第29話「振り上げた拳」
2017年7月1日
午前8時21分
潤と千島の前に立つ柳本聖。
薄い栗色に染めたショートカットの30代の美人だ。
「朝から耳元で何やら囁いているなんて……二人はそんな関係なのぉ?」
聖がニヤつく。
「そんな事ありません! 何言ってるんですか?」
明らかな冗談に対し、千島が厳しい表情のまま噛み付いた。
「おいっ、千島っ!」
潤が注意を促すが、千島の聖に対する敵対的な目つきは変わらない。
「あら、あら、随分と嫌われた物だわ」
聖は大人の態度だ、苦笑しながら、潤に視線を送ってくる。
「潤君と私が何を話したって関係無いです! いつまでもアテもないネタを探していないで、さっさと本土に帰られたらどうなんですか?」
千島の攻撃的な口調。
「……お、おい」
潤は思わず声を上げてしまう。
千島がここまで聖に攻撃的な態度をとるとは考えてもいなかった。
聖からは知り合いだと聞いていたし、千島から聖についての話を出した時も、そこまでの嫌悪感は見せなかったのである。
だいたい千島自体、誰に対しても温厚な態度がベースにあるようにしか見えていなかった。
「本当に今日は怒っちゃってるわねぇ」
聖が眉をしかめる。
「……」
何も答えない千島。
しかし、その瞳は雄弁に何かを語っていた。
「……どうやら、今日は話も出来なそうね」
千島との数秒の視線の交わし合いの後、聖はため息を深くつき、
「じゃあね千島ちゃん、それじゃ潤君もまた今度」
と、踵を返す。
しかし、千島は、
「待ってください! 今、潤君にまた今度、なんて言いましたけど取り消して貰えます? 潤君にもう近寄らないで!」
と、ぶっきらぼうに言い放つ。
「いい加減にしろ! 千島、聖さんに何の恨みがあるんだよ? お前らしくない態度だぞ」
流石にここまで攻撃的な千島に注意する潤。
だが、千島は、
「……黙ってて」
と、潤に対して低い声で言いながら、一瞥くれてくる。
「……」
千島の迫力に気圧される自分を自覚してしまう。
「良いのよ潤君、千島ちゃんは最近は私の事あまり好きじゃないらしいから」
聖はあくまでも苦笑の態度を崩さずに、潤に歩み寄る。
「……聖さん?」
「何ですか!」
千島が潤に聖の接近を許すまいとするが、聖はほぼ強引に潤に近づき、顔を寄せてくる。
「……ねぇ、私とあなたの関係はいくら千島ちゃんでも関係の無い事よね?」
潤の目の前に迫る聖の顔、大人の付ける香水の芳香が匂ってきた。
「……聖さん?」
「良いお付き合いしましょうね」
聖はそう言いながら、不意に潤の顔をグイッと引き寄せる。
「……なっ!」
予想外の事に何も反応出来なかった。
唇に触れる感触。
しかし、その感触は聖の唇では無い。
二人の唇の間には千島の手の平が素早く差し込まれていたのである。
「……んっ!」
驚き思わず飛びのいてしまう潤。
「チエッ、千島ちゃんの前で潤君と仲の良い所を見せてあげようと思ったのにな〜!」
笑いながら頭をかく聖だが、千島の表情は全く正反対の怒りで震えていた。
「……この女っ!」
千島は叫び、驚く行動に出る、何と聖の顔面めがけて拳を固めて振り上げたのである。
まるで空気を斬る音が聞こえてくる様な鋭さがあった。
しかし、聖はそれを上半身だけを後ろに下げて、紙一重でかわしたのである。
睨み付けた表情のままで拳を振り上げた千島。
拳はかわしたが、笑顔は引きつった聖。
見合う二人。
潤はそれをただ呆然と見続けていた。
「……冗談が過ぎます、潤君は都会育ちだけど、純情な男の子ですから変な事を吹き込まないでください」
千島は拳を降ろして、ポツリと言い、地面に落ちた鞄を拾い、まるで何も無かったかの様に聖に背中を向け、テクテクと歩き出す。
聖は何も答えずに千島の背中を見ていた。
その表情にはすでに笑顔は無い。
そして、戸惑う潤の視線に気がつくと、千島の方向を指でチョイチョイ指し、バイバイと潤に手を振り、反対方向に歩いていく。
「……じゃあ、また」
少し離れた千島には聞こえないような小さな声で潤は聖に声をかけ、千島を追って走り出した。
突然の事で頭が混乱はしていたが、聖には最低限ここではそう告げておきたかったのである。
第30話に続く
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