第39話「泣き顔」
2017年7月2日
午前8時47分
不思議な感覚だった。
浮いている感覚……
ああ……そうだった、俺は水路に落ちたんだな。
肩が痛む、懐中電灯を落として真っ暗闇になってしまったから分からないが、多分凄く血が出ているのではないだろうか?
参ったな……
ここは鮫の巣みたいな所だったよな。
早く上がらないと、血の匂いを嗅ぎ付けて鮫が来てし……ま……
身体が動かなかった。
海水の中を沈澱しようとする力に逆らえない。
諦めかけた、次の瞬間であった。
鈍い破裂音が仰向けに沈みゆく自分の上から聞こえたかと思うと、何かに掴まれ自分の身体が少し浮き上がり始めた気がした。
「潤!! 潤!」
今にも泣きだしそうな様子で自分の名前を呼ぶ少女の声に、潤はうっすらと意識を覚醒させていく。
聞き覚えがある。
普段からこんな声を上げるような少女ではない、この声の主はもっと強気な少女な筈なのに……
どうしたんだろうか?
「……要」
目を開けながら呟くと、思った通り、短いツインテールの顔立ちの整った少女が心配そうに自分を覗き込んでいた。
「……潤!」
安堵した声を上げる要、今にも泣きだしそうな声に聞こえたが、それは間違いだったようだ、その高いレベルで整った顔には、すでに筋がはっきり分かるくらいに涙が大量に流れていたのである。
「どうした? そんなに泣いて……せっかくの美人が……スゲェ台なしになってるぜ……うちの親が言ってたんだぜ、グループで将来一番美人になるのは要に違いないってさ」
意識の戻り切らない潤が弱々しく笑うと、
「ばかぁ! 何を言ってんのよ!」
要はそう叫びながら、ベッドに寝かされている潤の胸に飛び込んできた。
自分が目覚めたのは海岸沿いにある小さな診療所のベッドの上だった。
話によると、朝にひと仕事を始めようとした要が海岸の岩場に倒れていた潤を発見してから、偶然にそこを通りかかった楠木の車を停め、診療所に運び込んだらしい。
すでに学校や家には連絡がいっており、間もなく親がやってくる、と診療所の老医師は言った。
「潤!」
母親が現れたのは潤が目覚めた10分後だった、普段は割と物おじしない性格だが、息子が意識を失い海岸に倒れていた、と聞いては流石に慌てている。
「あっ、母さん」
「……潤、意識は戻っているのね」
ベッドから上半身を起こして、傍らの要と話をしている息子にとりあえずの安全が確認できた母親は大きく安堵の息を吐く。
「……母さん、大丈夫だよ、さっきまでは気を失っていたけどね」
「そう、安心したわ、連絡を受けた時は意識が戻ってない、ってお医者さんから聞いたから母さんびっくりしちゃって……」
「心配かけてゴメン」
「無事ならいいわ」
申し訳なさそうに謝る潤に、母親は首を振りながら歩み寄る。
「おばさま、どうぞ」
ベッドの横にあったパイプ椅子から立ち上がる要だが、母親は要に優しく微笑んで、
「あ、いえ、潤が無事ならすぐにうちの人に連絡に行かないと……意識が無いって聞いちゃってるから……でも、要ちゃん本当にうちの息子を助けてくれてありがとうね」
と、要の両方の手をとりながら頭を下げる。
「……いえ、私は別に……潤君を見つけて通り掛かった車に助けを求めただけですから、お礼は車の方にお願いします、太宰に新しくできる鉄板焼きのお店の主人の楠木さんっていう方です」
照れ臭いのか、母親にそう言いながら要は頬を赤らめた。
「ええ、そちらの方にも挨拶に行かないと、でも見つけてくれたのは要ちゃんよ、親バカかもしれないけど気が気で無かったから安心してるの! 本当にありがとうね」
謙遜する要に更に笑顔を強くする潤の母。
すると要も赤らめた頬のまま、顔を上げ、
「……はい、私も潤君が無事でよかったです」
と、微笑みを浮かべた。
かわいらしい笑顔である、何となくだが、母親と要は気が合いそうな気が潤にはした。
母親は潤の詳しい容態などを医者に聞いてから、父親に連絡をしてくると病室を出ていく。
「……私も今から学校に行くわ、琴乃姉達も一報しか聞いてないからきっと心配してる、意識も戻って元気になったって伝えないとね、帰りにまた来るわ……きっと、みんなでね」
優しく微笑む要。
「わかった……うっ!」
頷いた時、左肩に痛みが走り、潤は顔を歪めた。
「……先生の話だと左肩に何か怪我をしているみたいよ……何の傷だか判らないらしいけど、話したい事があれば話せばいいし、話したくない事なら話さなければいいわ、とりあえずは変な騒ぎにはならないようにはしておいたけどね」
そう告げると要はドアを開ける。
「……要!? 変な騒ぎって?」
呼び止めたつもりだったが、要は何も答えず廊下に出ると振り返る事なく病室のドアをゆっくり閉めた。
第40話に続く
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