ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
【29】
「思い出しますなあ、井伊様。何年前のことかは忘れてしまいましたが、はっきりと覚えておりまする。あなた様に初めてお目通りさせて頂いた時も、このような雪の日でしたな」
 しかし、布団の中にうずくまる井伊掃部守は何も答えない。
 それに構わず、安藤公は続ける。
「あのとき、井伊様、なんとおっしゃられたか、覚えておいでですか? “おやおや、雪のさなか、ご精勤痛み入る”と私に頭を下げてくださいましたな。あれは、嬉しゅうございました」
 井伊掃部守は何も答えない。
 安藤公は顔色一つ変えず、微笑んだままで佇んでいた。傍から見れば、安藤公と井伊掃部守が会話に興じているかのような空気を醸していた。しかし、井伊掃部守は既に死んでいる。春菊にさえそれは分かる。胸をムカつかせる死臭。春菊の座る位置ですらこれだけ匂うのだから、安藤公と井伊掃部守の位置関係ではなおさら匂うはずだ。けれど、安藤公は顔に皺ひとつ作らず、井伊掃部守を見つめ続ける。
 安藤公は頭を振って続ける。
「さて、昔話はこれくらいにいたしましょう。……突然の急病、驚きましたぞ」
 井伊掃部守は答えない。
「おかげんはいかがでござる?」
 もちろんその問いに、井伊掃部守が答えるはずもない。
 一瞬間を置いた安藤公は、おや、と大仰に驚いて見せた。
「はは、“大事ない”ですか。それは何より」
 はははは、とカン高く笑った安藤公は、さらに質問を重ねる。
「しかし、井伊様が登城なされないとなると、政に支障をきたしますな。……え? “久世(くぜ)に諸端を任せればそれでよい”? はは、違いありませんな」
 もちろん、井伊掃部守が安藤公の笑い声に寄り添って笑うことはなかった。
「……まあ、井伊様のこのご様子ならば、心配ございますまい。ひと月もすれば、また政務に戻られることでしょう。それまで、井伊様をお待ちしながら何とか切り盛りしてゆこうかと思います。……一日も早いご快復、お待ちしておりますぞ、井伊掃部守様」
 無論、首の飛んでいる井伊掃部守が、何かを答えるはずはない。
 その後、安藤公は会釈をすると立ち上がり、奥の間から辞した。
 唖然としている井伊家家老の脇をすり抜けた安藤公は、思い出したかのように振り返った。
「井伊様家老殿」
「……は」
 少し唸って安藤公は続けた。
「私の見たところ、井伊様は病気でござる。よって、御公儀には“井伊様病気”の旨を申し上げよ」
「それはどういう……?」
「言うまでもあるまい?」と、安藤公は人を小馬鹿にするような表情を浮かべる。「少なくとも、老中である私が見るに、井伊様は病気でござる。たとえ、誰かが異議を唱えたとしても、私が全力でその異議を塞いでみせよう。……お亡くなりになったならまだしも、病気中であれば家中の諸事を取りまとめることも出来ようぞ。その間、あなたを筆頭にご家中のご政務にお励みなさるといい」
「“家中の諸事を取りまとめる”……?」
 安藤公の言葉を咀嚼(そしゃく)する家老。最初は皺を深くして唸っているばかりだったけれど、やがて安藤公の言わんとすることがわかったのだろう。ワナワナと手を震わせて、頭を下げた。
「安藤様、相すいませぬ……。このご恩、一生忘れませぬ。家中を代表し、御礼申し上げまする!」
 声を震わせる家老に、安藤公は迷惑そうに言った。
「なんのことでござる?」
 さっきまでの芝居じみた行動とは打って変わって、すでに素の安藤公になっていた。

 この件、後世には「桜田門外の変」として知られる暗殺事件である。
 幕府の最高職・大老にある井伊直弼が、名もない浪士たちの一団によって討ち取られたこの事件は江戸を、いや、日本中を震撼させた。目鼻が利かないものたちは「物騒な世の中になったものだ」と眉をひそめた。眼鼻の利くものたちは「幕府の権威も地に落ちた」とため息をついた。
 この件の調べが進むうち、下手人の素性が水戸と薩摩の浪人たちであることが分かってきた。正確には、水戸と薩摩の家中の籍から離れた(脱藩)ものたちだった。皆、一橋派にくみする者たちで、水戸に下された密勅に書かれていた“井伊大老襲撃計画”に刺激されてこの犯行に踏み切ったとのことだった。安藤公の読みは半分当たったわけである。
 この件について、幕府は面白い処理を取っている。
 幕府は、井伊直弼の暗殺事件を伏せ、井伊直弼横死の事実をもみ消そうとした。井伊家から提出された“井伊直弼病気につき、登城停止を願いたく候”という願いを聞き入れ、井伊大老を病欠扱いとした。そして、一ヶ月後になって出された“闘病空しく、井伊直弼隠れ候”という報告を受けた。ちなみに、その一ヶ月の間に井伊家は直弼の後を継ぐ当主を幕府に届け出て受理されている。
 もちろん、井伊直弼横死の話を、もみ消し切れるものではない。
 井伊直弼襲撃の現場には、数多くの町人たちがいた。数家の大名行列が、井伊直弼の血の惨劇を目撃している。その光景を見たのが少数であったならば、口を塞ぎ切ることができたのかもしれない。けれど、不特定多数の人々の口を塞ぐことはもはや不可能だった。かつての幕府ならば出来たのかも知れないが、この頃の幕府にはそこまでの権力はもはやなかった。
 もちろん、一町人である春菊は、この件の全容を理解していない。春菊にとって桜田門外の変とは“首なし死体に話しかける安藤公”という、江戸の片隅で繰り広げられた寸劇がその全てだった。
 もちろん、辻で配られた号外や噂で桜田門外の変の輪郭はなんとなく掴みかけてはいる。しかし、そうやって聞こえてくる情報はあまりに断片でしかなかった。あっちで拾った断片とこっちで拾った断片は、必ずしもぴったりとはくっつかなかった。その間にまだ拾えていない断片があるのだろう、と漠然と思わせるだけで、断片はその全体像を語ろうとはしなかった。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。