だしね?」
突然の別の男の声に驚いて振り返れば、店の入口にスーツ姿の男がたっていた。
男は二十代半ばくらいの美丈夫だ。身長は小日向に劣るが、スラリとスマートな体に甘いマスクで小日向と違った美形だった。
その彼は姉に近づけば、姉の顔色が変わった。
「げ」
男の顔を確認すると、姉の顔が恐怖に歪む。だが夏生の蒼白な顔などまるで目に入らないかのように、男はにこやかに夏生に近づく。
「ひどいな。夏生さん。こんな大事な場面に僕をおいていくなんて」
「な、なんであんたがこんなところに……」
笑顔の男に対し、なぜか今まで強気でいた夏生が後退する。
男が進めば夏生がジリジリと後退する。
なぜかその光景は緊張感をはらみ、誰も口を出せない。
とうとう、夏生の背に壁があたり、それ以上の後退ができなくなる。
そんな夏生を逃がさないとばかりに、男は壁に手を付き夏生に身を寄せる。
突然の状況に訳も分からず、呆然としていれば、突然手が取られた。
驚いたが、すぐにその感触に小日向だと気づく。
顔を見上げれば、小日向は大丈夫とばかりに口に指をたて、小春を店から連れ出す。
店の扉を開いて外に出る直前、二人の声が聞こえてきた。
「あ、あんたには全く関係が……」
「関係がないって。夏生さんって、本当にひどい女だね?こんなに僕を夢中にさせておいてそれはないんじゃない?」
「な、そんなのしらな……っひ、ひぎゃああああああっ!」
突然の姉のこの世のもととは思えない悲鳴に思わず、振り返りそうになる。しかしその肩を小日向に止められる。
「本当に大丈夫だよ。彼らのあれは挨拶みたいなものだから」
本当にそうか、と思わないでもないが、小日向の言葉を小春は信じた。小日向は一度も小春に嘘をついたことはない。
姉との関係も勝手にこちらが勘ぐっていただけのことだ。
店から外に出れば半地下の階段が見え、頭上から指す日の光が眩しく感じられ思わず、目を細める。
いつの間にか時間が経っており、太陽が高い位置に見えた。
今まで苦しんできたすべてが取り払われたはずだが、妙にその光は眩しく感じ、小春は立ち止まった。先を行く小日向がそんな小春を怪訝そうに見下ろしている。
「……?小春ちゃん?どうかした」
「あの、小日向さん。本当に姉とは……」
小春の問いかけに、小日向は苦笑した。
「今も昔も夏生はずっと友達だ」
今は同僚かな?と笑う小日向。その言葉思わずポロリと涙が出た。
突然涙をこぼした小春に、驚いた小日向が普段の大人な態度を脱ぎ捨て、慌てる。
「こ、小春ちゃん!?」
困らせているのはわかっていたが、涙は止まらない。
苦しかった今までの思いが、勘違いであったのは穴があったら入りたいほど恥ずかしい。
それでも姉を裏切らずに済んだことがわかって嬉しくて、小春は涙を流し続けた。
それと同時に、一度は心情的に姉を裏切った自分が許せなかった。
こんな自分の思いばかりを他人に押し付けるだけの自分が嫌いだった。醜く汚い自分は、小日向にはふさわしくない。だから、小春は伸ばされる小日向の手を振り払った。
「っ、御免なさい。小日向さん。やっぱり私……」
小春は逃げるように階段を駆け登ろうとした。
しかしその前に小日向に腕を取られ、階段の壁に体を押し付けられる。
気づいた時には小日向の腕の中で、唇を奪われていた。
とろけそうに柔らかい唇だが、荒々しく口内を蹂躙する。
僅かな隙間すら逃さないとばかりに甘い表情の顔が降ってくる。
慣れない口づけに息が苦しいが、それでも幸せに小春はうっとりした。
やがて苦しさに逃げる気力も失い、膝の力が抜ける。
それを小日向は小春の腰に手を添え、抱き寄せ、小春の体を支える。
そうしてようやく唇を離す小日向は、息も絶え絶えな小春の耳元で囁いた。
「ごめんね、今更逃すことはできないよ」
「小日向さん……?」
名前を呼ぶと、小日向がなぜか僅かに苦しそうに眉根を寄せ「ごめん」とつぶやいた。
「君が苦しそうにしていたのは知っていたよ」
まさか夏生との仲を疑われているとは思ってもみなかったから、と苦笑いを浮かべる。
「ごめんね。もっと早くに気づいて言うべきだった。ずっと俺の方が年上なのに、君の苦しさの原因に気づいてあげられなかった」
抱擁を強くし「情けないね」と呟く小日向に小春は激しく首を振った。
「違います!小日向さんは情けなくなんてない!それは、私が言わなかったから……」
言い終わる前に再び唇を奪われる。先ほどより短い時間で解放されるが熱っぽい瞳が小春を射抜く。小春の色付きリップが僅かに小日向の唇に移り、てらてらと光っているのに気づき、さらに恥ずかしくなる。そんな小春への抱擁を小日向は強める。
「あまり可愛いこと言わないで。こんなところで止まらなくなる」
七つも年上のはずの男にどこか余裕のない声で密やかにそんなことを言われて小春は固まる。流石に大人な小日向がそんなことを言うとは思っていなかった。
頭をやんわり撫でられ抱きしめながら小日向はそっと小春に囁く。
「小春ちゃん。俺はね。ずっと君を見てきたよ。」
最初は興味本位だったけど、と忍び笑う。
「夏生がね、すごく可愛い子だ、て力説するから気になってたけどね。
最初に会ったときはそうでもなかったんだけど、あのバスで君を見かけてから……」
「え?あ、あのバスで助けてもらった時の……」
小春の言葉になぜか小日向は悪戯っぽい笑みを浮かべながら首を振った。
「君は知らなかっただろうけど、その前から見てた。君は高校受験の時からあのバスを使っていたよね?」
「ええ?」
驚く小春に小日向はそっと手を伸ばし、頬を包み込み額に額を付けた。
前髪が当たって僅かなくすぐったさに小春が身動ぎすると、小日向に笑われた。
「バスの中で友達とかとはしゃいだり、一人で真剣に受験勉強してる姿とか。合格した時の興奮した様子なんて可愛くて。何気ない姿をずっと見てた」
気づいたらずっと姿を追いかけてた、というのが正しいのかな、と囁かれる。
「もしかしたら、あの時には既に君が好きだったのかもしれないね」
再び小日向は小春に口付ける。それは童話の王子様がお姫様にするような優しい、触れるだけのキスだった。
それでもひどく恥ずかしくて顔を真っ赤にする小春に、小日向はとろけるような微笑みを浮かべた。
「ずっと前から君が好きだったよ。君だけを愛してる」
不意に小春は自身の手に絡まる小日向の手に気がついた。
そしていつの間にか自分の左手の指にハマる白銀のきらめきに驚き、小日向を見上げれば微笑まれる。
「本当は君が学校をきちんと卒業してから言うつもりだったけど」
指輪のハマる左手に口付けし、小日向はそっとその手を握りこんだ。
「ねえ、小春ちゃん。……俺のお嫁さんになってもらえますか?」
普段より低くて、でもとても甘い響きの声はまるで夢のようで小春は驚きのあまり動けない。
そんな小春にくすっと笑って小日向は「返事は?」と囁く。
その声があまりに艶っぽく小春は「は、はい」と答えていた。
その声に小日向の顔はとろけたように甘くなる。それから「よろしい」という声と共に再び口づけられる。
幸せだった。ずっと思い続けていた人とこうしていられることが。
絶望の夜を超えた先にあった、この幸福に全ての人に感謝したいくらいだった。
「……ところで、小春ちゃん?」
唇を離され、小日向に呼びかけられて、上気する呼吸を整えつつ返事をするとじっと見つめられた。
「小春ちゃんって、俺と夏生がつきあっているって思っていたんだよね?」
「え、あ、はい」
突然の小日向の言葉に、自分の失態を思い出し赤面する。
「ええ、勘違いでしたけど……」
「うん、でもさ。それって、小春ちゃんには俺は彼女がいながら君を抱いた最低男って思われてた、てことだよね?」
ニッコリと笑う小日向だがその目は笑っていなかった。
小日向の指摘に小春は青ざめる。
「そ、それは……」
しどろもどろになりながら言い訳しようとするが、何を言ってもひどいことにしかならないきがして、それならいっそと小春は顔を上げる。
「小日向さん!私を殴ってください!」
「っ!ええ」
小春の言葉に小日向が驚きの声を上げる。
「言葉でお詫びしてもひどいことを思ったことはなしにできませんから」
だからどうぞ、と頬を差し出す。
そんな小春に小日向は早々に白旗をあげた。
「いや、流石に殴れないよ」
「でも姉は小日向さんを殴ってましたが」
「いや、男が女に手を上げるのは流石にまずいでしょ?それにしても、やっぱり小春ちゃんって夏生の妹だな」
突然の小日向の納得した姿に小春は首をかしげた。
「そんなの当たり前じゃないですか」
「いや、あんまり容姿も似てないし、性格も正反対な気がしていたから」
「……それは、確かに姉ほど完璧な存在じゃないですから」
やはり小日向は姉のような綺麗でなんでもできる女が好きなのかと落ち込めば、小日向は乾いた目で、視線をなぜか逸した。その口端は引きつっていた。
「君が思っているほど夏生って完璧な女じゃないけどね」
「完璧ですよ。綺麗で優しくて」
自慢の姉です、と言う前に、突然小日向に唇を重ねられ、それ以上言葉を続けられない。
「……焼けるなあ。異性のしかも家族に嫉妬しても仕方ないのはわかってるけど」
しかも夏生に嫉妬する日がくるなんて思わなかったと、抱き込まれれば思わず笑いが漏れた。
「姉と小日向さんは違いますよ?」
そう言えば、すこし困った顔をして、「そりゃ同じと言われたら立つ瀬がないよ」と眉を下げられた。
「ん~、小春ちゃん。さっきのお詫びの件だけどさ」
「え?やっぱり殴ります?」
「いや、代わりにお願い聞いてくれない?」
そう前置きされてお願いされたのは、これから小日向の家に遊びに行くことだった。
「そんなことでいいんですか?」
あまりに簡単なお願いに驚く小春に小日向はどこか意地悪げな顔で笑った。
「簡単って顔してるけど。来てもらうだけじゃないからね?」
昨日のだけじゃ俺はまだ満足してないから、と囁かれれば意味がわかって小春は赤面する。
そんな小春に小日向が唇を再び寄せて来る。
それを受けて小春は微笑んだ。
「小日向さん、私あなたのことが大好きです」
不意打ちのように言えば、一瞬驚いた顔をされるが、すぐに微笑んで「俺もだよ」と囁かれる。
その幸せを小春は噛み締め、目を閉じた。
出会った頃からずっと姉のだと思い続けた人。
ずっと苦しくて姉を恨んだことすらもあった。
自分勝手な思い込みで勘違いだったと今わかって、晴れて彼を手に入れた。
その幸せは何者にも変え難く、小春は世界中の何者にも感謝したい気分だった。
だが一番感謝したいのは姉だ。
いつだって優しくて温かい姉。ちょっと過保護ではあるけれど小春を一番に思ってくれている。
姉がいたから、小日向に出会えた。
しかし、姉がいたからこそ、苦しい思いもした。
だが、その苦しみを乗り越えたからこそ、小日向が唯一無二の存在であると実感できる。
全ては姉のおかげだった。小日向の体温を感じられるほどのそばにいられる現実に幸せを噛み締めながら小春は、思った。
最大の感謝の気持ちを込めて。今度あのそっけなくて心配性の姉に告げよう、と思う。
貴女は私の自慢の姉――――と。
姉は変態です。