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#1
 電話が鳴っている――聞き慣れた呼び出し音が頭の中のはるか彼方から聞こえる/音はだんだんと大きくなる――
 突然/頭の中で鳴っていた音が耳から聞こえるようになる/目が覚める。
 バーカウンターに突っ伏して寝ていたおれ――ハイスツールから飛びおりる/アンティークなコーヒー色の机に向かう/プッシュ式の電話/耳障りな電子音/灰色の平たい電話/灰色の平たい受話器――「はい、片桐探偵事務所」
 自分の声が寝起きであることをはっきりと相手に伝えてしまっていることがわかる。
「五分十二秒だ」
 電話の向こう/声の主/高橋――仕事仲間/盗聴のプロ/本業は風俗雑誌の編集長――三十九歳/タフガイ/声の調子から機嫌がいいのがわかる。
「朝からずいぶんとゴキゲンだな。なんだその五分十二秒ってのは」
 新聞と週間誌だらけの机――隅に置かれているマグカップ/昨日のコーヒー/飲む――不味い/一昨日のだったかもしれない。
「おまえが電話に出るまでにかかった時間が五分十二秒だ。それに今は朝じゃない、昼だ。十二時を過ぎたところだ」
 腕時計を見る――クッションがぺっちゃんこに潰れたアームチェアに座る/机の上/新聞だの雑誌だのを端に寄せる。
「ま、おまえの飲みすぎはいつものことだからな」
 高橋がタバコに火をつけた音が聞こえる/煙を吐く空気音が聞こえる。
 受話器を耳と肩で挟む/アームチェアを背中側に回転させる/窓のカーテンを少しだけ開ける――眩しい日差し/暑い――外はいつも通り/新宿南口/裏通り/雑多な賑わいを見せている。
「で、五分十二秒も鳴らし続けた理由はなんだ?」
 アームチェアを机に向け直す/背もたれに頭を沈める/足を机に投げ出す。
「たまに小遣い稼ぎ程度の仕事をくれるヤツから依頼があった。本格的な仕事のようだったから、おまえを紹介しておいた。今日の午後二時、恵比寿のマエストーソってイタリア料理店に行け。遅刻はだめだ。店に入ったら店員におまえのフルネームを伝えれば依頼人のところに案内してくれる」
 タバコ/ハイライト・メンソール――火をつける/吸殻が山盛りになっている灰皿/手前に寄せる。
「ずいぶんと急だな。あと二時間しかないじゃないか」
「急なのは、おまえが昨日の夜も一昨日の夜も電話に出ないからだ。どうせ飲み歩いていたんだろう」
 そうか――ここのところ仕事がなくって飲んでばかりいたからな/そういえば今日も――さっき帰って一杯飲んでいたところだった/いくらも寝ていないのに何日も眠ったように頭がぼやけている。
 尻のポケット/携帯電話――取り出す/ディスプレイ――高橋からの着信が何件も続いている。
「人に知られたくない依頼か」
 笑う高橋――「探偵に頼む仕事で人に知られたい内容なんてあるわけないだろう」
 おれも笑う/ニヒルに――「社会的地位ってのを確立してるヤツなんだろう? スキャンダルを避けたいからって理由で、かねをばら撒いて探偵をこき使うんだ」
 電源が入ったままのデスクトップパソコン――恵比寿/マエストーソ/検索――ホームページをクリック。
「かね持ちのホストがいなきゃ、おれたちみたいのは生きていけんからな。皮肉を言ってもはじまらんさ」――おれの戯言なんていつものことだと言わんばかりの高橋。
 超高級な雰囲気/創作イタリアン――住所/電話番号――メモ帳に書き取る。
「オーケー、行くだけ行ってみるさ」
 一昨日のコーヒーに手を伸ばす――飲み干す/不味い。
「ところで話は変わるんだがな」穏やかだが少し緊張気味な声に変わった高橋――「一昨日、めぐみに会った」
 脳みそがドスンと揺れた――震度六/一瞬にして体がゼリーのようにグニャリとなった。
「新大久保でな、ちょっとした仕事のあとで夜食用にチヂミを買っている最中だった」
 なるべく面白く話をしようとしている高橋――だがぜんぜん面白くない。
 めぐみ/おれの姉貴――生きてりゃ三十九歳/何年か前までは高橋の恋人。
「それでちょっと、話をしただけなんだがな」言葉を選ぶように間を置く高橋――「おまえのことを心配していた」
 目の前が急に堕ちた――ガクンッと音が聞こえるほど/いきなり/勢いよく/一瞬で――
 壊れたテレビ画面のように高速で下へ下へスクロールする――違う/おれがぶっ飛んでいるだけだ――マッハ六で大気圏を突っ切る/あっという間に冥王星までぶっ飛んだおれ――冥王星にはねずみのカウボーイがオスカー級のイチモツをぶら下げてニタニタと笑っていた/おれはおふくろの下着を漁っていた/めぐみがおれのカシューナッツをしごいていた――
「おい、有二!」
 受話器をつんざく高橋の大声――われに返る/汗が噴き出す/肩がガクガクと音を立てて震えている――その肩に挟まれた受話器が腹にずり落ちる。震える手で咥えていたタバコを灰皿に突っ込む/受話器を拾う――耳にあてる。
「ああ、聞こえている」――声も震えている/しゃべると歯がカチカチと鳴る。
「すまん、余計なことを言っちまったな」
 大きく息を吸い込んで落ち着こうと思ったが、まともに息が吸えなかった。
「いや、大丈夫さ」
 大丈夫じゃない――手の震えを止めなければ/机から足をおろす/ジーンズを握りしめる/拳が真っ白に浮かびあがる。
「おまえやっぱり、まだ……」――まだトラウマに囚われたままなんだな――とは言わない高橋/そうだともそうじゃないとも言わないおれ。
 なにも考えないようにするために部屋の中をゆっくり見まわした――机の前に黒い牛皮のソファー/ガラスのソファーテーブル/その先に出入り口のスチールドア/ドアの脇には腰の高さのスチールロッカー/木製の帽子かけ/右のほうに目を動かす――ハイスツールが三つ並んだカウンターバー/その中がミニキッチン/酒が並ぶ棚/バーの右隣にドアのない出入り口――中は突きあたりが洗面所/右のドアがトイレ――
 視線を大きく右に――おれの真右に居住スペースに続くドア/中はベッドルームと壁一面のクローゼット/それに個人用のトイレとバスルーム――
 入り口に視線を戻す――向かって左側/壁一面にスチールロッカー/スチールラック/本棚/おれの背中側は腰から上が端から端まで窓/床は傷だらけのフローリングで土足生活――店舗を改造したオフィス兼居住空間――ここがおれの根城/片桐探偵事務所/いつもと変わらぬ乱雑な事務所/窓の外/いつもと変わらぬ新宿南口/雑居ビル街/いつもとかわらぬ二階からの眺め――いつもと変わらぬ二〇〇九年の三十六歳になったばかりの九月/何も変わらない/何もかもいつも通り――酒とタバコと埃の匂い――いつもと変わらないことで少しだけ落ち着きが戻る。
 息を大きく吸い込んだ――今度はちゃんと吸えた/ゆっくり吐いた。
「で、めぐみは元気だったか?」
 根性をこんこんと沸きあがらせて、なんてことないって素振りで話す。
「ああ、元気だった。昔よりも綺麗になっていた。旦那と離婚したって言っていた。綺麗になったのはそのせいだな、きっと」
 旦那と離婚――高橋と別れたのは四、五年前/別の男と結婚したのは三年前――おれたちなんかとは違うもっとずっとまっとうな男――
「あ、いやその」言葉を選ぶための間をとる高橋――「離婚の理由は聞いてない」
 おれのトラウマ/めぐみのトラウマ――恐怖のセックス&バイオレンス体験――たぶん理由を聞いている高橋/たぶん恐怖のトラウマが原因の離婚/たぶんおれにそれを隠すための嘘――手がまた震え出す/汗が沸々と噴き出す。
「すまん、話題を変えよう」――気を使う高橋/咳払いをする。
 もう強がる余裕がないおれ――根性はこんこんと湧きあがらなくなった。
「この前、吉原に取材に行ったんだ」
 取材/ソープランド無料体験――インタビューはほんのちょっと/ネタになりそうな世間話はいつまでも/一流遊女との戯れ。
「その店のナンバーワンのソープ嬢が言っていた。ここ一ヶ月くらいでマリファナがとんでもなく溢れ出してるらしい」
 いきなり/まったく/ぜんぜん関係のない話題に飛び移った高橋――ネタには苦労しない仕事――盗聴も/風俗情報誌も。
 わざわざ話題を変えてくれた高橋に敬意を表して元気な振りをするおれ。
「そりゃきっと、毎朝欠かさずに水をあげている素人売人がいるせいだろう」
 笑う高橋――「おれに言わせりゃ、毎晩欠かさずに酒を浴びてるヤツも同類だがな」
 景気のいい皮肉を食らうおれ――手はまだ震えていたが頑張って笑ってみた。
「浴びるなんてもったいない。一滴残らず飲んでるさ」
 笑う高橋――「それじゃあ、午後二時に頼んだぜ」
「ああ、遅刻は厳禁だったな」
「依頼人は生意気なヤツだが、かね払いはいい。怒らせないようにして稼ぐことだ。それじゃあまたな、相棒」
 電話は切れた――平たい受話器を置く。
 そういえば――今朝のゲームセンター/マリファナを吸っている女子高生がいた/溢れ出しているマリファナ――二十五年前の恐怖が溢れ出している気分になる/栗田はなぜあいつらを補導しないんだ/くそったれの警官ども/くそったれのジャンキーども/関わりを持たないように生きるくそったれのおれ。
 めぐみ――おれの原子爆弾/忘れた記憶/失われた記憶/記憶を思い出させるものに遭遇すると、脳みそが震度六で打ちつけられる。目の前が高速で堕ちる。そしてマッハ六で冥王星までぶっ飛ぶ感覚に襲われる/冥王星で恐ろしい幻覚を見る/恐ろしい幻聴を聞く/ボロボロになって地球に舞い戻る。
 フラッシュバック――キーワードはいろいろ/恐ろしくて言葉にできない/なにが起こったのか/死ぬほど怖くて言葉にできない――めぐみ/おれがあのとき叫び続けた名前/血を吐きながら叫び続けた名前/そして叫び続けた果ての記憶がないおれ――手がまたガタガタと震え出す――
 突然/ドンッと入り口のスチールドアが開いた。


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