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Act.8

「ミドリさんやミズキくんも来れば良かったのにね。まあ、斉藤さんは仕事があるから無理にしても」

 友達の「飲みにいこう」という誘いを断って、一緒に帰ることにしてくれたレンを、あたしは嬉しい気持ちで振り返っていた。

「ああ、あの劇は前にミドリさんや久臣さんも見てるよ」

 街灯の照らす仄かな光と、樹木の黒い陰影のコントラストの中を、あたしはレンとふたり坂道を並んで歩いていった。

 そういえば、ここがあたしとレンの出会いの場所だったなあ、なんていうことをぼんやり思い返しながら……。

「ミドリさんも見に来たい気持ちはあっただろうけど、管理人としてミズキのことをひとりにしておけないと思ったんじゃないかな。人って、まさか死ぬと思ってない瞬間を選んでそうするものらしいから」

「……ミズキくんって、もしかして自殺願望があるの?」

「さあ、どうかな」と、レンは首を傾げている。「正直、ミズキのことは俺にもよくわからん。絶対に人に心を開かないっていうのかな。年の近い俺よりむしろ、久臣さんのほうが話しやすいと思ってるらしい。サクラは知らないかもしれないけど、あのふたり、ああ見えて実は結構仲がいいんだ」

「ふう~ん。でもそれって、なんとなくわかる気もする」

 生ぬるい夜気の中を、時々心地好い風が吹き抜けていく……そしてそのたびに天に枝を伸ばした樹木が、ザアッと歌うようにしなった。

「レンってさ、たぶん同じ男からしてみたら、コンプレックス刺激されるとこあるもん。だからミズキくんにしてみたら、こんなイケメンの友達いっぱいいるおにーさんに、僕の気持ちがわかってたまるもんか~っ!みたいに思うとこ、あるんじゃない?」

「……まさかあんたに、何かを鋭く指摘されることがあるとはな」

 レンはポケットを探って煙草を探そうとしたけど、どこにもない様子だった。彼がこれと同じ仕種をするのを、あたしは何度も見ていたけど――この時もただ黙って、マルボロとライターを差しだすことにした。

「サンキュ。時々、雨が降るたびに傘をあちこちに忘れてくる奴がいるだろ?俺、それなんだ。しかも困ったことには傘だけじゃなく、煙草もよくどこに置いたか忘れてきちまうっていう」

「ふう~ん。その年ですでに認知症?それとも健忘症とか」

「馬鹿いえ。そんなことより、ほたるの演技、すごく良かっただろ?これでサクラのほたるを見る目が変わるだろうって、俺は開演前から確信してた」

「ああ、なるほどね。それであんたはあたしの隣に来て、舞台が終わったらあたしがどんな顔するか見てやろうって、そう思ってたってわけね?」

「まあ、それだけじゃないよ。もちろんそれも少しはあったけど……いい舞台だって何度も見て知ってたから、ファンになる人間がまたひとり増えて嬉しいって思ったっていう、それだけだよ」

(ああ、なーるほど!)と、この時になってあたしは初めて、レンが開演前に「見直したよ」と言った言葉の意味がわかっていた。

 悔しいけど、やっぱりこいつ、男としてかなりいい奴だ。

「でも、それと同時に、今かなり複雑な変な気持ちよ」

 あたしは珍しく、素直な気持ちになって言った。

「ほたるって、郵便局に勤めてるじゃない?で、仕事終わったあとに稽古やったりして、なんでベルビュー荘にいるのか、よくわからない感じ。それを言ったらあんたもそうだけどね。舞台が終わったあと、楽屋へいったら――たくさんの友達に囲まれてニコニコして、彼氏ともいちゃいちゃしたり……あのヘルメス役の東郷くんって、ほたるの恋人なんでしょ?」

「ああ、デューク東郷な」と、煙草を吸いながらレンは笑った。「もちろん、ゴルゴ13に顔が似てるっていうわけじゃないけど、あの人、「なんぴとたりとも俺の後ろに立つんじゃねえ!」っていうセリフが好きでよく言うんだよ。まあ、それはどうでもいいとして、ほたるがベルビュー荘にいるのは、ベルビュー荘にある魔法の力を信じてるからなんだ」

「魔法の力?」

「そ。サクラが来る前に七号室に住んでた石川奈々美さんは、ほたるの親友だった。もちろん、今一歩っていうところでミス日本にはなれなかったけど……彼女とほたるはお互いに励ましあっていい刺激を受けあっているような関係だった。まあ、彼女が夢を諦めたのは、つきあってた彼氏が中国へ行くっていうんで、一緒についてくことにしたっていうそのせいなんだけど。中国にもミスコンっていうのはあるらしいから、挑戦できるようならしてみるって言ってたけどね」

「あんたってほんと、変な奴よね」

 あたしは降参するように、溜息を着いて言った。ミスコンなんていう浮ついたもの、いかにも軽蔑しそうな奴なのに――きちんとした夢(というか目標?)を持っている人間のことは、その背後で大旗を振って応援しようという奴なのだ、きっと。

「あんたがあたしのことをベルビュー荘の住人として認めないのは、そのことに原因があるわけ?あたしがなんの夢も目標も持たずに、場当たり的に生きてるように見えるから?」

「その答えは、イエスでもあり、ノーでもある」と、レンはどこか意味深な言い方をした。「まあ、そのうち教えてやるよ……あんた、ベルビュー新聞を読んだんだろ?だったらもう、半分はわかってそうな気がするけどな」

「わかんないわよ!わかんないからあんたに直接聞いてるんじゃない!」

 いつも思うことだけど、ベルビュー荘のある丘の上までのぼる坂は、相当キツイ。

 あたしはだんだんに息が切れてきて、後ろから見たらパンツ丸見えかもなんて考えもせず、一歩一歩かなりのところ大きな歩幅で上っていった。憎らしいことには、前をいくレンは汗ひとつかかずに涼しい顔をしたままだ。

「そうだな。じゃあひとつヒントをやろうか」

 坂の途中、小さな休憩所のようになっている場所で立ち止まり、そこから街の夜景を見下ろして、レンはそう言った。

 そこにある灰皿の入れ物に、吸い終わったマルボロを投げ入れている。

「あんた、ベルビュー新聞に連載されてた、S・H氏の書いた『肉工場』っていう小説、もう読んだか?」

「『肉工場』?」

 そんな小説あったっけと思い、あたしはそこにある緑色のベンチに腰かけた。

 この小さな休憩所らしき場所にはベンチがひとつだけ、街の方向を見下ろすように備えつけられている。綺麗な夜景をロマンチックに見つめながら、恋人同士が肩を寄せ合うのにぴったりといった感じの場所だ。

 もっとも、あたしとレンの間にはまったくなんの間違いも起きそうになかったけれど。

「聞き返したってことは、まだ読んでないってことか。連載されてたのは確か、大体25号くらいからだったかな。S・Hっていうのが誰かっていうのは、いくら鈍いあんたでももうわかるだろ?」

「S・H?」と、あたしはまた鸚鵡返しに聞いた。レンと話をしていると、どうもこういうことが多すぎて、時々イライラする。でも、この時はベルビュー荘の現在・過去の思い至る人物を順番に思い浮かべて――すぐにピンときた。

「まさかとは思うけど、1号室の斉藤さんってこと?あの人、その頃からずっとベルビュー荘に住んでるの!?」

「ああ。当時のことで何か知りたいと思うことがあったら、ある部分あの人に聞くのが一番だな。あんたがまだ久臣さんの書いた小説を読んでないのは残念だけど――まあ、読めばあの人が規則正しく印刷所で働く、根暗で屁こきのハゲ親父だとは思えなくなるはずだ」

「……あんたも結構言うわね」あたしはバッグから煙草を取りだすと、一服して呼吸を整えながら言った。

「というか、たぶんあんたがそう思ってるんじゃないかと思って、俺はそう代弁しただけさ。久臣さんは天才だよ。ベルビュー新聞で連載されてた『肉工場』だけじゃなく、他のもいくつか読ませてもらったけど――それを読めば、どのくらいあの人が思想的に深いものを持ってるか、頭の悪いあんたにもわかるだろうよ」

「ふうん。でもそんなに才能豊かだっていうんなら、とっくに文壇デビューして注目されてるんじゃないの?」

 ジーンズのポケットに片手を入れ、暫く立ったまま夜景を眺めていたレンは、溜息を着いて後ろのあたしを振り返った。

 そしてどさりと、まるで疲れきったようにベンチの上へ倒れこむ。

「あんたってほんと、なんもわかってねえよな。俺、だんだん説明するのに疲れてきたぜ」

 レンが体を密着するように隣に座っても、今言った奴のセリフどおり――こいつはあたしの短いスカートにドキドキするような奴ではまったくない。

 でもそうとわかっていても、あたしはこの時、かなりのところ胸がドキドキと高鳴っていた。

「な、なによ。あたしもあとで読んでおくわよ、S・H氏の『肉工場』」

「ああ。たぶんあんたはああいう純文学系の堅いものを読んだりする人間じゃないんだろうけど……あれだけは頑張ってなんとか読んでおいたほうがいい。そしたら、次に自分が何をどうすべきか、生きるヒントみたいなもんが与えられるだろうからさ」

「ふう~ん。でもこう言っちゃなんだけど、なんか少し皮肉な話じゃない?斉藤さんが勤めてる会社ってかなり大きなところよね。365日、24時間工場を稼動させて、色んな雑誌や本を印刷してるっていう……でもそこに長年勤めながら、自分が書いたものは決して印刷されて世に出ることはないだなんて、斉藤さんはそのこと、どう思ってるの?」

「さあね。あの人はそんなこと、べつにどうとも思ってないんじゃないかな。っていうか、久臣さんくらい才能があったら、商業的なことはもうどうでもいいんだよ、たぶん。そのこともあの人の小説を何作か読めばわかると思うけど……久臣さんは、ベルビュー荘の住人たちが自分の書いたものを面白いって言ってくれたのが嬉しくて、それでずっと小説を書き続けてるっていう人なんだ。あの人はそうだな……言うなれば、このベンチと同じような感じの人なんだと思う」

「どういうこと?」

 もしレンが今、あたしの肩に手をまわして抱いてくれたらいいのにと心密かに思いながら、あたしはそう聞いた。

 彼の瞳の中に夜景の放つ光が反射して宿ってるみたいに、レンから見たあたしの瞳もそうであればいいと、この時あたしは願っていた。

「この場所には本当は最初、なんにもなかったんだよ。というより、俺がミドリさんから聞いた話によると、ガードレールの側から生える雑草でボーボーの状態だった。でも例によってあの小山内氏が――坂を上ってくる途中で休憩所が欲しいと閃いたんだな。で、早速ベルビュー荘の物置からカマを持ってきて草を刈り、土を踏み固めてベンチを据えつけたんだ。そこにある灰皿は、俺が勝手に作ってここまで持ってきたんだけど」

 小人ノームが両手で皿を持った形の灰皿を、レンが指で指し示す。

「たぶん、ここを通る人間はこのベンチとか灰皿が、自分たちの払った税金で出来てるって勘違いしてるんじゃないかな。何しろいかにも公共の場所っぽく見えるからね……でも俺、ここでおばあさんが買い物袋を置いて休んでいるのを見たり、小さいガキがアイス食ったりする姿を見るたびに、思うんだよな。ただベンチがここにあるってだけで、世界はなんて素晴らしいものに変わるんだろうなって」

「……………」

 ――あたしはこの時、ただ静かに沈黙しながら、隣のレンが真っ直ぐに前を見つめる姿を眺めていた。

 もちろん、彼の目にあたしのことは映っていない。レンは白いガードレールの下、なだらかに三つ葉のクローバーや雑草が生い茂る先、商業施設やビルやホテルがネオンサインを放つ遠くを見つめている。

 ようするにたぶん、ベルビュー荘にとって斉藤さんという人は、「ただそこにいる」だけでいい人っていうことなんだろうと、あたしはなんとなくそう解釈した。

 彼はあたしのいない時をわざと狙いすましたようにミドリさんと話をしており、そういう時にあたしがうっかり居間に入っていくと、そそくさと部屋へ戻っていくという、そんな感じの人なのだ。その時の反応から、もしや斉藤さんはミドリさんにホの字(死語)なのだろうかとあたしは思ったりしていたけれど――あたしはそのことについても、あえてレンに聞かないでおくことにした。

「あんたってほんと、なんもわかってねえよな」ってまた言われそうだからっていうより、ただ、言葉が喉の奥から出てこなかった。こんなこと、中学か高校のティーン以来だっていう気がする……もしかしてあたしも、ベルビュー荘に住む住人の何人かがかかっていると思しき<青春病>に、感染しつつあるのだろうか?

 そのあとあたしは、随分長い間(といっても実際はたぶん五分か十分)レンとその場所に佇んだあと、何気なく立ち上がった奴についていくような感じで、また大股に坂道を上っていった。でもずっと黙っているのも流石に不自然かと思い、この時の自分にとって一番不思議に思われたことについて、ベルビュー荘の明かりが見えてくる前に聞くことにした。

「あんた、なんで今日あたしのことを送ってくれたわけ?あの見るからにノリのよさそうな友達とか、ほたるの劇団仲間と一緒に飲みにいったら良かったじゃない。べつにあたしのことなんかほっぽっておいても、そんなことを気にするほどあたしはヤワじゃないって、あんたもわかってるでしょ?」

 ここでレンは振り返ると、「だからあんたはわかってないっていうんだ」という、例のあの顔をまたした。

「帰りの電車の中で、あんた気づかなかったか?自分の前の席に座るだらしなくネクタイの緩んだサラリーマンが、あんたのスカートの中を覗きこもうとしたり、大学生が数人、あれ見ろっていうふうに意味ありげに目線を飛ばしてきたり……あんたはああいうの、楽しいと思うのか?」

「べつに、どうでもいいんじゃない。くだらないことだし。あんたはパンツが見えるとかなんとか言ったけど、あたしにとってはそれもどうでもいいことよ。でも流石に、わざと物を拾うふりをしてこっちを見た奴のことは、少し笑ったわ。世の中にはどうしてこういう馬鹿な男が多いんだろうと思ったし、そういうあたしはあんたの目から見れば頭の悪い馬鹿な女っていうことなんだろうなって、隣のあんたの顔を見て思ったわ」

「……あんたはさ、自分が馬鹿だってわかってることについては馬鹿じゃないんだよな。俺があんたと一緒に帰ってくることにしたのは、単にミドリさんにあとで小言を言われると思ったからだよ。「年ごろの女の子をひとりで帰すなんて、まあ!」みたいにね。あの人の頭は大体七十年代半ばくらいで止まってるからな……その頃ちょうど、この坂のあたりに痴漢がよく出没したんだってさ。だから女学生を男子学生がエスコートして帰ってくるのが暗黙のルールみたいになってたらしい」

「ふうん。古き良き時代のなんとやらってわけね。それで、本当に今もこのあたりには痴漢とかレイプ犯が出没したりするわけ?」

「さあな。でも、あんたも馬鹿じゃないんだから、流石にそろそろ考えろよ。階段を上がる時にバッグで後ろを隠す仕種が似合うほど、自分も若くはないな、とかさ」

「まったく、あんたってどうしてそう一言多いんだか!」

 ケリーバッグを振りまわして、あたしはレンの後頭部を思いきり殴ってやった。「いってえな」という不機嫌な声のわりには、いつもどおりあまり応えてなさそうな様子だった。

 そうだ。あたしは素直に認めよう――1970年代半ばなんて、あたしがまだ生まれてもいない頃だけど、たぶんその頃の女学生が隣の男子寮の学生に恋をするみたいに……たぶんあたしはこいつ、水嶋蓮のことが好きなんだと思う。

 でも、それはこっちが恋心を持っているのに、向こうは友達としか思っていないといった類の、少し切なくて、苦しい感じの恋のまま、終わりを迎えるだろう。その昔、わたしが読んだ古い少女漫画の「レモンソーダの泡が胸に広がるような恋」とかいうのに似てるかもしれない。でも、それでもいい。「ああ、まだあたしにも誰かにこういう気持ちを持つことが出来るんだ」とわかっただけでも――今のあたしには十分だったから……。




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