ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
#2
「相変わらず汚い事務所ね、ここは」
 まるで警察署の取調室にでも入ってきたかのような嫌悪感を、包み隠さず具現化して吐き捨てる言葉使い。
 真っ白なピンヒール/真っ白な生足/真っ白なミニスカート/真っ白なシャツ/真っ白な顔/つばの広い真っ白な帽子――長い髪だけがクリスティーナ・ヘンドリックスを思わせる綺麗に染めた赤毛――大きな目と細い眉毛をすっかり隠す色の薄い大きなサングラス/すらっとした鼻/小さく分厚い唇は髪よりも深い赤い色に塗られている――身長一四五センチの小さくて細い体――酒井しのぶ/三十二歳/独身。
 おれの天使/いや――堕天使――
 おれにはしのぶがしっかり見えていた/脳みそは揺れていなかった/冥王星にぶっ飛んでもいなかった/ひどく冷静だった/すべてがスローモーションに見えた――そして全身がガクガクと震えていた。
 帽子を帽子かけにヒョイッと引っかけ、サングラスをはずしたしのぶ――真正面で全身を震わせているおれを見る/何も言わずに足早に近づく/バッグをソファーに投げる/おれの目の前でカツカツと甲高いピンヒールの足音が止まる――
 おれはしのぶを冷静に見ているわけじゃなかった――全身が硬直し視線を入り口のドアから動かすことができないだけだった――必死になって目を動かそうしたがだめだった/首をまわそうとしたがだめだった/アームチェアを回転させてしのぶのほうに体を向けた。
 おれの恐怖の真相を知っているしのぶ――おれが恐怖を懺悔したただ一人の女/何もかもを懺悔した/おふくろの下着の匂いを嗅いでいたこと/めぐみにカシューナッツをしごいてもらっていたこと/おれがボロ雑巾にされたこと/めぐみがレイプされたこと/そしてめぐみがレイプされているのを見てカシューナッツがポークビッツくらいにはなっていたこと――何もかも/全部。
 おれは格好つけて何か言おうと思った/気の利いた何かを――口は開けた/歯がカチカチと鳴るだけだった/言葉が出てこなかった/出るのは汗だけ――どうせ喉がカラカラに渇いて、声が出たとしてもしゃがれているだろう。
 おれを見つめるしのぶに向かって――おそらくは青ざめ引きつっている顔で――無理やりニヤッと笑顔を作ってみた/だが――どうやら失敗だったようだ――しのぶの目が痛々しいものを見る慈愛に満ちていた。
 しのぶは目を閉じた――そしてすぐに開いた/その目はレオナルド・ダビンチの描く聖母マリアよりも高潔な母性に包まれていた――おれを抱きしめるしのぶ――聖母マリアのような/マドンナたちのララバイが聴こえるような温もりで――
「大丈夫よ……」
 それは天使の声だった――今さっき入り口で怪訝な声を出していたのと同じ女から発せられたとはとても思えない――美しく/やわらかく/温かく/世界中を包み込む声――
 そのまま何も言わずただじっとおれを抱擁してくれるしのぶ――赤毛がおれの顔を覆う/シャンプーの匂い/香水の匂い/しのぶの汗の匂い――おれの震えは徐々におさまっていった――十秒だか十時間だか/しのぶはおれを抱きしめてくれていた。
 しのぶの真っ白な腕に手をかける――もう震えてない――しのぶはおれからゆっくりと離れた。
 おれは半袖Tシャツの袖で顔の汗を拭った――アームチェアから立ちあがる/キッチンに向かう/冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して一口飲む――机まで戻りタバコを取る/咥えて火をつける――その一部始終を黙って見ていたしのぶ――
「真由美さんがサンドイッチを作ってくれていたわよ」
 いつも通りの高飛車なしゃべりに戻るしのぶ。
「そうか、そりゃありがたい」
 おれはまたアームチェアに座った。
 真由美/この五階建てビルの家主/一階で喫茶店を経営/二階はここ/三階から上はマンション/真由美は五階で暮らしている。面倒見がよく、おれのことを何かと気にかけてくれ、食事の世話から掃除、洗濯までなんでもやってくれる三十七歳/独身。
 ソファーまで行きドカッと座るしのぶ――勢いがよすぎてバウンドする小さな体。
「あんたシャワーくらい浴びたら? 汗臭いわよ」
 もうまったく聖母マリアの面影はない――そしておれが震えていたことにはまったく触れない/いつものことだ/おれの発作――おれを抱きしめるしのぶ。
「これから出かけなきゃならない。サンドイッチを食ったら浴びるさ」
 机に足を投げ出すおれ。
「あら、仕事が入ったの?」
「まぁな」
「あんたに仕事を頼むなんて、よっぽどな物好きかただのバカね」
 しのぶがおれに向かって手を伸ばした――おれはしのぶに向かってタバコを投げた/ナイスキャッチ――一本取り出し咥える/バッグを開ける/高価なものにしか見えない細長いライターを取り出す/火をつける――
 じいさんの遺産で手に入れたマンション/貸しビル/駐車場/その他もろもろのおかげで、働かずにかねが転がり込んでくるしのぶ。
 天使のように透き通る肌/処女の少女のような幼さと男を引き寄せる色気を合わせ持つ/聖母マリアのような温もりまでもを自在に使いこなす――喜怒哀楽が激しく勝ち気で大ざっぱなくせに感受性がとても豊かな女。
「ところで、探偵ってのはストーカー退治も仕事のうち?」
「普通の探偵ならな」
「あんたは?」
「内容による」
 おれはタバコを消すために、足を机からおろして体を起こした。
「内容ってどんなのよ」
「かねになるかならないかだ」
「それって内容じゃないじゃないの」
 しのぶがソファーから立ちあがってキッチンに向かった。
「かねより重要な内容なんてそうそうないさ」
 バーカウンターにおれが置いた水を取り一口飲むしのぶ。
「まぁいいわ。あたしストーカー被害にあってるから、あんたなんとかしなさい」
 なんだって?――「おれに仕事を頼むなんて、よっぽどなもの好きかただのバカだぞ」
 おれはわざとクールに/わざと関心なさげに/わざと素っ気なく返答した。
「無駄口叩いてないで、引き受けなさい!」
 わかっている――しのぶの命令に逆らえるほど、おれはまともな思考回路を持ち合わせていない。おれはしのぶの願いならなんでも聞いてやる男なんだ――ただしちょっとだけケチをつけたくなる――男として女のいいなりになるもんかというプライドの現れ。
「おれを雇うなら、普通の探偵よりも高いかねを払う覚悟が必要だぞ」
「あんた、あたしの頼みが聞けないって言うの?」
「時給三万で経費は別払い。それ以上は負けん」
 あんぐりと口を開けるしのぶ。
「時給三万って……あんたバカ?」
「依頼するのか? それともしないのか?」
 ペットボトルを潰れるほどの力で握りしめ、水をゴクゴクと飲むしのぶ。
「時給二万で経費込み! 足りないぶんはいつもの通りよ!」
 いつもの通り/体で払う/しのぶはおれに貸しを作りたがらない/頼みごとがあるときは必ずかねと体を差し出す。
「契約書にサインしな」
 机の引き出しを開ける――二〇〇七年以降、国の拘束を受けるようになった探偵業務――必要な書類を数枚取り出す/しのぶに向かってヒラヒラとはためかせる。
 おれの隣まで来てその書類をひったくり、いらだたしげに乱雑にサインするしのぶ。
「足りないぶんは体で払いますって書いたほうがいいのかしら?」
 上から目線でおれを睨み、書類をヒラヒラさせている――おれは書類を奪い取り、サインを見もせず机にほうり投げた。立ちあがってしのぶを引き寄せ、前かがみになりキスをした――
「なによ急に」
「契約金代わりだ」
 ニヤリとするしのぶ――「相変わらずの格好悪い格好つけね。でもそこが、あたしがあんたを唯一気に入っているところかもしれないわ」
 唯一ってことはないと思うが――まぁそれでもいい。
「それじゃ、もう少しだけ払ってあげる」
 おれの首に手を絡め背伸びをするしのぶ――八センチのピンヒールを履いているから背伸びにあまり意味はない/おれの目を捉えたままのしのぶの目/半開きの真っ赤な唇――おれは体を屈めた/しのぶの唇がおれの唇を飲み込んだ――
 真っ昼間からの熱いディープキス――タバコの匂い/しのぶの口の匂い/化粧品の匂い/しのぶの舌がおれの唇を押し開く/おれの口の中で絡み合う舌と舌――ジーンズの奥で息子のジョンが窮屈そうにジャンプした。
 スチールドアが開く音――真由美がサンドイッチとコーヒーを乗せたトレイを持って立っている/おれとしのぶの抱擁に気がつく――別に驚くでもない真由美。
「あら、失礼」――と言って、トレイを腰の高さのロッカーの上に乗せ、ニヤニヤしながら手を振って出て行った――
 おれは横目でそれを見ながら手を振り返し、その間もずっと股間と脳みそを刺激するキスを続けていた――


【酒井しのぶのブログを紹介】
しのぶのあっちがわ
酒井しのぶの作品や更新情報の紹介、作家として思うことなどを書いているブログです。

【酒井しのぶの作品はこちら】
本格ハードボイルド長編小説 

一話読みきり短編作品集 

電話での会話形式による超ショートショート集 

【ランキングに参加中】
作品を気にいっていただけたらクリックにご協力ください。 一人でも多くの人にわたくしの作品を読んでもらいたい……。 そんな小さな願いのために、お願いいたします。
    にほんブログ村 小説ブログ ハードボイルド小説へ   人気ブログランキングへ   blogram投票ボタン  


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。