Act.19
駅の構内でも、あたりにレンらしき人物の姿がないかどうかと、あたしは挙動不審者のように探しまわっていた。
電車に乗ってからも、どこかの車両にレンがいないかと一両一両探してもみた。
でも、収穫はゼロ。
あたしは暗い夜道をぱらぱらと微かに粉雪の舞う中、例の坂道を一歩一歩のぼっていった。
馬鹿みたいな話、コートも着ずに外へ飛びだしたので、厚手のスーツを着ているとはいえかなり寒い。
(レンの馬鹿……)
今、あたしが舞台を見た感想を一番聞きたい相手は、他でもないレンただひとりきりだった。
彼がもし「くだらない子供だましの、高校生のような演劇ごっこ」とでも言うなら、他の人たちが仮にいくら褒めてくれても、それはあたしにとって意味のない賞賛だった。でもレンがもし、「すごく良かった」とか「感動した」って一言いってくれさえしたら――他の観客が全員親指を下に向けても、あたしは明日からも生きていけるだろう。
(レン、あんたって奴はどうしていつもそうなのよっ。あんたなんか、デューク・サイトウにも劣る、究極のカッコつけ虫よ!せっかくあんたがあんなに憧れてた小山内氏だって来てるのに……ちょっとくらい挨拶したって罰は当たんないでしょうがっ!)
そうなのだ。舞台が終わったあと、<ピヨッと鶏まる!>では、かつてのベルビュー荘の住人たちによる同窓会が開かれることになっている。あたしはその場所であらためて『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』は、あたしやほたるやミズキくんが、<ベルビュー新聞>を読んだり久臣さんやミドリさんから話を聞き、勝手に想像力を膨らませて書いた舞台だということを、まずは頭を下げてあやまるつもりでいたのだ。
それと同時に、小山内氏がどんな人なのかも直接お近づきになって知りたいと思ったし、潤子さんからはきっと、本場の舞台を数えきれないほど見ている人特有の、辛口の意見を聞けるだろうと期待していた。
でもそうした貴重な時間を全部ぶち壊して、あたしは今、会えるかどうかわからない男の後を探しまわっている。
(まあ、もしベルビュー荘に戻って、暫く待ってもあいつの来る気配がまるでないとしたら……あたしはベルビュー荘と<ふたり>だけで、今日あった舞台の話なんかをすることになるわね)
あたしがそれも悪くないかなと思い、坂の途中、例の小人の灰皿のある休憩所を見上げた時、すっかり葉を落とした樹々をすかして、見覚えのある男の姿が目に入ってきた。それは他でもない、レンが煙草を吸っている横顔だった。
「……レンっ!!ちょっとあんたねっ!!」
でも、あたしの怒りの言葉は、それ以上長く続かなかった。
何故といって、いくら街頭の光が仄白い光を投げかけているからといって――レンの真っ黒く日焼けした日雇い労働者のような顔を、病的に見せることは不可能だったからだ。
「なんだ、あんた。初舞台で大成功を収めた監督さんが、なんでこんなところにいる?」
「そんなの、決まってんでしょーが!!他でもないあんたのせいよ、あんたの!!」
「俺の……?」
まったく心外だ、というようにレンはいつもどおりの落ち着き払った様子を変える気配がまるでない。
あたしはスーツのポケットからセブンスターを取りだすと、レンの奴に突きつけてやることにした。
「これ、あんたのでしょ?」
「ああ、たぶんそうだな。これ、どこにあった?気づいたらなくなってたから、駅の自販でまた買うはめになったよ」
ふーっと諦めと脱力の溜息を着くと、あたしは寒いことなんかすっかり忘れて、レンの隣に座った。
「まったくもう。向こうじゃ煙草なんて吸えないんでしょ?だから、日本でまとめて吸っておこうとでも思ったわけ?」
「まさか」と、灰皿に灰を落としながらレンが笑った。「つーかあんた、アフガニスタンを馬鹿にしてるだろ?アラブ世界でだって煙草くらい買えるさ。といっても確かに、向こうじゃ俺は一度も煙草なんか吸わなかったけどな」
「ふう~ん。で、どう?文明社会へ戻ってきた今の御感想は?」
どうして舞台に来るなら来るで連絡をくれなかったのかとか、携帯くらい自分専用のを持ち歩けだとか、今時レトロに公衆電話に十円玉入れてるのなんかあんたくらいのものだとか――レンに対して言ってやりたいことはたくさんある。
でも今はただ、彼がわたしの舞台を見にきてくれたというそれだけで、十二分すぎるくらい十分だった。
「そうだな。あんた、『肉工場』を読み終えたあと、久臣さんの他の小説も読んだんだろ?その中に『砂漠のカタストロフ』っていう話があるんだけど、読んだか?」
「ああ、あれでしょ。<すべてがある場所には時に何もなく、何もない砂漠のような場所にこそ、すべてが存在する>だっけ?ようするに、あんたが言いたいのは、そういうこと?」
実をいうとわたしは、あれから久臣さんの書いた小説ばかりでなく、彼の薦めで「物を書く人間が必要最低限読んでおくべき」と思われる本のいくつかを、少しずつ読みはじめるようになっていた。なので当然、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』に名前の登場する本、『嵐ヶ丘』なども読んでいたというわけだ。
正直いってこれは、昔のあたしからはまったく考えられないある種の進歩だと思う。うん。
「アフガンでも、首都のカブールとかさ、以前では考えられないくらい発展してきてるよ。でも、金さえ出せば自由に物を買えるってことがイコール豊かさとは限らないと思う。うちのNGOが孤児院を作った場所は、もっとずっと辺鄙なところだけど、今彼らが持ってる「何もない豊かさ」を失わずに、医療なんかのインフラが整備されて、本当の意味で発展してほしいって思うよ。アメリカとか日本とか、「すべてがある貧しさ」っていうちょうどいい見本がすでに存在してるわけだから」
「ふう~ん。あんたがこのあたしにそんな話をしてくれちゃうだなんて、ちょっと感動的だわね」
「どういう意味だよ?」
あたしは横にいる精悍に引き締まった感つきをした男のことを、あらためてじっと見返した。
「だって、あんたが最初にあたしに会った頃って、「こんな頭カラッポの馬鹿女に何話しても無駄」っていう感じだったじゃない?そういう意味で、レンがまともに話をしてもいいってくらい、自分もちょっと変わったのかなって思ったら、そりゃ感動もするわよ」
「まあ、確かにな」
レンが煙草を一本くれたので、あたしは彼の安物のライターで火をつけた。
「『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』は、すごくいい舞台だったと思うよ。あれを見る限り、サクラは確かに、最初にベルビュー荘へきた頃とは全然違う人間になったんじゃないか?あんたも今、人生が充実しててすごく楽しいだろ」
「うん」と、あたしは素直に頷いた。「レンが最初にあたしのことをビッチな駄目人間だって見抜いたとおり――確かにあたしは間違いなくそういう人間だったのよ。レンはあとから、誤解してて悪かったみたいにあやまってくれたけど……誤解なんかじゃないわ。あたしは確かにそういう人間だった。たとえば、ちょうどいい例がホノルルマラソンよ」
「ホノルルマラソン?」
「えっと、あたしもよくはわかってないけど、確かあれって42.195キロだか走るんでしょ?前までのあたしだったら、こう思ったままだったと思う。日ごろから訓練・忍耐してそんな長い距離を走るなんて馬鹿みたい、そんなことして一体なんになるの?ただの自己満足、あるいは自分の健康のため、それとも「よくやった、自分!!」って自画自賛したいとか?って考えるような、本当に救いようのない奴だったわけよ。久臣さんから借りたニーチェの本に書いてあったけど――「末人は、ノミのように根絶しがたい人種である」だっけ?まさしくあたしはその、ノミみたいな人間だったわけ。自分じゃろくに体も動かさないのに、体を動かさないことの理屈だけは百も千も思いつくってタイプ。
今は、なんでレンが引きこもりだったミズキくんより、あたしのほうがしょうがない人間だって言ったか、よくわかるわよ。でもノミだって進化すれば、ラクダくらいにはなれるのよ」
「まあ、俺だってニーチェのいう超人になんか、なろうとは思わないけどな」と、レンは少しだけ笑った。「なんにしてもあんたは、農薬ぶっかけられて死ぬ前に、なんとか助かってよかったんじゃないか?あんたの名前のサクラっていうのは、漢字で花の桜って書くんじゃないけど――それでもちょっと象徴的な感じのする名前だよ。あんたはもともと、いい花を咲かせる素質だけはあったのに、たぶん自分で自分を駄目にしてたんだろ。そういうのは、他人が横からどうこう言って直るタイプのものじゃないから、あんたも俺同様ベルビュー荘に感謝するんだな。他でもないベルビュー荘自身がサクラに夢をくれて、真っ直ぐに立って花を咲かせる方法を教えてくれたんだから」
「うん、そうね。なんかちょっと説教くさくてムカつくけど、確かにレンの言うとおりかも。あたし、もしレンがここにいなかったら、ひとりでベルビュー荘へ戻って、お酒でも飲みながら「ありがとう」って言おうかなって思ってたの」
「そっか。それも悪くないな……じゃあ、あんたと俺とベルビュー荘の三人で、舞台成功の報告がてら、酒盛りでもするか?」
「本当に!?」
あたしは嬉しさのあまり、両方の瞳を目いっぱい見開いて、たぶんすごく輝かせていたんだと思う。
一応念のために言っておくと、こういうのって計算して出来るっていうタイプの顔の表情じゃない。だから暫くの間、ただ驚いたようにレンがじっとあたしの顔を見つめるのを見て――今度はむしろあたしのほうが、驚いていた。
「……サクラは、本当に変わったんだな。それも、いい方向にさ」
そう言ってレンは、着ていた(あたし的な基準としてはダサい)ダッフルコートを脱ぐと、あたしの肩にかけてくれた。
それからお互いにふざけあいながら、坂道を一緒にのぼって、息を切らせながらベルビュー荘へ辿り着く。
かつてのベルビュー荘の女子寮と男子寮の間にある夜空には、オリオン座が輝いていて、とても綺麗だった。
もちろん、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』で、デューク・サイトウとヒロイン・ユリがうまくいくシーンで流れ星が流れたみたいに……あたしとレンの関係というのは、同じようにうまくいったりしなかったけど、それでもこの日の夜、あたしはレンと忘れられない夜を楽しく過ごした。
たぶんあたしはこれから先も、(多少はお酒の力も借りたとはいえ)あんなに開けっぴろげに誰かに自分のことを話したりは出来ないと思う。随分あとになって、もしあの時レンの肩に体をもたせかけていたら、何かが変わっていたかもしれないと思わなくもなかったけれど――あたしはレンと、一時的に恋愛関係を持つことより、ずっと大切な友達でいられることのほうを選んだのだ。
そしてその友情は今も……あいつがアフガンで、一緒に孤児院のスタッフをしていた女性と結婚してからも、ずっと続いている。