第参戦.薬
鞘から刀を抜くと、錆一つ無い刀身が現れた。
表裏一対の其れの表面は傷が付いていたが、あまり目立つ物ではない。
縁のない眼鏡の奥のどろりと濁った黒い目は何も映さないが、刀の小さい傷を捉えていた。
黒髪を一つ結びにした彼は、番号壱。遠視である彼は刀の手入れの時だけ眼鏡をかける。
菊の間の、入り口から一番近い個室の壱は、行灯の前で刀を抜き、刀身に指を這わせた。
檻に来る前から使っていたこの刀は、長年愛用しているだけはあり、使いやすい代物だが、刃こぼれしている所を見つけ、眉を顰めた。
訓練では真剣しか使わない上、味方同士で何度も刀を交じらせたからか。
胡坐をかき、黒一色の着流しに身を包んだ壱は、行灯の光だけでは、暗闇に溶けてしまいそうだった。
あまり犠牲者を出さずに、江戸の町を取り戻すことが彼の思想だった。
しかし檻は、大量殺人を犯す為の人間兵器を生み出す場所、彼の考えとは真逆だ。
望まずに入った、この大規模な訓練場を抜けることも出来ず、彼は文句一つ無く訓練をこなした。
が、今回は彼も黙ってはいられない。
教授が許可無しに行った、天人の血_薬によって、人間を強化させる実験は、敵である天人の力を使うこと、天人に選択の意思があること、と、侍にとって屈辱でしか無い物だ。
その上、失敗すれば死が待っている。
教授のやり方は横暴だ。これでは誰も付いて来ない。
壱は息をついて、刀を鞘に収めた。
瞬間、がらりと部屋の障子が開き、廊下の光と共に小柄な一人の人が飛び込んできた。
障子はすぐに閉じられ、手元しか照らせない行灯ではその姿は確認できない。
条件反射で壱は立ち上がると刀を抜き、かけた。
入ってきたその者が、うずくまるように座り込んだからだ。
竹の間、否、菊の間に居る侍は全員男、基本は図体が大きく、小柄な者でも、女のような小さい者はいない。
壱が、その者を女と認識すると、昨日隊長として紹介された、零だと気付く。
刀を収め、動かない零を警戒し、少し腰を落とす。
朝飯の時、零があっさり仲間である人を斬ったのを見ていた壱は、稲生と同じように零を良く思っていない。
鞘を左手で押さえ、柄を右手で握り、零の後ろで抜刀の格好を取り、じっと零を見据える。
その時、聞こえたのは、息を詰め、震えた声。
肩を震わせ、手でしきりに顔を拭い、時折聞こえる、嗚咽。
壱は其れに驚いて、思わず膝を付き、刀を畳に置いてしまった。
―泣いている
気付いた壱は零に近づき、顔を覗きこむようにして
「・・どうして泣いているんですか?」
自分でも気付かぬ内に柔らかく、そう聞いていた。
零はその声にぴく、と反応し、顔を上げる。
赤く腫らした目、震える唇、涙が目じりにうかんでは頬に流れる。
「・・ぁ、ごっ、ごめんねっ!わっ、私、部屋、間違えちゃったみたい・・っ。」
零は慌てて涙を拭って立ち上がる。
明らかにわざと明るい声を出そうとして苦戦しているのがわかり、胸が痛んだ。
反射的に立ち上がり、零に手を伸ばし、腕を掴んだ。
零が驚いて壱を見る。
腕を引き、壱は零を抱きしめる。
長身の壱に対し、零は壱の胸にも届かず、壱の腹部で顔を上げる。
きゅっと腕の力が強め、壱は零を見下ろし
「一人で泣いては駄目ですよ・・無理をしないでください。」
そう囁いた。
優しいその声に、見開いた零の目から、また大粒の涙が溢れる。
暖かい涙に、零は結んだ唇を緩ませ、壱が見ている前、声を出して泣いた。
零の背中をぽんぽんと優しく叩き、自分の着流しを濡らす其れを見つめ、零が泣き止むまで、零を抱きしめていた。
―泣き終えた零はぺたりと畳に座り込み、壱が袂で涙の跡を拭ってやると、“ありがとう”と呟いた。
「落ち着きましたか?」
壱が零と向き合うように胡坐をかき、そう問うと、零は頷く。
泣き疲れたのか少しぼーっとしている零は、壱に少しはにかむように微笑んだ。
壱は零の頭を撫で
「・・どうして泣いていたのか、聞いてもいいですか?」
そう聞いた。すると零はゆっくり頷き
「・・あのね、にークンが、私のこと天人って言ったの。」
ぼそぼそと言って、また口を開く。
「私、ね、天人嫌い。皆も嫌いでしょ?でも、お兄ちゃんは、私に強く、なって欲しいんだって。」
その薄い唇に乗せた言葉に、壱は頭を巡らせる。
「椿の間では、ね、私、いつも一人だったんだよ・・でも、お兄ちゃんが、私に色んなことを教えてくれて、遊んでくれたの。だから、私、お兄ちゃんが好き。」
真剣な色に帯びる零の表情。
零の発する“好き”は軽い言葉ながら、単純ではない。
零は目を伏せ
「天人に、なれば、お兄ちゃんはいつも私のこと、見てくれるでしょ?強くなったら、私のこと好きで居てくれるでしょ・・?」
そう囁いた。
幼い、それ故に真っ直ぐ、純粋な思考。そこまで、零が《お兄ちゃん》を想っている証拠。
零は急にトロンとした表情になり、
「ねぇ、私・・人間?・・天人、に見える・・?」
か細く泣きそうな声で、そう問うて、壱を見上げた。
壱は零の瞳が、明るい紅色を帯びていることに気付き、目じりにまだ残る雫を掬い
「・・・貴方は人間ですよ。貴方の中の魂は、ちゃんと、人間のきらきらした色をしています。」
柔らかく、囁いた。途端、零は綻ぶような笑みを見せ、壱の胸に飛び込む。
自分に抱きついてきた零に、壱は抱きとめるように零の背中に手を回し、頭を撫でてやる。
身じろぎし、顔を上げた零の顔にはもう泣いた跡は無い。
「ありがとう。・・・あ、あのね、私、零って、ゆーんだよっ。あのっ・・君は?何て呼べばいい?」
はにかんで、突然慌てたようにそう聞く零に、壱は頭を撫でるのを止め、
「私は壱、です。好きなように呼んでください。」
答える。
すると零は閉じかけの目で壱を見つめ、言った。
「壱・・って副隊長クンだよね?・・ね、お兄ちゃんって、呼んでいい?壱クンって、何か呼びにくいもん。」
瞬間、壱は切なげに唇を噛み締めたが、少し強く零を抱きしめ、“いいですよ”と囁き答えた。
かくんと頭を壱の胸に押さえつけるように傾け、零の瞼は閉じた。
規則的な寝息を聞いて、壱は軽すぎる零の身体を抱き直し、立ち上がる。
横抱きにして、すでに敷いてある自分の敷き布団に寝かせ、布団をかけるとその上から優しくぽんぽんと叩いて、零の頬を軽く撫でる。
安心しきっている零の寝顔にちくりと胸が痛む。
「・・似て、いる・・いや、似すぎてる。」
目を細め、壱はそう呟いて、自分の手を握り締めた。
―初めて、彼女を見てから、ずっと・・・でも、ここに居るのは・・
「彼女じゃぁないよ?番号壱。」
「っ!?」
耳元で囁かれたような声に、壱はばっと振り返る。
障子の傍で立っていたのは、色素の薄い茶色の髪をした、十歳程度にしか見えない少年。
邪気の無い笑みを浮かべ、片手に人形を持つ少年は、少女のも見えたが、“こんばんわ”と言ったその声は低く、どこかで聞いたことのある物だった。
気配が全く無く、いつ入ってきたのかもわからない上、自分の考えていたことを言った少年を前に、壱は立ち上がった。
「初めまして?隊員に姿を見せるのは零以外、君が初めてだから、わからないかな?私は稲生だ。」
「稲生・・教授?」
小首をかしげ、少年_稲生がそう言うと、壱は目を見開き、呟く。
―まさか、こんな子供が教授・・?
「・・信じてないようだね?まぁ、当然か・・。」
稲生はふーっと息を吐き、壱に歩み寄り、向き合う。
壱はその極自然な動作にすら緊張し、稲生から目を離さない。稲生はそんな壱に微笑むと
「番号壱、本名黒島京介。現在二十二歳、身長六尺。両親、兄弟、共に死亡。自制心が強く、精神状態、今は良好。」
目を伏せ、一つ一つ区切るように告げる。
驚きで目を見開く壱を見上げ、くすりと笑った。
檻に入った時点で、個人の情報は全て消され、無かったことになる。檻の外でも生きてきた跡を消され、それ故に身分差も無く、名前も、優秀な順で付けられる為、檻の中に居る侍達は互いの本当の名前を知らない。
つまり、檻の中の侍達の本名を知る者は研究員の上層部のみ。
「これだけでは私が稲生という証拠として不十分だが・・君には十分のようだね?」
幼い顔に少し大人びた表情を浮かべる稲生は壱を見据え、壱は未だドクドクと脈立つ心臓を抱え、稲生を見つめ返す。
もう、疑ってはいなかった。
「・・さて、君は零に気に入られたようだね。零は甘え症で人懐っこいが、心を許した者にしか寝顔を見せない。」
稲生は零の眠る布団を見下ろし、淡々と言う。
―この少年が教授なら、どうして彼女に固執するのか・・
壱は稲生から目を離さないまま、頭を巡らせる。
「まぁ、君ならちゃんと、お兄ちゃん役をしてくれるだろうね。・・零を頼むよ?」
稲生は零の額を撫で、微笑み、猫の人形を横に置いてやり、立ち上がる。
壱と再び向き合うと、長身の壱の腹部までの身長で、手を伸ばし、つま先立ちをして差し出した。
それが握手と気付いて、壱はその手を握る。稲生は一回上下に降って、にこっと笑うと
「言っておくが、彼女は私の貴重な実験体だ。君の“彼女”とは違うことをしっかり認識しておいて欲しい。」
「っ!・・貴方、何者ですか・・?」
低く、人の心を抉るような台詞を吐いた。
壱は咄嗟に稲生の手を離し、睨むように見つめ、問うた。
瞬間、急に頭が重くなり始めた。
鉛でも抱えているようなだるさに驚き、一歩後退する。
すると、それを見て、稲生は喉の奥から“クックッ”と笑いを漏らした。
「・・さぁ?何者なんだろうねぇ?誣いて言うなら、零かなぁ・・。」
稲生の低い声が届いた時には、壱は急激に重くなった瞼を閉じ、倒れた。
*
じゃらり、と重い金属が、金属とぶつかり奏でる音と、誰かの荒い息。
玖と拾の部屋内に響くのは、三味線の音ではなく、その二つの音が不規則に存在していた。
畳に横に倒れている拾は、荒く息を吐き、首に嵌められた_おそらく中型犬用の_小さな首輪の隙間を引っ張り、呼吸する。
ひゅう、ひゅう、と拾の口からか細い息が漏れていて、まともに呼吸出来ていない様子だった。
その首輪に繋がれた、太い鉄の鎖の持ち主_玖は顔を真っ赤にさせている拾を見下ろし、ぐいっと鎖を引っ張った。
引っ張られた拾は、喉を見せて仰け反り、膝立ちになる。
懸命に呼吸しながら、拾は嫌がる素振りはせず、とろんとした目を玖に向けていた。
玖は唇を歪め、嘲笑い、拾の顎を掴み、色の入った拾の頬を撫で
「苦しいか?」
と聞いた。玖は拾の苦悶に歪む顔を好んで、わざとそう聞く。
肯定の返事が来ることを知っているから。
しかし、拾は、はぁ、と息を吐いてから
「・・いいえ。」
と答えた。玖はそれを聞いて眉を顰めた。
拳を固め、拾の顔に叩きこむと、拾は無様に仰向けになって倒れた。
玖は鎖を引いて起こすと
「痛ぇだろ?」
そう聞く。彼の瞳孔が開いた目は、細く、鋭い。
玖の重く、硬い拳を受けた拾の頬は、早くも腫れ始め、口内が切れたのか、口元から血が一筋流れていた。先程よりも激しい息使いになりながら、青色の瞳を玖に向け
「いいえ・・・っボクは、痛くても、クルシクても、マゾなので・・でも、アナタは殴れば、殴るほど、・・・心が、イタイ、ハズでしょう・・?」
切れ切れにそう告げた。
すると玖は鎖を手放した。重力に従って、拾の身体が再び仰向けに倒れ、低く、呻き声を上げる。
実際、彼が言ったように、痛く、苦しいはずの身体は、まるで喜ぶように火照り、呼吸を整えながらも、彼の顔は恍惚としていた。
玖はそんな拾を見下ろして、息を吐くと、拾の足の付け根に足を乗せる。
其処だけに集中して体重をかけ、踏みつける。
「・・・誰の心が痛ぇって?誰に向かってそんな大口叩いてやがる。」
「ぅっ・・ぐぅ・・っ!ぁヴぁあっ!!」
そのまま、踏み千切ってしまいそうな力に、悶え、叫ぶ拾。
玖は怒りを露にして、笑い、足を退け、拾の上に馬乗りになると、鎖を引っ張り
「俺ァな、今まで誰かを立ち直れねぇぐれぇに殴って、殺って、犯って、一度も心を痛めた事はねぇ。てめぇがマゾヒストなら、俺ァサディストなんだよ・・互い、頭ン中イッちまった、な。」
額をくっ付けんばかりに近づけ、囁いた。
顔を歪ませ、目が虚ろになった拾は震える手足を押さえ、口を懸命に動かす。
「そ、れでも・・ボクは、ぁっ!しって、マス・・・アナタはっ、・・主人は、キズ、だらけ、デス・・っ。」
「・・・はっ!ほざけ。・・後でたっぷり相手してやるよ、雄豚。」
玖は心底面白そうに笑い、拾の首輪を掴み、素手で引き千切り、拾ごと畳に放った。
拾はそのまま、頭を強く打ちつけ、意識を飛ばした。
立ち上がり、玖はため息をつくと、振り向く。そして、障子の前に立つ人物を一瞥し、問う。
「・・何の用だ。」
長身の玖と同じ位の背の彼は、一礼して
「初めまして、番号玖。貴方を迎えに来ました。」
口を歪ませ、そう言った。
玖は表情を変えず、彼にゆっくり歩み寄りながら
「・・・誰だてめぇ。男のオムカエなんざ、まっぴら御免こうむらァ。」
「ふふっ・・いえ、違いますよ。私は、稲生です。」
向き合い、睨みつける。
稲生、と聞いて玖の表情が少し凍ったが、すぐに戻し、彼を見据える。
「本名、cross=river。現在二十三歳、身長五尺九寸。・・そちらさんは、fernand・・彼は貴方のコイビトでしょう?」
一息でそう言った彼を、玖は舌打ちして、後ろに倒れたままの拾に視線を投げかけ
「・・コイビト?んな好いモンじゃねぇよ。アレは俺の玩具だ。」
「それは失礼しました。・・ですが、これで私が稲生だと信じてくれるでしょう?」
唸るような声で返し、彼は小かしげにして笑うと、玖に手を差し出す。
握手の意で出したその手を、玖はチラリと見て、人物の手首を掴んだ。
バチと刀を握る玖の手は、無数の細かい傷があり、手首を掴まれた彼にも分かるほど角ばっていた。
手首を掴んだその手を、玖は自分に引き寄せて、彼の掌を捻る。
彼の掌に有ったのは一寸も無い注射針。それを見つけた途端、玖は彼を突き飛ばし
「こんなことだろうと思ったが、とんだマッド野郎だぜ。」
背中に手を回した一瞬、長刀を彼の首にあてがい、壁に押さえつけた。
彼は先程までの余裕の色は無く、顔をしかめる。
「吐け、ソレで何をする気だった。」
玖はぺろりと自分の唇を湿らせ、刀を少し傾け、彼の首の皮一枚を薄く切りつける。
流れる血液の雫。その痛みに狼狽したように
「わ・・かりました、言います。まず・・私は教授ではなく、椿の間主任の栗栖です。」
「何だ、違ぇのか・・・で?」
彼_栗栖が名乗ると、玖はがっかりした顔になり、先を促す。
「・・朝、教授の言った薬は全て本当のことですが、あの時点では皆方の体内にありません。」
「・・あの天人の血がどうとかってヤツか。どうゆー意味だ?」
「薬は直接、血液中に入れなければ効果が無いということです。」
刀を首に当てられたまま、栗栖はそう告げた。
「・・大した法螺吹き野郎だな、教授ってのは。」
玖は口を閉じた栗栖に興味のなさそうな目を向け、刀を退けた。
そして、栗栖の顎を刀の表面で持ち上げ
「・・てめぇ、確か薬は気に入ったヤツにしか力を与えねぇんだよな?」
「ぁ、ぁあ、そうです・・。」
人外の力を手に入れ、最大の敵である天人と同じ類へと変化する薬。
玖は唇を歪め、喉の奥から嘲笑の声を出し、刀を下ろし、栗栖の腹部に膝蹴りを叩きこみ、前かがみになった彼の手を握り
「―っなら、俺ァソイツになるまでよ。」
「なっ!ど、どうして・・。」
注射針が玖の皮膚を破り、白衣の裾から透明の管が流れ、玖の血液中に薬が注がれた時、栗栖は、耳元でそう囁いて意識を飛ばした玖を支えて、呟いた。
どくどくと波立つ心臓は、自分の物で玖を畳の上に寝かせながら、栗栖は浮かない表情のままでいた。
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