小鉄は三才になる雑種犬で、何でもよく食べる本当にいい仔だった。
丸くて黒い清んだ瞳に、丸まった尻尾がとても愛らしい白い犬だ。
小鉄が私の家に来たのは三年前の冬。
公園で寒さに震えていたのを私が見付け、不憫に想い連れて帰ったのである。
親とはぐれたのか、誰かに捨てられたのか、まだ小さい子犬はたった一匹でたたずんでいた。
「おーよしよし。寒いなあ?お兄ちゃん家行くかい?暖かいミルク飲もうな。おー、よしよし。大丈夫だよ」
愛くるしい眼差しで、尻尾を振りながら私を見つめるその子犬にすっかり夢中になってしまったのである。
小鉄はとても素直で優しい仔だった。
あの日出会えて本当に良かったと思っている。
人は日々様々な素晴らしい出会いがある。
それはとても大切でかけがえの無い物であると思う。
私にとって、素敵な出会いの一つにハムがある。
そう、皆様も大好きなあのハムだ。
初めて食べたあの日以来、うちの食卓にハムが並ばない日は一日も無かった。
あの色、艶、形、すべてが芸術的で最高のフォルムを形成している。
プリプリとしたボインボインのハムにむしゃぶりつく事ばかり考え、眠れないことも度々あった。
ひもで縛られた丸くて長いハムをムチでバシバシ叩き、「これでもかっ!えっ?どうなんだいっ!だまってちゃわからないってんだよっ!このメス豚がっ!火焙りにしてやろうか?
それとも甘辛く煮てやろうか?ええっ!」
そんなことばかり考えていた、淡い青春を過ごした。
思い出すだけで鼻血が出てくる。
当時十代だった私にはとても刺激的で、一度味わったら止められない麻薬のような物である。
ゲームより、漫画より、何より大好きだった。
特に丸金ハムのゴールドパック・プレミアムエディションは、まだお金が無かった私にとって手の届かないアイドルのような存在だ。
好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、私はハム工場に勤めていた。
アイドル達に囲まれる仕事。それは世の男性の永遠の夢ではないあろうか?
丸金ハムの小田原工場にて勤めを始めて早三年。
私はBラインの三番の部分を任されるまでに至ったのである。
仕事を中々覚えられず一人前になるまで三年掛かったが、急がば回れ、何てことはなかった。
どんな大打者もデビューの年の初打席は三振かデッドボールに終わるというデータが物語っているように、始めからうまく行くことなどないと思う。
ただ、最近ではほぼ完璧に仕事をこなせるようになり、女性陣の視線が少々痛い程だ。
女というのはいつの時代でもできる男に魅かれてしまう生き物である。
面倒で下品な生き物、それがメス豚だ。
私の仕事はBラインにおいて仕上がったハムのパックを開け、ちゃんと15枚入っているか確認する事だ。
私達Bラインのメンバー、通称B'Sが数えたのを、Cラインの田中さん達(CCボーイズ)が再び糊付けをして、全国の元気な主婦達の元へ出荷するのだ。
B'Sのメンバーは全部で四人。浜本さん、柴野君、マッちゃん、私の四人だ。
浜本さんは一番のベテランで、この工場で15年、その前のちくわ工場で10年、その前は新聞配達を二ヵ月していたという強者である。
私に仕事を教えてくれたのもこの方で、まったく頭が上がらない兄のような存在だった。
柴ちゃんは同期の桜で学年も一緒だ。
いつもちょっかいを出してくるので、たまにどこまで数えたのか分からなくなる事が多々あった。
大抵は浜本さんに見つかり、どやされ、グランドを三周走らされるのであった。
マッちゃんこと松本ちゃんは、入って三日の新人ながらもうラインに加わっている優れ者である。
私などは、ついこないだまで練習室にいたものだが......
それだけ優れたマッちんだけあって、私は分からないことがあるといつも彼に聞いていたのである。
私達四人はいつだって一緒だった。
朝礼の時、ハムを数える時、昼ご飯を食べる時、女子風呂を覗く時。
いつも一緒だった。
私は秘かにみんなを兄弟のように思っていた。
ある時など、作業中にトイレに行きたくなりライン長の浜本さんに報告しようとして、間違って“お兄ちゃんっ!”と言ってしまう程であった。
お兄ちゃんは照れ臭そうに、早く逝けと言ってくれた。
私はとても誠実に一生懸命働きましたので、業績ではどこの班にも負けたことはなく、今月のガンバルさんに選ばれた事もある。
そんな私の雄姿を耳にしたのか、小田原テレビの情報番組「朝だよ7時だよ」の頑張れ困ったさんのコーナーで紹介されたこともあった。
あの時はすさまじい反響で、朝から晩まで家の電話が鳴りっぱなしであったが。
素人の方はお分りにならないと思いますが、我々の仕事は決して簡単なものでは無かったのである。
時々Aラインの奴ら、通称エイメンが適当にハムを入れるので作業はとても困難を極めた。
「くそっ!吉田達めっ!これは一枚多い。これは二枚も少ない。これはハムではなくベーコンだっ。ふざけやがって。ハムを何だと思ってるんだっ!蒲鉾とわけが違うんだぞっ」
作業は徹夜になることもあった。
「ふざけやがって馬鹿野郎っ!ちゃらちゃらやりやがって。先輩といえど許せないよ。殺ってやるよあの野郎っ!」
当時の私は狂ったナイフのように、見るものを全てを傷付けかねない危険な存在であっただろう。
「おう、がんばっとるか?」
「あっ、吉田さんお疲れっす!はい、がんばってます。また例のとこ連れてって下さい。えへへ。失礼しますっ。ざっす。薄汚い豚めっ!ぺっ」
大好きなハムに囲まれた職場。
言わば私にとってハーレムに居ながら、幸せの絶頂期にありましたが、それでも毎日の仕事や同僚には少々うんざりしていました。
うんざりした毎日。
大好きなハム達に救われることは多々ありましたが、それでも私の神経は完全に参っていました。
半分ノイローゼになっていたのです。
当時の私の精神状態は尋常ではありませんでした。
スーパーで買い物をしている時、ハムコーナーで一心不乱にハムの数を数える自分がいたのです。
一個、二個、三個、四、五・・・
あれ?これは丸金ハムじゃないぞ?えっ?どういうことだっ!
おいっ!
君っ、ちょっと来たまえっ!
至急本社に連絡してくれたまえっ!
会議は明日朝五時だよっ!ちゅーてねっ。あはっ、あははは、あははははぁーっ。
らららー、らーららー。
警備員につまみ出されることが度々ありました。
大根で頭を叩かれた時もありました。
見知らぬおばちゃんに、かけていたサングラスを遠くへ投げられたこともありました。
すべてが無茶苦茶な毎日、何もかもが破滅的な日々でした。
そんなある日、あの夏の暑い日に事件は起きたのでした。
忘れもしない8月6日。忘れられるはずもないハムの日のことです。
私は当時思いを寄せていた女性がいました。
咲本良子さんです。
良子さんは職場のマドンナ的存在で、いつも笑顔が素敵な二十歳の女性でした。遠くから見る彼女の笑顔にいつも癒されてました。
精神的な病を患っていた私は心の支えを必要としていたのです。
私は意を決して彼女にプロポーズすることにしたのです。
三ヵ月分のハムを持って、タキシードを着て、彼女の帰宅を待ち伏せし、言ったのです。
良子さん。これから毎日このハムでハムサンドを作ってくれませんか?
僕はあなたのそのプリプリした体をひもで縛ってみたいのです。
ムチでベシベシ叩きたいのです。
我慢ならんのです。
辛抱たまらんにゃっ。
良子さんは突然のことに驚いたのか、泣きながら悲鳴を上げて逃げていった。
次の日、良子さんが一身上の都合により工場をお辞めになったことが、朝礼で告げられた。
夜行列車で故郷にかえったらしい。
どうしてっ?
どうしてどうしてっ!
うっ、うっ、うぁぁぁーっ!!
私は朝礼後トイレで激しく泣いた。
泣いて泣いて、自分の境遇を恨んだ。僕がバカだからっ?
不細工だからっ?
背が低いからっ?
貧乏だからっ?
父親が前科2犯だから?
ううっ、うぁぁぁーっ!そんなことが何なんだっ!
愛はそんなものを全てひっくり返す魔法の薬なんだ。愛は本当に不思議なんだっ! 愛は一時の幻なのか?
山よ木よ花よ風よっ!僕を包んで天に放り投げておくれっ。
虹の向こうに住む人々は、向こうから同じ色の虹を見ているのかい?
空を舞う鳥達は互いに歌でその想いを伝えているのかい?
眩しく輝く星達はその光で未来を照らしてくれているのかい?
あはっ、あはははーっ。
ラララーララロレーKあ@?*%#ぁgいばーバババババー。
それを見ていた浜本さんが全てを察してくれたのか、今日はもう帰ってゆっくり休みなさいと言ってくれた。
二年ほど休んどきなさいとも言ってくれた。
親切にも救急車を呼んでくれると言ってくれたが、丁寧に断りお礼をいうと家路についた。
しかし悪いことは次から次へと続くのです。
本当の事件とはこれからでした。
家に帰ると、私は見てはいけない、一番見たくなかったものをみてしまったのです。
私の長年の愛の形。
私の夢。
私の全て。
どう形容しても形容しきれないもの。
そう、三ヵ月分のハムが小鉄に食い散らかされていたのです。
私の全てが.......
うっあぁぁぁーっ!ぐぎーっ、ぐぬぬぬーっ。ごーっ、ごほっ!ごほっ!おぇーっ。
私の豹変ぶりに驚いた小鉄は勢い良く部屋を飛び出した。 ぺっ!ぺっ!ぺっ!
玄関まで小鉄を追い掛けていき、走り去った方に向かってツバを吐いた。
バカっバカっ!ぺっ!
私は近所の目も気にせず思う存分ツバを吐くと、少し落ち着き部屋へ戻った。 部屋中に散乱するハムを見ながら茫然と色々な事を考えていた。
工場のこと、B'Sのこと、愛していた良子さんのこと、そして.....そして何より大好きだった小鉄のことだ。
ううっ。
私は涙が溢れ出てきた。
公園で震えていた小鉄。
外を駆け回る小鉄。寂しいときいつも隣にいてくれた小鉄。
涙がどんどん流れてきた。
家に帰ると玄関まで走ってきてくれた小鉄。
いつも、いつでも元気でいてくれた小鉄。
私のハムを食べた小鉄。私の、私のハムを.....
ハム。ハムだっ。
わっ悪いのは小鉄じゃないんだっ、ううっ。
小鉄は悪くない。悪いのはハムだっ!丸金印のハムがいけないんだっ!
ハムサハムニダッ!
私はハムに人生を狂わされていたんです。
自分を見失っていたんです。
私はそれから三日三晩自分とハムを責め続けた。
そして......
それ以来ハムを口にすることができなくなっていました。
ハムを見るたびに未だ帰らぬ小鉄を思い出してしまうのでした。
辛すぎるのでした。
大好きだった、とても大好きだったハムですが二度と食べられなくなりました。
それからはウインナーを食べました。
パンに挟んで食べました。
春が過ぎ、夏が過ぎ、一日一日があっという間に過ぎていきました。
家のドアを半開きにし、小鉄の帰りを待ちましたが、入って来たのは空き巣と近所のオカマちゃんだけでした。
一日、また一日、時は虚しく過ぎていきました。
きっと、きっといい人に拾われて今頃大好きなハムを一杯食べているに違いない。
そうであってほしい。
そうであって・・・
あの時に工場を辞めて、B'Sのメンバーとはそれっきりでした。
その後、竹もっちゃんにスーパーで会ったが私の事などは虫ほどにも感じていないようでした。
マッちゃんなどは、“おーいっ!マッちゃんっ”と遠くから声をかけると、泣きながら走り去ってしまった。
こうした出来事は私をとても成長させてくれた。まだ少年のように幼かった私を一人の大人に育て上げてくれたのです。
それからはそんな出来事を振り切るように働きました。働いて働いて、何もかも忘れて無心に働きました。
それから幾十もの春が通り過ぎて行きました。
今、私は大帝国ハムの社長として日々多忙に暮らしている。
ご存じの通り、女房は
『やっぱり今夜もハムにしよう』のCMでお馴染みの大女優原光子だ。
金なぞ腐るほどあるし、いちいち通帳に並んだ数字を数えるのもしんどいくらいだ。
ただ、これだけの成功を収めた今でもあの時の事を思い出さない日はない。
二階の社長室から工場を眺めていると、Bラインには当時の私のように目を輝かせながらハムを数える若者たちがいる。
みんな大事な仲間はいるかい?
命を懸けて守れるものはあるかい?
ハムを愛してるかい?
うんうん、それでいいんだよ。
あの頃と何も変わらない工場の風景、なにも変わらない仲間たち。
ただ一つだけ違うのは浜本さんがCラインにいることだった。 二階から浜本さんの少々薄くなった頭を見下ろし、床にツバを吐いた。 ある日の暖かいお昼の事でした。
私たちは日々の暮らしのなかで色んな辛いこと悲しいことがあります。でも周りを見てください。友達がいます、家族がいます、小鉄ちゃんがいます。
そうした人たちに支えられて自分があるのです。
感謝をしましょう。思いやりを持ちましょう。
仲良くしましょう。
あの日の私とBラインの仲間達のように。 |