【2】
「今日の講釈すべてに決まっているでしょう?」
「はあ」
「……“はあ”じゃないでしょう?」と、少し語尾を上げてお蓮は言葉を言いつのる。「……正直、講釈の内容自体はどうでもいいんですよ。普段あんまり作り話をしない春菊さんが、今日に限っては作り話をした、ってことに関しては。嘘か真か分からない、それが講釈ですから」
「これは講釈のご講釈をどうも」
春菊は皮肉を言った。その皮肉に眉根さえ動かさず、お蓮は続ける。
「でも、お客様の方に釈台を蹴り込んだり、果てはあんな暴言。あれは寄席の元締めとしては見過ごせませんよ。お客様あっての商売なのですからね」
「至極ごもっとも。至極ごもっともだけどよォ」と、ごもごもと春菊は口を動かしながら帯を締める。「あんな客共、来ない方が寄席のためだって。あんな客しかいないんじゃ、上質な客が逃げちまう」
「春菊さんがあんなことしたら」と、お蓮は反論する。「あなたの言う、“上質なお客様”の足だってどんどん遠ざかってしまいますよ」
このままじゃあ、水掛け論だねェ。
そう心の中で一人ごちた春菊は荷物をまとめて詰所の裏出口に向かおうとした。だが、それを柳のような体でお蓮がふさぐ。まだまだ話は終わってませんよ、とばかりに。
「あと、もう一点」
「な、何でェ、お蓮さん」
「これはあくまで私の好みの話だけれど、歴史に材を取った講釈に嘘を混ぜても面白くないと思う。歴史モノ講釈の旨味っていうのは、かつて生きていた人間たちの、血の通った息遣いだと思うのよ。……ま、これも私の好みの問題だけれど」
そう言って、お蓮は淡く微笑んだ。その顔は、寄席の元締めの顔ではなくて、十年以上前に初めて顔を合わせたときのような、若々しい笑顔だった。
少しバツの悪くなった春菊は、お蓮の顔から視線を外して脇をすり抜けようとした。その春菊をまたお蓮は引き止めた。なんだい? と訊く春菊に、お蓮は紙包みを差し出してきた。「今日の給金ですよ」。両手で差し出された紙包みを、春菊は左手で受け取った。「少し軽いねェ」と皮肉を言うと、「あんなことしたんですから当然です」と、ピシャリと言われてしまった。もうその瞬間には、お蓮の顔から若々しい色は消えていて、寄席の経営者のそれになっていた。
ありがとよ、と言葉を投げつけて、春菊は詰所を後にした。
寄席場「網代屋」の裏口の戸を、そろそろと開ける春菊。昔、講釈に人気があったころは裏口に“出待ち”の客がいて大変だった。“出待ち”というのは、寄席の出口で、ひいきにしている演者を待つことだ。演者である春菊からすれば、“出口で待たれること”なのだが。大江戸八百八町でもそこそこ名の知られた若手講釈師・春菊は、今まで“出待ち”が絶えたことがなかった。だが、この数カ月でほとんど絶えてしまった。
それこそウン十人に囲まれた昔。もみくちゃにされながらひいきの客たちの黄色い悲鳴を浴びていたころ。あの頃は面倒で仕方無かった帰り道だったが、こうして閑散としてみると辛いものがある。
このあたりは寄席が密集している地域で、今春菊が立っている道は俗に「裏口通り」と呼ばれているらしい。寄席の裏口がこの裏道に面しているせいで、昔は出待ちの贔屓客によってごった返していたらしい。あまりの出待ちの活況ぶりに、ある人気噺家が「これじゃあ“裏口通り”返上だわな」と呟いたという。だが、誰もいない裏口通りを一人で歩きながら、春菊は「勇んで裏口通りの名前を返上しなくて良かったねェ」と一人呟く。
他の寄席の出口から、噺家と思しき中年男が出てきた。その男の顔は少し沈んでいるように見えた。
「お?」
その中年男が、春菊の姿を認めた。しかし、その風体を見るや、少し肩をすぼめた。
「なんだ、同業者ですか」
その呟きに、春菊は答える。
「いや、厳密にァ同業者じゃねえだろ。俺は講釈師だからよ」
「ああ、確かに同業者じゃなさそうだ」と力なく笑って男は続ける。「あっしは噺家だから」
さびしい裏通りで出会った以上、お互い無視して一人で歩くわけにもいかず、袖振り合うもナントカとばかりに連れだって歩くことになった。二人とも喋り商売なものだから、どうしても喋りたくなる。どちらともなく話を始めた。
「ところで先生」と噺家は言った。「最近、お仕事の調子はどうですかい?」
「いやぁ、ぼちぼちだねェ」と春菊。「そういう師匠は?」
噺家は手を横に振った。
「もう全然駄目ですねえ」
その噺家は客の質の低下を嘆いた。いや、これでもあっしね、江戸でも名うての噺家なんですよ。……まあ、講釈師の先生はご存じないでしょうけどね。もう、あっしの登る高座では、どっかんどっかん笑いが取れたもんですよ。江戸っ子の間じゃ、“嫌なことがあったらあの高座に行け”っていう言葉が常套句になってたくらいですからねえ。……だが、最近の客は良くないですねえ。こっちがせっかく組んだ“笑いの骨組み”をまるで理解できないんですよ。以前だったら建物が揺れるほどの笑いを取っていたようなネタも、今の客は無反応なんですよ。まったく、諧謔を解さない客なんざ、くそくらえですな。
ほう、噺家の方でもそうなのか、と話を聞きながら春菊は思う。講釈は落語とは、その面白さの力点が違う。講釈の面白さは“手に汗握る”感じだろう。だが、最近の客は講釈に対して汗を流す気がなさそうだった。
「まあ」
と、噺家は庇に隠されてほとんど見えない空を眺めた。つられて空を眺めてみたが、四角く切り取られた空の色はよく見えなかった。
「今、不景気ですからねえ。不景気はいかんですよ。浮き草稼業はモロにあおりを受けちゃって。癸丑以来の不景気、どうにかならないもんですかねえ」
癸丑、つまり、嘉永六年。日本という国に、ある珍客があった。“あめりか”とかいう聞いた事のない国の、“ぷれじでん”、とかいうお偉いさんの親書を持ってきた、“ぺるり”とかいう軍人だった。真黒い船に乗ってきたものだから、江戸っ子たちは“黒船来航”と大騒ぎをしでかした。江戸っ子らしく、非日常の緊急事態を“お祭り騒ぎ”として消化しようとしたのである。
※注釈※
噺家(落語家)の敬称 → 師匠
講釈師(講談師)の敬称 → 先生
春菊と噺家の会話に出てくるので、一応注釈。
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