【4】
春菊の不遜な態度に、若侍は明らかに不機嫌な顔を隠さなかった。竈に目を向けるふりをしながら若侍の顔を盗み見ていた春菊にも、若侍の心の動きが理解できないではなかった。
若侍は答えた。
「あのですね……。我が家中の殿が、春菊先生を召し出したいとのことなのです」
「召し出す? 俺を?」
春菊は自分の顔を指した。すると、若侍は真面目な顔で頷いた。
「ええ、殿は春菊先生の講釈を贔屓にしているのです」
へェ? 少し得意な気分になる春菊だったが、江戸ッ子特有の撥ね返りの諧謔精神がとぐろを巻き始めているのを自覚していた。
「是非に、座敷に召し出して、先生の講釈を聞きたいとのことでして……」
そうやって言葉を選ぶ若侍に、春菊は応じた。
「申し訳ないですが、お断りです」
「な、なんですって?」
若侍は春菊の言葉を非難するように、話を先に促した。その促しに乗っかって、春菊は慇懃無礼に、かつ理屈っぽく答えた。
「講釈っていうのは、講釈師という“先生”が下々の者に教えを与えるという形式の芸能でござんして、そもそもが下々のための演芸なんですよ。そんな下々のための演芸を、お武家さまの座敷で行うなんて不遜、あっちゃあいけません。そんなわけで、お断り致します」
「し、しかし……」
「それにね、私は寄席場・網代屋と専属でやってましてね。どこで喋るにも、逐一網代屋さんの認可がいるんですよ。まずは網代屋さんに話を通してください」
これは本当だった。網代屋というのは、お蓮が元締めをしている寄席場だ。いろいろな事情があって、春菊は網代屋の演台にしか上がらない。
「けれど……」
しつこく食い下がる若侍に、春菊は片眉を吊り上げながら続ける。
「お分かりになりませんかねェ、お侍さま。講釈師の喋る場所は、寄席にしかないんでございますよ。……どうしても講釈師の講釈をお聞きあそばされたいのであれば、寄席にまでいらして下さいな。俺の講釈を待っているお客様とご一緒に」
正直、虫の居所が悪かったというのもある。だが、それ以上に“偉い人間を軽んじる”江戸っ子の気風が春菊に言葉を紡がせていた。俺の贔屓客。それはありがたい。だが、だからといって座敷に呼びつけるなんざ、どういう了見でェ。ちっと権力があるからって、その権力を嵩に着るんじゃねェぞ。……そんな撥ね返りに心を支配されていた。春菊、いやになるくらいに江戸っ子なのだ。
「な!」
若侍は顔を真っ青にした。その表情について、肝を冷やしているのか、血の気が引くほど激昂しているのか、あるいはその両方なのかは春菊には分からなかった。蒼い顔のまま、しばらくワナワナと身を震わせていた若侍だったが、やがて絞り出すように言葉を放った。
「なんたる不遜……! 不遜であるぞ! 春菊!」
「春菊“先生”だ。若タレ」と若侍の言葉を訂正して、春菊は続ける。「俺が不遜なら、おめえらは野暮だろうが。お武家さまの考え方だと、こりゃ喧嘩両成敗だな」
「……ぐ!」
どうやら、ぐうの音も出ないようだった。いや、「ぐ」だけは出たようだった。
「帰りな。お侍さま」若侍の方の向こう、戸の外に広がる赤い空に目を向けながら首を振った。「ここは夜になると怖いところでござんして。お岩さんもお菊さんも、裸足で逃げ出すって評判なところなんでね。あ、お岩さんにもお菊さんにも足、無ェか」
きっと、この長屋の噂を聞いたことがあるのだろう、明らかに顔を曇らす若侍の瞳がちょっと揺らいだ。人間、何かに恐れると、一瞬瞳が暗く光って淡く震える。それは、夏になると怪談物を演る春菊の経験則だった。
「まあ、悪いことは言いません。帰りなさいな、お武家さま」
「く! ……!」
そうやって声にならない声をひねり出していた若侍だったが、やがてこれ以上の説得が無理と踏んだのか、「失礼しました」と慇懃に述べ、春菊から踵を返した。
その若侍の後ろ姿を目で追いつつ、春菊は台所で塩を探した。塩を入れている壺をすぐに探り当て、ふたを開いてみた。だが、中は空っぽだった。そう言えば、昨日の夕餉を作った時に使い切ったことを思い出した。そもそも、買おうにも塩は高くて、あまり買う気にはならない。他の調味料が切れるまではしばらく買い足さないだろう。かといって、「塩を撒きたいから塩を貸してくれ」とお隣の怖いお兄さんに申し出るわけにもいかず、仕方がないので塩の横に置いてあった壺に入っていた味噌を玄関先に撒いておいた。塩気だし、まあ一緒だろ、とばかりに。
ふと、竈の上に乗っかっている鍋を覗き込んだ。
味噌汁がもはや味噌汁ではなかった。さしずめ、豆腐の味噌煮のような状況だった。しかも、長く煮られていたのがまずかったのか、豆腐がまるでソボロのようになっていた。
一口取って食べてみた。案外うまかった。
その偶然の産物によるおかずをお椀に盛って米を食べていると、戸をどんどん叩く音がした。
出てみると、お隣の怖いお兄さんだった。いつも春菊を博打に誘ってくる人だ。
「あんちゃん、今日もこれ、来るだろ?」
と、賽を転がす身振りを示しながらその兄さんは言う。
おお、行きます行きます、と二つ返事で応じると、いつも通りの場所だからな、とその兄さんは言った。いつもはそれだけ言うとすぐ帰ってしまうのだが、今日に限ってはまだ言うことがありそうだった。
「いやあ、困っちまったよ」
「どうかしたんですか?」
話を先に促すと、頭を掻きながらその兄ちゃんは続けた。
「実はよ、さっきアンタの家の前で、犬の糞を踏んじまってよ」
「それは災難ですね」と、春菊は調子を合せる。
「まったくなあ。最近碌なことがありゃしねえ」と、その兄ちゃんは天を仰いだ。「まったく、犬を飼うのは自由だが、捨てるなっていうんだ全く。いくら不景気でもよ」
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。