第五十一話
「またか!?」
彼は唐突に目の前に現れた光景に驚愕の声を上げた。古めかしい操縦席にいつも身を任せている自分がいて、太陽がギラギラと眩しく、どこか南国の海の上を飛んでいる雰囲気。
だが不思議と違和感はない。乗ったこともない航空機を自分の手足のように操ることができ、何故かこの空を何度も飛んでいた気がする。
彼は周囲を見渡す。まず、自分が乗る機の流麗な形状が目に入り、機首のプロペラが調子よく回っているのが分かるが、彼とその愛機が未だ広大な海の上にいるのが実感できてしまう。
「おかしいなぁ。そろそろ迎えのやつが上がってきてもいい頃なのに。硫黄島を飛び立ってからここまで順調だからな」
彼の意識の中で別の誰かが呟いた。しかしもう慣れっこだ。
それから随分と時間が経った気がする……いや、そうでもないかもしれない。おそらく5分か10分くらいしか経っていないだろうか。いい加減何かあってもいいだろう?
「転属命令を受けたのはつい最近だ。この戦争、どうやら大きな転換期に差し掛かっているらしい」
場面は切り替わる。どこか宿舎のような、古い造りの部屋。基地の兵舎なのか。
「そうか。貴様とも暫くお別れだな」
そう言ったのは、いかにも歴戦の猛者といった風貌の男だった。
「マリアナは、大要塞になってるようだ。また激しい戦いに身を投じることになるのか」
「ラバウルから戻ってこれたってのに、貴様だけ栄光の前線に赴任とは。心配はしないが……死ぬなよ」
「ふん、誰でも死ぬときは死ぬよ。貴様は転属しないのか? 内地にいたんじゃ敵ともお目にかかれないだろ」
「ゆっくりさせてもらうよ。気を付けて行けよ」
「分かっている。貴様こそ元気でな」
再び機内からの景色に戻る。果てしなく続いてるように見える海、圧倒的な孤独感に苛まれながらも、出発前の戦友との会話を思い出せば少しは紛れる気がした。出発時、3機いた僚機も途中の硫黄島でエンジントラブルが発覚し、結局自分一人で向かうことになり、僚機の搭乗員に見送られてきたことを思い出す。
「あいつらも後で来るのか。ラバウル以来の戦友だからな、早く来てほしいものだ」
その時、前方で何かが煌めいた。
「マリアナからの迎えか? まだ分からんな」
その姿がはっきりするまでは油断できない。米空母艦載機の可能性も捨てきれないからだ。
しかし心配は無用であった。徐々に近付いてくるその機影には見覚えがある。一式陸攻……双発のエンジンを持ったその機体をバンクさせながら彼の機の斜め上方を通り過ぎていく。さらにその後ろから2機の紫電改が追従する……
「漸く迎えが来たか。これで一安心だ」
迎えの3機は旋回して彼の機の前方に出る。その内の1機、紫電改の搭乗員が風防を開いて手で合図を送ってきた。
「ついてこいってね。了解」
彼らは暫く飛行した後にサイパン島の上空に差し掛かる。
「おー、随分とやったもんだな。ここがアスリート飛行場か」
眼下に広がるサイパン島のアスリート飛行場、滑走路は舗装されており、大小の格納庫が並ぶ。
「ここに降りるんじゃないのか」
4機はそのままアスリート飛行場上空を飛び去る。彼らが向かったのは8km離れた場所に位置するテニアン島だった。
「ハゴイ飛行場だな」
アスリート飛行場よりもさらに広大な飛行場、それがハゴイ飛行場だ。駐機場に並ぶのは内地でも優先的に生産されている紫電改。また、零戦21型、52型といった機体も多数確認できる。
「河野上飛曹、ただいま着任いたしました!」
テニアン島に到着を果たした男、河野 徹志上飛曹は敬礼をしながら目の前の上官に着任の報告をしていた。
「うん、ご苦労。疲れただろう? ゆっくりしたまえ」
上官は河野に着席を促す。
「君のラバウルでの活躍は聞き及んでいる。ここでは、ラバウル以上の激戦が待っているぞ。やれるな? いや、やってもらう」
「はっ!」
「すぐにここの空気に馴染める。今のところは、3日に1回だな」
「3日に1回とは?」
「アメリカの偵察機が飛来する頻度だ。空母が近くまで来ている証拠だよ」
上官は太平洋全域が描かれた地図の前に歩み寄る。
「アメリカの大機動部隊がマーシャル諸島まで来ているんだ。やつらは今も戦力の集積を続けている」
「米艦隊はどれ程の規模でありますか?」
「空母15隻以上はあるだろう。しかし、こちらにも大和を含む戦艦部隊がある。それに空母の数も負けてはいないし、このマリアナの航空隊がある……ん? どうやらおいでのようだ」
一気に外が騒がしくなるのを感じる。
『司令部から各島防空隊に告ぐ、東方面より敵航空機の接近を確認。敵は戦爆連合30機』
外では空襲警報が鳴り響き、搭乗員達が戦闘機に駆け寄りながら手で回せの合図をしているのが見えた。
「すぐに来るぞ。空母が近付いている……」
「早く防空壕に!」
河野は着任したばかりですぐには飛び立てない。そのため上官に防空壕への退避を進言した。
「心配するな。ここで防空隊の戦いぶりを見るがいい。ここにいるのは新米ばかりではない、激戦を生き抜いてきた熟練者がたくさんいる!」
河野は言われるがままに空を見上げた。いち早く飛び立った陸軍の三式戦闘機飛燕の編隊が目に入る。大陸から引き揚げた多数の熟練工の手により製造された液冷エンジン、それを搭載したスマートな機体が美しい飛燕は、快調なエンジン音を奏でて飛行場の上を通り過ぎていった。
5月10日 4時32分
バルアス共和国
バルデラ島南東82km
空母飛龍
河野 達也は寝台から起き上がり時計を見る。
「まだこんな時間か。しかし、どうも妙な夢を見ることが多くなってきたな。まるで現実を見ていたようだ」
ふと、彼がいつも持ち歩いていた写真が気になって懐から取り出した。
その写真、若い男の背後には零戦52型と思われる機体。満面の笑みを浮かべたその男は彼の祖父、河野 徹志……写真の下の方に『昭和二十年一月 テニアン島にて』の文字が目に入り全てを察した。
「これはじいちゃん、やっぱり、そういうことか。戦争のことは一言も喋らずにこの世を去ったのに……今教えてくれてるのか?」
写真の裏側が剥がれかけているのを見つけ、慎重に剥がしてみる。
『本当の地獄はこれからだった』
祖父の声が聞こえてきそうな錯覚に陥る自分がいた。マリアナでの戦いは戦史に残る大激戦、日米双方が多大な犠牲を払ったのは誰もが知っている。日本からすれば絶対に守り抜かねばならない拠点、アメリカからすれば日本本土への足掛かり……
「あの最後の激戦地で命がけで戦い抜いた記憶を忘れたかったのか……でも忘れられなかったんだな」
祖父の写真を懐にしまう。
何の因果か、彼は中学卒業と同時に兵学校へと進学した。卒業後は航空機搭乗員課程へと進み、気付けば母艦航空隊士官である。今や海軍航空隊搭乗員は狭き門で、年間20人程度が新たな搭乗員として誕生する程度だ。予科練の採用数も全盛期の頃に比べると大幅に縮小されているが、今も土浦で細々と飛行兵の養成を行っている。
「この写真、何かの記念程度にしか思っていなかったが、俺に伝えるために渡してくれたってことか」
遠い過去に祖父が体験した壮絶な戦いに思いを馳せた。祖父の過去については一度も聞いたことがなく、今まで気にもしなかったテニアン島で写された写真を持ち歩くようになったのも飛龍に着任する直前だ。
「じいちゃんが、俺にこの道を歩ませている。そうに違いない」
そう思うと自然と笑みがこぼれた。
寝室を出て赤い照明に照らされた通路を進み、搭乗員の作戦室に向かう。
「さすがに、誰もいないか」
作戦室の扉を開けて中を確認するが、暗闇の中に椅子が整然と並ぶ景色しか見えない。
「0630から作戦説明か……早すぎたな」
河野はこんな時間に目が覚めたことに少々後悔しながらも、近くにあった椅子にゆっくり腰掛けた。
5時48分
バルアス共和国
首都タレス郊外
軍刑務所
マルセス・ダレイシスは、コンクリートの廊下に響く足音で目を覚ます。照明の落とされた薄暗い独房にはもう慣れていたが、こんな時間に自分の独房に近付いてくる足音が気になる。そしてその足音はマルセスの独房前まで近付き、そこで止まった。
「こんな時間に何の用だ?」
扉の向こう側にいるであろう看守に向かって問い掛ける。
「朝早くにすまない。あんたにいい報せがある」
「こんな時間に起こしたんだ。最高のいい報せだろうな?」
「ははっ、喜んでくれ。停戦派の臨時政府が国家反逆罪で収監された軍人の釈放を決定したようだ。近く、ここから出られるだろう」
「本当かそれ!? 漸く出られるのか!」
「本当だ。今後はあんたのような軍人が必要だ。ニホンとの戦争は我が共和国の圧倒的劣勢のうちに進んでいる。この戦争が終わったら、共和国再建の礎になるのはあんたのような人間だよ」
看守は静かに語る。その声は心なしか嬉しそうだった。
「俺はこの戦争が終わったら軍人やめるよ」
マルセスは本音を吐き出す。そしてもう飽きたと付け加える。
「あんたらしいな!」
扉の向こう側の看守は笑っていた。
「戦争も二度と関わりたくないね」
「それよりあんた知ってるか? 陸軍の一部の連中がまだ戦闘を継続する気でいる」
看守は一転して真剣な声で言った。
「だろうな。そういう奴らがいても不思議じゃない。カール大陸への勢力拡大は大統領が言い出したものだが、それを猛烈に後押ししたのは陸軍だ。カール大陸に進出して共和国の勢力圏を拡大、権益を独占するのが目的だと……。だがそれは表の言い分だ。本当の目的は、陸軍の外征能力強化と、戦力を現在の3倍にする大軍拡計画だよ」
「そんな話どこで聞いたんだ?」
「俺は情報部の軍人だ。そういう内部事情を把握するのは容易いことさ」
「しかし軍拡だなんて」
「簡単な話さ。カール大陸を支配下に置いたら今の兵力じゃ足りないだろう? 150万人、少なくとも100万人は必要だ。だが一つだけ誤算があった」
「ニホンか……」
「そう、ニホンだ。あの国が我々と同じ考えを持つことは想像に難しくない。一つ違うことは、我が国は侵略により権益を確保しようとした、ニホンは……タリアニアを保護国として、大陸の権益を平和的に獲得した」
「タリアニアは反抗しなかったのか?」
「タリアニアは他国の侵略を受け止めるだけの力を持っていない。ニホンはタリアニアの盾となることを対価に、権益を手にしたんだ。どちらが賢いか明白だろう? タリアニアの防衛だけじゃない。タリアニアへの資金援助や都市、環境整備やら色々と提供している」
「よくぞそこまで調べあげたな」
看守は感心したように聞き入っていた。
「タリアニアで一般市民に紛れて生活していたんだ。その程度の情報ならすぐに入ってきたよ。ニホンの憲兵に気を付ければいいだけだ。とにかく、共和国陸軍の強硬派はそう簡単には止められん。もうひとつ、軍内部に存在する併合された国の人間、彼らは何食わぬ顔で軍に溶け込んでいる。統一戦争終戦後に併合地域の軍は解体され、罪なき軍人が戦犯として裁かれたんだ。恨みを買うような真似だよ……共和国はその禍根を断ち切ったと思い込んでいるようだが、そう簡単な問題ではない」
「そういう話もあったな」
「併合地域出身の軍人は共和国によく尽くしていると思う。しかし全てを信用できると思うか? その点で共和国軍上層部は無警戒だ。いや、既に上層部にも併合地域出身者がいる。彼らが共和国転覆を狙っている可能性は否定できないだろう。しかし、それが共和国改革のいい機会だと思うのだが」
「共和国転覆か。もう大統領が現れることはないし、既に改革は始まってるんじゃないか? まぁ若手将校による暗殺だが……国が変革する時ってのは、いつも荒れるのが普通だろ」
「もう始まっているか……そうかもしれん」
「さて、そろそろ仕事に戻るとするか。釈放時期が決まったらすぐ教えてやる。楽しみに待ってろ」
看守はそう言うと去っていった。
「あぁ、待ってるよ。なるべく早めに頼む」
マルセスは扉の向こうの気配が消えたのを確認してからベッドに横たわる。
9時07分
バルアス共和国
ダステリア、ブレミアノ境界付近
ディーゼルエンジンの轟音を辺りに響かせ、巨大な物体がゆっくりと移動する。迷彩の塗装が施されたその物体は所定の位置に到達したのか、ゆっくりと停止した。今周囲を見渡せば同じような光景を見ることができるだろう。
58式自走20.3cm榴弾砲。帝国陸軍最大の砲で、砲兵隊が誇る最強の武器である。それらはここダステリアに30輌が揚陸され、活躍のときを今か今かと待ちわびていたのだ。
また最近揚陸された10式戦車も、運用開始以来初めての実戦に投入されようとしていた。90式戦車より幾分小型ではあるが、それでも重量は50tに達し、機動力、砲の命中精度、防御力で90式戦車を超えているとの見方もある。もちろん、90式戦車も今作戦の主力であり、帝国陸軍の進撃に必要不可欠な兵器であった。
佐々木 俊昭は90式戦車の横で握り飯を食いながら、辺りの様子に目を向ける。
「10式が来てるな」
10式戦車が集められた一画が目に入り、静かにその様子を窺う。10式戦車をじっくり観察したことがなかったが、90式と比べて小型には違いない。佐々木の視線の先にある10式は装甲板を追加されて実際よりも大きく、ゴツゴツとした印象を受ける。
「羨ましいね。90式よりも厳めしく見える。こっちは20年以上運用されてる老兵だよ」
佐々木は自身が乗る90式戦車を改めて眺めてみた。先代の77式戦車が丸みを帯びていたのに対し、この90式はとにかく角張っている。そして10式も例に漏れず角張った形状だ。
「まぁどっちが厳ついかなんて戦場じゃ関係ないな。どっちが多く活躍できたかだろ」
佐々木は自分で言って自分で納得した。しかし、突如開始された砲兵隊による砲撃が、腕を組んで戦車を眺めていた彼を現実に引き戻す。
砲兵隊陣地から響き渡る20.3cm榴弾砲の重い砲撃音、まさに腹に響くとはこの事ではないだろうか。
「おぉ、遂に始めやがったか。敵の砲兵隊をきっちり潰してくれよな」
彼は敵の陣地がある方角を向き、祈るように呟いた。