Act.4
結局、レンから下宿の同居人についてレクチャーを受けられなかったあたしは、夕食の席で一階の1号室から3号室に住む住人、それから二階の五号室と六号室に住む人物の紹介を受けることになった(ちなみに四号室はなく、二階の七号室がわたしの居住空間となっている)。
「こちら、新しく七号室に住むことになった川上サクラさん。みなさん、仲良くしてくださいね」
寮母である笹谷ミドリさんは、まるで学校の先生が転校生でも紹介するような具合で、あたしのことをそう紹介した。
しかも、「引っ越し祝い」とかで、赤飯まで炊かれた日には……まるで初潮を迎えた中学生みたいに、なんだかあたしは気恥ずかしい感じがしていた。
ごはんのメニューは他に、しいたけとわかめのお吸い物にポテトサラダ、それに鶏肉の揚げ物といったところで、決して豪華というわけではない。それでもあたしは久しぶりに<家庭の味>といったものに触れることが出来て――なんだか昔懐かしいような、不思議な気持ちになっていた。
普段は大体、スーパーの惣菜物コーナーで一品か二品買って終わりなんていうことが、あまりにも多かったから。
「それで、こちらは1号室の斉藤久臣さん。印刷会社で夜勤の仕事をしてらっしゃるの。勤務時間は大体、夜の八時から翌朝の五時くらいまで……残業があると、帰りがもっと遅くなったりね。だから、出来れば昼間はなるべく静かにするようにしてほしいの。そして2号室に住んでいるのが……」
ミドリさんが斉藤さんの隣のレンを紹介しようとしたので、あたしが「もう知ってます」と言おうとしたところ、ベルビュー荘の一番の古株らしき、1号室の住人は席を立っていた。
「すみませんがミドリさん、私はもうこれで……」
お盆にのった赤飯とお吸い物、鶏肉とサラダといったメニューをそのまま持ち上げると、ブルーグレイの作業着を着た斉藤さんは、そそくさと自分の部屋へ戻っていった。
「じゃあ、僕も……」
席順から察するに、彼がおそらく3号室の住人なのだろうと思われる人物――大谷瑞希くんも、斉藤さんに続くようにトレイごと食事を持って自室へ篭もってしまった。
正直なところを言って、わたし的な判断による<普通の人>が、「わたし」という人間に対してとる態度としては、上々といったところだ。何故かはわからないけれど、昔からあたしはある種の人々に今のとまったく同じような態度を、一目見るなりとられてきた。
今は栗色をしているけれど、以前は金髪だったこともある髪や、膝上二十センチのホットパンツに臍だしルック、派手なピアスとやたらジャラジャラいうブレスレットやネックレスをしていれば、ある意味当然なのかもしれないけど……「彼ら」はわたしのことを第一印象で「将来ろくなものにならないアバズレ」といった烙印を押す。
もちろん斉藤さんやミズキくんがあたしのことを一目見るなり「しょうもないアバズレ」と思ったかどうかは定かではない。というより、彼らの態度のそれは相手が誰であれ人見知りするのだといったものであるように見受けられたので、あたしはさして気に留めもしなかった。
「ミズキくんはね、わたしが離婚した夫のほうの甥っ子なの。まだ十九歳なのよ。可愛いでしょ?」
「そうですね。なんだか、人生まだまだこれから、青春まっさかりみたいな……」
一応、場に合わせて社交辞令的にそんな言葉を口にしてみたものの、あたしがミドリさんの甥だというミズキくんに抱いた最初の印象は、(すごく暗そうな子……)というものだった。そして斉藤さんはどう見ても四十過ぎか五十過ぎの冴えないおっさんにしか見えず、(その年でいまだに下宿暮らしってどうなの?)と、自分のことは棚に上げて、あたしはそんなことを思っていた。
さらにもっと言わせてもらうなら、一番わからないのが寮母の笹谷ミドリさんだ。彼女は二階の5号室を自分の居住空間にしており、朝・昼・晩の三食の食事も彼女が作ってくれるのだという。ちなみに食費のほうは月二万という下宿代のほうに含まれているらしいが、もしそれを勘定に入れないとしたら、寮母の彼女には毎月五人の下宿人から約十万円ほどの収益があるということになろうか。
いや、それにしても、とわたしは思う。もしここがおもに学生を対象にした下宿屋だというのなら、半分以上ボランティア感覚で運営しているということで納得できなくもない。けれど、月にたったの十万ぽっちの収入しかないのに――ミドリさんがこの<ベルビュー荘>を運営しているメリットがどこにあるのか、あたしにはさっぱり理解できなかった。しかも、この寮母の笹谷ミドリさんという人は、いつもニコニコした気のいいおばさんといった感じの女性で、正直わたしは彼女の醸しだす<善良オーラ>のようなものが怖い気さえしていた……本当は、食べることと住む場所と働くところに困っていたのだから、こういうのを地獄で仏に会ったとでもいうべきなのだろうけれど。
「ええと、五号室にはわたしが住んでいて、そして六号室に住んでいるのが」と、わたしの内心の思惑にはまったく気づかず、ミドリさんはニコニコしながら続けている。「二階堂ほたるちゃん。可愛い名前でしょう?ほたるちゃんはね、女優を目指してオーディションを受けてるのよ。サクラちゃんも応援してあげてね」
「やだあ、ミドリさん。劇団のことは言わないでって、いつも言ってるのに」
……正直な人間であるわたしは、やはりここでも、内心思った本当のことを告白せずにはいられない。
確かにわたしはこれまで、女友達がろくにいた試しはない。でも、それは自分に嘘をつくのが下手だからだ。そういう意味で、
(この子が女優のオーディション?寝言は寝てから言えって言葉は、こんな瞬間のためにあるのかしら?)
とわたしが彼女の容姿を見て思ったとしても――それは仕方のないことだと、笑って許してほしいと思う。
「二階堂ほたるです。前まで七号室には、モデルをやっててミス・ユニバースの最終選考にまで残った人が住んでたんですよ。七号室はやっぱり、綺麗な人が住む運命にあるのかもしれないですね」
もし他の場所で会ったとしたら、(どこの芋娘だろう)と無視するタイプの女と、あたしは愛想笑いを浮かべながら握手をした。心にもなく「よろしくね」などという言葉を口にしながら。
「奈々美さんは、容姿だけじゃなく心も綺麗だったからな。サクラとは違うよ。この人は口も悪ければ性格も悪いっていう人だから」
「相変わらず失礼な奴ね!!」
あたしはテーブルクロスの下の、レンの足を思いきり蹴ってやった。「いってーな」と言いながらも、大して応えてない様子で、レンは赤飯をもぐもぐと食べ続けている。
そのあと、食事の間中、レンはあたしのことを無視する形で、ミドリさんやほたるさんを相手にTVを見ながら世間話をしていた……会話の格好としては、レンが徹底的にあたしを無視しているので、気を遣ったほたるやミドリさんがあたしにも会話のネタを時々振るといったような感じだ。
今日は引越し初日だから、大人しく食堂のテーブルに着いていたけれど――次からはわたしも、斉藤さんやミズキくんと同じく、お盆を手にして自分の部屋へ引きこもって食事をしようかと思っていた。ミドリさんの話によれば、食堂での食事は特別強制ではないということだったから。
あたしは「お先にどうぞ」と勧められるがまま、食事のあとお風呂へ入り、軽く挨拶をして二階の自分の部屋である七号室へ向かった。当然のことながらバスルームは一階にあるので、レンがミドリさんやほたるさんと仲良く話をしながら、食事の後片付けをしているらしい様子や、3号室からまったく物音や人の気配がしないのも確認していた……1号室の斉藤さんはすでに出勤しているので、そこから人の気配がしないのは当然にしても――(あの暗そうなミズキくんとかいう男の子は、普段一体部屋で何をしているのかしらね)と、あたしは不思議に思った。
「レンくんがいつも色々手伝ってくれるから、助かるわあ」
「そうそう。女のあたしなんかより、ずっと料理もお上手ですもん。結婚したら、女の人はすごく助かりそうですよねえ」
「べつに、普通じゃない?まあ、俺はイタリア料理店で皿洗いしたりとか、喫茶店でラザニア作ったりパフェ作ったり、そういうバイトしてたから、そのせいかもしれないけど」
(やれやれ。あんな中年のおばさんと軽くブスめの女にちやほやされて、あいつも何が楽しいのやら)
自分のことは棚に上げて、あたしはこの下宿はようするに負け犬の巣窟なのではないかと思いはじめていた。わたしが今いる部屋には以前、モデルの綺麗な女の子が住んでいたというけれど――その女性ですら、ミスユニバースの最終選考どまりだったのだ。そしてこの部屋から出ていったということは、夢を追うのを諦めて郷里へ帰ったか何かしたということなのだろう。
(こんな縁起の悪い下宿、ある程度お金がたまったら、速攻でていくに限るわ)
それでも、最初に思っていたよりは、下宿といえどもそれほど居心地の悪い場所ではない……あたしはそうも思っていた。
もっとプライヴァシーがなくて、性格のそりが合わない隣人ともうまくつきあっていかなくてはいけない――そんなふうに想像していたから。
でも、一階には昼間は夜勤に備えてほとんど寝ている人間と、ちょっとシニカルな性格のイケメン、いるのかいないのかよくわからない浪人生と、二階には人の良さそうな寮母さん、容姿は軽く不細工目でも、性格は良さげなひとつ年下の女の子が住んでいて、人間関係的にはなんとかやっていけそうな、そんな雰囲気だった。
確かに、<ベルビュー荘>は見ため相当オンボロなひどい建物だけれど、7.5畳ほどのワンルームには綺麗な絨毯が敷いてあって家具・ベッド付だし、それらは使用感はあってもとても清潔そうで、全体として好感の持てる室内だったといえる。
(もし、賃貸情報誌の片隅に、このベルビュー荘のことが載っていなかったとしたら)と、あたしはお日さまの匂いのするふかふかのベッドの中で思った。(今ごろあたし、どうしてたかしらね?明日、派遣会社からの振込みがちょろっとあるにしても、現在財布の中には千とんで十三円しか所持金がない。そのせいでバスにも乗れず、あの長い上り坂をえっちらおっちら苦労して上ってくるハメになったけど……ほんと、食事付の下宿、月二万円っていうあの広告がなかったら、今ごろマジであたしホームレスだわ……)
そしてあたしが、高架線下か公園脇あたりで「レイプされたらどうしよう」などと怯えつつ、体を惨めに縮こまらせている己の姿を脳裏に思い浮かべていると――ぶうん、と何か耳慣れない羽音が顔の真ん前を通り過ぎていくような気配があった。こ、これはもしや、ここ数年お目にかかっていない、あの……。
「ぎゃあああああーーーーーッっ!!!」
エクスクラメーションマーク×∞!!!!!というのは、まさにこのことだった。
そしてこの、絹を裂くよな……もとい、耳をつんざくような叫び声は、階下にもよく響いたらしい。
すぐにドタバタと階段を上ってくる足音が聞こえ、ノックをするでも許可を待つでもなく、即座にバタン!と部屋のドアが開けられた。パチン、という音とともに、照明がつく。
「フハハハハハハハッ!!これでも食らえっ!!」
<ゴキブリ殺し>(コックローチ・キラー)と書かれた、何やら外来品らしいスプレーを、レンがゴキブリめがけて噴出する。
だが、敵もさるもの……そう簡単に殺虫剤の餌食にはならなかった。ミドリさんとほたるは部屋の入口のところで、突如マッドサイエンティストと化したかのような男のことを、口元を塞ぎながらじっと見守っている。
「ちょっとレン、その殺虫剤……ゴホッごほっ!!」
(人体に影響ないんでしょうね!?)というあたしの言葉は、口から出てこなかった。
にも関わらず、レンはあたしが何を言わんとしているのかよく理解していたらしい。
「人間が吸い込んでも本当に大丈夫なのかって言うんだろ!?奈々美さんの話じゃあ、英語で「※人体に有害な物質を含みます」って書いてあるってことだったがな!!」
「ちょっと、それを早く言いなさいよっ!!」
あたしはベッドからすかさず下りると、部屋の入口、ミドリさんとほたるのいる場所まで避難することにした。
けれど……。
「ぎゃあああああっ!!やめてええーっッ!!」
まるで狙った獲物は逃がさねえ、とでもいうように(そんな高度な知能がゴキブリ如きに備わっているはずはないのだが)、四匹いたゴキブリのうちの一匹が、あたしの後ろをすかさず追いかけてきた。
「サクラちゃん、こっちよ。わたしの後ろに隠れて!!」
箒を手にしているミドリさんとほたるが、互いに一致団結するように頷きあい、極めて原始的な方法で害虫を駆除すべく取り掛かる……結局この夜、出没したゴキブリのうち三匹をレンが殺虫スプレーで仕留め、残る一匹をミドリさんとほたるがドッタンバッタンみしみしと廊下に箒を振り回しながら、とどめの一撃を刺したのだった。
「ふう~っ。一仕事したわね」
気の狂った鬼婆のように箒を振り回していたミドリさんが、ほっと溜息を着いて言う。
「ほたるちゃんも御苦労さま。下へいってゆっくり、お茶でも飲んで休みましょうか……よかったら、サクラちゃんも一緒にどう?」
「は、はい……」
すっかり度肝を抜かれ、廊下の片隅にぺたりと座りこんでいたあたしは、レンに助けてもらってようやくのことで体を起こした。
「今時、『ウォーリーを探せ!!』のパジャマを着てるって、どうなんだよ?」
「知らないわよっ!!商店街で割引千円で売ってたっていうそれだけよ。それより、今度からは勝手に人の部屋へ入ってこないでよねっ。今みたいな緊急事態の時以外はっ」
「ほーう。あんたもしかして、俺がゴキブリにかこつけて、寝込みを襲うとでも思ってんのか?」
「違うわよっ。あたしは人のプライヴァシーをもっと尊重しろって話をあんたに……」
階段を下りていくと、一番下の親柱のところに、何故かミズキくんが立っていた。どこか気遣わしげな様子で、居間の入口にあるのれんの前をうろうろしている。
「よう、ミズキ。夜食でも食いに食堂へきたのか?」
「ち、違います」と、一瞬びくっとしたように振り返って、ミズキくんは黒縁の眼鏡を持ち上げている。「なんだか上のほうが騒がしかったから、どうしたのかなと思って……前に下着泥棒がでたことがあったでしょう?なんか僕、あの時奈々美さんに疑われていたような気が……」
「気のせいっていうか、おまえの被害妄想だって」藍染めののれんをくぐりながら、レンはなんでもないことのように言った。「第一、あの時の犯人はすぐ捕まっただろ?テレビでニュースにもなったもんな。『三年で四百五十枚もの下着を盗んだ泥棒、捕まる』だったっけ?」
「それは、確かにそうですが……」
ミズキくんはレンが「一緒に来いよ」というように食堂を指さしても、首を振ってとぼとぼと自分の部屋へ戻っていった。
正直なところを言って、なんだかよくわかんない子だ。
「ま、あいつの引きこもりはそう重症ってほどでもないんだよな。人が困っていたりしたら、助けようって思うくらいの気持ちはきちんとあるんだからさ」
「へえ……」
(引きこもりの浪人生ねえ)と思いつつ、あたしは勝手にいらぬことを色々想像した。
離婚した夫の側の甥を下宿に引きとって面倒見てるっていうことは、そもそも元の家のほうにいづらい環境があるっていうことなんだろう。そういうことなら、あたしにもわからないではない。あたしだって、特にこれといった理由もなく実家に「いづらい」ものを感じて、ボーイフレンドの部屋に寝泊りしていたのだ。
ただ、あたしみたいに<外向的>になれない子は、内に引きこもる結果になるという、たぶんそういうことなんだと思う。
そのあと、あたしはミドリさんやほたる、レンと一緒にお茶やお菓子を食べながら、何気ない世間話をして一時間ほど過ごした。下宿には特に消灯時間のようなものはないけれど、大体十一時半頃までにはおのおの自分の部屋へ戻るという暗黙のルールみたいなものがあるらしい。
もっともこの時、時刻はまだ十時半くらいだったけれど、今度はレンがあたしのことを故意に無視しなかったために、それなりに会話が弾んだ。というか、レンがわたしのパジャマのウォーリーを探すことに夢中だったがために――余計な茶々を入れられなかった分会話が弾んだ、といったほうが正しかったかもしれない。