【9】
“殿様”は刀の鞘を引き払った。鋼色に輝く白刃が、春菊の目前で露わとなる。クックック、と嘲るように笑いながら、“殿様”はその白刃を一回振った。ビュン、という風切り音が春菊の耳に入る。その刀を大上段に構えて、“殿様”は続ける。
「手打ちにしてくれるわ!」
鬼のような形相を浮かべ、そう言い放つ。
やべェ、殺される。
そう心で呟いたのは、すでに尻もちをついた後だった。尻で畳をすりながら、後ずさりをするものの、立っている“殿様”から逃げられるはずもない。ずりずりと後ずさりをしたはいいが、やがて壁に背中がついてしまった。逃げ場がない。
「ちょ、殿様! ちょいと待ってくんな!」
右手を中空に振りながらオタオタと振るまう春菊を嘲笑うように、“殿様”は春菊との距離をじりじりと詰めた。そうして、白刃を春菊の頭上に振りかざした。この“殿様”には話が通じそうもない、と無意識のうちに諦めた春菊は、
「おい、六助さん!」
と、“殿様”の後ろに控える六助に助けを求めた。だが、六助は無表情で春菊のことを見下ろしている。どうやら、六助も春菊を助ける気はなさそうだった。
春菊のあがきを横目に、“殿様”は刀の柄を強く握りしめた。そして、般若のように口を歪ませながら、刀を振り下ろす。
「覚悟!」
「ひぃぃ!」
思わず、春菊は短い悲鳴を上げた。もちろん、目を開け続けることなど出来なかった。
あ、死んだ、と思った。
だが。
突然、はっはっは、とこの場の雰囲気に不似合いの笑い声が辺りに響いた。その声に寄り添うように、くすくすというひそやかな笑い声も聞こえる。“もしかしてもう極楽に居るのか”と一人合点した春菊は、きつく閉じていた目をゆっくりと開いた。
目の前の光景は、極楽ではなかった。
目の前には、“殿様”と六助がいた。しかし、さっきまでと状況が違った。二人とも、はっはっは、と臆面もなく笑っている。
春菊が目を開いたのが分かったのか、“殿様”は悪戯っぽく言った。
「なんちゃってな」
「は?」
今置かれた状況を呑みこんでいない春菊。ふと首をさすってみた。だが、首には一切傷はついていなかった。もちろん、首と胴が離れているわけではなさそうだった。さっきまでさんざん春菊を恐れさせた刀の切っ先は、だらりと下げられた“殿様”の腕に従うように、畳に向いていた。ため息をついた春菊は訊いた。
「どういうことですか」
すると、“殿様”はカラカラと笑った。
「いや、冗談なんだよ」
さらに首をかしげる春菊に、“殿様”は種明かしをした。
「何、ただ、お前さんの胆力を試しただけさ。いやしくも大名家の招聘を断ったお前さんの心胆がどれほどのものか、見てみたかったんだよ」
つまり……。
春菊は頭の中でこれまでのことをまとめて、さっきまで目の前で起こったことがどういう意味を持つのかを理解しようとした。そして、そうして導き出された結論を述べた。
「つまり、悪戯の類ってことですかい?」
何が面白いのか、にこにことしながら“殿様”は頷いた。
あまりのことに、春菊はつい本音が口から衝いて出てしまう。
「ハァ……。なんつうお武家さまだよ……」
その口ぶりに反応したのは、六助だった。“殿様”の後ろで、明らかに不快そうな表情を浮かべた。
「春菊先生! 元はと言えば、先生が殿の招聘を断るのが不遜なんですよ!?」
その六助の言葉を手で制した“殿様”は、六助が言葉を止めたのを見計らって続けた。
「……江戸の町人は今も昔も権力者が嫌いだからな。きっと、お前さんもそういう手合いだとは思っていたよ。江戸っ子の諧謔には、武門のハッタリで対抗するのが一番いいと思ってね」
それで、こんな一芝居を打ったってわけかい。
春菊は立ち上がろうとした。そして、文句の一つを言って、すぐに帰ってしまおうかと思っていた。だが、なぜか足に力が入らない。仕方がないので、上体を振ってその勢いで立ち上がろうとした。だが、それでも足に力が加わらない。
そんな春菊のことを、“殿様”は豪快に笑い飛ばした。
「はっはっは! 腰が砕けてるぞ」
「そりゃそうでしょう!」と、春菊は言葉を返した。「ダンビラを目の前にさらされて、腰が砕けない奴がありますかい!? きっと、古今の豪傑・島左近だって腰が砕けるってもんですよ!」
「ほお……」
珍しい生き物を見るような目つきで、“殿様”は春菊のことを見つめた。その目は、決して腰砕けを馬鹿にしているような目つきではなかった。むしろ、何かに対して感嘆しているようでさえあった。事実、その一瞬後に、“殿様”は懐から扇子を取り出し、ざっと開いた。
「やはり、あっぱれな人だな、春菊先生」
“殿様”は、春菊のことを“先生”と敬称をつけて呼び、紡ぐ言葉も少し改めた。
なにがですかい、それ、皮肉ですかい? そう訊くと、“殿様”は首を横に振った。
「うん、確かに先生は刀を前に腰砕けになった。だが、それでも言葉は一切死んでない。それはそれで、相当の胆力だ。……言葉に生きる人間ならでは、だな」
「へへん。当たり前よォ!」と、腰砕けのまま、春菊は啖呵を切る。「こちとら、人気商売をしてるんでェ。針の莚に座るような毎日なもんでねェ!」
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