第2話
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――エンゼルライン学園高等学校第一体育館にて。
体育館では一年E組とG組が合同で六時限目の体育の授業を行っていた。エンゼルライン学園高等学校では一年生の体育の授業はクラス数が多いため、A、C組。B、D組。E、G組。F、H組。という具合に二クラス合同で授業が行われる。
せせらぎアスカは、体育館の隅の壁に寄りかかって、きゃあきゃあと体育館の中にこだまする楽しそうな女子生徒の声を聞きながら、躍動する健康的な体つきをした同世代の女の子たちをぼんやりと眺めていた。
今日の授業はバレーボール。憂鬱だ。もっとも、それがバスケであれバドミントンであれ、卓球であれ、運動音痴のアスカにとっては、すべてが憂鬱の種であることに変わりはなかった。
体育館は入り口から沿って、三面バレーのネットが張られていた。男女別々で授業が行われているため、一クラス二十人として、六人で一チームを作り、一クラスで三チームができ、補欠が二人。例によって運動音痴のアスカは進んで補欠に回っているのだが、三つネットが張られている以上、六つのチームは滞りなく試合が回ってくるわけで、補欠の人間もいつまでも呑気に観戦、というわけにはいかない。もちろん、できればアスカも呑気に観戦といきたいのは山々だが、クラスに何人かはいる親切な人間の「よかったら、次アスカちゃん入りなよ」という親切心から来る言葉を断れないアスカは「うん。ありがとう」と笑顔で応答してしまい、胸中とは裏腹に試合に参加する羽目になってしまうのだ。
というわけで、アスカは授業開始から、二試合を何とか乗り切り、とりあえずのノルマを達成したところで(一人二試合は必ず入らなければならないと体育委員が言い出したのだ)、体育館の隅っこで、今は補欠の権限を活用して、試合観戦に回っているところだった。
どうも、自分は運動というものが苦手だな、と体育の授業をするたびアスカは痛感させられる。無理もない。二試合をこなしただけで息を切らしている横で、クラスメイトたちに自分よりも倍以上の試合数をこなしながら、きゃあきゃあと元気に飛び跳ねられては、ため息をつかずにはいられないだろう。
「はあ……」
アスカは小さくため息をついた。それで、気持ちが晴れるわけではないが、とりあえず多少なりとも自己嫌悪のはけ口ぐらいは作っておかなければ、やってられない。
「いい若いもんが、なーにため息なんてついてんのよ」
不意に横から声がして、アスカは思わず「キャッ」と短い悲鳴を上げた。
「キャって、あんたねえ」
「あ、ご、ごめん、千鶴ちゃん」
アスカは親友でもありクラスメイトでもある向井千鶴に気づくと、慌てて声を出した。どうやら、考え事をしているうちにさっきまで行われていた試合が終わったらしい。千鶴の後ろには神崎光と渡瀬恵もおり、二人も千鶴同様、からかうような顔をアスカに向けていた。
「あんた、ほんとに体育の授業嫌いなのね。あからさまなため息ついちゃって」
「べ、別に嫌いなわけじゃないよ。ただ、苦手なだけ!」
向きになって否定してみせるアスカを見て、三人は一緒になって吹き出した。
「な、なによ、千鶴ちゃん。光ちゃんも、恵ちゃんまで」
「だって、あんた。嫌いと苦手って同じようなもんでしょ?」
千鶴がおかしそうに言うと、その意見に同意して光と恵もチャチャを入れるようにいたずらっぽく言った。
「そうそう。嫌いと苦手って同義語でしょ」
「意味は同じだしね」
「同じじゃないよ。二つの言葉には大きな違いがあるんだから」
「へえ。どんな?」
「嫌いっていうのは感情の表現だけど、苦手っていうのはあくまで感情的な意味は含まれないの」
「うわあ、理屈っぽい。さすが読書家」
そう言って千鶴はアスカの横に並んで壁によりかかった。
「もう、からかわないでよ、千鶴ちゃん」
「だったら、ため息なんてつかなきゃいいじゃん」
「何でそうなるのよ」
不満をそのまま顔に出したアスカのしかめっ面に、三人はまた笑い出す。とそうこうしていると、体育館の中を甲高い笛の音が響き渡った。体育委員の女子が、再び試合開始を促したのだ。
「あ、千鶴。試合、試合」
そう言ってコートに戻ろうとする光と恵に、千鶴は「ああ、私パス」と面倒くさそうに言葉を返した。
「んもう、千鶴。また抜け出す気?」
「そんなことしてたら、そのうち絶対見つかって説教されるよ」
「だーいじょうぶ。そんときは、この子盾にして私だけ助かるって寸法だから」
そう言って、千鶴はぽんとアスカの肩に手を置いた。
「千鶴ちゃんってば!」
二人のやり取りに、光と恵は、あはは、と笑いながらコートの中に戻っていく。それからすぐに試合は始まり、体育館はあっという間にボールのはじかれる音と元気な黄色い声に包まれた。
「よし。じゃあ、そろそろいこっか、アスカ」
「ううー。何で私まで」
「はいはいはい。いいから黙ってついてくる」
そして、アスカは千鶴に背中を押されるまま、体育館を出るのだった。
グラウンドでは、男子生徒がサッカーの授業を行っていた。授業といっても、女子と同じように、二クラスでそれぞれチームを作り適当に試合をしているだけだ。もっとも、それも、たまたま今日に限って体育教師が風邪で欠勤しているからであり、普段は男子も女子もきちんとした形式にのっとった技術練習ばかりで、まともな試合などめったにやらしてはもらえない。まあ、教師がいないのにまじめに授業をしようなんて変わり者な生徒は男女合わしてもE組とG組には一人としていないということで、それは学生のあるべき姿ともいえる。
もっとも、だからといって授業を抜け出して男子の授業風景をのぞきに来るのはどうかとアスカは思うのだが。
エンゼルライン学園高等学校のグラウンドは、校舎が建っている土地からは窪地になっているので、校舎側からは比較的グラウンド全体を見渡すことができる。といっても、グラウンドはかなり広く作られているので、校舎に比較的近いこの場所からでは、グラウンドを走っている人物が誰であるかを特定することはかなり難しい。それでも、千鶴は特定の人物を見るための場所をいつもここに決めている。
「お、やってる、やってる」
体育館から抜け出してきた千鶴は額に右手を当てて、遠くを見るポーズをとりながら、満足そうな声を漏らした。その横で、アスカは小さくため息をつく。
「あ。あんた、またため息ついたわね」
「そりゃあ、つきたくもなりますよ」
「なーに言ってるの。あんなところで女同士はしゃいでるの見てるよりはマシでしょうが」
そう言って、千鶴はたった今抜け出してきた体育館を、親指で指し示した。
「そういう問題じゃないの」
アスカはもう一度ため息をついてみせた。もっとも、ここにいること自体、強制ではなくアスカの意思なので、ため息は二回だけにとどめておく。アスカ自身、外で男子の授業風景を見守るのは嫌いではなかった。もっとも、千鶴とは別の理由でだが。
「ま、いいじゃん。過ぎたことはくよくよ悩まない。これ、人生を楽しく生きるコツね」
「もう。千鶴ちゃんったら」
おどけてみせる千鶴を見て、アスカはぷっと吹き出した。こんな風にアスカはいつも千鶴のペースに巻き込まれてしまうのだが、不思議とアスカはそれを一度も不快に思ったことはなかった。でも、千鶴のマイペースな言動を自己中と批判する人間はクラスでは大半を占めており、もっと全体を見渡してみればさらに多くの人間が千鶴を快く思わないのかもしれない。でも、明るくて活発な性格の千鶴はいつでもクラスの中心的存在だから、表立って嫌な顔をする人間は誰もいない。体育館から抜け出すアスカと千鶴を体育委員が引き止めなかったのも、そういうことで、今頃は「男好き」とか「男ったらし」とか千鶴の陰口を叩いているのだろう。実際、アスカは千鶴のいないところでクラスメイトがそういう悪口を言っているのを何度も耳にしている。
表だって男子に近づくのはいやらしいことだ、と言わんばかりに、クラスメイトの大半は、男子に対して物怖じせず自然体でいられる千鶴を批判的な目で見る。もっともそれは、容姿端麗な上に明るくて、いつでもクラスの中心になっている千鶴への嫉妬からくるものなのだろう。ただ、アスカからすれば、そんなものは千鶴のことを何も知らない人間の見当外れな、勝手な思い込みに過ぎなかった。
グラウンドに続く階段の一番上に座りながら、アスカと千鶴はグラウンドの中でサッカーボールを追いかけている男子を見守った。そんな中、千鶴の視線はいつも、一人の男子生徒に注がれる。そして、千鶴本人は気づいていないかもしれないが、その男子生徒が何か行動を起こすたび、千鶴の表情は柔らかく微笑む。その遠くを見つめる優しい千鶴の横顔が、アスカはたまらなく好きだった。そこから見える、普段の千鶴からは見えない、繊細な一面。男好きだとか、男ったらしだとかいう陰口なんて、その千鶴の優しい横顔になんて入り込む余地はない。
そのことを、アスカは知っていた。そして、だからアスカは千鶴のマイペースにいくら巻き込まれても千鶴のことを憎めないのだ。
「ねえ、千鶴ちゃん」
「ん?」
「千鶴ちゃんのこと悪く言う人もいるけど、私はそんなこと思ってないからね」
「……なによ、突然」
頬杖をついてグラウンドに広がる景色を眺めていた千鶴は、横目でアスカを見ながら、いぶかしげな表情を作った。自分で言っておきながら、無理もないな、とアスカも思う。
「ごめん。気にしないで。なんとなく、言いたくなっただけだから」
「なんとなくで、そんな恥ずかしいこと言わないでよ」
迷惑そうに声を出す千鶴。これも無理もないな、と思う。
「そうだね。ごめん」
「――ま、いいよ。悪い気はしないしね」
そう言って、千鶴は照れくさそうに微笑んで、アスカから目を逸らした。そんな千鶴を見ながら、アスカは思った。
この時が、ずっと続けばいいのに。明日も明後日も、その先も――。
「……なんだろう」
独り言にも取れる千鶴の呟きが、ボーとしていたアスカの意識をひきつけた。
「どうしたの、千鶴ちゃん」
そう問いかけながら、アスカは千鶴の見ている景色の先へ視線を流した。そして、すぐにアスカはその異変に気がついた。
さっきまでグラウンドの中を走り回っていた男子全員が、みんなピクリとも動かなくなっているのだ。まるで静止画像のようなその光景に、アスカはただならぬ不安を感じて、千鶴に声をかけた。
「みんな、どうしちゃったのかな」
「ア、アスカ……」
「千鶴ちゃん?」
かすれるような千鶴の声に、アスカが千鶴に目を戻したときには、もう千鶴にもその異変が降りかかっていた。
まるで寒さに震えるように、肩を抱いて、ぶるぶると震えている千鶴。顔は青ざめて、その表情は何かに怯えるように弱弱しく揺れていた。
「ち、千鶴ちゃん。どうしたの? 気分、悪いの?」
アスカはそう言うと、慌てて千鶴のそばに寄った。
「ア、アスカ……わ、たし……ど、どうしちゃった……のかな……」
「千鶴ちゃん! 千鶴ちゃん! 大丈夫? 千鶴ちゃん!」
「あ……あ……」
がたがたと体全体を震わせながら、千鶴はこときれた人形のようにどさりと横に倒れこんだ。アスカは、なにが起こったのか理解できず、少しの間、白目を向いた変わり果てた千鶴の姿を呆然として見つめた。
「あ……あ……」
アスカの目からぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。そして、その涙に追いつくように、後から不安と恐怖の入り混じった、激しい感情がアスカの中に流れ込んでくる。
――私が、何とかしなきゃだめだ。
不安と恐怖に駆られながらも、アスカはそう自分に言い聞かせて立ち上がった。その足元には、変わり果てた千鶴が仰向けになって、転がっている。
アスカはごしごしと頬を伝う涙を拭うと、職員室目指して駆け出した。
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