第1話
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――エンゼルライン学園高等学校二棟三階一年A組の教室にて。
鳴瀬川幸也は、そのとき真っ先にそのクラスメイトの様子のおかしさに気づいていた。ただ、そのおかしさが異変と呼べるものであることにまで気づけなかった幸也は、机の上に上半身を突っ伏した状態のまま、再び目を閉じた。
その次の瞬間、すぐ隣で誰かが立ち上がる気配がして、その後を追うように、椅子が床に叩きつけられる鈍い音が、教室の中に反響して幸也の鼓膜を刺激した。
何事かと幸也が顔を上げたそのときには、教室の中は三十八人分のクラスメイトのざわめきに包まれていた。そして、クラスメイトの視線がすべて自分の隣の席に向けられていることに気づいて初めて、幸也は視線を右隣へ滑らせた。
幸也の視界に映ったのは、黒ぶちの眼鏡をかけた、冴えないクラスメイトだった。まったく手入れをされた形跡のない、野放しにされた天パに、いかにも度の強そうな実用性だけを追及した眼鏡、そしてブレザーの上からでもうかがい知ることのできる、貧弱なもやし体型。その見るからに冴えず、実際クラスでは空気のように大人しい男子生徒が、なにを思ったか、六時限目の授業の真っ最中に席から立ち上がっているではないか。
幸也は無言でその冴えないクラスメイトを見守った。他のクラスメイトもざわつくことはしても「どうした」と声をかけるものはいない。ちなみに、六時限目の授業担当、現国教師の石田は、後ろの異常を無視してか、あるいは気づかずに、黙々と黒板に教科書に刻まれた漢字を書き写していた。
黒板に擦り付けられるチョークの中途半端に甲高い音は、いつまで待っても、マイペースにつまらない曲を単調に奏でていた。その間、空気のように一度も自分を表に出したことのないクラスメイトの突然の暴挙に「どうした」と声をかけてやれる強者なクラスメイトは誰一人として現れない。
つーか、そりゃあんたの仕事だろ、ヘボ教師。
幸也は、普段から無気力で、生徒に必要以下にも関わろうとしない文字通りのヘボ教師に、心の中で悪態をつく。もっとも、そのヘボ教師にこの事態をうまく収拾できるとは思えないので「どうした」なんて教師らしいことをされても困るのだが。
などと考えているうちに、三十八人分のざわめきは、不穏な空気に反応して、まるで示し合わせたかのように消えうせていた。つられて、幸也も現国教師に向けていた視線を右隣へ戻す。
「う……ううう……」
肩を強張らせて、体全体を小刻みに震わせている冴えないクラスメイトが目に映る。その口からは何を思ってか、うめき声さえ漏れ出している。
おいおい……。
これが、クラスに必ず一人はいる、目立ちたがり屋のハイテンション馬鹿な人間の仕業なら冗談で済ませられるのだろうが、あいにく、このクラスの目立ちたがり屋のハイテンション馬鹿は黙ってこの事態を傍観している。求められないときには散々目立ちたがるくせに、必要なときには引っ込みやがって。もっとも、冗談で済ませられる雰囲気ではないので、ここでそいつに冗談を言われても困るのだが。
普段から嫌っている人間二人を心の中でけなし終えたところで、幸也はしぶしぶ、この事態を収めるために重い腰を上げた。クラスの学級委員の男女ペア二人が傍観を決め込んでいる以上、もう自分が何とかするしかないだろう。これはもう、席替えの際、くじ引きで冴えない男子生徒の左隣に席を置くことになった、自分のくじ運のなさを恨むしかない。
ガタン。ゴトン。ガタタン。ゴトン。
幸也が冴えないクラスメイトに声をかけようとしたその時、教室中に無数の鈍い音がほぼ同時に共鳴して、教室の中を乱反射した。
なんだよ、せっかく人がこの事態を収拾してやろうとしてんのによ。
不機嫌を顔に出して、その物音に対しての不満を訴えてやろうと視線を冴えないクラスメイトから逸らしたそのとき、新しい異変はすでに始まっていた。
それは、どこからどう見ても異様な光景だった。まあ、朝のホームルーム、授業、その後のホームルームを合わせると、一日のうちに計十六回は、気のない挨拶をするためにクラスメイト全員が揃って席を立つ機会はあるから、今の状況は決して珍しいというものではないのだが、まだ授業終了までには大分余裕があるこの時間に、何も示し合わせていないにもかかわらず、全員が席を立っている状況はかなり異様だった。みんながみんなわざわざ椅子を倒していることも、みんながみんな、倒れた椅子を直そうともしないことも含めて。
異様だった。
幸也はどうしていいか分からず、閉口したまま、無表情で立っているクラスメイト三十九人一人一人を確認した。そのうち、すぐに冴えないクラスメイト同様、ブルブルと体全体を震わせて、うめき声を漏らすクラスメイトが一人、また一人と増えていく。
まさか、と幸也は思った。
さっき、三十八人分のざわめきが示し合わせたかのように、消えうせたのは――。
嫌な予感が悪寒となって、幸也の背筋を走った。
さっきから、一向に鳴り止む気配のない単調な音。幸也はゆっくりとそこに視線を這わせた。
カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ――。
黒板に刻まれた文字は、もはや幾度も上から塗りつぶされて、ほぼ真っ白に染められていた。それでも、現国教師は、あくまでマイペースに単調な音を黒板に刻みながら、真っ白に染められた黒板の上を、更に白く塗りつぶしていく。
「……マジかよ」
幸也が呟くと同時に、黒板に刻まれる単調な音がピタリと止んだ。不自然に腕を上げた現国教師は、その体勢のまま動こうとしない。クラスメイトは、一人、また一人とうめき声を上げていく。
まさか、悪い夢でも見てんじゃないだろうな。
幸也は自分のほほを思いっきりつねってみた。こんな状況で「んなベタな」と自分にツッコミを入れる余裕などありはしない。
「……いてえ」
というわけで、現実逃避もこれが現実であるという危機的状況を証明するだけで、幸也を正常な日常に返してはくれなかった。
信じられないが、これは紛れもない現実らしい。
幸いにも幸也の席は、真ん中の列の一番後ろに位置していた。つまり、教室の出口から比較的近い位置に幸也は今立っているというわけだ。が、このままこの状況を放っておいて一人だけ逃げるというのも何か後ろめたさを感じて、幸也は教室の後ろの出入り口まで来て、足を止めた。
入学してまだ二ヶ月ほどしか同じ時間を過ごしていないとはいえ、ここにいる連中は紛れもない幸也のクラスメイトなのだ。ううう、とみんながみんな不気味にうめき声を漏らしていようと、みんながみんな白目をむいていようと、みんながみんな口からだらだらと涎を垂らしていようと――。
――やっぱ、逃げるか……。
この異変の原因がなんにあるにせよ、このまま教室の中にいては、自分までこんな風になってしまいかねない。何より、この場合保健の教員に知らせて適切な処置を施してもらうのが先決だろう。もっとも、この異変に対して一介の保険教師ごときに適切な処置を施せられるのかは謎だが、とにかくこの場は幸也一人ではどうしようもない。それに、よくよく考えてみればこの異変が起こっているのが幸也のクラスだけとも限らないのだ。
「……どうなってんだよ、クソ」
幸也はいまいましそうに呟いてから、教室を出た。
それは、この異常事態に一人取り残されたことへの不安ではなく、習慣としている授業中の居眠りを邪魔されたことへの単なる苛立ちだった。
あくまで、そのときの幸也はまだ、この事態をそれぐらいにしか見てはいなかったのだ。
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