Act.3
この日の夜、何故かわたしの頭の中では弟の言った言葉がぐるぐると渦を巻くように何度も思いだされて――なかなか寝つけなかった。
隣には自分がずっと落としたいと思っていた男が、寝息を立てて眠っている。ミズシマさんは日系ブラジル人とフランス人のハーフだとかで、どこか日本人離れした整った顔と体躯の持ち主だった。そんな彼は店の女たちがいくら色目を使っても顔色ひとつ変えることはなく……かなりあからさまなボディタッチをされてさえ、尻の軽い女の誘いに乗ることは決してなかったのだ。
わたしはいつでも、次のうち二種類の恋愛しかしたことがない。つまり、表面上はどう見えるにしても、主導権を握って相手に物や心や時間を貢がせるタイプの恋、あるいは自分が一方的に相手に貢ぎまくってのぼせ上がるという恋愛のいずれかだった。
ミズシマさんとの恋は、もしこのままつきあい続けたとしたら、後者に属するものになるだろうと、あたしにはよくわかっていた。何故なら、わたしが結婚したいと思うタイプの男は大抵、わたしのことを結婚対象とは見なしてくれないからだ。
もちろん、大人の女としていわゆる「一晩のあやまち」として片付けることは出来たけれど……結局ミズシマさんも、弟のアキラと同じく、結婚するならテニスコートでパンチラしてるような女子がいいのだろうなと、あたしはこの夜、ミズシマさんの部屋で煙草を吸いながら思っていた。
彼と寝たいと思っている、店の他の女たち――サヤカやカオルのことを出し抜いてやったというのに、全然素直に喜べない。
そしてあたしは、きっぱりキャバ嬢をやめ、弟アキラが言うところの「底辺社会で這いつくばるように頑張る」ことをやめることにしようと心に決めたわけだ。
とはいえ、数箇所登録していた派遣会社を次々クビになるに至って、わたしにはどうも社会適応能力といったものが欠如しているらしいとあらためて考えざるを得なかった。
「じゅげむ、じゅげむ、五劫のすりきれ、食う寝るところに住むところ……」
あたしはブツブツと何かの呪文かお経でも唱えるようにそう呟きつつ、最終的に唯一の自分の手持ち品となったキャリーバッグをゴロゴロ引きずり、丘の上にある<ベルビュー荘>という下宿を目指していた。
いつもブランド物を売りにいく中古品屋の目利きの親父と死闘を演じた揚げ句、今あたしの手元にはこれまで買いあさったシャネルのバッグもスーツもプラダやグッチの靴やアクセサリー類も綺麗さっぱり何もなかった。
(人間、身軽になろうと思えば、手荷物がこんなにコンパクトになるとはね)
あたしはぜえぜえと息を継ぎながら熱い六月の夏の午後、汗だくになってその坂道を上っていった。ミーンミーンだのシャワシャワだのと、セミの鳴く声がやたらうるさい。よもや、社会の底辺から這いのぼろうとして、さらにその下の世界へ転げ落ちようとは……世界広しといえども、そんなのはあたしくらいのものだろうと、自嘲の笑みが自然と浮かぶ。
もちろん、「こうなったのはそもそもあんたのせいよっ!」と有無を言わせぬ勢いで弟を怒鳴りつけ、彼の部屋へ居候させてもらうという手もあるにはある。けれど、わたしは変なところで負けず嫌いだった。次にもしアキラがわたしに会いにきた時には――絶対に、「姉ちゃんには叶わないや」と奴が思うくらいの暮らしをしていなくては、気が済まなかった。
「もしかしてあんた、川上サクラさん?」
急な坂道の両側に生える樹木が、ちょうどよく陰を作っているその下に、男の影が溶けていた。ずっと下ばかり見つめていたから、首さえ上げるのも億劫だったけれど、名前を呼ばれちゃ仕方ねえとばかり、あたしは額の汗をぬぐって目の前にいるらしき人物をまっすぐ見つめた。
(あ、ちょっといい男じゃん。少し好みかも……)
そう思うまもなく、どう見ても年下そうに見える彼は、ひょいと白いガードレールから身軽な猿のように腰をおろしていた。
「寮母さんがさ、キツイ坂道を上ってくるんじゃ大変だろうから、暇なら迎えにいけっていうから来たんだ。まあ、期待はしてなかったけど、まさかここまでとはね」
――はあ?
その時のあたしはたぶん、全身汗まみれで疲れきってもいたから、相当間の抜けた顔をしていたと思う。
いつものように言い返す気力さえなく、あたしはただ(しっっつれいな奴!!)と思い、目の前の弟くらいの年の青年をじっと睨んでいた。
「おっかねー。あんたさ、もう二十八にもなるんだろ?それなのに住むところもなくて下宿暮らしって、ちょっとどうかと自分でも思わない?」
「うるさいわねっ。人にはそれぞれ、色々な事情ってもんがあるのよっ」
「まあ、そりゃそうだ」
まだ名前もわからない青年は、頭の後ろで両手を組むと、あたしの隣に並んで歩きだした。
どうやら、キャリーバッグをかわりに持ってくれるような、紳士的気遣いとは無縁の人物らしい……それとも、もしあたしが彼の期待どおりの可愛い女の子だったとしたら、そうしてくれたということなんだろうか?
「一応さ、いきなりうちに来たんじゃびっくりすると思ったから、歩きがてら先にレクチャーしておこうかと思ってさ」
リアルなどくろの描かれたTシャツに穴のあいたジーンズ、すりきれたスニーカーといった格好の青年は、息の切れているあたしに構うことなく、リードするように先を歩いていく。
「まず、一号室に住んでるのが……」
「その前にあんた、自己紹介くらいしたらどう?第一、名前はともかくとして、なんであんたがあたしの年まで知ってんのよ。下宿のことをうちって呼んだってことは、あんた寮母さんの息子か何かなわけ?」
「だとしたら、良かったんだけどね」
彼が何故溜息を着いたのかは、この時のあたしにはまだわからないことだった。それで、息が切れて言葉を継ぐのが億劫だったせいもあり、彼が次の言葉を発するのをただ待つことになる。
「あんたもわかってるだろうけど、下宿ってのは普通のアパートなんかと違ってかなりのところプライヴァシーってもんがあけすけになる。ただそのかわり、三食ついて一月の家賃がたったの二万円……こんなところで面倒を見てもらおうなんていうのはさ、貧乏学生か何かの事情を抱えた人間のどっちかだって見当がつくだろ。あんたも含めてさ」
「まあ、そりゃそうよね」と、あたしは肩を竦めて答えた。セミの鳴き声が相変わらずうるさい。
「で、順にあんたの質問に答えていったとすると――俺の名前は水嶋蓮。寮母の笹谷ミドリさんとは、血の繋がりも何もないよ。おんぼろ下宿のベルビュー荘には、二十二の時から四年住んでる。よくあるだろ?大学を卒業と同時に親の仕送りが止まって、でもこっちは相変わらずバイトで食い繋いでいて……みたいな話がさ。俺もその口」
「ふうん。あっそ」
(なんだ、ただの甘やかされたような、普通のお坊ちゃんじゃないの)
それと同時に、あたしの返答が素っ気なかったのには、もうひとつ理由がある。ミズシマ――その苗字を聞いてあたしが思いだすのは、俳優の水嶋ヒロか一度だけ寝た関係の水嶋昂のふたりだけだ。スバルとレン……どう考えても彼らふたりが遠い親戚であるとか、そうした可能性はなさそうだけれど、わたしは自分が店を去る時、彼が意外にも傷ついた顔をしたのを思いだし、なんとなく胸が痛くなった。
「あんたさ、もしかしてその『ふうん、あっそ』って言うのが口癖な人?もしそうだとしたら、その癖は直したほうがいいな。自分からつまんない人生を呼び寄せてるようなもんだからさ」
「年下のくせに、さっきから随分生意気言うのね。あんたアレでしょう?バイト先ですごく生意気な口か屁理屈ばっかりこねるもんだから、ある日突然上司にクビにされたりするんじゃない?で、どこの職場でも長続きしなくて、いつまでも学生気分で下宿生活してるっていう、そういうタイプなんじゃないの?」
「ふん。なんとでも言えよ」
何も知らないくせに、というような、どこかひねた眼差しであたしを見返しながら、レンは坂道を先にずんずん進んでいった。
それ以上彼が何も言い返さなかったのは、それが図星だったからなのかどうか、あたしにはわからない。
ただ、レンがデューク更家のデュークズウォークをしながら余裕綽々と坂道を上っていく姿を見て――「ちょっと待ちなさいよぉっ!!」と叫びながら彼の後を追っていったという、それだけだった。