Act.5
丘の坂道を上りきったところにある下宿、そこは誰が呼んだかベルビュー荘。
ゴキブリ出るのがたまに瑕だが、それ以外では自由にして快適。
朝・昼・晩の食事がついて、なんとたったの五千円という下宿料!!
さあ、生活に困ったそこの君。ベルビュー荘で一緒に暮らしてみないか!?
「何これ?っていうか、なんかめっちゃ受けるんだけど」
「ああ、それな。昔、俺が今いる2号室に住んでた人が、面白がって<ベルビュー新聞>っていうのを書いてたんだよ」
晩ごはんの下ごしらえとして、さやえんどうの筋をとりながら、レンがそう言った。
場所はダイニングキッチンでのことで、今ミドリさんは銀行に用事があるとかで、出かけていていない。
あたしは時々、こんなふうにレンとふたりきりになれる瞬間を見計らっては、彼に色々話しかけるようになっていた。
「歴代のベルビュー荘の住人の中でも、ほとんど伝説的って言ってもいいくらい、面白い人だったらしいよ。今は確か、どっかの有名大学で原子物理学の教授をやってる人だって」
「へえ……そういえば、そもそもベルビューってどういう意味なの?」
歴代の住人の中には、負け犬でない人もいると知って、ほっとしつつあたしはそう聞いた。
ちなみに、レンがいつもしているミドリさんの食事作りの手伝いを、あたしはさっぱりする気がない。
「フランス語で『美しい景色』っていう意味」
どこか軽蔑のこもった声でレンはそう言い、筋をとったさやえんどうを手に、流し台へ向かっている。
なんでも、胡麻和えにするんだそうだ。
「っていうかさ、おまえ働けよ。毎日毎日ベルビュー荘でゴロゴロごろごろ……引きこもりのミズキよりおまえのがよっほど始末悪いだろ」
「あなたに言われたくありまっせーん!!」と、防御のために、あたしは両方の手を×印に交差させて言った。「大体、この下宿の人間ってほたるちゃん以外、まともに外界との接触を持ってない人間ばかりじゃない?斉藤さんは確かに、社会人としてちゃんと働いてる立派な人だとは思うわよ?でも仕事へ行く以外ろくに外出もしないような生活だし、あんたに至っては、あたしと同じくちゃらんぽらんな人生送ってるようにしか見えないんだけど?」
「久臣さんはな」馬鹿を相手にしても仕方ないというように、レンは溜息を着きつつ、ほうれん草入りの卵焼きをじうじう焼きはじめた。「本当はすげえ人なんだよ。こんなこと言ってもあんたには、『あのハゲ親父のどこが?』くらいにしか思えないだろうけどな……それと俺は、あんたとは本質的に何もかも、絶対に違うぜ。あんたが三週間前にベルビュー荘へやってくる前まで、俺は新築のビルの内装を半年くらい、最後のほうは泊まりこんでやってたからな。ようするに俺はそういうインテリアとか内装美術の仕事なんかを、友達や知り合いから依頼があった時にやってんだよ。で、ひとつ仕事をこなすごとに暫く休むっていうサイクルなわけ。おわかり?」
『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニー・デップを真似て、レンがさいばしをあたしの鼻先に向けてくる。
「ふう~ん。なるほどね!でもそれを言ったらあたしだって、先週の土曜と日曜日はちゃんと働いたもんね!」
負け惜しみを言うように、あたしはその小さな事実を誇張して、胸を張った。正確には、派遣会社のほうから「どうしても人がいないから頼む」ということで、某アウトレットモールでバーゲンの呼び込みをやったという、たったのそれだけだ。
「だからあんたは何もわかってないっていうんだ」
玉子焼きを綺麗な形に焼き上げると、レンは次の一品へ取り掛かった。もやしときのこの炒め物である。
今日の夕飯はこれの他にさばの味噌煮があるきりなので、毎日思うことではあるけれど――(ほんと、安くすむ大したことない食事が多いのよね、実際)とあたしは感じる。もちろん、今の自分の身分で贅沢をいうことは許されないし、大体他のものが食べたければ自分で買ってくればいいだけの話でもある。その上、三食の食事の他に、三時頃下宿にいる人間にはおやつまで供されることになっていた。他に、食堂のテーブルの上にはせいべいやクッキーやキャンディボックスが置いてあり、それらのものは勝手に食べていいということにもなっている……これを至れり尽くせりと言わずして、一体なんと言うのか?
「俺は何もあんたに、正社員として最低でも週に四十時間は働けなんていう話をしてるわけじゃない。あんた前に、ミズキが部屋に篭もりっぱなしで、本当に勉強なんてしてるのかって俺に聞いたことあったよな?俺はその時あんたに『勉強なんかどうでもいいだろ』って答えた……あんたも同じだよ。べつにミドリさんの食事の手伝いとかはしなくてもいいんだ。ミズキは自分が本当は一体何をやりたいのかについて悩んでるっていうそれだけだからな。で、ここであんたにも同じことを聞く。サクラ、おまえはこのままだらだらベルビュー荘で過ごす以外に、一体何がしたいんだ?」
こんなこと、いちいち説明させてんじゃねーよ、というように、レンは思いきり顔をしかめている。
この時になって初めてあたしは、目から鱗のようなものが落ちるのを感じた……確かに、月に最低二万円さえ稼げば、衣食住のうちの食と住は保証されているのだ。だったら、派遣会社から仕事が来るのを待つ以外に、他にも将来のために出来ることを、今のうちにやっておくべきなのかも……。
「さて、と。俺は友達と仕事の打ち合わせがあるから、今日の夕食はいらないってミドリさんに言っておいてくれ。じゃあな」
ボールの中のさやえんどうの胡麻和えにラップをし、もやしときのこの炒め物には蓋をし、卵焼きの味を確かめるようにひとつつまみ食いしてから、レンはジーンズのポケットに手を突っこんで出かけていった。
(憎たらしいことばかり言う奴だけど、でもやっぱりあいつはいい男なのかも)
さばの味噌煮の入った平鍋の蓋を開けつつ、あたしはあらためてそう思った。
芸術大学に現役で入ってるあたりからして、もともと頭はいいのだろう。そしてその才覚を生かしてインテリア関係とか内装美術の仕事をしているのだ……専門的なことはよくわからないけれど、そういう仕事ってレンくらいの年で簡単にまわってくるようなものでもないだろうから、となると、たぶんあいつには人脈があるってことだ。
あたしには今みたいにつらく当たることが多いけれど、これがミドリさんやほたるが相手となると奴はかなりのところ人当たりのいい対応をする。
特にほたるには優しい。もし彼女がそれを恋愛感情と錯覚したらどうするのかって、あたしが思うくらいに。
もっともレン曰く、
「ほたるはな、そんなこと考えもしないし、思いつきもしないだろうから可愛いんだよ。それと俺は奈々美さんにもそうだったけど、真摯に夢を追ってる人間のことは、応援したくなるんだ。それがあんたとほたるの違いだな」
ということだったけれど。
他にもレンがその時あたしに言ったことを思いだして、あたしはひとり、食堂で軽い自己嫌悪に陥った。
「あんたはさ、もし仮に目の前にミス・ユニバースを目指してるって子がいたら、こう思うんじゃないか?相手がほんのちょっと可愛いくらいの容姿だったら、『ほんのちょっと可愛いくらいでなれるものじゃないのに、ご苦労さま』とかなんとかさ。で、相手がかなりのところ綺麗な容姿の持ち主だったとしても――『同じくらい綺麗な子がたくさん集まる中でしのぎを削るんだから、その中で選ばれるなんてありえないわ』みたいにね。それと、ほたるが女優を目指してるって聞いてあんたどう思った?彼女になれるくらいなら、まだしも自分のほうが望みがあるって、そんなふうに思ったんじゃないのか?」
もちろんあたしはそのあとすぐに、「そんなこと思うわけないじゃないっ!!」って、全力で否定はした。
でも本当は、ズバリ図星を指されたも同然だった。あたしにはなりたいものがあるわけでも、将来こうなりたいという具体的な夢があるっていうわけでもないのに――他人のことに対してはあれこれ物知り顔に裁く傾向があるってことだ。
(あたしって、そんなに嫌な奴だったっけ?)
チェックのテーブルクロスの上に突っ伏してると、サイドボードの上にいくつかフォトフレームがのっているのが見える。
レンを中心にしてミドリさんやほたる、奈々美さん、斉藤さんやミズキくんの写っている写真が、たぶん一番最近撮られたものなのだろう。ベルビュー荘のベルビューというのは、フランス語で「美しい景色」という意味だとレンが言っていたけれど、確かに丘の上にあるこの場所からは、星空や街の景色が綺麗に見渡せたし、近くには桜の並木道を含んだ広い公園まであるのだ……ほたるに聞いたところによると、この写真はみんなで花見をしにいった時に撮影したものらしい。
(どうりで、バックに桜が写っているわけよね)
あたしは突然、何かが悲しくなった。レンはカメラに向かって満面の笑顔を浮かべており、その隣でモデルをしていた奈々美さんという綺麗な子が優しそうに微笑んでいる……レンはあたしに対してはこんな顔、一度もして見せたことがない。
いうなれば、わたしはこのバックに写っている桜と一緒だった。考えてみれば、昔からそうだ。本当はみんなと一緒にフレームの中に収まりたいのに――「そんなことして馬鹿じゃないの」とか「そんなくだらないこと、興味ないわ」とかなんとか言って、みんなと同じことをしようとしないのだ。
(一体いつからこんなひねくれた人間になったのかしらねえ……もしかして、生まれつき?)
そしてあたしが、「引きこもってるミズキより始末が悪い」と言ったレンの言葉に対しても、まったくそのとおりだと反省していると――玄関のドアが開いて、ミドリさんが帰ってきたのだった。
「あら、レンくんがすっかり夕食を作ってくれたのね。本当にもう、助かっちゃう」
エコバッグふたつをパンパンにして両手に提げたミドリさんは、早速とばかり、商店街のスーパーで買ってきた品を冷蔵庫へしまいはじめる。えのき茸、こんにゃく、白滝、豚バラ肉、じゃがいも、人参、ピーマン、ハムやさつま揚げなどなど……ミドリさんの隣に立って何気なく手伝っていると、最後に「じゃーん!」と言って、ミドリさんがハーゲンダッツのアイスクリームをあたしに差しだす。
「手伝ってくれたお礼ね。あと、最後の一個はミズキくんに渡してこなくちゃ」
「あ、あたし届けてきましょうか?」
「あら、そう?じゃあお願いね」
クッキー&クリームのアイスとスプーンを手に持ち、あたしはミズキくんの住む3号室のドアをノックした。暫くして、「なんですか?」という、いかにも生気のないような声が奥から返ってくる。
「アイスクリーム食べない?ハーゲンダッツのクッキー&クリーム」
「……結構です」
礼儀正しく断られたあたしは、(せめてドアの間から顔くらい見せたらどうなの!?)などと思いつつ、廊下をリビングへ戻っていこうとした。
すると、1号室からぬうっと幽霊のような人物が現れ――それはパジャマ姿の斉藤さんだった――あたしの顔を見ても挨拶するでもなく、そのままトイレに入っていった。数秒後、ぶううっ!!と放屁する音が聞こえ、思わず笑わずにはいられない。
(やれやれ。あたしにはやっぱり、斉藤さんがレンの言うような「すげえ人」には思えないわね)
食堂では、TVでドラマを見ながら、ミドリさんがバニラ味のアイスクリームを食べていたので、あたしもまたその隣でストロベリー味のアイスを食べた。
ベルビュー荘での毎日というのは、とにかくこんな感じだ。三食のごはん以外にも何かとおやつがついてくるし、食堂や居間で新聞を見たりTVを見たりしていても、誰に気兼ねするでもなくリラックス出来てとても居心地がいいのだ。
(でも、いつまでもその「居心地の良さ」に甘えてちゃいけないって、レンはそう言いたかったのかもしれないわね)
わたしはベルビュー荘及びベルビュー荘の住人について、自分が気になったことや知りたいと思ったことは大体、レンかほたるに話を聞いて知っているつもりではあった。
たとえば、ミドリさんはやたら気前がよくて感じのいい人なのだけれど――こんな採算の合わない下宿屋を何故いつまでも続けているのかといったようなことだ。
「まあ、話すと長くなるんだけどな」
庭先で煙草を吸うレンの隣でマルボロに火をつけながら、あたしはインパチェンスやブーゲンビリアといった満開の花を眺めつつ、レンのいう<長い話>を聞いていた。
「ベルビュー荘にはこれまで、色々な人間がたくさん出入りしてきた……何しろ、ミドリさんの父親や母親の代から続いてるんだから、ある意味当然といえば当然だけど。で、ミドリさんはこの下宿屋のひとり娘で、小さな頃からそんな<色んな人たち>と接してきたってわけだ。初期のベルビュー荘っていうのはもっぱら学生寮みたいなものだったらしくてさ、そうなると自然、色々なドラマが生まれる結果になるだろ?今は使われてない隣接した、すぐそばの棟」
と言って、レンは古ぼけてヒビの入った灰色の建物へ、煙草を向けた。
「あそこは昔ベルビュー女子寮って呼ばれてて、一階の広いフロアにはミドリさんを含めた管理人一家が住んでたんだよ。で、今俺たちが住んでるところっていうのは、そもそも男子寮だったんだ」
「へええ。それで、それで?」
とりわけ男女の恋愛話に興味のあるわたしは、レンのことを急かした。
レンはそういうあたしの性格を軽蔑しているみたいに、軽く溜息を着いている。
「まあ、年ごろの男女がこんな目と鼻の先に住んで青春を謳歌してるんだ……となると、起こることは決まってるよな?失恋か恋愛の成就、あるいはそこに至るまでの過程で生じる駆け引きとか……実際、ここの女子寮の子と自分の大学の後輩に二股かけてた奴が、その両方に引っぱたかれたりとか、色々あったらしい。まあ、このことはミドリさんの恋愛相手だった小山内克英氏の書いた、<ベルビュー新聞、第56号>に詳しい経緯が載ってるから、興味があったら読んでおくといい」
「えええ~っ!?でもミドリさんの苗字、小山内ちゃうやん!旦那さんの苗字はミズキくんと同じ大谷やろ!?」
「なんでそこで大阪弁になる必要あるんだよ……まあ、それはいいとして」
じゃり、とスニーカーの裏で煙草をもみ消すと、「続きが聞きたきゃ、もう一本寄こせ」とばかり、レンはあたしにマルボロを催促する。
「簡単にまとめるとすれば、だ。ミドリさんの青春時代っていうのはさ、東大で安田講堂事件があったりとか、浅間山荘事件があったりとか、大体あの頃なわけ。俺の親父やおふくろもその頃に恋愛結婚してるから、なんとなく時代の空気がわかるんだけど……簡単に言ったとすれば、その頃っていうのはまだ、今と違って<青春>っていう言葉が生きて輝いてたんだよ。何しろ俺のおふくろなんか、兄貴を妊娠した時、「傷モノになった以上は家から出てけ!」って親に言われておんだされたって言ってたからな。今じゃ出来ちゃった結婚なんて、珍しくもなんでもないだろうけどさ」
「ふう~ん。あんた、お兄さんいるの?」
「ああ。年は八つ違うけど、今時髪を七三に分けた折り目正しい銀行員っていうのをやってるよ。おふくろは難産の末に兄貴を出産したとかで、その時「子供はもういらない!」と思ってずっと避妊してたんだってさ。でも八年後に「ついうっかり」出来ちゃったのが俺ってわけ」
「……あんた、ちゃらんぽらんそうに見えて、結構シビアなもの背負ってんのね」
「今時シビアとか言わねーだろ?」と、レンは笑った。いつものどこかシニカルな笑い方。彼はいつもわたしの前では、こういう笑い方しかしたことがない。「まあ、俺のことはどうでもいいよ。それより今はミドリさんのことな。当時のミドリさんは言ってみれば、ベルビュー荘のマドンナ的存在だったらしい。あんたは相当切羽詰ってて、この下宿を下見にすらしに来なかったけど、普通は住む前に最低一度は見にくるもんだよな?で、庭先の花の間で箒を片手に掃除してるミドリさんのことを見て、即ここに居住を決めた男ってのは、ひとりふたりじゃないらしい……普通下宿っていうのは、プライヴァシーがあるようでないから、大抵一年か二年もいれば引っ越してくなんて珍しくもなんともないけど、当時の学生はみんな大学を卒業するまでここベルビューにいたらしいよ。そのくらいこの場所が居心地よかったってことだ」
「うん、なんかわかる」
「ここでミドリさんと今は著名な原子物理学の第一人者になった、小山内氏の恋愛話に戻るけど……ミドリさんとミスター小山内との恋愛っていうのはさ、ようするによくある三角関係だったわけ。今ミズキが住んでる3号室に当時いたのが、のちにミドリさんと結婚した大谷嵐っていう、哲学を専攻してるやたら理屈っぽい男だった。たぶん、ミズキのあの暗い性格は大谷家に流れる何がしかのDNAが影響してると思うんだけど……まあ、そのことは今はいいとして、ミスター小山内は相当に破天荒な人物でさ、物理学の研究と称して、死刑の時使われる電気椅子と同じものを作ったり、女子寮までターザンよろしく登山ロープを繋いだりとか、色んなことをやった人らしい。こんなことを言ったら大抵の人はたぶん、「そこまでして女子寮に乗りこみたいか!」って思うかもしれないけど――ミスター小山内はそういう浮ついた動機からロープに滑車を付けたりしたわけじゃないんだ。さっき言った女子寮の子と大学の後輩に二股かけてた医学部の男がさ、名前を羽柴亮太郎っていうんだけど、自分はワンダーフォーゲル部で鍛えてるから、女子寮の壁を小山内より速くのぼれるって言ったんだよ。そこで小山内氏は「それは物理学的にありえない。必ずそれを証明してみせる!」とか言いだしてね、次の日から早速洗濯のビニール紐を……」
「洗濯のビニール紐?登山ロープじゃないの?」
煙草の灰がかなりのところ落ちているのも構わず、あたしはレンのことを見返した。
今は当時の面影もなくひっそりした廃墟と化してる女子寮だけど、男子寮の屋上からの距離は、どう軽く見積もっても十メートル以上はある……あれを洗濯のビニール紐に滑車をつけて渡ったのだとしたら、小山内氏は結構な勇者といえはしないだろうか?
「正確にはまあ、登山ロープという名の強化洗濯紐っていったところだな」
かつてあった女子寮と、今はベルビュー本館と呼ばれる昔の男子寮の狭間――その間に広がる星空を見上げて、レンはどこか不適ににやっと笑った。
「なんにしても、小山内氏は自分が作った強化洗濯紐を滑車で渡るようなリスクは犯さなかった。ミスター小山内は自分の隣室にいるサルトルの実存主義の本を愛読している男、大谷嵐にそれをやらせたんだ……もちろん彼は小山内に背中を押される前にこう言ったよ。『僕はまだ死にたくない』ってね」
「そりゃそうでしょうよ」
「だけど、大谷が普段からあんまり<生と死>がどうの、魂の不滅と地獄がどうのっていう話ばかりするもんだから――小山内氏は「ちょっとした死に近い状況」を大谷氏に与えて、それで彼の思想に変化が見られるかどうか試したかったらしい。そして実際、それ以来彼は変わったんだよ。理詰めで物を考える人間から、行動する人間にね」
「それで結局、ミスター小山内はドクター羽柴に勝ったの?」
「ああ。大谷氏がなかなか強化洗濯紐の耐久性を信じなかったせいで、確かに大谷が羽柴より大幅に出遅れて、女子寮の屋上へ先に到達したのは羽柴だった……でも、勝ったのはやっぱり小山内氏だったんだよ」
「どういうこと?」
「つまり、小山内氏は最初から<そのことも計算のうちに入れてた>ってこと。ミスター小山内は嫌がる親友・大谷の背中を押したあとで――自分で作った自家製ハングライダーで悠々と羽柴より先に女子寮の屋上へ到着したんだよ。もっともそのあと、問題がなくもなかったけどね」
「問題って?」
「つまり、一度は女子寮の屋上に到着したまではよかったけど……そこで羽柴が男らしく「俺の負けだ」と認めたまではよかったんだ。でもそのあと急に突風が吹いて、小山内氏はハングライダーごと屋上から落ちちゃったんだよな」
「マジで!?」
「うん、マジ。少しの間ハングライダーごと飛ばされて、すぐそこに桜並木のある公園があるだろ?そこで桜の木に引っかかってさ、片足を骨折したって話」
「……………」
――正直あたしはこの時、(正真正銘の馬鹿だ)と小山内氏に対して思ったけれど、何故かその「馬鹿さかげん」が羨ましくもあった。
つまり、レンの言う「青春という言葉が生きて輝いてた」っていうのは、簡単にいえばそういうことなのだろう。
そしてあたしはこのあと、どこか内気そうな性格の大谷が何故寮生のマドンナと結婚するに至ったのかについて、レンに聞いてみた。それと、そんな素敵な青春時代を過ごして結ばれたのに、何故ミドリさんは彼と離婚してしまったのかについても……。
「まあ、夫婦の間のことっていうのはさ、当人同士にしかわかんないことだと俺は思う。当時の写真を見ても思うけど、ミスター小山内って結構格好よかったから……それで、ミドリさんは諦めちゃったんじゃないかなって思うよ。彼女はその頃から家庭的な女性でさ、高校卒業後は管理人の娘としてここの下宿を手伝ってるだけだった。これはミドリさん本人から聞いたことなんだけど、彼女はまわりの女の子にコンプレックスを持ってたらしい。小山内氏は大学在学中からアメリカ留学の話が持ち上がるくらい優秀な人だったけど、ベルビュー荘が好きすぎて、その話は一旦見送ったらしい。でも卒業後にボストン大学へ留学することになって――とうとう最後に言ったらしいよ。ミドリさんに一緒についてきてくれないかって」
「それで、ミドリさんはなんて答えたの!?」
「『あたしはいつまでもベルビュー荘のミドリとして、克英さんのことを待ってる』って言ったんだってさ」
「えっ、それってどういう意味?」
「さあね。ミドリさんが言うには――自分には小山内くんについていけるような冒険心がなかったっていうことだったな。ベルビュー荘の女子寮にいた子の中にはさ、ドイツからの留学生がいたり、フランス語と英語とドイツ語の三ヶ国語を流暢に話せたりとか、あるいは医者や弁護士を目指してるなんていう子もいたりして……ミドリさんはそういう活発な女性と小山内氏はつきあうべきだって、そう思ったらしいよ。でも、本当は両想いだったんだよな」
「何よ、それ!?馬っ鹿じゃないの?もし、あたしだったら――」
「何を置いても、好きな男についていく、か?でもまあ、俺はそういうミドリさんの気持ち、わかんなくもないな。彼女は自分のことを周囲の人間に比べて、ただの凡人だと思ってた。だけど、非凡人が輝くには、多くの凡人の存在が不可欠なんだよ。ミドリさんは自分のことを凡人と思い、一歩引いたところからまわりの人と接してたから、それで誰からも好かれたんじゃないかな……俺にも経験があるけど、まわりに才能のある連中ばかりいると、結構息が詰まるものなんだよ。で、そこに自分の分をわきまえた平凡な奴がひとりくらい挟まると、喧嘩にならずに議論がいい具合に発展するものなんだ……しかもその子の性別が女で容姿的に可愛かったりしてみろ。才能ある男どもの間でマドンナになるのに、三秒とかからないのは自明の理ってもんだろ」
「まあ、そりゃそうかもね。で、ミスター小山内はアメリカへ旅立ち、残った根暗の哲学青年と結婚したってこと?」
「簡単にいえば、そういうことになるんだろうな。でもさ、例の<ターザンロープで女子寮へ渡ろう>事件以来――大谷嵐は180度性格が変わったらしい。なんかよくわかんないけど、「明日死ぬつもりで今日を生きる」ような気持ちになったとかなんとか……言ってみればミズキもさ、そういう人生変えてくれる人間との出会いってのがあればいいんだろうけど、どうやら俺じゃあ、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』にはなれないらしい」
「『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』?」
「そ。べらぼうってのは、普通じゃ考えられないとか無茶苦茶っていうような意味だから、『ベルビュー荘の普通じゃ考えられないくらい愉快な奴ら』っていうこと。時々時代劇で「べらぼうめ!」とか言ってるの、聞いたことない?あるいは「てやんでい、べらぼうめ!」とか。あれはまあ、相手を罵っていってる言葉なんだけどさ」
「まあ、確かにあたしもブルガリの指輪を見て、「べらぼうに高い」とか思ったりするわね」
「そうだな。もしあんた流に言ったとすれば、『ベルビュー荘のブルガリ級に愉快な奴ら』っていう言い方でもいいんだと思う。とにかく、ここベルビュー荘にはそういう伝説があってね、今じゃ見る影もなく落ちぶれてるけど、ある瞬間にそういう面白い奴らの揃う黄金期があるんだよ。たぶん、ミドリさんは今もそれをずっと待ってるんだと思う……俺と同じようにね」
――あたしがストロベリー味のハーゲンダッツアイスクリームを食べ終わる頃、TVでやっていた昔の学園ドラマの再放送が終わり、よくある安手のサスペンスドラマがはじまった。
ミドリさんはそのドラマがはじまるなり、そそくさと椅子から立ち上がり、「さあて、そろそろ夕食の盛りつけでもするとしましょうか!」と明るく言って、キッチンへ向かった。
そしてあたしは本当にさりげなく、リモコンでチャンネルを変えることにした……自分が大して見たいとも思っていない、ニュース報道番組に。
このこともまた、レンから『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』について聞いたあと、強く注意されていたことだった。
ベルビュー荘はその後、ミドリさんと元旦那の大谷氏が夫婦で運営していくことになり(ミドリさんの両親は四国にいる老親の面倒を見るため、そちらへ戻っていた)、そんなふたりの間には息子もひとり生まれ、幸福な毎日を送っていたという。けれど、そのひとり息子の静くんがある日女子寮の一階で何者かに撲殺されているのが見つかり、こうしてベルビュー女子寮は閉鎖が決まったという話だった。
「だからさ、あんた無神経そうだから、先によくよく注意しておくけど」
煙草を吸い終わったレンに、もう一本マルボロを勧めたけど、彼は「いらない」というように手を振っていた。
「ミドリさんの前で、その手の話は絶対してくれるなよ。もちろん、軽い一般的な世間話としてなら問題ないけど……ミドリさんは特に木曜サスペンス劇場とか、水曜サスペンスアワーとか、日曜サスペンス・スペシャルとか、あの手の二時間ドラマが大嫌いでさ。ああいうドラマは全部、本当の意味での人の死を描いてないって言って毛嫌いしてる。だから、リビングでは絶対その手のドラマがはじまったら、頭の軽いあんたの好きそうなバラエティ番組にでも、さりげなくチャンネルを変えるようにしてほしいんだ」
「頭の軽いってのは余計よ!」と言いつつ、あたしは確かにレンのその言いつけについては忠実に守っていた。
――ミドリさんは本当に、とても優しい素敵な人だ。
でももしレンから、ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴らのこと含め、彼女とその夫だった大谷嵐氏、そして息子さんの身に起きた悲劇について何も知らなかったら……あたしはたぶん、(このニコニコと愛想のいいおばさんは、何か裏の魂胆でもあるのだろうか?)と、勘繰ったままでいたかもしれない。
ここからはレンから聞いたことではなく、女のあたしの想像だけど、たぶん大谷氏は息子の静くんが死んだ時、女子寮だけでなく今は本館と呼ばれている男子寮も閉鎖しようと言ったのではないだろうか?でも、ミドリさんは小さい頃からの思い出や青春の思い出の詰まったベルビュー荘を離れたくなかったのだ。実の息子が何者かに殺されるという悲劇が起きてなお。
ちなみに、ミドリさんの息子を殺した犯人は、今も逮捕されていないという。
捜査筋の話では、女子寮の女性の下着を狙った人物か、あるいは当時女子寮に住んでいた女性に偏執的な思いを抱いていた何者かが、寮に忍びこんだまではよかったものの、うっかり静くんに顔を見られてしまい、それで口封じに殺したのではないかということだった。
確かに、この実話をもし二時間の安っぽいサスペンスドラマに仕立てるとしたら、『ベルビュー荘殺人事件』とでも名づける以外にないかもしれない。レンから聞いた話によると、大谷氏とミドリさんは憎みあって別れたというわけではなく、氏は今も時々、ここベルビュー荘へやってくることがあるという。そして、ミズキくんのことをベルビュー荘で暮らすよう説得したのも大谷氏とのことで、彼はミズキくんと何気ない会話をして帰っていくという話だった。
あたしはテーブルの上のえびのみりん焼きせんべいをめりめり食べると、レンが作っていった夕食をお皿に盛りつけているミドリさんのことを振り返った。
ミドリさんのはっきりした年齢はあたしにもよくわからないけれど――それでもたぶん、あたしの母親と同じくらいだろうかと思われる。白髪一本ない黒々とした髪を三つ編みにして、頭の後ろでお団子にしている姿は、どこか昔の女学生風だった。肌のほうも白くて、よく見なければしみひとつ見当たらず、目尻の皺はむしろ人間的な魅力をたたえていると言っていい。
わたしはレンから東大の安田講堂事件であるとか、浅間山荘事件のことを聞いて、ミドリさんがおそらくは母と同じくらいの年齢ではないかと思ったのたけれど――でも、自分の母親と比べると、ミドリさんのほうが決定的に若いと感じていた。
うまくいえないけれど、精神的に若いことが、容姿やちょっとした仕種や立ち居振るまいといったものに現れているとでもいったらいいだろうか……なんとなく、そんな感じなのだ。
そしてそのことの原因はおそらく、彼女がここベルビュー荘にいて、いつまでもずっと青春時代を追体験しているそのせいなのではないかと、あたしはそんな気がしている。
何より、わたしの感じるミドリさんの一番すごいところは、一緒にいて全然気詰まりな感じがしないということだったかもしれない。
今、ミドリさんはひとりでお盆の上に皿を並べ、食事の盛りつけをしているところだけれど、無言のうちにも「女の子なら、少しくらい手伝いなさい!」といった感じを決して相手に与えないのだ。
だからこそあたしは、えびせんべいを無神経にめりめり食べていられるのだけれど――今日は何故かなんとなく、ミドリさんの手伝いがしたいと、そんなふうに思って席を立った。
「ミドリさん、今度アスパラのベーコン巻きの作り方、教えてもらえますか?」