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【1】
 釈台を挟んで見える客の顔がずいぶんとまばらになってきたもんだ、と講釈師・早良春菊(さわらしゅんぎく)はふと思う。少し前だったら、お侍や商人たちがらんらんと目を輝かせてごった返していたものなのに、と、在りし日の寄席の盛況を思う。むしろ空席の方が目立つ客席にため息が出そうになる。その雑念を振り払う意味もあって、春菊は張扇を繰り出し、釈台を叩く。
「さてさて時は慶長、ところは日の本ど真ん中、聞こえてくるは東軍十万西軍十二万合わせ二十二万のエイエイオーの鬨の声。東の大将神君家康公、西の大将石田治部尉(じぶのじょう)。二人の思惑絡み合い、秋の色見え始めた関ヶ原に、熱風が吹かんとしておりました」
 パンパン。振り下ろした張扇が心地よく寄席に響いた。
 演題名「関が原」。春菊が考えた演目だ。発表した頃は、熱狂に次ぐ熱狂を呼んだ。その熱狂は大きなうねりとなって、江戸っ子たちは「関が原」を諸手叩いて歓迎した。普段は江戸の流行に乗らないお武家さまたちも、「ほう、なかなか参考になるわい」とばかりに兵法の勉強に使ったらしい。結果、春菊の寄席は立ち見が出るほどの大盛況だった。
 だが、この瞬間に寄席に流れているのはその熱狂とはほど遠い、シィンと白けた空気だった。ここに話を聞きに来ているものたちの興味は、春菊の言葉に向かっていなかった。皆、まるで心ここに在らず、といった顔を隠さない。
 「関が原」を演じながら、春菊は焦る。講釈の道でおまんまを食べる身として、「目の前の客の興味を向けられない」というのは己の矜持にかかわる。あまりやりたくはないんだけども、と、春菊はあらかじめ決められた話の筋に、即興を混ぜた。落語にあるような下品なネタをはさみこむ。だが、客たちの無反応は変わらない。皆、“何かしないことには不安で仕方がない”から講釈を聞きに来ているのだろう。それが分からない春菊ではなかったが、長年の修行で積み上げて難攻不落の山城のような威容を誇っているはずの春菊の矜持が、ぐらりと少し揺らぐのを自覚していた。
「東先鋒・猪突の部将福島正則。猪突な行動アダとなり、囲まれ突かれやれ打たれ」
 「関が原」の山場の一つ、外様大名・福島正則の活躍の場面。この場面、ほどよい諧謔と、その間の良さに定評があった。だが、今日の客は死んだ魚の目をして、春菊の顔を眺めている。いや、今日の客だけではない。最近の客は、皆そうだ。皆、講釈を聞きに来ているにも関わらず、まるで講釈師の話を聞かない。
 声を張り上げながら、春菊は闇に沈む客席の、無数の目を睨んだ。だが、その目たちは春菊のいら立ちの視線をかわした。いや、かわしたのではなかった。むしろ、春菊のことなどはじめから興味がないかのようだった。
 いらいらするなァ。
 いい加減、心が折れそうになりつつあった春菊は、普段の春菊にあるまじきことをしてしまった。
「猪突部将福島正則、敵をさんざんに打ち破り、石田治部の喉首に、ざんざざんざと迫ったのでございます」
 史実だと、東軍先鋒・福島正則は前線を膠着させるにとどまっている。普段春菊が演じる「関が原」でも、“百人の首を取り、黒の鎧が赤く染まる”福島公の姿が描かれるにせよ、史実通りに前線を凍りつかせるだけの役割を福島公に負わせているに留まっている。
 だが、春菊は即興で筋を変えてしまった。あまりに客がつまらなそうにしているので、文字通り“口が滑った”のである。
 が、客たちに反応はない。“ふぅん?”とでも言いたげな顔を浮かべ、ヌボーとした顔をこちらに向けるばかり。
 畜生が。
 春菊は必死だった。目の前の客を楽しませようと、「関が原」を即興で話しまくった。その日の「関が原」は荒れに荒れた。藤堂高虎が西軍に寝返るわ、徳川秀忠が関ヶ原に間に合うわ、小早川秀秋が勝手に天下に号令するわ、神君が小早川の裏切りに肝を冷やして脱糞するわ。もはや、下手な架空戦記のような様相を呈してきた「関が原」だったが、客はそのハチャメチャな「関が原」にさえ、興味が向かないようだった。
 まるで、壁に向かって喋り倒しているような気分に襲われた春菊は、石田治部が神通力で空を飛んだところまで話したところで、張扇を叩いた。
「では、本日はこれまで」
 だが、張扇の音にもその言葉にも、客の反応は薄かった。
 こな畜生が!
 立ち上がった瞬間に、春菊は客席に向かって釈台を蹴り込んだ。意外にも長く宙を舞った釈台は、客席の手前に転がって、ガランガランと盛大な音を立てた。
 その盛大な音を聞いて、長い眠りから覚めたように、ようやく客たちは行動を見せた。しかし、そうして見せた客たちの行動は、まばらな拍手として春菊の耳に入った。実はこの瞬間、春菊の耳には拍手の音は聞こえていなかった。春菊の耳に届いていたのは自分の歯噛みの音だけだった。
 キッと客席をなめるように睨みつけて、春菊は叫んだ。
「講釈を聞く気がねェなら、最初っから来るんじゃねェ!」
 しかし、その春菊の叫び声も、まばらな拍手に溶けていった。

 寄席場「網代屋」の舞台脇にある、講釈師の詰め所にて、春菊は舞台衣装から平服に着替え直していた。もちろん、さっきの怒りは収まらない。「ちくしょうめ、俺の講釈をなんだと思ってるんだィ、アンニャロどもは」と、縮緬の着流しを巻きつけながら、心の中で呟く。
「春菊さん」
 後ろから届いた声に思わず春菊は身をすくませる。
 穏やかな女の人の声。だが、春菊はこの声に逆らえない。
 春菊は振り返った。
「ああ、お(れん)さん」
「“ああ、お蓮さん”じゃあないでしょう」
 穏やかな喋り口にお似合いの、柳のようにしなやかな立ち姿。春菊と同い年だから今年で数え二十八のはずだが、十歳代の娘さんのような若々しさを誇る。しかし、時折覗かせる視線は、大人特有の厳しさを有している。そんな、いつも通りの立ち姿でお蓮は春菊の後ろに立っていた。
「どういうつもりですか?」
 いきなりの難詰口調に、春菊は戸惑う。
「何がだい?」
 決まっているじゃない、とても言いたげな口調でお蓮は続ける。
 このお話、主要人物が四人なんですが、うち歴史上の(つまりは実在の)人物が一人なんです。……そんな体たらくのお話に、歴史物の看板を上げさせてもいいのか甚だ疑問ですが、そこらへんはスルーでお願いします。


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