【3】
江戸っ子たちはそうやって余裕ある対応を取ったが、当時の日本の政権担当者である幕府はそんな余裕を持ち合わせていなかった。江戸から目と鼻の先にある浦賀に異国の軍船が侵入しその砲台を陸に向けているのだから、政権担当者としてその対応に苦慮するのは当然とも言える。しかも、現場からの報告を聞くところだと“あめりか”の連中は国交の樹立と通商の確立を迫ってきているのだという。それまで、特定の国以外と国交を保ってこなかった幕府としては、どうにかあめりか側の提案を断る方向で話をつけようとはしたが、“あめりか”側の方が一枚上手のようだった。結局、幕府は“あめりか”と和親条約を結び、続いて通商条約を結ぶに至ってしまった。
そうして“あめりか”と通商を結んだのを機に、西の海にある国々と通商を結ぶ羽目になってしまった。
それからだ、と春菊は思う。それから、江戸は不景気になった、と。
詳しいことは春菊には分からない。もともと政治向きのことに詳しいわけではない春菊が持っている視点は、江戸の生活者のそれでしかない。だが、その春菊にも分かるほど、江戸の景気は奈落に向かって落ち続けている。
まずは物価が上がった。まずは絹の価格が大幅に上がった。そのあと、まるで舞台の底が抜けるかのように、すべての商品が値上がりした。この前まで寛永通宝一枚で済んだ買い物が、気付けば二枚支払うまでに値上がりしていた。
物価が上がったことで、お金を使って生活している江戸っ子たちは芝居小屋や寄席から遠のいてしまった。おまんまを食べるのに精いっぱいで、寄席に落とす金を持っているような豪奢な人間が少なくなってしまった。今も昔も、景気のあおりを受けるのは浮き草稼業と相場は決まっている。そんな不景気が、結局七年近くだらだらと続いているのであった。
はあ、と噺家はため息をついた。
「いや、たとえばお客様の足が遠のいてしまったのが自分のせいだというなら、まだ諦めはつきますわな。自分の芸が及ばなかった、ってだけの話ですから。がんばるなり、廃業するなりすればいいんですから。だけれど、今お客様が入らないのは、あっしがどうにかできるような理由ではないですから」
その噺家の言葉は、見事なまでに春菊の心を代弁していた。
しかし、と噺家は言った。
「それでも喋り続けるのが、噺家、いや、喋り手ってものでしょうな」
ようやく、裏通りも終わりにさしかかった。庇によって真っ暗だった裏通りの出口には、まっ白な光があふれていた。その光に目を細めた噺家は、その光から目をそらした。
「ま、いつか夜も明ける。いつかまた、お客様が笑ってくれる時期がやってくる。それを信じるしかないんでしょうな」
それだけ言い残し、噺家は春菊を一瞥して頭を下げ、江戸の往来に消えていった。
大通りと裏道の、光と闇の境界に立ち尽くしながら、春菊はため息をついた。しかし、少し思いなおして光溢れる大通りに足を踏み出した。
いつか夜は明ける。そうあの噺家は言った。だが……と、春菊は心の中で呟く。俺は、夜が明けるまで、喋り倒すことが出来るのだろうか。あの、土人形のようにして座ったままの客たちに。そして、講釈の中に出てくる過去の偉人達を、熱を持って語り続けることが出来るのだろうか、そもそも、今の時点でそれが出来ているのだろうか、と自問を重ねた。だが、自問に応えてくれる者などあろうはずもなく、春菊の疑問は心の奥底に沈んでいった。
風が吹いた。研ぎ澄まされた剃刀のような風が春菊の頬をなでた。熱が奪われる。しかし、“桶屋が儲かる”とはいかなそうだった。その風は、誰にとっても寒いだけで、誰かに益をもたらしそうな予感はなかった。
その日の夕方、春菊の長屋に珍客があった。
春菊の長屋は江戸の端っこにある。本当はもっと寄席に近い所に住みたいのだが、家賃が馬鹿にならないので引っ越せないでいる。場末の長屋だけあって、柄の悪い連中がお隣さんだったりもする。まあ、そういう連中とつるんで時折丁半博打を打っている春菊だって、“柄の悪い連中”には違いないのだが。
そんな長屋に住んでいると、客などほとんど来ない。江戸っ子たちに恐れられる、盆暮れの名物・ツケの取立人すらも、この長屋の空気を恐れてやってこないほどだ。そもそも、春菊を訪ねてくる人などいやしないのだが。
だが、その珍客はやってきた。
ふんふふん。
鼻歌を歌いながら、竈にかかっている小さな鍋に味噌を溶く。豆腐しか入っていない白湯に茶色が混じる。そうして貝の少ない味噌汁も、少しは見栄えが良くなる。そんな頃だった。
「すいませぬ。こちら、講釈師・早良春菊先生のお宅でよろしいか?」
若い男の声だった。少し偉そうで、しかも洗練された言葉選び。武家言葉だ。しかし、奉行所の連中のような荒々しさはない。
ちょうど竈の前に立っていた春菊は戸の前に歩を進めながら、うむむ、と唸った。俺に、お武家さまの客? 知らねえな。
しかし、外にいるその珍客は続ける。
「いらっしゃるのでしょう?」
その口調には、こちらに危害を加える風はなさそうだった。なので、戸を開いた。
開かれた戸の先には、やはり侍が立っていた。
きっちりとヒダの入った袴。そして龍の細工の入った拵えの大小。ふと見ると、羽織は絹のようだった。かなり上位のお武家さまなのだろう。しかし、それらの格好が、春菊には滑稽に映った。というのも、その侍があまりに若かったからだ。きっと歳の頃は十五かそこらだろう。事実、目の前に立つその侍は、まだ前髪を落としていなかった。もしかすると、“十五やそこら”という見立ても、下方修正しなくてはならないのかもしれない。
「……ああ、こりゃ失礼しました。私が早良春菊です」
春菊はその若侍に頭を下げた。相手が若いと知って、用意していた言葉よりは幾分砕けた口調の挨拶を述べながら。
その若侍は春菊の応対に少々嫌な顔をしたが、諦めたように頭を振って続けた。
「私、磐城平の家中の者です」
「いわきだいら、ねえ」
江戸から一度も出たことがなかった春菊は、磐城平がどこにあるのか知らなかった。なんとなく、江戸より寒そうだな、と印象だけで決めつけた。それは、目の前にいる若侍の頬が、雪のように真っ白だったことも無縁ではあるまい。
で、と若侍をなめるように見つめて、春菊は続けた。
「その、磐城平の家中の方が、しがない講釈師に何の御用ですかね?」
ふと春菊は竈に目をやった。夕餉の味噌汁がグツグツに煮立っていた。あ〜あ、あれじゃ味噌の風味が逃げちまったよ、どうしてくれんだよ、と心の中で呟きつつ。
※注釈※
ツケの取立人:
当時、消耗品以外の動産の売買について、ほとんどの店がツケ払いを採用してました。で、その取立が丁度盆と暮れにありまして、江戸っ子たちは家に押し掛けてやってくる取立人を本当に怖がったそうです。よく社会の授業で習う、三井呉服店の「現金掛け値なし」っていうのは、すごく革命的だったんですね。
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