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【49】
「……そうだな」
 春菊はお蓮の脇をすり抜けようとした。あえて、顔を見ずにすり抜けようとした。けれど、お蓮が春菊に声をかけた。
「春菊さん」
「なんだい?」
「これから、どうするの?」
「決まってらァな。江戸から離れる」春菊は言った。「……でもな、俺は江戸を離れても、講釈をやっていこうと思ってる」
「え?」
 春菊は頭を掻いた。
「今日の講釈で分かっちまった。俺は講釈が好きなんだ。どうしようもなくな」
 春菊は気づいてしまった。駆け出しの自分が講釈を続けていたのは、もしかしたらお蓮のためでもあったのかもしれない。けれど、今の春菊を突き動かしているのは、お蓮という人間の力だけではない。自分の講釈を楽しみにしている客たち。まだ知らぬ、自分の講釈を待っている人々。そういう人々が、自分を待っている気がする。あるいはそれは妄想なのかもしれない。けれど、春菊はその妄想に突き動かされてここにいる。それに気づいてしまった。
 お蓮は、春菊の顔を眺めていた。最初は口角を上げて微笑んでいたけれど、不意に目から一筋の涙がこぼれた。その涙は一筋だけで、そのあとには続かなかった。
「……うん」
 お蓮は口のあたりを押さえた。
「……きっと、お父も喜ぶと思う」
「おう」
 今度こそ、春菊は控え室から辞そうとしていた。けれど、その春菊を、またお蓮が引きとめた。
「ねえ」
「あん?」
「もしも、私が名人・早良園菊の娘じゃなかったら。春菊さんはどうしてた?」
 その言葉の意味を、しばらく考えた。けれど、意味は一つしかなさそうだった。そして、その答えも一つしかなさそうだった。しばし考えて、春菊は答えた。
「ああ、結局同じ結末だっただろうよ。だってよ。俺は俺のままなんだから。所詮俺ァ、意気地のねえ春之助なんだからよ」
 春菊は振り返らなかった。だから、お蓮がどういう顔を浮かべていたのか、さっぱり分からなかった。

「見事なものだ」
 網代屋の表にて、安藤公が春菊を待ち構えていた。隣には、複雑そうな顔を浮かべる六助の姿もあった。
 ひょいと手を上げた春菊は、笑顔を向けて訊く。
「どうだったィ? 春菊江戸最後の講釈は」
「まさか、私のことをネタにするとは」と、苦笑いを浮かべてから安藤公は続ける。「しかし、おもしろかった」
「あの講釈で、当たらずとも遠からずでしょ?」
「いやいや」安藤公は両手を振った。「お前の語る“安藤公”ほどに、私は切れ者ではないよ。まさに、先生の言うように“キリキリ舞っている”だけのことだ」
「ご謙遜を」
 軽口を放った春菊は、六助の方を向いた。
「六助さん」
「はい」
 右手を袖に隠している六助は、春菊に向いた。
「どうだったィ?」
 しばらく、六助は何も答えなかった。顔にはありありと困惑が見てとれた。きっと、口から飛び出しそうなさまざまな言葉を無理矢理に腹のうちに貯めているのだろう。春菊はあえて六助を急かさなかった。
「あの!」
「ん?」
 六助はたどたどしく言葉を継いだ。
「“右手がなくても左手がある。左手がなくても両足がある。両足がなくとも心がある。心さえなくなっても、「自分」が残る。人はいつまでも、舞い続けることが出来るのだ”と、講釈の中で先生は言いました。けれど、そんなこと、出来るんですか」
「さァ」春菊は肩をひそめる。
「え? 言いだしっぺなのに!」
 その六助の言いように春菊は笑い、わざと講釈調におどけて見せた。
「あのですな。講釈ってェのは、あくまでお話なんですよ。そして、そのお話に出てくる人間ってェのも、破格の人間なんでございますよ。そして、ここで喋ってるあっしは、あくまで一町人なんでございます」
「でも」
 食い下がる六助に、真面目な口調に戻した春菊は言った。
「でも、ああいう風に在りてェよな」
「……はい」
 六助は頷いた。
 その頷く様子を眺めていた安藤公は、ふふっと笑って春菊に頭を下げた。
「ありがとう」
「気にするなィ」
 春菊はハハハ、とわざと大きく笑った。
 が、その笑い声の途中で顔を上げた安藤公は、小さな声で言った。
「だが、急いだ方がいい」
「あ?」


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