Act.9
……突然ですが、僕はベルビュー荘の3号室に住んでいる大谷瑞希という者です。
この物語は川上咲良さんが一人称で語り進めているので、突然こんなふうにこの章にだけ僕がしゃしゃりでるのは、おそらくかなり不自然なことだとは思います。でも、あんなガサツな、女のなりそこないみたいな人に(とは、本人を目の前にしては絶対言えないけど)僕の内なる繊細な心理を描写するのはまずもって不可能なんです。
だから、申し訳ありませんがこの章だけ、僕の独り言につきあっていただけたらと思います……それに、サクラさんの目を通して見ただけではわからない、ベルビュー荘の人間の諸事情といったものもわかるでしょうから、そういう意味でも僕がひとりでブツブツつぶやくというのも、そう悪いことではないと思うんです。
ところで、僕は今十九歳で、来年二十歳になります……そう、成人です。もっとも、成人式に出席するつもりは、今から毛頭ないけれど。何故かといえば、昔自分をいじめた連中と鉢合わせしそうで怖いから。
それに、親からは二十歳になったら小遣いなんてものはびた一文渡さない、金が欲しかったら働けと脅されていて――僕はもしかしたら、自分が<成人する>ということを認めたくないと思っている部分があるのかもしれません。
ここで、何故僕が実家を離れて叔父さんの別れた奥さんが経営する下宿へやってくることになったのか、その説明が必要でしょうか。僕はようするに十七歳で高校をドロップアウトした人間なんです。その後、いわゆる引きこもりというのをやってました。いや、今だって人に言わせれば引きこもりなんでしょう……父さんと母さんは大きな運送会社の下請け会社を経営していて、ほとんど毎日休みなく働いており、学歴というものにはまったく拘りを持っていない人たちです。
でもそのかわり、人間学歴はなくとも(いや、学歴がないからこそ)汗水流してお天道さまに恥かしくないよう働く義務があるというか、そういう強い道徳観念の持ち主です。ここまで僕の話を聞いて、「立派な御両親じゃないか。君も親孝行したまえ」というのが、世間一般の反応だろうというのは、僕もわかっているつもり。だけど、今の時代、物事はそう単純じゃないんです。
そう、僕だって出来ることなら、親孝行がしたい。両親が「おまえを生んで良かった」と思ってくれるような息子でいたいと思ってずっと努力してきました。小学二年生の時、「ミズキなんて女みたいな名前だ!」ということをきっかけに、いじめが始まった時も、(三年生になればクラス替えがあるから、その時までの辛抱だ)と思ってじっと耐えました。靴を隠されて雨の中、裸足で帰ったということもあったけど、僕は母さんには本当のことを言いませんでした。家の靴箱の中からその前まで履いていた古いスニーカーを出して、こっそりその靴で登校することにしたんです。
三つ年の離れた姉さんは、流石に時々、そういう僕の行動のいくつかを(おかしい)と内心思っていたようですが、両親には何も言わずにおいてくれました。でも、今はそのことを後悔していると、僕が実家をでてベルビュー荘へ移り住む時に言ってましたっけ。
「父さんと母さんの性格からして、もしあんたがいじめにあってるなんて言ったら……速攻学校に乗りこんでいくのは目に見えてたからね。でも、あんたのクラスの担任っていつもどっか頼りなさそうか、ちょっとおかしな感じのする先生ばっかだったし、逆に「よくもチクリやがったな!」なんてことになるかもしれないと思ったんだよね、当時は」
そう、僕はクラスメイトに恵まれないだけでなく、学校の担任の先生にもまったく恵まれてきませんでした。
小学三年生の時、クラス替えがあっていじめっ子から離れられたのはよかったのですが――でも僕は廊下とかで結構大っぴらにいじめられてたので、まわりの子たちは「その気になればいじめてもいいような、どうでもいい奴」といったような目で僕を見ていました。そして小学四年生の時、いじめではないのですが、ちょっとした問題が起きてしまい、いわゆる<帰りの会>でそのことが話し合われることになったんです。
僕は小さな頃から少しばかり絵がうまくて、学校の休み時間はずっとノートに絵を描いて過ごしていたものでした。他の成績は体育以外まあ普通で、唯一図工だけがずば抜けて得意という、そんな子だったんです。そしてある時、学校で図工の時間に写生にでかけるということがありました……僕は自分が唯一得意とすることだったので、とても張り切っていたのですが、あろうことか写生の時間に遊びほうけてた猿渡くんという子が、僕の描いた絵を自分のものにしてしまい、僕はとても困ったことになりました。
でも当然、そんなのは誰の目から見てもバレバレな行為だったので、その猿渡くんがとった行動をどう思うかという話し合いが、<帰りの会>で持たれたというわけなんです。僕は自分は一方的な犠牲者であり、どう見ても普段から大人しい僕がガキ大将タイプの猿渡くんの命令に逆らえるわけがない……そのことを先生をはじめ、みんながわかってくれるものと思っていました。そして「せっかく描いた絵を横から理不尽に奪われた可哀想な大谷くん」ということになるだろうと、信じて疑いもしなかったんです。
ところが、みんなの話しあいは僕にとって意外な結果で終わったとしか言いようがありませんでした。
「確かに、猿渡が大谷の絵を横から取ったことは悪いと思う。だけど、大谷も一言「それは僕の物だから渡せない」って言えば良かったんだ」
「そうだよな。大体大谷っていつもほとんど喋らないから、こういう時につけこまれるんだよ」
「でもやっぱり、もともとは猿渡くんが強引に大谷くんの絵を取ったのが悪いんだと思います!」
何かというと<いい子>になりたがる学級委員の女子が最後にそう意見すると、それまで腕を組んでみんなの言い分を聞いていた権藤先生は、立ち上がって僕と猿渡のことを呼びました。
そして僕の頭と猿渡の頭を両方ゲンコツで殴り、「喧嘩両成敗!」と言い放ったんです。
正直いって、僕には何がなんだかよくわかりませんでした。僕は苦心して描いた絵を横から奪われた被害者なのに……喧嘩両成敗?
他のクラスメイトもたぶん、話しあいが長く続いたせいで、内心「早く帰りたい」と思っていたんだと思います、「とりあえずなんかよくわからないけど、決着がついた」という感じで、この結果が公平か不公平かなんていうことに、あまり頓着してない様子でした。
でも僕はやっぱり、納得できませんでした。こんなおかしなことってないと思ったし、その日初めて両親にいつもはほとんどしない話――「今日、学校でこんなことがあった」ということを、僕は話して聞かせたくらいです。
だけど、父はトラックで長距離を走って疲れているせいか、ほとんどまともに僕の話を聞いていませんでした。母も「そんな小さいことで男がクヨクヨするんじゃない!」と言ったきりで……唯一、若干話のわかる姉は「それはおかしいよ。絶対おかしいって」と味方してくれたけど、それも寝転びながら漫画を読み、ポテトチップスをぼりぼり食べながらのことでした。
たぶん、こうしたことはすべて、他の誰が聞いても「大したことない小さなこと」なんだと思います。むしろ十九歳になった今の僕が、そんな何年も昔のことを掘り返して「あの時父さんと母さんはこうだったじゃないか!」と責めること自体が、少しおかしなことなのかもしれません。
でも、僕は最後の最後で切り札をだすみたいに、それを行いました。中学生の時、万引きで補導された僕は、強制されて嫌々ながらそれを行っていたけれど、そうした弁解を両親の前では一切しませんでした。そうしないと仲間に入れてもらえないとか、いじめられるといった話をしても、父や母には到底理解できないとわかっていたからです。でもそんな小さなことが積もり積もって、結局僕は高校も中退することになり、家に引きこもって暮らすようになったのだとは――父や母にはどうしても理解困難なことらしかったです。
僕はたぶん、常に他の人から「誰も欲しくない嫌なもの」を押しつけられて生きるしかない運命なのだと、十七歳にして悟っていました。これから社会にでて働くことになろうが、大学に進学しようが、そのことは絶対に動かない運命なのだと確信するに至ったといっていいと思います。
だからもう、二度と自分の部屋からは出ていきたくない……そして、そのことで父や母があれこれ文句を言う時には、「そもそもそれはてめえらがあの時こうだったからだろ!」と、自己防衛に走ることにしていました。父はもともと直情型のカッとなりやすい性質の人なので、言葉を使った理屈で勝てないとなると、当然手のほうが先にでたものでした。
「出ていけ!この親不幸もんが!」
「ああ、出ていってやるさ、こんな家!今すぐにでも出ていってやる!」
お互いに頭を柱に打ちつける、首根っこを引っつかむの大喧嘩になると――姉さんは父さんと僕の間になんとか割って入ろうとし、母さんは近くに住む叔父さんのいる教会へ電話していました。
そしてそんなことが五回も六回も続くようになると、教会で牧師をしている叔父さんは、自分の別れた妻の経営する下宿に僕を預けてみないかと、そう提案したのでした。両親も僕も当然、叔父さんがひとり息子をたったの六歳で亡くしたことを知っています。そしてその叔父さんに「生きているというそれだけで、何故感謝できないんだい?」と言われてしまうと、父や母も押し黙る以外にない様子でした。
たぶん父さんや母さんは知る由もなかっただろうけれど……僕は高校を中退することを決めた時点で、自殺することを考えていました。
今にして思えばたぶん、燃え尽き症候群というものだったのかもしれません。もっとも、父や母に言わせれば「こんなに一生懸命働いているこっちのほうが燃え尽き症候群だ」くらいにしか思えなかったに違いないけれど。そして僕はそうした両親の言い分を、正しいものだと受け止めていました。父や母の、自分たちが生活のために一生懸命働く背中を見て育てば、その子供は自然いい人間に育つだろうと期待する気持ちもよくわかっているつもりでした。
でも僕はたぶん、叔父さん言うところの「大谷家の悪い遺伝子」に捕まってしまった人間なんだと思います。
うまく言えないけれど、大谷家の中で僕の唯一の理解者といっていい人物が、この教会で牧師をしている嵐おじさんでした。
嵐おじさんもまた、僕と同じく自分の名前にコンプレックスを持っていて、「アラシなんて、なんかいかにも凄いことを巻き起こしそうな人物の名前じゃないか。でも、実際の僕は読書が好きなだけの、物静かな人間なんだからね」……ちなみに、僕の父は大谷新というのだけれど、性格は昔気質で頑固、なんらの新しいことを巻き起こしそうにない、実に頭の古い人間だったのでした。
生まれて初めて親元を離れてベルビュー荘へやって来た時、僕はふと「あ、これで死ぬ必要はないんだ」と思ったのをよく覚えています。ベルビュー荘の管理人は笹谷翠さんという人で、嵐おじさんが離婚したのが僕の生まれる前だったため、会うのはこれが初めてでした……でも、小さな頃から親戚が全員集まるたびに、彼女の名前は時々でていたので、どんな人かというのはなんとなく知っていたのですが。
そのせいかどうか、僕はミドリさんと初めて会った時、なんだか「初めて」という感じが全然しなかったのを、今もよく覚えています。嵐おじさんが甥の僕のことをどう話していたかはわからないけれど、もし仮におじさんが「高校を中退した家庭内暴力を振るう仕様のない甥を更生してやってくれ」みたいに言っていたとしても――そんなことすらどうでもいいと、僕は彼女に会った瞬間に思いました。
それでも流石に、他の居住人とほとんど話すでもなく、3号室に閉じこもりきりになっていたら、いかに懐が深くて寛容なミドリさんでも、余計な心配をしたりお節介を焼いたりするだろうかと僕は思っていたのですが……そんなことも一切なく、僕は毎日パソコンでオンラインゲームをして過ごしたり、名前や年齢や職業を偽って書いているブログを更新したりと、相変わらずそんなしょうもない日々を送り続けているという、そんな感じでした。
もちろん、そんなことをしながらも、頭の中ではこんな生活をいつまでも続けることは出来ないとわかっていたし、タイムリミットが来る前になんとかしなくてはと、ずっと考え続けていたんです。
そして僕がベルビュー荘へやって来て三か月が過ぎた頃(今から約一年前)、表にある物干しから下着が盗まれるという事件が起きたのでした……この時、また僕の悪い被害妄想の癖がでて、ミドリさん以外の居住人がみんな、実は心の中では僕が犯人だと疑っているのではないかという気がしてきました。こうなると、オンラインゲームをしていてもブログを更新していても、何かがまったく楽しくありません。そのことをきっかけに、小学生時代にまで遡る嫌な事柄が次々と思いだされ、今度もまたきっとみんな僕に<嫌な役>を押しつけてくるに違いないと思ったんです。
まったく馬鹿な子だと、ここを読んでいる人は思うかもしれませんが、その日の夕食の席で、僕は思いきってみんなに「自分は犯人じゃない」というようなことを打ち明けていました。でもそのことを告白したあとで、僕は激しく後悔しました……何故といって、実は僕を犯人と疑っているような人はその場に誰もおらず、むしろ自分がそんなことを口走ってしまったがゆえに――むしろ墓穴を掘ったというような雰囲気が食卓には漂っていたからです。
「そんなこと、誰も思ってねえって」と2号室の住人、水嶋蓮さんは言い、6号室の住人である二階堂ほたるさんは「それに、盗まれたのってあたしの下着だったのよ」と笑ってフォローしてくれました。「たぶん、下着ドロは奈々美のを狙ってたんでしょうけど、まったく生憎だったわねえ」と。
でも、みんなが和やかに大笑いする中で、唯一7号室の石川奈々美さんだけは――少しだけ怖い顔をしていました。それで僕は、彼女だけは今の告白で僕のことをむしろ疑うことになったのではと、なんとなく心配になりました。
事実、この近辺に出没していた下着泥棒が捕まるまで、奈々美さんは時々疑わしい目で僕のことを見ていたし、このことをきっかけにレンさんやほたるさんが少しずつ僕に話しかけてくれるようになっても、彼女だけはずっと、冷ややかな態度を崩さないままでした。
話は変わりますが、ベルビュー荘の住人たちはみな自由人であることを誇りにしているという感じの人ばかりです。
1号室の斉藤久臣さんは、印刷会社で夜勤業務をしているけれど、それは昼間小説を書くという芸術活動に勤しむためらしく、2号室の水嶋さんは、内装美術の仕事がない時は、自室で油彩画を描いて過ごしているそうです(部屋へ入れてくれた時、本人がそう言っていました)。そして6号室のほたるさんは平日郵便局に勤務しつつ、それ以外の時間は舞台への情熱に身を燃やしているという、そんな感じの人です。それから7号室の奈々美さんは、普段モデルとして仕事をしつつ、今はミス日本を目指しているとかで……こんなオンボロ下宿には似つかわしくないマドンナといった感じの人でした。
だから僕も、ベルビュー荘の他の住人たちが何がしかの<夢>を追いかけているみたいに、将来自分がなりたいものをだんだん心の中で思い描くようになっていきました。僕がその夢を叶えようとするのを怖がったのは何より、夢を追いかけても報われなかったらどうするのか、そのリスクを怖れているためだったといっていいと思います。
「漫画家になりたい」――その夢を僕が実際に口にだして言うことが出来たのは今のところ、久臣さんだけです。
レンさんは僕が出来れば自分もこうなりたいと思うような、雲の上の遠い存在で……彼の部屋の壁に描かれた、レンさん自身の描いた絵を見た瞬間、僕は彼に自分の描いている漫画絵を見てほしいとは、とても言い出せなくなりました。あまりにも才能の差に違いがありすぎて、恥かしいと思ったんです。それでレンさんに「ミズキは将来、何かなりたいものってあるか?」って聞かれても、僕は「そのことで迷って悩んでいる」というように答えていました。
もちろん、レンさんはとてもいい人です。でもベルビュー荘で僕が心を開くことが出来たのは、ミドリさんの次に久臣さん、その次がほたるさんといった感じでした。心を開いたなんて言っても、それはほんの数センチ部屋のドアを開けたくらいのものかもしれないけれど……それでも僕にとってそれは、大きな進歩と呼べることでした。
何より、その場所にいても自分が邪魔者じゃないと感じられたり、話を振られる以外一切口を開かなくても居心地が悪くなることもなく、さらにはちょっとした誤解があった相手――奈々美さんとのちには普通に話を出来るようになったことも、僕には嬉しいことでした。
何故といって、僕はそれまで誤解があった相手と和解したことが一度もなかったので……下着泥棒が捕まったあと、奈々美さんが色々気を遣って話しかけてくれるようになったことが、僕にはすごく嬉しかったというか、人間不信の負の壁が一部分崩れて瓦礫になったようにさえ感じたものでした。
だから、奈々美さんが婚約者と結婚して中国へ行くという話を聞いた時は、少なからずショックを受けました。もっとも僕は彼女に恋をしていたわけではないのですが、突然時間はやはり生きて動いているんだという、例のタイムリミットのことが気になりだして――ベルビュー荘をでていく奈々美さんのことをみんなで見送ると、僕はまたひとり3号室で机に向かい、ガリガリと原稿を描くことに集中しはじめました。
奈々美さんがミス日本の最終選考に残ったところで終わったみたいに、僕もまたどんなに一生懸命漫画を描いても、選外に洩れたり一番いい成績が最終選考で終わりっていうことになるかもしれなくても……(それでもいいんだ)と僕は思って漫画に打ち込みました。
朝起きてごはんを食べて漫画、昼ごはんを食べて漫画、三時におやつを食べて漫画、夕食を食べてからまた漫画……僕の毎日はその繰り返しでした。背景も効果も何もかも、自分ひとりですべて描かなくてはならないので、漫画っていうのは1ページ描くにも、相当な時間と労力がかかります。
正直、食堂にごはんを取りにいく僕の姿というのはやつれた幽霊のように見えていたに違いないのですが、僕の心は夢に向かってこれまでになく燃えていました。そして今描いている漫画(自信作)を完成まで仕上げることが出来たら――久臣さんだけでなく、ミドリさんやレンさんやほたるさんにも読んでもらおうと思っていました。
そんな矢先にまさか、その後の僕の人生を変えることになる人物がベルビュー荘へ引越してくることになろうとは……僕は川上サクラさんに会った瞬間、彼女のことを第一印象で(友達になれそうもない)と感じただけに、その関わりあいは不思議な展開でした。
サクラさんは奈々美さんとは百八十度まったく別の意味で美人でしたが、奈々美さんとは違って近づきにくいタイプの美人というのか、僕とはまた別の意味で自分の周囲にバリアーを張って生きているように見える人でした。
レンさんではないのですが、たぶん彼女の頭の中はこんなふうになっているのではないかと僕は想像しています。
ミドリさん(5号室の住人)→三食ごはんを作ってくれる、利用価値のある人。
1号室の住人・久臣さん→無口なハゲ親父、2号室の住人・レンさん→ちょっとイケメン(はあとまーく)
3号室の住人・僕→救いようのない根暗、6号室の住人・ほたるさん→女優を目指しているとかいうデブ……
こんなふうにどこか、サクラさんは白黒はっきりしているように見える人で、僕はある意味(この人は自分に正直な人なんだろう)となるべく彼女のいい面を見るよう努めることにしました。
とはいえ、それまであったベルビュー荘のどこか朗らかでのどかな日々というのは、サクラさんの登場で破壊されてしまったような側面があり、レンさんなどはそのことを苦々しく思っている様子……一度など「金がない、貧乏だって言ってる奴を、まさか無理に追いだすってわけにもいかねえし」などと彼が呟いているのを聞いて、僕は(サクラさんの思惑に反して、レンさんは彼女のことが本当に嫌いなんだ)と思ったものでした。
でもその後、ほたるさんが所属する劇団の定期公演を見にいって以来、何があったのかはわかりませんが、ベルビュー荘に流れる風向きが若干変わったような感触がありました。もちろんこれは、レンさんとサクラさんの関係のことじゃありません。このふたりは顔を合わせれば相変わらず夫婦漫才のような喧嘩ばかりしてますから……そうではなくて、意外なことにほたるさんとサクラさんの関係が思った以上に親密なものに変化したんです。
これは僕にとっても驚きでした。ほたるさんと7号室の前住人・奈々美さんが親友同士だったのは僕も知っていますが、あの人当たりが良くて優しいほたるさんを持ってしても、サクラさんと友達になるのは困難だろう……僕はそう信じて疑いもしませんでしたから。
でもある日、トイレへいって廊下を自分の部屋まで戻る途中、居間から彼女たちふたりの楽しそうな笑い声が聞こえてきたんです。
「タイトルは、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』で決まり!それで、主人公はやっぱり小山内氏よね。でもこのオサナイっていう苗字、あたしみたいな馬鹿は読めなくてコヤマウチって読んじゃいそうだし、やっぱり劇の登場人物としてもっと親しみやすい感じの名前がいいと思うの」
「確かにそうよね。大体、実在の人物の名前を使うとしたら、本人にきちんと断っておかなくちゃならないだろうし……でも大谷さんの嵐っていうのは、いかにも劇とかドラマの登場人物っぽくて良くない?」
僕はそんなサクラさんとほたるさんの会話を盗み聞き、廊下を3号室へ戻るまでの間に――あるストーリーが閃いていました。
あの温厚そうな叔父と心優しきあったかあさんのミドリさんが、何故離婚することになったのか、僕はその理由を知りたいように思い、レンさんの薦めもあってベルビュー新聞ならすべて読んでいましたから……もちろん結局、叔父とミドリさんが離婚に至った理由はわからなかったけれど、読んでいる途中で「この古き良き青春のお話を漫画として描けたらなあ」とは、その時から思っていたんです。
「『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』か」
僕が窓の外の夕陽に向かってそうつぶやいた時、廊下の壁を通り抜けるようにして、何か幽霊のような存在が向こうから歩いてくるのが見えました。
「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」
白黒の写真から抜けだしてきたような男は、白いマントを翻しながらくるくると踊るように廊下を歩き、そして消えていきました……僕は久臣さんが「いやあ、小山内は本当に変な奴だったよ」と言っていたことを、自分が今見た幻に目をこすりながら、ふと思いだしていました。「何しろ毎日、起きてくるたんびに――『ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!』って、絶対言いながら廊下を歩くんだから。俺の記憶にある限り、あいつが朝起きてそう言わなかったことは一度もない。しかも前の日何時まで起きてようと、絶対七時きっかりにごはんを食べるために起きてくるんだ。天才となんとかは紙一重って言うけど、たぶんあいつもそうだったんだろう」
それから、嵐おじさんが言っていたことも僕は思いだしました。
「小山内?ああ、あいつは天才と馬鹿は紙一重というより……当時はわからなかったけど、たぶん今でいうADHDか何かだったんじゃないかな。画家のダ・ヴィンチもそうだったんじゃないかっていう説があるらしいけど、次から次へと素晴らしいアイディアが思い浮かぶあまり――なかなかひとつのことを完成まで導けないんだな。でもそんなあいつも今じゃ、ノーベル物理学賞に一番近い男って言われてるくらいだから、世の中わからんよ」
ベルビュー新聞を全部読んでいて思うに、小山内氏とミドリさんは実は両想いだったのではないかと思われる節があります(あくまでもそこはかとなく、だけれど)。でも嵐おじさんにズバリそう聞くのは流石に気が引けたので、僕は久臣さんに遠まわしに「実は女子寮に恋人のいる羽柴氏を含め、男子寮に住む学生は全員、ミドリさんのことが好きだったのではないか」と聞いてみることにしました。
「まあ、そりゃそうさ。毎日絶品の美味しい玉子焼きとかベーコンエッグ、肉じゃがなんかを作ってくれるんだから、もしあれでミドリさんがそれほど可愛い容姿の女性じゃなかったとしても、それなりにモテてたんじゃないかって俺は思うよ」
「じゃあ、久臣さんもミドリさんのことが好きだったんですか?」と、僕は思いきって突っこんでみました。
「うん、だから男子寮の男どもはみんな、あるひとつの協定を結んでいたんだ。抜けがけは絶対に許さないっていうね」
「それで小山内氏も久臣さんもミドリさんには告白せず、いつの間にやら時が過ぎて嵐おじさんがミドリさんと結婚したっていうことだったんでしょうか?」
「そうだなあ……羽柴の奴がちょうどそうだったみたいに、ミドリさんには野郎どもの間で協定があって手出しできないとなると、まあ健康な男子は他の女子と仲良くしようとしたっていうような話の流れだな。その中で大谷と小山内だけが彼女を作るでもなくミドリさんに片想いしてたっていうかさ」
久臣さんは今でこそ頭髪が退化しているものの――昔の写真の髪がたっぷりあった頃の久臣さんというのは、今とは別人としか見えないくらい、なかなかに男ぶりがいい。ということはたぶん、彼にも青春時代、恋人のひとりやふたりいたっていうことなんだろうと、僕はそう推察しました。
「つまりじゃあ、小山内氏は自分の胸の内を告白するでもなく、親友でもあった叔父に遠慮して、アメリカへ旅立っていったっていうことなんでしょうか?」
「まあ、羽柴の奴が最後の最後にあいつの背中を押して、「アメリカについて来いって言え!」ってアドバイスしたらしいよ。だけどミドリさんはその申し出を断ったって話。大体小山内ってのは、おつむのほうはべらぼうにいいんだが、そもそも人に対する共感性に乏しい奴でね。自閉症ってわけじゃないんだが、サヴァンっていうのによく似てた。いわゆる天才馬鹿って奴さ。大谷が小山内の作った強化洗濯紐で「アーアアーッ」なんて叫びつつ女子寮へ渡って以来――暗かった性格が百八十度変わったなんて聞くと、「なんて麗しい男の友情」って思う人がいるかもしれないな。でもあいつはさ、実際そんなことは全然考えてないんだよ。小山内にとって大切だったのは、自分の物理学的計算が立証されるかどうかっていうことと、あとは二階の6号室に住む、どこか自惚れた態度のいけ好かない野郎を打ち負かすことだけだった。結局、あのおかしな実験で怪我をしたのは大谷じゃなくて小山内だったけど、でもあれで仮に片足を骨折したのが大谷だったとしても――小山内は「骨折ってどのくらい痛いのか、僕は骨折したことがないからわかんないな」とか、相手の前で平気な顔で言ったと思う。つまり、あいつはミドリさんのことが好きって言っても、三食ごはんを作ってくれる便利なお姉さんだから好きって思ってたんじゃないかって、俺はそんな気がするな」
「えっと、じゃあ……ミドリさんが小山内氏を振って嵐おじさんを選んだのは、小山内さんの感情が本当は恋じゃないって思ったからなんですか?」
「さあ。そこのところはミドリさんに聞いてみないことにはなんとも言えないな。でもまあ、ただひとつ言えるのは、小山内の女房になってもいいっていうような物好きな女性が仮にいたとしたら――その女性は相当苦労をするだろうなって、俺はそう思うよ。何故といえばあんな、七時には何があろうと必ず起きるとか、横断歩道を歩く時には絶対に白い部分しか踏まないとか、自分のお気に入りのステッキを肌身離さず身につけているとか――小山内には他人に理解できない<絶対の法則>がたくさんあったからな。そんなものをひとつひとつ理解して、受け止めることが出来たのはたぶん、あいつの母親以外ではミドリさんだけだったんじゃないかって気がするよ」
「……もしかして、小山内氏って今も独身なんですか?」
「ああ、そうだよ。でもまあ、あいつはアメリカへ渡って正解だったんだろうな。あんな変な奴、日本の物理学界では持て余されて、研究費なんて誰も援助してくれなかっただろうからな。けどあいつは不思議と、昔から人望だけはあったんだ。俺はあいつのことを共感性に乏しいって言ったけど、それでいて時々、人の心の機微についてハッとするようなことを言う奴でもあった。だから小山内のことを知ってる奴はみんな、天才となんとかは紙一重だって、好意をこめてあいつのことを言うんだよ」
――僕は、久臣さんから聞いた小山内氏の話を色々思いだし、サクラさんやほたるさんがこうしたことをどこまで知っているのだろうと思いました。もし、ベルビュー荘の古き良き時代のことを演劇にするのなら、<ベルビュー新聞>を読んだだけではわからない、こうした細かいことも知っておいたほうがいいんじゃないかなって思ったんです。
(久臣さんは、ほたるさんとサクラさんが居間でどんなにわあわあきゃあきゃあやってようと、横から口をだすような人じゃないし……かといって、僕がそんなことを言うっていうのもちょっとなんだし……)
僕は廊下をうろうろ行ったり来たりした揚げ句、結局自分の部屋である3号室に閉じこもることにしました。
今物凄く話の盛り上がってるあのふたりに「あのう」などと話しかける勇気は僕にはないし、仮に話しかけることが出来たところで、いつもみたいにしどろもどろになって言いたいことをうまく説明できないに決まってるから。
それだったら、まずは漫画のネームのような、絵コンテ風のものを描いて説明したほうがいいって、僕はそう思い、机に向かうと真っ白な原稿に何人かの人物画をせっせと描いていきました……『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』というタイトルで僕も漫画を描きたいと思ったから、まずは僕なら漫画としてこう描くっていうことを提示したあと、サクラさんやほたるさん、また久臣さんやミドリさんにも、これを投稿してもいいかどうかと打診してみるつもりでした。