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Act.7

 自慢じゃないけど、あたしはこれまで自分でお金をだして舞台とかミュージカルとか、その手の類のものを見に行ったことが一度もない。

 せいぜいあると言えば、昔の男にオペラに誘われ、なんとか我慢して三時間という退屈な時間を耐え切ったというような記憶しかない……ついでにいうと、あたしの愛読誌は『CanCam』や『anan』くらいなもので、小説なんていうお高尚なものは流行りの携帯小説ですら読んだことがない。

 このことの意味するところがおかわりだろうか――つまり、わたしはその種の文学的素養のない人間なので『ゼウスとプロメテウス』と聞いても、「ゼウスはわかるけど、プロメテウスってだれ?」くらいの知識しかなかったっていうことだ。

 もちろん、携帯かパソコンで<プロメテウス>と入力すれば、ウィキぺディアというあたしような馬鹿にもわかりやすい解説を読むことが出来るっていうのはわかってる。でも、あたしはブランド物中古買取品店に多くの服を泣く泣く売ってしまっていたから――何も着ていくものがないと悩むあまり、そんなことはしている余裕がなかったのだ。

 結局、胸の谷間がくっきり見えるDKNYの黒のワンピースを着ていくことにしたけど……これにシャネルの馬鹿でかいサングラスをした栗色の髪のてっぺんが黒くなりかけた女っていうのは、自分的にちょっとどうなんだろうと思わなくもない。

 でも、どっかのスーパーモデルが言ってたみたいに、一度メイクしたあとは、自分の顔が今どうなってるかなんて、いちいち考えないほうがいいのだろう。それよりもパーティを楽しむことだと、確かかつてスーパーモデルとして名を馳せたのち、女優に転向した彼女は言っていたはずだ。だからわたしも、今日の自分のファッションがどうかなんていうことは、ベルビュー荘を出てからは一切考えないことにした。

 客席が五百席ほどしかない芸術文化会館の小ホールの前は、意外にも開演三十分前から長蛇の列となっていて――あたしは思わずシャネルのサングラスを外して驚いていた。たぶん、どう少なく見積もっても三十人はいるだろう。もっとも、その中であたしが目当てとしている人物、水嶋蓮の姿はそのうちのどこにも見当たらなかったけれど。

(まあ、自由席だから……もし前のほうで見たいと思ったら、最初に並ぶ必要があるってことなのかしらね)

 そんなことを思いながら、新人の劇団員っぽい若い子にチケットをもぎってもらい、あたしはケリーバッグを片手に座席のなるべく後ろのほうへ座ることにした。ほたるがどんな役で出るのかは知らないけれど、舞台に上がったほたると目と目が合うような距離にはいたくない気がした。なんとなく。

 そしてあたしが(まだ始まんないのかしらね)と、自販で買ったカフェラテをずずっとすすっていると、背後から聞き慣れた声が振ってきたのだった。

「へえ、あんた本当に来たのか。あんたのことだからてっきり「なんであたしがこんなアマチュア劇団員による三流の演劇を見なきゃいけないのよ」とか言って、来ないと思ってたけどな……見直したよ」

(え?それってどういう意味よ?)

 セリフの前半、アマチュア劇団員による三流のなんとかっていうあたりは、まったくレンの言うとおりだ。でも、彼の最後の一言、「見直した」という言葉の意味が、あたしにはよくわからなかった。

(五百点以上あったブランド服をほとんど売ったわりには、そこそこ悪くない格好してるじゃんっていう意味?でも、レンはそんなのに頓着するような奴じゃないし……)

 第一それは、今日着ているレンの服装からもよく見てとれた。UFOと宇宙人が描かれたTシャツに、穴のあいたジーンズ。それに足元はぼろぼろの毛羽立ったサンダルをはいてるといったような具合。髪の毛もぼさぼさで、口元には無精髭が生えているけれど、もともとの顔立ちがいいせいか、そんなに不潔そうな印象は受けない。

「……向こうに、行かなくてもいいの?」

 通路を挟んだ向こう側のほうで、彼の友人か知りあいと思われる一団が、レンに向かってしきりと手を振っている。

 そして彼のほうでもそれに答えて、「おう」といった具合に軽く手を上げていた。

「ああ、あいつらにはさっきロビーで挨拶しといたから、何も問題ないよ」

 そう言って、あたしの隣にレンが座ったのを見て――正直あたしは、物凄く驚いた。

 てっきり奴のことだから、「おひとりさまのあんたと違って、俺にはこんなに友達がいるんだぜ」的に、見せつけるような態度をとるんじゃないかとばかり思ってたけど……まさか本当に、あたしの隣で二時間近くもの間、座ったまんまでいるつもりなんだろうか?

 そしてあたしが、こんなことなら昔のキャバ嬢仲間に頭を下げてでも、もっといい服着てくればよかったと後悔していると――足を組み、お腹の前あたりで手を組み合わせたレンが、突然こんなことを聞いてきた。

「それで、あんたの人生計画ってのは、今どうなってるんだ?」

 何日か前、「その仕事はもうしたくない」と派遣会社の人間と電話でもめていた時、その一部始終を聞いていたレンは、どうにかこうにか自分の言い分を押し切ったあたしに対して――「そんな場当たり的な仕事ばっかりしてたって、仕様がないんじゃないのか」と言ったのだ。

「あんた、接客は結構得意なんだから、それならウェイトレスでもやれば?でもまあ、そしたら今度は安い時給でこき使われたくないとかなんとか、そんなことをグダグダ言いだすんだろうな」

「うるさいわねっ!あたしにだって色々、あんたにはわかんない人生計画ってもんがあるんだから、余計な口出ししないでよっ!」

(あはは……人生計画か。苦し紛れに言っただけの言葉だったけど「本当はんなものねーよ」とは、とても言えないわね)

「うん、まあ、それなりに、色々」

 突然スカートの丈の短さが気になって、あたしは太腿の前で一生懸命それを伸ばした。

「時給二千円のキャンペーンガールやっててセクハラされました、だからもうその仕事はしたくないですっていうあんたの言い分は確かに正しいのかもな。確かその時のキャンギャルの制服も、あんたが今着てる服と同じくらい、短かったんだろ?俺にはよくわかんねえな……なんで二十八にもなって、そんなパンツ見えそうな格好したがるんだか」

「年は関係ないでしょっ!第一、あたしは今貧乏のどん底で、まともに着てくるような服がなかったの!だから丈が気になったけど、仕方なくこれを着てきたっていう、それだけよっ」

「ふうん、あっそ。あ、そろそろ始まるぜ」

 ブーッという開演を知らせるブザーが鳴ったので、「『ふうん、あっそ』なんて言うのが口癖の奴は、自分から運を逃すんじゃなかったっけ!?」とあたしは奴に言い返してやることが出来なかった。

 仕方なくぐっと言葉を喉の奥に飲みこんだまま、空になったカフェラテを一旦足元に置く。

 客席の照明が落とされて暗くなると、『ゼウスとプロメテウス』の第一幕が始まった。



 ゼウス:「プロメテウスよ、後悔しているか?人間どもに火を投げ与えたことを……」

 プロメテウス:「後悔?それは人間という生き物を作った<神>がすべきこと……すなわち、全能神ゼウス、貴様が感じるべきことではないのか?」

 ゼウス:「この期に及んで減らず口を叩くつもりか、プロメテウス。人間はわたしが作ったのではない。奴らはわしらが生まれる前からすでに存在しておったのじゃ」

 プロメテウス:「減らず口を叩いているのはおまえだ、ゼウスよ。自分が今言った言葉に矛盾を感じぬのか?我々神々より以前に人間が存在していたのであれば、むしろ彼らこそが我らの神……」

 ゼウス:「ええい、黙れ、黙れいっ。貴様の屁理屈はもう聞き飽きたわっ。ヘルメス、こやつの拷問刑を再び開始せよっ!!」

 ヘルメス:「ははっ」



 ここでナレーションが流れ、プロメテウスが人間に火を与えた罰として、カウカソス山でどんな刑罰を受けていたのかが説明される。毎日鋭い爪を持つハゲタカによって体を啄まれるのだが、彼は不死身であるため、決して死ぬことが出来ない……そして肉体の傷が癒えた頃に再びハゲタカに生きながらにして体を啄まれるという果てしない拷問刑を彼は受けていたのだった。

 だが、この半球永久的に続く地獄が、罰としてあまりに過酷と感じた他の神々は、ゼウスの目と耳の届かないところで話し合いの場を持つことにする……参加したのは美の女神アフロディーテ、太陽の神アポロン、月の女神アルテミス、軍神アレス、豊穣の女神デメテル、海の神ポセイドン、火神ヘスティアなどであった。



 アポロン:「全能の神、ゼウスはきまぐれ。次に僕らが罰を受けるとしたら、一体どんなことになるやら……」

 ポセイドン:「わしはもう、地上に落とされ、罰として人間と同じように労働して糧を得るのは真っ平じゃ」

 デメテル:「ほら、そんなあなたには、このあたしが神々の食べる果実、アンブロシアを差し上げましょう」


 (ポセイドン、デメテルからざくろによく似た赤い果実を受けとる)


 アレス:「こうなったら、戦いあるのみだ!ゼウスが我々他の神々を治めているのは、我ら神が食するアンブロシアの実る樹を独り占めにしているからなのだ!ゼウスに戦争をしかけて勝利し、これからはアンブロシアの樹をみなで平等に分けることにしようぞ!」

 アフロディーテ:「早まってはなりませぬ、アレス。どうもあなたは血気に逸りすぎる……仮に我々が同盟を結んでゼウスに勝利したとして、そのあとのことはどうなりますか?きっとまた、誰かがアンブロシアの樹を独り占めしようとするに決まっています。戦争を起こす前に、わたしたちはそのことについてよくよく話し合わなくては」

 ヘスティア:「月の女神アルテミスよ、あなたは知恵のある女神。どうぞ、何かいいお知恵は思い浮かびませぬか?」

 アルテミス:「その前にヘスティア、あなたにひとつ聞いておきたいことがあるのです。あなたは火の女神……人間どもにプロメテウスが火を与えたことについて、どう思っているのですか?」

 ヘスティア:「<火>とは、素晴らしきもの。暗い夜を明るくしてくれます。時には、絶望に沈む暗い心だって明るくしてくれるのですよ。<火>とは情熱や希望の象徴……これなくしては、人間はただ肉の塊にしかすぎず、死んで大地に葬られたあと、うじにでも覆われる以外にないのです。ですから、わたしはプロメテウスが人間に火を与えたのを、良いことだと思っています。もっともこんなこと、決してゼウスの前では申し上げられませぬがね。わたしは本当は、人間という惨めな存在が以前から気の毒でならなかったのですよ」

 アルテミス:「なるほど。ではわたしが門番ヘルメスをかどわかして、プロメテウスがカウカソス山に繋がれている鎖を解いてくることに致しましょう」



 ――わたしが驚いたことには、ほたるの役はこの、月の女神アルテミスだった。

 もちろんあたしはギリシャ神話なんてきちんと読んだことはない。だからこの演劇の内容がかなりのところ実際のギリシャ神話を脚色していることも、あとからレンに聞くまでまったくわからなかった。

 でも、なんとなく漠然と月の女神は美少女というイメージがあったがゆえに……(あんなおデブさんがアルテミス?)とつい笑いたくなってしまった。

 もっとも、次の第三幕でアルテミスが門番ヘルメスを誘惑するため、その美声をふるって歌を歌いあげる段になった時には――あたしがそれまで持っていた、ほたるに対する若干下の者を見る目線は、まるでひっくり返ってしまうことになるのだけれど。

 ほたるは後ろの席にいるあたしの体が、まるで超音波によって震えるくらいの声の大きさで、この劇一番の見せ場である第三幕を素晴らしい演技力によって演じきっていた。

 面白いことには、この第三幕にはヘルメスとアルテミスのちょっとした濡れ場のような場面があって、そのことを通してアルテミスはヘルメスからプロメテウスを縛る鎖の鍵を奪うのだけれど……実際にはその時、ヘルメスはアルテミスに対する愛ゆえに、わざと眠ったふりをして、彼女に腰から下げた鍵束を奪わせるのだった。

 そして第三幕は、ヘルメスが「ああ、わたしはなんと愚かなことをしたのだろう。ゼウスさまはわたしを幾重にも罰せられるに違いない。何故、わたしは罰を受けるとわかっていて、あの人のことを愛してしまったのか。そして愚かな人間どももまた、いつか死ぬとわかっていながら、何故人を愛することをやめないのだろう」という言葉で幕が下りることになる。

 第四幕、女神ヘラとともにアンブロシアの樹の根元で、怠惰に平和な時を過ごすゼウスの元へ、鎖を解かれたプロメテウスが一騎打ちのためにやってくる。アンブロシアの樹を盾にとり、自分の思うがままに振るまっていたゼウスは、すっかり油断していた……プロメテウスはゼウスを人間の世界へ追い落とし、「貴様も汗とともに労働して糧を得る、人間どものひとりのようになるがいい!」という言葉とともに、一本の槍によってゼウスにとどめを刺す。

 けれど、天上の世界から追われることになったゼウスは、最後に「もう二度と実がならぬように」とアンブロシアの樹に呪いをかける。その言葉を聞いたヘラは絶望のあまりゼウスのあとを追っていった。何故なら、アンブロシアの実が生らないということは、それはすなわち一族の滅亡を意味していたから……。

 アンブロシアの実がもう二度と生らないと知った神々は、自分たち一族はやがて衰退し、神々と今呼ばれている存在はみな、ひとりの人間のように弱く儚い存在に成り果てるだろうと言って絶望する。そして誰もがプロメテウスを呪い、彼をカウカソス山の拷問刑より解放したことを、苦い思いで後悔するのだった。

 そして最後、人間たちはプロメテウスから<火>を与えられたことを喜び、その火を囲んで気が狂ったように彼らが輪になって踊る場面で、『ゼウスとプロメテウス』は終幕となる。



 ――正直いってあたしは、まさか演劇というものから、こんなに深い何かを与えられるとは、まったく予想していなかった。

 もちろん、自分の知りあいが出演していて、彼女の演技が意外にも滅法うまくて度肝を抜かれたという、そのせいもあるのかもしれない。

 でも、決してそれだけではなくて……頭の悪いわたしにも、この『ゼウスとプロメテウス』という劇は、何かを考えさせた。何故かというと、この劇の中には誰にとっての<正解>もなく、劇を見た一人ひとりが自分なりの答えに近いものを見出す以外にはないように思えるからだ。

 たとえば、プロメテウスに課されていた拷問刑は地獄に等しいすさまじいもので、彼ひとりに苦しみが集中することによって、他の神々はゼウスの怒りを免れていたようなところがある。そしてそのことに後ろめたさを感じる彼らは、知恵を用いてプロメテウスを救出しようとするのだけれど――最後、ゼウスの呪いによってアンブロシアがもう二度と生らないと知ってからは、プロメテウスなど、あのまま未来永劫苦しみ続けていればよかったものをと罵るようになるのだ。

 さらに、わたしにとって一番不気味だったのが、ラストの<火>を与えられた人間たちが炎を囲って気味悪く踊り狂うシーンだったかもしれない……あのシーンを見る限り、火を与えられた人間の未来は決して明るいものではなく、人間たちが<火>を悪用してろくでもないことをしでかすだろうことが暗示されている。

 となると、そもそもプロメテウスが人間に<火>を与えたことは誤りであり、もしかしたらゼウスが彼に与えた刑罰は正しいものであったかもしれないのだ。

 ――もちろん、あたしはこうしたことを、その晩『ゼウスとプロメテウス』を見たその直後に完全にまとめて考えられたわけではなかった。ただ、レンと一緒に夜道をベルビュー荘まで歩いて帰りながら、その道々で彼と色々なことを話したあと、レンの「俺はこう思う」という考えを借用しつつ、そう思ったのだった。




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