悪夢を見た。
息苦しい。かきわけてもかきわけてもみつからぬ出口。
そこに未来などない。
私はあの人に声をかけてほしかったのかもしれない。
何を期待しているのだろう。
優しい言葉をもらったとしても、苦しみは変わらないのに。
悲しくなるだけじゃないか。
惨めになるだけじゃないか。
少しは楽になれるとでも思ったか?馬鹿馬鹿しい。
今がすべてなんだ。
事実は変わらない。
そして過去も。
「よぉ」
なんだ人識くんか。
「今がっかりしたろ?」
私は慌てて首を横に振る。
「それくらいわかんよ」
零崎人識、氷点下の刃物が言った。
その言葉は冷たいようで、突き刺さるように温かかった。
「あいつが好きなんだろ?」
「わからない」
あの人は確かに私を好きではない。だけど私は……。
「まだ気にしてんのか?」
「…………」
「あいつなら大丈夫だ。俺が保証する」
この人はどうして私を、私なんかを選んだのだろう。殺人鬼になれない殺人鬼を。
選ぶも何も、お前が零崎だったから。俺たちの家族だったから。
そんな風に返ってきそうだ。
「まあ、泣きたかったらいつでも泣きな。この胸貸してやんよ」
なんだこの人。少しだけ笑えてきた。人識くんも笑った。
零崎稲織。表の名は……もう一生名乗るつもりもないし、あえて言わない。
あの人もそうだ。本名を教えない主義。
変わっているけどすごくいい名前らしい。知りたい。と思う。知ったところで別段何も起こらないけど。好きだからなのか、知りたいのは。
あの人は教えてくれないだろう。
かつてあの人の名を知った者は3人。いや、かの策師、萩原子荻を合わせると4人か。玖渚のお嬢様に橙なる種、そしてあの人の妹。あの人にとって玖渚友はどういう存在なのだろう。ただの友達。そう言っていたけど。到底そうは思えない。
「戯言なんだよ」
あの人はそう言うだろうか。
嘘つきで、鈍くて、メイド好きで……全然好みじゃないのに、あの人を守ってあげたいと思った。あの人のことをもっと知りたいと思った。
今も。
寂しげな背中を見たから?
私はあの人を傷つけた。
「君、名前は?」
「零ざ……伊織です。無桐伊織」
「へぇー。いい名前だね」
私は嘘をついた。無桐伊織は、零崎舞織の表の名だ。
「あなたは?」
「ん、ぼく?名乗るほどの者でもないよ。いーちゃん。いっくん。いの字。いーの。いーいー。好きに呼んでくれて構わない」
あの人は冷めた顔で言った。
「そう、ですか」
「お、いーたん。そいつは俺の家族だぜ。もしかして気に入ったのか?」
なぜかそこに人識くんが現れた。全く予想外な展開だ。近くに家族とおぼしき人物がいるのだろうか。
「いや」
「U−150の貧乳娘だがよろしくな。これからはお義兄様と呼んでくれ」
「だから話を」
「確かに身長は低いです。胸が小さいのも事実です。だけどそんな……」
私はものすごく気にしていたから。
「伊織ちゃん……」
「同情なんていりません!私は女のなり損ないで、男でもないんです!もう私のことは放っておいて下さい!」
あの人が心配そうな顔をしたからか、訳のわからないことを口走っていた。放っておいて下さいなんて、あの人がそこまで私に構うわけがないのに。
そして気づいたら、あの人に平手打ちをかましていた。言い訳にならないだろうが、勝手に手が動いたのだ。あの人は当然驚いたが、親にも叩かれたことないのに。みたいな反応はなかった。叩かれ慣れている。というとおかしいけれど、そんな感じ。
「ごめんなさい」
「こういうのは慣れてるんだ。星の数ほどの女の子と付き合ってきたからね」
「ごめんなさい」
「もういいよ。伊織ちゃんは嫌だったんだろう?」
私はうなずいた。優しさに涙がこぼれた。
「そもそも零崎の奴が悪いんだけどね」
「俺が悪かったよ。だからって、いーたんを殴るのはよくないぜ」
「私がつまらないことで怒ったのが悪かったんです。助けてもらったのに……本当にごめんなさい」
いっそ、怒るか殴り返すかしてくれたら私も救われただろう。あの人は何も言わず、ただ冷めたようなそれでも優しい瞳で私を見つめた。
「電車に乗れない私を助けてくれた。なのに私はあんなことをしてしまって……」
私は俯いた。
「まさか電車に乗れない零崎がいたとはな」
人識くんは少し笑った。
「それに嘘をつきました」
「無桐伊織を名乗ったことか?たぶんあいつは気づいてやがるよ」
「気づいていたからといって許されるわけではありません。電車に乗れないのは恥ずかしかったから、舞織さんにも申し訳なくて」
「無桐伊織は存在しない。紙切れの上でだけだ。お前は悩みすぎなんだよ。そんなキャラでよく殺人鬼になれたもんだぜ。かかかっ」
「悩みすぎ、なんでしょうか?」
「殺人鬼は殺人鬼らしくなっ」
何をやっているんだろう。うじうじ悩んでいる暇があれば、今すぐに行かなければならないのではないか。
あの人の住んでいるところは人識くんから聞いた。私はちょうどアパートから出てきたあの人をつかまえた。
「あ、あのー」
「ん?誰だったかな?見たことはあるんだけど……確か零崎の……」
「はい、稲織です。零崎稲織」
「最近忘れっぽくてね。そんな名前だったかな?」
「ごめんなさい。この前は嘘をついて、無桐伊織と名乗りました」
「そうだ。そんな名前だった」
「怒らないん……ですか?」
「偽名を使ったこと?ぼくに怒る義務はないと思うけど?」
「あなたらしいです」
あの人が眩しかった。
「で、何かな?」
「どうしても謝りたくて」
「謝ってもらわなくてもいいよ。もう済んだことだ」
「じゃあ、せめて何かさせて下さい」
「エロいこと?」
あの人は真顔で聞いてきた。一体、何を間違ってこんな人を好きになってしまったのだろう。
「ち、違います!」
「稲織ちゃん、顔が赤いよ?」
表情は変わらないけれど、あの人は少なからず私の反応を見て楽しんでいた。
「付き合ってくれる?」
「え?今、なんて?」
私は慌てた。まさかそんなこと言われるとは思っていなかったから。
「買い物に」
なぁんだ。ちょっと残念。
「はぁ、買い物ですか?」
「友達の誕生日プレゼントを買いに」
「ご、ごめんなさい。お出かけの邪魔をしているのにも気づかず。私ったら、ほんと無神経で。ひどく時間をとらせてしまいました」
「だから、行こう!」
私の腕を引っ張ってあの人は言った。
あの人の中に少年を垣間見た瞬間だった。
「はいっ」 |