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Act.2

 人間、二十八歳ともなると、どんな馬鹿でも先々のことがそれなりに不安になるものだ。

 もちろん、「自分は今二十八歳で、将来になんの不安も感じていませんが、何か?」という人もいるには違いない。

 けれど、わたしは二十八歳の時、あるひとつの決意をした。三十を過ぎて、年齢を気にしながらキャバ嬢として働き続けるより――もっと地に足のついた生活がしたいと、初めて思うようになったのだ。

 キャバ嬢として五年も働いたのなら、それなりに貯金もあるのだろう……普通の人はそんなふうに想像するかもしれない。

 だが、月々のお給料の大半がブランド物の服やバッグや靴に変わるというわたしの性癖は相変わらずだったので、それほど大した額の貯金があるわけではまったくなかった。加えて、わたしにはもともと将来というものに対する計画性といったものがまるでない。

 この時も正直、(やめたらやめたで、なんとかなるだろう)としか思っていなかった。けれども、世間はそんなに甘いものではなく、「キャバ嬢」という職業をひとつのスキルとして認めてくれるような、懐の深い面接官などは、ほとんどいなかったといっていい。

 結局わたしは派遣社員として二千円のポロシャツが半額の千円で売られているといったような、デパートの洋服売場で働くことになった。しかもここでさえ、「勤務態度が悪い」ということで、二ヶ月でクビになるという始末……パトロンになっていた男が提供してくれた部屋も、別れることが決まると同時に没収。

 こうしてわたし、川上サクラは、新しいアパートと職業を同時に探すはめになったというわけだ。



 実をいうとわたしがキャバ嬢をやめたのには、弟アキラの存在が大きい。

 よく出来た弟に、不出来な姉……世間ではよくある構図だけれど、十八で完全に家を出て以来、弟と会ったのはほんの数回だけだった。四つ年の離れたアキラはその時二十四歳で、大学卒業後に就職した一流企業(時々TVでコマーシャルを見かけるくらいの、名前を聞けば誰もが知っている企業)で働きはじめ、二年目になろうかという頃だった。

「一体、どうしたのよ、あんた」

 アナスイの紫色のスリップドレスを着たあたしは、「柊由美さんをお願いします」と指名してきた客が実の弟であると気づくなり、正直少しがっかりした。弟はジュノンボーイになれそうなくらいの童顔で可愛らしい顔立ちをしており、そんな顔ではにかんだように微笑まれると、大抵の女性は陥落するだろうと思われるような容姿の持ち主である。そんな男のすらりと背の高いビジネススーツの後ろ姿を見て――(もしかしてイケメンだったりして!)と期待したわたしの心は見事裏切られる結果となった。

「ふう~ん。姉ちゃんってこういうところで働いてんだ」

 きょろきょろと周囲を見回し、薄暗いアンティークな照明の間に飾られた、モネの睡蓮やゴッホのひまわり、ルノワールの浴女といった絵に目を留め、彼はベルベットのソファを何気なく撫ぜていた。わたしが弟の顔の表情を見ていて思うに――わたしはアキラがおそらくは、もっと場末のひどい酒場といった場所を想像して、実の姉を訪ねてきたのではあるまいかと感じていた。

「悪くない店だね。ここまで案内してくれた人も、心の中で札束を数えているようなポン引きって感じの男じゃなかったし」

「ぽん引きってあんたねえ……」あたしはウィスキーの水割りを作りながら、呆れたように言った。もちろん弟のためにではなく、自分が飲むためだ。「その死語の意味、ちゃんとわかって言ってる?ミズシマさんは案内係っていうよりは用心棒として働いてるっていう人なの。ちなみにオーナーはあっち」

 スワロフスキークリスタルのシャンデリアの下、店の常連客と話しこんでいる今時リーゼントの中年男を、あたしは指差した。

「なんだか、シャネルズのヴォーカルに似た雰囲気の人だね。いや、横浜銀蝿かな」

「あんたの年で横浜銀蝿がわかるってどうなの?まあ、それはいいとして、あたしになんか用?」

 下戸というほどではないけれど、酒があまり飲めない弟のことを、あたしは脚を組んで馬鹿にしたように振り返った。

「酒の入った男の前で、そんな際どいポーズを日常的にとってるって知ったら、父さんがどんなに嘆くか……なんていう話をしにきたんじゃないけど、ちょっと仕事で色々あって、憂さ晴らしにきたっていうそれだけなんだ。会社のつきあい以外でこういうところに来たことって一度もないし、これからも来たいとは全然思わないから」

「ふうん、あっそ」

 オーダーがなかなか出ないので、カウンターの向こうのバーテンダーが少し不思議そうに首を傾げていると、ミズシマさんが「おとうと」という単語を彼に耳打ちしているのが見えた。するとバーテンダーのヒロユキは、あたしに弟がいるだなんて、天地がひっくり返ってもありえないといったように驚いた顔をしている。

(あたしにだって弟や、生んでくれた親くらいいるわよ)

 心の中でそう思いながら、あたしはウィスキーをがぶ飲みした。これは全部、弟のおごりになるとわかっている。

「俺のまわりには、姉さんみたいにウィスキーやブランデーを普通に飲むようなタイプの子って、ひとりもいないんだよな……なんでだろ」

「なんでって、決まってるでしょ。あんたがそこそこいい大学を卒業していて、テニスコートでパンチラしてるような清純な子としかつきあわないっていう偏見レンズの眼鏡を通してしか、周囲を見てないからよ」

「俺、姉さんのそういう皮肉っぽいところ、すごく好きだよ」アキラは人好きのする笑みを浮かべながら言った。でも今日は、その笑顔にどこか陰りや憂いといったものが混ざって見えるのは――店の薄暗い照明のせいばかりではなかったらしい。「俺が父さんのコネですごくいい会社に就職したっていうのは、姉ちゃんも知ってるだろ?この就職難って言われる時代にさ、普通に考えたらすごくラッキーなんだって俺自身わかってるつもりだけど……毎日ペコペコ周囲に頭下げて働くことに、少し疑問を感じるっていうかさ。いや、一応表面上は営業成績も人間関係もうまくいってるんだけど、その下には<本当の俺>っていう奴が隠れてるんだよな。で、その<本当の俺>ってのは、物凄くストレスを抱えこんだ上、本当は仏頂面してて、上司の寒いギャグに対してピクリとも笑いたいとは思ってないのに――一生懸命空笑いしたり、飲みたくない酒を勧められるがまま飲んで騒ぐ振りをしてたり……疲れるんだよな、ほんと。もしこれが社会人とか、一人前の大人になるっていうことなら、俺だって家に引きこもってニートにでもなりたいって思うよ」

「くだらない悩みね。あんたの悩みがもし本当にそれだけなら、べつにあたしのアドバイスなんていらないんじゃない?あんたは自分の愚痴をきちんと聴いて吸収してくれる誰かさえいたら、次の日にはまた会社へ行ける気力も体力もあるってタイプよ。次にもしあたしに会いにくるんなら、もうちょっとましな相談事ってものを持ってくるのね」

 正直、通りいっぺんの男の愚痴なら、耳にタコが出来るくらい聞き飽きている。そうした客の中にはスケベなハゲ親父やデブ男なんかがいっぱいいて、自分は自分の労力に見合ったものを社会や人生から見返りとしてもらっていないといったような愚痴をこぼす。

 だからせめて金を払って少しばかりいい思いがしたい……そんな甘えるぼくちゃんの気持ち、わかってくれましゅか?といったような具合で、胸の谷間をじろじろ見たり、色魔のように太腿にタッチしてくるというわけだ。

「そうだね。なんか姉ちゃんに会ったらさ、自分の悩みごとがやけに小さく感じられるようになったよ。あっちのテーブルにいる人」と、奥のテーブルにいるガラの悪い一団を、アキラは目線で示す。「はっきり言って、ヤクザだろ?あんな連中に酒を振るまったり媚を売ったりすることに比べたら、会社の接待の場で芸をすることくらい、大したことないように思えてきたな。うん、俺姉ちゃんの言うとおり、明日からまた頑張ることにするよ。じゃあ、今日は本当にどうもありがとう」

 弟がこの時何故そそくさと席を立ったのか、あたしにはわかるような気がしていた。アキラの言ったヤクザ連中のひとりが、しきりにこちらへガンを飛ばしていたからだ。それもそのはずというか、実はわたしは彼らに結構気に入られており、一晩どうだ?という誘いを前から何度も受けていた。

 地下にある店から地上に出、そこに並んでいたタクシーに乗りこむ間際、弟は最後にこんな捨てゼリフをわたしに吐いてから帰っていった。

「姉ちゃんみたいに社会の底辺で這いつくばるように頑張ってる人が、世の中にはたくさんいるってことだよな。うん、俺、本当は会社辞めようかどうしようかって悩んでたんだけど、明日からまた頑張ってみるよ」

「……………っ!!」

 ――絶句するというのは、まさにこういうことを言うのだろう。

 わたしは普段から皮肉な言葉による切り返しといったものを得意としていたけれど、流石にこの時ばかりは喉の奥から言葉が出てこなかった。一応、客の見送りといった態で用心棒のミズシマさんも一緒に来てくれたのだが、普段滅多に笑うことのない彼が、この時ばかりは大笑いしていたくらいだ。

「育ちがいいっていうのは、ああいうのを言うんだろうな。俺、あんたが言い返せない相手を初めて見たぜ。流石はあんたの身内ってところか?」

「うるさいわねっ。本当はなんか一言いってやろうと思ったんだけど、それと同時にタクシーのドアが閉まっちゃったっていう、それだけのことよっ」

 わかった、わかったとミズシマさんは言い、あたしの肩を抱いて、再び弟のいう社会の底辺世界へと一緒に戻っていった。




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