そして彼は床に転がっていた。
僕は彼を、そして彼女を止められなかった事を悔やむ。
ついに彼女はやってしまった。
倒れた彼の額からは血が出ている。凶器はもちろん豆腐の角。
彼女は血の付いた豆腐を片手に彼を見下ろしていた。
説明するには話を三日前に戻す必要がある。
もう実験は終わったと安心しきった僕は直後、やたらと固い豆腐でぶん殴られた。
幸い痣が出来ただけで終わったが、これまでの豆腐に比べてかなり痛かった。
「今のは絶対豆腐じゃない…」
殴られた箇所を押さえながら僕は言った。
「認めたくないのは分かるけど、残念ながらこれは豆腐」
やや胸を張って彼女が言う。
「そんな固い豆腐あってたまるか」
「液体窒素で固めてみたの。今の時代は科学よ」
手袋をした彼女の右手に微かに煙りを立ち上らせる豆腐の姿があった。
殴った部分が欠けている。
なんで保健室に入ってきた時に気が付かなかったのだろう。
液体窒素で固められた豆腐で人を殴るなんて良心が欠けているとしか思えない。
「まさかまだ続けるつもりじゃないだろ?」
「これからも続けるに決まってる」
彼女は笑って言った。
頼むから嘘だと言ってほしい。これからはあれくらい、あれ以上に固い豆腐で殴られたり、二階から頭目掛けて落とされたりするのか?
本気で殺されてしまう。
豆腐の角で殺されるなんて歴史に名前が残りそうだ。それともこれからはヘルメットをして過ごせと言いたいのか。
四六時中そんなもの被ってたらハゲてしまうと僕は思った。
「もう付き合いきれない」
僕は言った。
心からの言葉だった。が、彼女は無視した。
鬼だと思った。
朝の空気はひんやりとして気持ち良かった。しかし学校に着けばどこからともなくやってくる彼女に豆腐で撲殺されてしまうだろう。
それは憂鬱だった。
「はよー、…なんか暗いじゃん。どしたの?」
道中同じクラスの男子生徒が話し掛けてきた。
彼とはクラス内ではよく話す方で、いかにも活発そうな見た目をしており明るく、少々勘違いが激しいがいいやつだと僕は認識している。
「なんでもないよ」
僕は少し笑ってごまかした。
彼を実験に巻き込んではいけない。狙われる確率は100%から半分になるけど彼には荷が重過ぎる。
「ふぅん。それとなんでお前違うクラスのKに豆腐投げられてんの?」
「いろいろあったんだよ。そっちこそなんで名前知ってるの?」
「そりゃもうユーメイだし知らねぇ方がおかしいって」
だろうな。
彼女の異常な行動は学校内であれば場所、時間問わず行われるので多くの目撃者が出たことは間違いない。
その中心で一人豆腐にまみれる事がどれほど惨めな気持ちにさせられるか傍観者達は知らない。
「見た目可愛いのにもったいないよな〜、可愛いっつーより美人か」
「外見で判断したら間違いなく殺されるね」
豆腐の角で、とは言わずにおく。信じてもらえないだろう。
彼は僕が冗談を言っていると思ったのか笑っていた。
そうこう話している内にもう校門に着いてしまった。僕が死ぬまでのカウントダウンが聞こえた気がする。
校庭を慎重に歩きながら僕はふと、豆腐を投げられる前に彼女から取り上げたらいいんじゃないかと思った。豆腐がだめなら液体窒素でもいい。彼女がどういう手段を使って手に入れたのかは知らないが、恐らく学校内に持ち込んでいるだろう。
あれさえ取り上げれば残るのはただの軟弱な豆腐だけだ。
そういえば彼女のクラスはどこなのだろう。
彼なら知っているかも知れないと立ち止まった瞬間、足下に衝撃が走った。
「ぴょ!」
彼が奇声を上げ、僕は絶句した。
地面に何かが刺さっていた。
それは凄まじい勢いで煙りを出している。初めて見る光景に僕の思考が止まった。
「なんだこりゃ!」
「豆腐…かな」
煙りの中にうっすらと見える長方形のシルエットはたぶん豆腐だろう。
「はぁっ!?これがとうふっ?そんな生易しい存在かよ!地面に刺さってんだぞ、確実に死ぬだろ!?」
彼は自分が狙われている訳じゃないのに挙動不審に辺りを見て喚いている。
「俺も豆腐の角で死ぬのは嫌だね」
見上げると二階の窓に彼女の姿があった。
頭に当たらなかったせいかつまらなそうにしている。
もう少しで頭に豆腐が刺さるところだった。
一気に冷や汗が出た。
しばらく豆腐は食えないな。
昼休みに保健室に向かう。
保険医用の机の前に置いてある二つのパイプ椅子の片方が彼女の指定席なのだが、珍しく彼女の姿はなかった。
ベッドも全て空だ。
保健室には保険医の四十代後半を迎えた、いかにもやる気のなさそうな男が怠慢にパソコンをいじっているだけだった。目付きが鋭い。
「Kさん来てませんか?」
一応尋ねるとじろりと睨まれた。
「見て分かるだろ?今日は誰もいねぇよ」
保険医は機嫌悪そうに片手で頭を掻きむしった。
そのあと胸ポケットに手を突っ込み、何か取り出すのかと思ったら何も出さずに手を出した。
書類などが乗っている机の上には書類の他にも鉛筆立てやペットボトル、名簿用紙、体温計も置かれていて灰皿もあったが大きく『禁煙中』と書いていた。
だから不機嫌なのか。
そのうち彼女が来るかも知れないと椅子に座ったが、休み時間の間に彼女が来る事はなかった。
余談だが教室に帰る途中、美術を担当している教師が何故か、長方形の石膏を持って移動していた。
その石膏が一瞬豆腐に見え、僕は思わずさっと跳びのいた。
豆腐に過剰な反応を示すようになっていたのだ。
教師は怪訝に僕をちら見て去っていった。
次の日。
また恐ろしく固い豆腐で殴られるのではないかと朝、校門をくぐってからずっと警戒していたのだが、その日は豆腐も彼女も来なかった。
疑問に思ったがそれはそれで平和だったから良いと思う。
ただ彼の方は昨日の朝から、あいつに殺されるとぶつぶつ呟きクラスの中で不気味に目立っていた。明るかった彼は何処に行ってしまったのだろう。
彼は自分が狙われていると完全に勘違いしていた。
そして事件の起こる当日の朝、つまり今日なのだが、彼は充血した目で僕に話し掛けた。
「なぁ、おい。俺達であいつに殺される前にあいつを殺そう。それしか俺達が明日へと生き延びる方法がない」
彼はかなりの重症のようだ。二日前の豆腐は彼を確実に狂わせていた。
「それよりKがどこのクラスか知らない?」
彼が自棄を起こす前に早々に彼女を避難させる必要があるようだ。
しかし彼はかぶりを振った。
「殺るなら保健室がいいだろ、教室よりもずっと遭遇確率が高い」
僕は彼女を殺す気はないのだが、彼はまた勘違いをしているようだ。
遭遇率が高いといっていたが、保健室に行く度に彼女に(嫌でも)会うのはその所為だろうか。
それほど彼女が保健室に入り浸っているという事か。
だとすれば、豆腐や液体窒素も保健室にある可能性がかなり高い。
しかし今頃分かったところで彼女が彼に殺されれば意味がなくなる。
別にそれでもいいかと思うでもないが、ここで彼を止めないと僕の後味が悪くなる。
でも、僕が止めなくても彼女が大人しく殺されるとは考えられない。
どちらにせよ死人が出る事に変わりはないか。
とすれば、僕がどう彼を丸め込むかが問題だ。
しかし今の彼を説得させるような理屈は僕には生み出せそうになかった。
「俺はやる。殺ってやる。必ず、絶対殺す」
彼は先程からお経のように単調に殺意を表している。かなり不気味だ。やはり彼女を家に帰らせた方が楽そうだ。
「俺は殺る!」
彼は突然叫ぶと教室を駆け出した。
止める間もなかった。
廊下に顔を出すと、彼の背中が小さく遠ざかっていた。
廊下で談笑していた生徒達は一瞬彼に視線を向けるが彼を気にする事なく無関心に談笑に戻っている。
黒板の上に取り付けてある時計で時間を確かめるとホームルームまで十分もなかった。
会話の流れと走って行った方角からして彼は保健室に向かったと推測する。
僕は少し迷い、彼の後を追った。
保健室は僕のクラスのある階から二つ下がり、階段の脇にある渡り廊下から隣の校舎へ行った先にある。
保健室のある校舎には職員室も一緒にあるため、校舎の廊下はそれなりに混雑していた。
人をかわしながらようやく保健室の前に着くと、すっかり息があがってしまっていた。
ドアは既に開いていて、中から彼女の短い悲鳴と彼のよく分からない雄叫びが聞こえ、硬いものがぶつかる鈍い音がした。
そして今の状況に至る。
彼はぴくりとも動かずに倒れている。
血の気が良いため多分気絶しているだけだろう。
「豆腐で、殴った、のか?」
息があがったため声が途切れ途切れになる。
彼女は顔だけを僕に向けた。きょとんとした顔をしていた。
「豆腐?」
そして眉を潜めた。
手元の豆腐を指差すと、彼女は僕にその豆腐を放った。
受け取るとそれは豆腐に似せて作られた石膏だった。
「豆腐で人が殺せるはずがないじゃない」
当たり前にそんな事を言うが、つい三日前に本気で人を殺そうとしていたのは一体どこの誰だったか。
「じゃあ一昨日、二階から落としてきたのも?」
「ああ、それは…」
彼女が何かを言う前に、保険医と何人かの教員が来て彼女は指導室に連れて行かれてしまった。
僕も連れて行かれるのかと思ったが二、三言質問をされただけで済んだ。
そのあと教室に戻されたため気絶していた彼がどうなったのか、僕は知らない。
保健室に行くと、彼女は指定席にいなかった。
保険医に尋ねると黙って一つだけ使われていたベッドを指差した。
カーテンの向こうに行くと、彼女は仰向けに寝ていて、天井へと両腕を伸ばしていた。
ベッドの下にスリッパが揃えられていて、靴下も脱ぎ捨てられていた。
「君は寝る時まで変な事をするね」
「なんとなく、落ち着かない時にはよくこうするの」
彼女は無表情に言った。
僕は腕を掴んで彼女を起こした。少しぼさついた髪を手櫛で整え、彼女は僕を見上げた。
上目遣いに睨んでいる。
「いま疲れてるの」
「前に二階から落としてきたのも石膏だったのか?」
彼女は溜め息をついた。
「そう、驚かそうと思って落としたのに、ちっとも驚いてくれなかった」
あの石膏が煙りを出していたのは予め液体窒素で冷やした石膏だったのだろう。
ちなみに美術室から勝手に持ち出した事が、美術担当の教師にばれてしまい、その日の昼休みは延々と説教をされていたと不満げに愚痴を零した。
あの日、彼女を保健室で待っていたが意外とすぐそばにいたわけだ。
本当に疲れているのか、彼女の目が次第にまどろんでいく。
「液体窒素で固めた豆腐は表面が凍っただけだった。中まで固まらなかったのよ」
「へぇ、ところで君を襲った彼はどうなったんだ?」
彼女の頭が一つ大きく揺れた。
目を擦り、眠気を拭おうとしているようだ。
「彼なら、…留年か退学だろうね。私が保健室で寝てたら、突然彼が襲ってきたって事にしたから」
こんな時になんだが、彼女はとても綺麗な人間だった。
他の同級生のように整えて作った顔ではなく、そのままで十分美しい。彼女が学校内で有名になったのも奇異的行動のためだけではなかっただろう。
ただ器がどれほど美しくても、中身はどす黒く濁っているのだが。
そこが残念だ。
「理不尽な」
彼の事情を考え一応言ってみる。
彼女は笑った。
「でも事実は事実よ」
世界は理不尽に出来ている。
もういいでしょ?根掘り葉掘り質問されて疲れてるんだから、と再び彼女はベッドに横になった。
お気の毒さま、と心にもないのだが一応慰めて僕は彼女の傍を離れた。
教室に戻ろうとすると保険医に呼び止められた。
不機嫌そうだった。
「お前Kの知り合いだろ?」
嫌な予感がしたが否定も出来ず、僕は頷いた。
「そうですけど」
「だったらあれを早く片付けてくれよ」
冷蔵庫を指差すので恐る恐る近寄り、中を開けるとそこには大量の豆腐があった。
その臭いに少し吐き気がする。
「今日の放課後に必ず引き取りに来いよ。今日中に片付けてもらうからな」
それは僕に言っているのだろうか。ここの豆腐は彼女の物なのだが…。
やはり世界は理不尽に出来ている。 |