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Act.18

『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』が終幕となった時――実は、観客席からは暫くの間、なんの反応もなかった。

 そしてあたしがそのことに冷や汗を覚え、後ろを振り返ろうとした時に、最初に幕が上がった時以上の拍手が突然わき起こったのだった。

 中にはしきりに口笛を吹いてくれる人や、後ろの座席には立って拍手をしてくれる人の姿も見え、あたしは本当に腰が抜けるくらい驚いた。

 第一幕目、例の主人公デューク・サイトウが「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!」という登場シーンから始まって、あたしにとって一番胃の痛かったのが、自分にとって(受けてほしい)と思う場面で笑いが起きるかどうかということだった。

 ついでにつけ加えておくと、最初のこのシーンで一番初めに遠慮なく大笑いしたのは、他でもない小山内氏だった。

 彼の「わっはっはっはっ!」という独特な笑い方に続いて――他の観客も笑ってくれて、あたしはほっとする反面、素早くこう計算してもいた。

(今の笑いは果たして、本当に純粋に舞台に対するもの?それとも単に小山内氏の笑い方につられてっていうこと?)

 それでも次の、羽柴リョウが「なーにが「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!」だ」と彼が敵対心を剥きだしにしてデューク・サイトウに迫る場面――そこが観客主導で受けたために、あたしはかなりのところホッと胸を撫で下ろしていた。



 デューク・サイトウ:「羽柴君、「なーにがハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツだ!」って言うけど、たった今、君だって僕とまったく同じことを言ったじゃないか」


 羽柴リョウ:「なんだって!?」


 大谷アラシ:「まあまあ、リョウさんも落ち着いてくださいよ。「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!」のどこが悪いっていうんですか?何しろここは貧乏下宿のベルビュー荘、気合でも入れないことには、毎朝とても起きてくる気力もわきませんよ」


 デューク・サイトウ:「そうとも、羽柴くん。君も耳を澄まして聞いてみたまえ。そよぐ春風、可愛い小鳥たちの鳴き声……生きてることは素晴らしいよ、うん。さあ、だから一緒に!!」


 サイトウ&アラシ:「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」


 羽柴リョウ:「アラシ、おまえっ。俺よりもこんな変な男の肩を持つ気なのか!?」


 大谷アラシ:「そんなわけじゃありませんよ。ただ、なんか楽しいじゃないですか。さあ、リョウさんも一緒に」


 サイトウ&アラシ&リョウ:「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」


 羽柴リョウ:「俺にまでやらせるなっ!!」


 デューク・サイトウ:「ははっは~。さあてと、そろそろ七時だから、僕は朝ごはんを食べなくちゃ。諸君、一足先にしっつれーい!!」


(デューク・サイトウが舞台の片側にセットされた食堂へ移る。そのあとを追いかけるリョウとアラシ。食堂の壁時計は当然、七時を指している)



 ――ここで笹谷ユリ役のほたるの登場となる。あたしはデューク・サイトウと大谷アラシと羽柴リョウの三人が「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!」と動作を揃えたところで、観客が大受けしてくれたことが嬉しくて堪らなかった。内心、滑ったらどうしようと思っていただけに……意外に一般ピーポというのは、手のこんだギャグなどより、あくまでベタなほうが受けるのかも、と思ったほどだった。

 食堂での食事場面は、デュークとリョウとアラシの三人が、管理人の娘ユリに全員惚れているらしいと印象づけるのが目的だった。彼ら三人はユリの作った玉子焼きやらフレンチトーストやらコーヒーの味やらを褒めそやし、それぞれ好意をアピールするのだけれど、食事の最中に突然、ゴキブリが現れる。



 ユリ:「キャーーーーーッ!!ゴキブリっ!!」


 リョウ:「待っていてください、ユリさん!この俺が今、必殺のスリッパ・アタックでブリゴキめを一網打尽にしてやります!!」


(こんにゃろ、こんにゃろと一生懸命スリッパの裏でゴキブリ三匹を倒そうとする羽柴リョウ)


 アラシ:「キャーーーーーッ!!リョウさん、こっちにもゴキブリが~っ!!」


(アラシがユリの後ろに隠れて、新たに現れたゴキブリ二匹から逃げようとする)


 リョウ:「くそっ、まったくしつこいゴキブリだなっ。おい、アラシ、おまえ女じゃないんだから、男なら俺と一緒にこの巨大なゴキブリと戦えっ!!それとデューク、てめーも何をのんきにトーストに齧りついてるんだ!!」


 デューク:「ふん、ゴキブリが五匹出た如き、なんだっていうんだい?戦時中はゴキブリだって立派な食糧だったっていうじゃないか……だがまあ、哀れな小市民を救うため、僕が必殺の新兵器を君たちに見せてやろう!!」


(優雅に足を組んでコーヒーをすすっていたデューク、すっくと立ち上がると手にしていた杖から、プシューッ!!と何かスプレー剤のようなものを巻き散らす)



 リョウ:「ゴッホ、ゴッホッ。なんだこの、白い煙みたいなものは……」


 デューク:「害虫撃退スプレーさ。さあユリさん、こんな害虫のことは放っておいて、僕と一緒に散歩にでも行きませんか?」


 ユリ:「は、はい……(顔を赤らめて、白い手袋をはいたデュークの手をとる)」


 リョウ:「だーれが害虫だっ!!ゴキブリと人間さまの俺を一緒にしてんじゃねえぞっ!!つーか、アラシ。おまえマジで失神してんのか!?おい、しっかりしろ!!」


 デューク:「あ、言い忘れてたけど、このスプレー剤にはゴキブリだけじゃなく、人間にとっても有害な物質が含まれてるんだ。でも心配いらないよ、たぶん数分後には大谷くんも目が覚めてるだろう……それでは諸君、アディオス!!」


 リョウ:「おい、デューク!!アラシの奴、マジで白目剥いてるぞっ!!つーか、口から泡もでてきた……お、俺、もうなんにも知ーらねっと!!」


(デュークはゴキブリにも効くと言っていたが、むしろ巨大なゴキブリたちは元気になり、わさわさと失神したアラシの体を覆っていった……目が覚めた時、彼がもう一度失神したのは、言うまでもないことだっただろう)



 短いナレーションが流れ、作り物の大きなゴキブリたちがアラシの体を覆ったところで、舞台が暗くなる。そして最後に「ひいぃぃィ~」っと情けない男の声がしたところで、第一幕は終わりだった。

 そして第二幕。桜並木へ散歩にでたデュークとユリは、てっきりいい雰囲気になるかと思いきや、全然そうはならない。

 デュークは片手に虫取り網を、また肩からは虫篭を下げており、まるで子供のように花に群がる蝶やピョンピョン跳びまわるバッタを捕まえるのに夢中なあまり――ユリの存在など、まるで眼中にないのだった。

 それでも彼女がデュークのことをもっと知りたいと思い、思いきって話しかけてみると……。



 ユリ:「あ、あの、デュークさん。随分昆虫がお好きなんですね?」


 デューク:「うむ?僕に何か言ったかい?」


(そう言ってくるりとユリのほうを振り返ったデュークの手には、タランチュラのような大きな蜘蛛が手に握られている)


 ユリ:「キャーーーーッ!!」


 デューク:「はっはっはっ。駄目だなあ、これだから女の人は。いいかい、見ててごらん?」


(デューク、手の平にのせたタランチュラを、地面に下ろす)


 ユリ:「キャーーーーッ!!」


 デューク:「ほーら、僕がタランチュラの上に手をかざすと……タラちゃんは動かなくなるだろ?でも僕が影を作らなくなると……」


(サカサカサカっとタラちゃんが再び活発に動く)


 ユリ:「……………!!」


 デューク:「でもまた僕がタラちゃんの真上に手をかざして影を作ると、タラちゃんは動かなくなるんだ。どんな生物にも習性っていうものがあるからね、そこを理解してやれば、たとえタランチュラでもゴキブリでも、怖れる必要はまるでないのさ」


 ユリ:「デュ、デュークさん。タラちゃんって、このクモの名前なんですか?」


 デューク:「いかにも。タランチュラのタラちゃん。そして僕は今、自分が飼っている他の脱走したタランチュラを捜索してるところなんだ。名前がチュラちゃんとララちゃん。ユリさん、僕と一緒に名前を呼んで彼らを探してもらえませんか?」


 デューク&ユリ:「チュラちゃ~ん、ララちゃ~ん!!」


(草むらからもう一匹、タランチュラの姿が現れる。「おお、そんなところにいたのかい?」と言ってクモに近づき、デュークが頬ずりする)


 デューク:「何故僕の元から逃げたりしたんだい?きのうあげたエサのコオロギが美味しくなかったのかな……まあ、いいや。かわりに僕が今捕獲したばかりの新鮮な虫を君にあげよう」


 ユリ:「……デュークさん、もしかしてあなたが昆虫をとっていたのって……」


 デューク:「いかにも。彼らにエサとして与えるためだよ」


 ユリ:「(絶句)」


 デューク:「さあて、と。あと、残る一匹はタランチュラのララちゃんだけだな。お~い、ララちゃ~ん!!」


 ジュン:「もしや貴様が探しているのは、この忌々しいクモのことではあるまいな?」


 ユリ:「ジュンちゃん!!」


 デューク:「タランチュラを素手で鷲づかみにするとは……なかなかやるな、ジュンとやら」


 ジュン:「ふん。タランチュラは猛毒を持っていると一般に信じられているが、実際にはタランチュラの毒で死んだような人間はいない。無知な人間どもの一種の妄信だ」


 デューク:「で、でも噛まれると相当痛いぞ!!」


 ジュン:「ということは貴様、自分の飼っている毒蜘蛛に噛まれたことがあるということか……ざまあないとは、まさにこのことだな」


 デューク:「な、なんだ!?貴様、なんとなく僕とキャラが被ってるぞっ!!女のくせに黒のタキシードに蝶ネクタイなんか締めて、一体どういうつもりだ!?」


 ジュン:「ふん。女が男の格好をしてはいけないという法律でもあるのか?貴様こそ、そんな白いタキシードに蝶ネクタイなどという気障な格好をして、これから七五三にでも行くつもりではあるまいな?」


 デューク:「くっ、くそっ!!なんかよくわからないが、この僕が押されている……!!ユリさん、このジュンとかいう女、一体何者なんですか!?」


 ユリ:「ジュンちゃ~ん!!」


(ユリ、幼馴染みのジュンの胸の中に飛びこんでいく)


 ジュン:「ああ、私の可愛いユリ。心配したよ……公園の木の上で休んでいたら、ユリの叫び声が二度も聞こえたからね。まさかとは思うが、そこの下衆な男に、何かされたんじゃないだろうね?」


 デューク:「こ、この紳士の僕に向かって、よりにもよって下衆だと!?」


 ユリ:「ううん、大丈夫よ、ジュンちゃん。デュークさんとはただ、いなくなったタランチュラ探しをしてただけだもの。それより、今日の三時のおやつはジュンちゃんの好きなホットケーキよ」


 ジュン:「ユリの作るホットケーキは絶品だよ。もちろん、ホットケーキだけじゃなく、ユリの作るものはなんでも美味しいけどね」


 ユリ:「やだもう、ジュンちゃんったら!!」


(ジュン、ユリの肩を抱いて、いちゃいちゃしながら公園を去っていこうとする)


 デューク:「ままま、待て~い!!なんかおかしいぞっ!!このどこか宝塚的なノリ……そして僕は今、確信した。おそらくユリさんを巡る最大のライバルは羽柴でも大谷君でもなく、このジュンとかいう女であることを!!」


 ジュン:「ふん、覚えておくがいい。この下衆め。清純なユリのことは、この私が決して誰にも渡しはしない!!デュークとやら、宣戦布告のかわりに、一応こちらから名乗っておこうか。私の名前は藤堂ジュン!!人呼んでベルバラのジュンとは私のことさ!!覚えておくがいい!!」


 デューク:「ベ、ベルバラのジュンだと!?まさか、ユリさんがユリだったなんて、僕はそんなこと、絶対信じないぞっ!!いや、ユリさんのことは絶対にこの僕がまともな愛の道へと戻してみせる!!」



 ――ここで最後に、白いマントを翻して走り去るデュークの肩より、タランチュラが一匹、ポトリと落ちる。

 そして第二幕は終了となるのだけれど、あたしは隣に座る潤子さんが、どんな顔をしているだろうと心配でならなかった。中央、一番前の座席は、舞台後ろから見て大体次のような席順になっている。一番左の座席に小山内氏、その隣にミドリさん、そして次が大谷氏で、その隣が羽柴夫妻、久臣さん、潤子さん、そしてわたしの順だった。

 だから最初のデューク・サイトウの「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」のシーンで、彼女がピクリとも笑っていないことが、あたしにはよくわかっていたのだ。

 そしてあたしがおそるおそるといった態で隣の潤子さんの様子を窺おうとしていると――座席の腕木にのせられた彼女の手が、微かに震えているのがわかった。

(まさか、震えるくらい怒ってるとか?)

 一瞬、そう思ったけれど、実際にはそうではなく、潤子さんはもう片方の左手で口元を覆い、なんとか必死に笑いを噛み殺しているのだった。人への共感性に乏しく、割合無神経だという小山内氏とは違い(彼はモデルになった自分にしかわからない箇所で、遠慮なく笑っていた)、常識的社会人である潤子さんは決して同じ真似をしなかったということだ。

 なんにしても、ほっとしたあたしは、再び座席の椅子に深く掛け直して、第三幕がはじまるのを待った。



     第三幕 ベルビュー荘の女子寮と男子寮


 ハルミ:「ユリったら、まったく罪な女ね!!男子寮の男どもをすっかりメロメロにしちゃって!!」


 レイナ:「そーよう。それにズルいわよ。食事で男どもの胃袋をつかむと同時に、心まで一緒につかむだなんて!!」


 ジュン:「まあ、そう言うなよ。ユリだって好きで男子寮に出入りしてるってわけじゃないさ。奴らの食事を作るのは、ユリの管理人としての仕事なんだから、仕方ないだろ?」


 ユリ:「うん……でも、みんなが美味しそうにガツガツ食べてくれるのを見ると、少し嬉しかったりもするんだけど」


 レイナ:「じゃあ、やっぱりそうなんじゃない!!ユリ、男子寮の中に誰か、この人いいなって思う人とかいるの?」


 ユリ:「べ、べつにあたしは……そんな人、いないけど」


 ハルミ:「あ、今なんか赤くなった。っていうことは、誰かいるのね!?白状しないと……」


(ハルミ、レイナと目配せしあって、ユリを両方からこちょこちょの刑にする)


 ユリ:「や、やめてってば!!そう言うハルミは、羽柴くんのことが好きなんでしょ!?」


 ハルミ:「……………!!」


 レイナ:「まさか、本当にそうなの!?あんなワンダーフォーゲル部の筋肉バカ、一体どこがいいっていうのよ!?」


 ハルミ:「羽柴くんは筋肉バカなんかじゃないわよっ!大体バカが医学部に入れるほど、世の中甘くないもの。あたしはただ、彼とは同じ医者を目指す者同士として、お互いを高めあいたいと思ってるだけっ」


 レイナ:「お互いを高めあうですって?うっわー、ウザッ。結婚したら、ハルミってこう言って旦那を出迎えるタイプなんじゃない?「あなた、お風呂にします?それともお食事?いいえ、お互いを高めあいましょう!!」なんて言って、男がまったく安らげないタイプよ、たぶん」


 ハルミ:「うるさいわねっ。とにかく、羽柴くんとは友達以外のなんでもないんだってばっ!!」


 ジュン:「そう言うレイナも、ラグビー部のキャプテンとつきあってるんだから、筋肉バカっていう意味では、彼も五十歩百歩っていう気がするけどね」


 レイナ:「もう、ジュンは男のことに関しては辛口なんだからっ。それより、あのデューク・サイトウとか名乗ってる男、マジでちょっとイカれてるんじゃない?いつも白ずくめのスーツ着てステッキ持ってるところからして、どうかしちゃってるわよ」


 ジュン:「でもあいつ、ああ見えて頭いいんだぜ?何しろ、うちの大学の入試、トップの成績で入ったらしいから」


 レイナ:「ええっ!?あの変人そうに見える男が!?」


 ハルミ:「それだけじゃなくて、物理学の天才だっていう、もっぱらの評判よ。天才とバカはなんとやらっていうタイプなんじゃない?きっと」


 レイナ:「へえ~。じゃあもし、彼と結婚したりしたら、将来はノーベル物理学賞夫人になれたりしちゃうわけね?そして羽柴くんと結婚できれば院長夫人になれるかもしれない、と……でも、そのふたりに比べて、残るひとりの大谷くんだっけ?彼はちょっとパッとしない感じね。見た目もなんか暗そうだし、それでいて名前はアラシだなんて、完璧に名前負けしちゃってる感じじゃない?」


 ユリ:「あら、そんなことないわ。大谷さんはとてもいい人よ。あの人はきっと、心の内側のどこか深いところに激しい嵐を持ってるんじゃないかしら。でも今はまだ、ベルビュー男子寮唯一の常識人にしか見えないかもしれないわね」



 ――一方、こちらはベルビュー男子寮。


 アラシ:「はーっくしょん!!あれ、おかしいな。風邪でもひいたかなあ」


 リョウ:「女子寮の女どもがきっと、何か噂してるんだろ」


 アラシ:「やだなあ、リョウさんは口を開けばすぐに女性の話しかしないんだから……それより、なんでリョウさんが僕の部屋にいるんですか?勉強の邪魔になるので、さっさと自分の部屋へ戻ってくださいよ」


 リョウ:「おまえ、どうしてアラシなんていう名前なのに、そんな常識的でつまらないことしか言わないんだ?」


 アラシ:「名前のことは言わないでください……僕だって気にしてるんですから。なんでも、僕が生まれた日っていうのが物凄い嵐の吹き荒れた夜のことらしくて、それで親父がこの名前にしたんですよ」


 リョウ:「ふう~ん。でもデューク・サイトウの奴、本当は本名、斉藤正っていうらしいぜ。正義の正って書いてタダシ……なんかすげえダッセぇって感じだよな。だから自分のこと、デュークとか名乗ってるらしいぜ」


 デューク:「僕の名前のことは言うなあっ!!」


(バーン!!とドアを開けて、デュークがアラシの部屋へずかずかと入ってくる)


 リョウ:「なんだおまえ、盗み聞きか?その白ずくめの格好といい、まったくいい趣味してやがんな」


 デューク:「何をいう、羽柴くん。紳士のこの僕が盗み聞きなんて、するわけがなかろう……それより、今度はタランチュラのタラちゃんが行方不明になった。実験動物のマウスをケージに入れたら、臍を曲げて家出したらしい」


 アラシ:「実験動物のマウスって、ようするにネズミのことですよね?そりゃタラちゃんも臍曲げますって」


 デューク:「いや、大谷くん。君は何か誤解しているようだが……マウスはタラちゃんたちのエサとして放りこんだのだよ。ネズミにネズミ花火を巻きつけたらどうなるか、実験してたら失神したので、タラちゃんのエサにすることにしたのだ」


 アラシ:「っていうか、マジでいつも何やってんですか、サイトウさんって。というより、タランチュラってネズミも食べるんですか!?」


 デューク:「食べるとも。他に、鶏のササミなんかも大好物なんだよ。それと、大谷くん。君のその美味しそうな足の肉なんかもね……イーヒッヒッヒッ!!」


 アラシ:「(ぞ~っとするあまり、突然必死になって、ベッドの下など、クモが隠れていそうな場所を探しはじめる)」


 リョウ:「まったく、いちいちこの変人の言うことを真に受けてんじゃねえぞ、アラシ。なんにしても、俺はもうアッタマにきた!!いつてめえの部屋からタランチュラが逃げだすか、ビクビクすんのにもウンザリだ!!こうなったらデューク、俺と勝負しろ!!もしおまえがこの勝負で負けたら、ここベルビュー荘から出ていけ!!わかったか!?」


 デューク:「ほほう、この物理学の天才である僕に対して勝負を挑むとは、命知らずな奴め……で、どうする?ゴキブリレースがいいか?それともカエルのジャンプ競争……」


 リョウ:「ふん、何小学生みたいなこと言ってやがる。悪いが俺はワンダーフォーゲル部で鍛えて、足腰には相当自信がある。てめえみたいな頭でっかちの理論でコチンコチンになってる奴が、もし壁のぼりをして勝てるっていうんなら――どんな手を使ってもいい、この俺様に勝ってみろ!!どうだ、この勝負、受けてみるか!?」


 デューク:「いいだろう。相手のもっとも得意とする分野で打ち負かしてこそ、まことの紳士たるに相応しい……その勝負、受けてたとうじゃないか、羽柴くん!!」

 

 アラシ:「もう、ふたりとも何言ってんですか。それより、真面目にちゃんとタラちゃんを探しましょうよ。僕たちがこんなことを言ってる間にも……って、あれ?」


(デュークとリョウ、ふたりは早速競いあうようにアラシの部屋を出ていった)


 アラシ:「なんにしてもとりあえず、僕の部屋にタランチュラはいないみたいだ。良かった~。これで枕を高くして、ぐっすり眠れるぞ!!」


(そしてこの日の夜遅く……ベルビュー荘の男子寮では、依然として行方不明のままだったタラちゃんが、廊下の上を行ったり来たりして徘徊していた。アラシのいる3号室の前へ来たかと思うと、次は1号室のリョウの部屋の前へ……そしてドアの狭い隙間からもぐりこむと、いびきをかいているリョウのベッドの上へのぼっていった。そして彼の顔の上まで到達したところで、「ヒィィィィッ!!」という叫び声があたりに響き渡る。それで第三幕は終わりだった)



   第四幕 女子寮とターザン


 アラシ:「デュークさん、リョウさん本気ですよ。あの人、本当に本気で怒ってますから、もしこの勝負に負けたら、ベルビュー荘を出ていかなくちゃならなくなりますよ」


 デューク:「フッ。この僕があんな筋肉マッチョの、脳みそまで筋肉で出来てるようなバカに――負けるはずがないじゃないか。でも大谷くん、君が本気で僕を心配してくれてるのがわかって嬉しいよ……君こそジャイアンがよく言っている<心の友>って奴だ」


 アラシ:「いやあ、そんな……でも本当に、こんな洗濯紐を女子寮まで渡したようなもので、大丈夫なんですか?この上に滑車をつけてターザンよろしく女子寮の屋上まで到達するっていうのは、一応理論としてはわかりますけど……こうして見ると意外に、地面まで距離が結構ありますよ」


 デューク:「あの筋肉バカが女子寮の壁をのぼって屋上まで到達するのが約20.53秒……その点、この強化洗濯紐を使って滑車で向こうへ渡れば、必ず奴に十秒以内のタイムで勝てる!」


 アラシ:「それにしても、なんで女子寮の壁なんですかね。リョウさんもこんなこと、男子寮の壁でやればいいのに」


 デューク:「そのほうがやる気がでるとかなんとか言ってたぞ。そら、筋肉バカとスケベゴリラを足して二で割ったような奴のお出ましだ」


(リョウが上半身裸、ピッチピチのスパッツをはいた格好で、ボディビルダーのように上腕筋を見せびらかしながら、舞台の前面を歩いていく。ちなみにBGMは、マッチョマン☆)


 ハルミ:「キャーッ。羽柴くん、素敵な筋肉!!」


 リョウ:「ハッハッハッ。どうもどうも、女子寮の諸君。ご機嫌いかがかな?ちなみにこんなことも出来ちゃうよ」


(リョウ、右手だけで腕立て伏せをし、次には左手だけで腕立て伏せする)


 ハルミ:「ますますステキ!!」


 レイナ:「一体アレのどこがよ?」


 ジュン:「恋は盲目っていうからな」


 ユリ:「まあまあ、ふたりとも……」


(ここで、リョウが男子寮の屋上にいるデュークとアラシに大きな声で呼びかける)


 リョウ:「さあ、ギャラリーも揃ったことだし、そろそろ勝負というこうじゃないか、斉藤タダシ!!」


 デューク:「くそっ。筋肉バカが調子に乗りやがって……僕のことを本名で呼んだが最後、どうなるか思い知らせてくれる!!さあ、勝負だ、羽柴リョウ!!」


(ジュン以外、チアリーダーの服を着ている女子たちに混ざって、突然同じチアリーダー姿の女性レフェリーがマイクを手にして現れる)


 レフェリー:「どうも、どうも。わたくし、この勝負の審判を務めさせていただきます、羽柴先輩の後輩で~す。まあ、同じワンダーフォーゲル部の後輩といっても、身びいきは致しませんので、どうぞご安心を!!

        それでは、ふたりとも位置についてください。ようい、スタートッ!!」


(女子寮の屋上にかけたフックから伸びるロープを、壁を蹴って巧みに上っていこうとする、羽柴リョウ。

 一方、デューク・サイトウはというと……)


 デューク:「さあ、大谷くん。この強化洗濯紐の力を信じて、女子寮まで滑車を使ってひとっとびするんだ!!」


 アラシ:「ええっ!?冗談やめてくださいよ。こんな勝負、僕にはなんの関係も……」


 デューク:「何をいう、心の友よ!!君はさっき、僕のためなら命を投げ捨てても構わないと言ったばかりじゃないか!!」


 アラシ:「言ってませんてば!!勝手に話を捏造するのはやめてください!!」


 デューク:「ああっ。あの羽柴のバカはもう数秒で屋上へ到達するぞっ!!

       なんという友達甲斐のない奴だ、君はっ。見損なったぞ、てっきり君がアラシを巻き起こして、僕を救ってくれると思ったのにっ。かくなる上は……」


 アラシ:「僕が、アラシを巻き起こす……」


 レフェリー:「おおっと、どうしたデューク・サイトウ!!何か揉めているようだぞ!?

        その間にも羽柴先輩は壁を巧みに上っていく……流石はワンダーフォーゲル部!!女子に見せびらかす以外にも、どうやら筋肉の使い道があったようだ!!

        この勝負、我がワンダーフォーゲル部の星、羽柴リョウの圧倒的勝利となるか!?」


(アラシが滑車のついた乗り物に手をかけているのを見て、ユリがレフェリーからマイクを奪いとる)


 ユリ:「アラシさあん、がんばってぇ!!お願いだから、デュークさんをベルビュー荘から出ていかせないで!!」


 アラシ:「ゆ、ユリさん!!僕はあなたのためなら、このインチキくさい乗り物に乗ってたとえ怪我をしたっていい!!」


(ところがこの時、意を決したアラシが男子寮の屋上から飛びだすのと同時に、ハングライダーを身に着けたデュークが、風にのって屋上の床を蹴っていた――そして、ちょうどリョウは屋上のてっぺんに手をかけるところだったけれど、その前にデュークが女子寮の屋上へスタッと足を着けて着地している)


 レフェリー:「おおっと、これはなんとも意外な展開に!!

        もしかして、洗濯紐はただのフェイクで、ライバル・羽柴の目を欺くためのものだったのか!?

        デューク・サイトウ、ものの3秒とかからず、女子寮の屋上へ到達!!

        この勝負、どうやら最初の予想とは裏腹に、鍛え上げられた筋肉ではなく、デューク・サイトウの頭脳の勝利となったようだ!!」


 デューク:「ふふん。これぞ物理学の勝利だ」


 リョウ:「くそっ。貴様が毎日夜遅くまで何かしているのは知っていたがな……まさか、そんなパッチワークでつぎはぎのハングライダーを作っていたとは。まったく命知らずな奴だ。負けたぜ、デューク。俺の完敗だ」


 デューク:「君こそ、毎日ダンベルを持ち上げて、腕の筋肉を無駄に極限まで鍛えていたじゃないか。

       まったく、僕には理解できないよ。そんなことをして一体何が楽しいのか……けど、まあいい。

       これでユリさんの美味しい食事をこれからも食べられる」


 アラシ:「うわああああっ。デュークさん、助けてくださいよォ!!」


(男子寮と女子寮の中ほどで、宙ぶらりんになっているアラシ。と、その時ふと、プツリと洗濯紐が無情にも切れた)


 ユリ:「アラシさんっ!!」


 レフェリー:「おおっと、この勝負になんの関係もないはずの男子寮の住人が、どうやら怪我をしたようだぞ!?

        誰か、霊柩車、じゃなくて救急車を呼んでくださーいっ!!」


(ピーポー、ピーポーというサイレンの音ともに、救急車が止まる音、そして発進する音が響き渡る)


 リョウ:「……あいつ、生きてるかな」


 デューク:「まあ、命に別状はないだろう。僕は骨折なんてしたことがないから、どのくらい痛いのかは想像も出来ないけどね」



(場面が変わり、病院の一室となる。片足にギプスをして、吊り上げている格好のアラシが、ベッドの上に横たわっている)



 ユリ:「アラシさん、怪我のほうは大丈夫?」


 アラシ:「は、はいっ。ユリさんの笑顔と手厚い看護さえあれば……こんなの、屁でもありませんよ」


(ここでドアを開けて、リョウとデュークのふたりがやってくる)


 リョウ:「よう、アラシ。足の具合はどうだ?」


 デューク:「まさか君が僕のために、命まで賭けてくれるなんて思いもしなかったよ。大谷くん、君こそまさに僕にとって、真心からの友人だ」


 アラシ:「っていうか、デュークさんがその論法で僕を脅迫したんじゃないですかっ……って、いてて」


 ユリ:「アラシさん、しっかりして。大丈夫?看護婦さん呼びましょうか?」


 リョウ:「ひゅうひゅう。いいね、いいねえ。なんか新婚の夫婦みたいだぞ、ふたりとも」


 アラシ:「何言ってんですか、やめてくださいよ。ユリさんはあくまで管理人として心配してくれてるんですよ」


 ユリ:「(真っ赤になって、下を向く)」


 デューク:「なんにしても、今回の勝負は僕の勝ちだ。これでもう、絶対に誰にも僕のことを本名でなど呼ばせないぞっ!!」


 リョウ:「別に、本名で呼んだっていいじゃん。第一、タダシって名前のどこが気に入らないんだよ?」


 デューク:「タダシっていうなあっ!!僕は、その名前のせいで周囲から正しいことを行うよう、強制されてる気がするんだっ。だから小学生の時には自ら進んで学級委員に立候補し、中学・高校では生徒会長に立候補した……公園にゴミが落ちていれば拾い、いじめられっ子のことは嫌々ながらも庇ってやった。でも大学へ入ったからには、もうそんな呪縛とはオサラバしたいんだっ!!」


 リョウ:「……変な奴。それにおまえ、もしタダシって名前じゃなかったとしても、やっぱり学級委員長になったり、生徒会長になったりしてたんじゃねえの?大体、普段からそんな格好してるところからして、目立とう精神がもともと強いんだよ、デュークは」


 アラシ:「ははっ、確かにそうですね。っていうか、目立とう精神って死語ですよ、リョウさん。

      でも、デュークさんの気持ち、僕にはなんとなくわかります。僕もこのアラシなんていう名前のせいで、随分嫌な思いをしてきましたから……学校の先生には、「おまえが中心になってクラスにアラシを巻き起こしてみろ」とか、変な期待をされたり。「アラシっていう名前のわりに、大谷くんって全然つまんないよね」って女子に言われたり。

      揚げ句の果てには、某アイドルグループの誰にも似てないよねって言われたり……」


 デューク:「大谷くん、君も名前のことで随分つらい思いをしてきたんだな。

       その気持ち、物凄くよくわかるよ」


 アラシ:「デュークさん。僕の怪我のことなら、気にしないでください。

      あの時、デュークさんに頼ってもらえて、僕、なんでかわからないけど、凄く嬉しかった。

      僕みたいななんの取り柄もない凡人でも、デュークさんみたいな人のために役に立てるんだなって思って」


 リョウ:「あ、それは違うぞお、アラシ。この世界がもしデュークみたいな変人の巣窟にでもなったら、むしろおまえみたいな凡人が希少種として尊重されるようになるんだ。そうだな、この世界は凡人10人に対して変人が1人くらいの割合でいるってのが、たぶんちょうどいいんじゃないか?」


 デューク:「まあ、アリの世界の働きアリ10匹に対して、そのうち2匹がまったく働かずに怠けてるっていうのと似たような論理だな、うん」


 リョウ:「うんって、おまえ自分が変人だって、本当に自覚してんのかよ?」


 デューク:「失敬な。これほど頭脳の優れた僕が、大谷くんのような凡人如きと一緒なはずあるまい?」


 ユリ:「(くすくすと笑いだす)」


 アラシ&リョウ&デューク:「(ユリにつられるように、三人で声を揃えて笑う)」



 ――この第四幕は、意外なことにとても苦心した。

 脚本を書くのが難しかったということではまったくなく、舞台の見せ方としてどうするかで、裏方の美術さんたちと相当話し合いを重ねることになったのだ。

 デューク・サイトウは、羽柴リョウが壁を登りきるタイムを20.53秒と言っているけれど、当然これは出鱈目というか、適当な数字だ。舞台の上を見る以上、小学生だってそんなにかからず、簡単に屋上まで登れるのは一目瞭然といったところ。まあ、そこは東郷氏の演技力でうまくカバーしてもらって時間を稼ぐにしても……つぎはぎパッチワークのハングライダーでどうやってうまくデューク・サイトウをピーターパンのように飛ばすか、また大谷アラシが宙ぶらりんになる危機感を、どう演出するか。

 ここは本当に難しいところだったけど、最終的にその部分はみんなで力を合わせて最善を尽くしたのち――あとは「観客の力を信じる」ということになった。つまり、舞台を見るお客さんの「想像力を信じる」ということだった。

 たとえば、大谷アラシが宙ぶらりんになって下まで落ちる距離は、実際には三メートルにも満たないわけだけれど、彼が草むらの中へ落ちたあと、リアルにポキリという音がすることになっている。そして救急車がピーポーピーポーとやってくるという、なんともベタなパターンではあるけれど、客席にいてわたしが感じた感触としては、受け具合からいっても成功したように思う。

 舞台上の役者たちの力については、わたしはそれこそもう120%以上信頼していたけれど、この時初めて「観客の舞台を見る力」を信じることも大切なのだと、そのことにふと思い至っていた。



     第五幕 恋の季節



(第二幕では、桜の花が舞っていた公園が、すっかり紅葉している。

 そしてそのもみじやイチョウといった樹々の間を、ハルミとリョウのふたりが手を繋いでやってくる)


 リョウ:「は~るみちゃん♪」


 ハルミ:「なあに、リョ~ウさん♪」


(ここで、暫くふたりでイチャイチャしたあと、公園のベンチに座っているアラシに、バカップルはようやく気づく)


 リョウ:「おやおや?ヴェルレーヌの詩なんか読んじゃって、一体アラシくんはどうしちゃったのかな?」


 ハルミ:「あら、何か恋の悩みでもあるの、アラシくん?あ、そういえばアラシくんはユリのことが好きなんだっけ?」


 アラシ:「(ふ~っと溜息を着く)両思いでお幸せなふたりには、僕の胸の内の苦しさなんて、どうせわかりっこありませんよ」


 ハルミ:「あら、そんなことないわよ。あたしだって、リョウさんとこうしてカップルになるまでは――苦しい片想いをしてたんですもの。お姉さんに話してごらんなさいよ、アラシくん。もしかしたら、何か協力できることがあるかもしれなくてよ?」


 リョウ:「そうだぞ、アラシ。思いきって試しに話してみろって」


 アラシ:「……その、僕が気になってるのは、デュークさんのことなんです」


 ハルミ:「デュークって、あの2号室でタランチュラを三匹飼ってる、相当な変人のデューク・サイトウさんのこと?」


 アラシ:「ええ、その変人のデューク・サイトウさんのことです。彼、なんかアメリカの大学に留学するっていう話があるらしくて……」


 リョウ&ハルミ:「(驚いて)留学!?」


 アラシ:「そうなんですよ。アメリカのボストン大学。あの人の日常生活を見てると、とてもそうは思えないけど――あの人、本当はスペシャル級に頭のいい人らしいんです。小さい頃から英才教育を受けてたとかで、英語もペラペラですしね。ついでにドイツ語やスペイン語、フランス語なんかもしゃべれるらしいです。あと国際共通語のエスペラント語なんかも」


 ハルミ:「へえ~。まさしく天才と馬鹿は……じゃなくて、ウォッホン。それで、アラシくん。あなたは仲のいい下宿の友人がベルビュー荘を去っていきそうだから――それで元気がないってこと?」


 アラシ:「ええ。なんていうか……デュークさんはユリさんのこと、どう思ってるのかと思って」


 ハルミ:「どうって?」


 リョウ:「はは~ん、なるほど。わかったぞ!アラシ、おまえはトンビに油揚げよろしく、デュークの奴がユリさんをアメリカへ連れていったらどうしようって思ってるんだな!?」


 ハルミ:「ああ、なるほど!そういうことね。だったら何も心配ないんじゃない?ユリは内気な性格だし、英語も全然しゃべれないのに、突然アメリカへいくような度胸なんてこれっぽっちもないような子だもの。それに、あたしの見たところ、ユリはデュークなんかより、アラシくん、あなたのほうによっぽど心惹かれてるんじゃないかしら?」


 リョウ:「……それは、確かな話なのか?」


 ハルミ:「はっきり聞いたわけじゃないけど、まあ、女の勘ってやつよ!女の勘!」


 アラシ:「本当にそうでしょうか。僕は違うと思います……なんていうか、ユリさんは僕を男としては見てない気がする。単に友達として、デュークさんやリョウさんよりは、僕とのほうが話しやすいっていうだけなんだと思います。そしてデュークさんは、ああ見えて結構……鈍そうに見えて鋭いところのある人です。だから、僕がユリさんのことを好きだっていうのをわかってて、友達の僕を差し置いて、横から彼女のことを奪っていくようなことをするとは思えない。そう思うとなんだか、ここのところ胸がモヤモヤして……」


 リョウ:「な~るほどなあ。まあ、いわゆる三角関係っつーか、青春の悩み、恋と友情の板ばさみってやつだ!そら、苦しいわなあ」


 アラシ:「……人ごとだと思って。リョウさん、あなただって人のこと、言えないじゃないですか。最初はリョウさんだってユリさんのこと、好きだったくせに。もういいです!」


(すっくと立ち上がると、アラシはヴェルレーヌの詩集を抱きしめたまま去っていく)


 ハルミ:「(横のリョウのことをジロ~リと睨んで)ふう~ん。リョウさんはユリのことが好きだったの?へええ~、そんなこと、わたしちっとも知らなかったわ!」


 リョウ:「まあまあ、ハルミちゃん。そんなのはハルミちゃんとつきあう前のことなんだから、大目に見てよ。

      このとおり、ねっ!!」


(そっぽを向いていたハルミだけれど、リョウに観音様のように拝まれて、もう一度くるりと彼に向き直る)


 ハルミ:「ま、今回は許してあげる。でも、もし次に誰かと浮気したりしたら……」


 リョウ:「わかってる!わかってますって!!」


 ハルミ:「うむ、わかっていればよろしい。でね、リョウさん、わたし思ったんだけど……この機会にわたしがこっそりそれとなく、ユリの心の内を聞いてみるのはどうかと思うの。それで、ユリがアラシくんのことを好きなら、何も問題はないわけでしょ?でももしあの超変人のデューク・サイトウを好きなんだとしたら、あたしがユリの背中を押すなり、リョウさんがサイトウさんの背中を押すなりする必要があると思わない?だって、あの人ってどう見ても恋愛とかに鈍そうだし、ユリは内気すぎて、彼のことがもし好きでも、告白なんてとても出来る子じゃないもの」


 リョウ:「う~ん。そいつはどうかなあ?こういうことには他人が余計な横槍を入れると、むしろうまくいかないっていうのが俺の実感なんだが……でもまあ、ハルミちゃんがそう言うなら、俺たちで恋のキューピッドって奴になってみようぜ!」


 ハルミ:「じゃあ、決まりね!それじゃあたしは早速、女子寮へ戻って、ユリの本心を探りだしてみるわ!」



(そんなわけで、場面変わってベルビュー女子寮のリビング。

 ユリが鼻歌を歌いながらキッチンで料理を作っている)



 ユリ:「ふんふふんふ~ん♪」


 ハルミ:「やっほう、ユリ。今日の晩御飯は何かしら?」


 ユリ:「あら、おかえりなさい、ハルミ。今日の晩御飯はビーフシチューよ。ジュンちゃんの大好きな」


 ハルミ:「あらあら。ユリったらいつまでたっても幼馴染みのジュンから卒業できないのね。

      ジュンはきっと――小さい頃から内気で頼りないあんたを守ろうとするあまり、あんな男まさりの性格になったんだとは思わない?」


 ユリ:「……どういうこと?」


 ハルミ:「つまり、あんたがいつまでたっても男を作らないから、ジュンはあんたの保護者役を卒業できないってこと」


 ユリ:「ジュンちゃん、もしかして本当にそうなの?」



(戸口に突然、ジュンが姿を現す。どうやらふたりの会話を聞いていたらしい)



 ジュン:「余計なことを言うなよ、ハルミ。自分が羽柴と恋人同士になったからって、他の人間の恋の面倒まで見ようとするなんて、そういうのを大きなお世話っていうんだぜ」


(ジュンからジロリと睨まれて、どこかしょんぼりと気落ちするハルミ)


 ハルミ:「そ、そうかもねっ。ごめんね、ユリ。あたし今日はリョウさんと外でお食事する予定だから、晩御飯はいらないわ」


(そそくさと再びコートを着、バッグを手に出ていくハルミ)


 ジュン:「レイナも今日は、例の筋肉バカのラガーマンとのデートで、遅くなるそうだ。

      だから今日は、久しぶりにふたりきりだな、ユリ」


 ユリ:「ジュンちゃん……」



(テレビを見ながら、最初は黙々と食事を続けるふたり。でもふと、ジュンがソファの上にあった『嵐ヶ丘』というタイトルの本に気づく。

 そして、それをぱらぱらと開いて読んだジュンが、食器の後片付けをしているユリに後ろから声をかける)



 ジュン:「エミリー・ブロンテの『嵐ヶ丘』か。

      もしかしてユリは今、この本の主人公のキャサリンと同じような気持ちなのかい?

      主人公のキャサリンは、本能では孤児のヒースクリフに惹かれながらも、理性によって社会的地位のあるリントンという男と結婚する……ユリはきっと、本能ではデューク・サイトウとかいうあの超のつく変人が好きなのかもしれないな。

      でも、あのアラシとかいう名前負けしている男が、自分を好いてくれていることも、よくわかっている……それで、ユリはどうするつもりなんだい?デュークのことを、このままただ黙ってアメリカへ行かせてしまうのかい?」


 ユリ:「その前に、ジュンちゃんもわたしに答えて。

     ジュンちゃんは、小さい頃から内気で大人しいわたしを守るために――それで今も、恋人を作ったりしないの?」


 ジュン:「わたしはいつだって、女性たちの黄色い声援に囲まれているさ。

      だけどユリ、問題はそういうことじゃないんだよ。わたしにとっては恋人になる対象が男か女かなんて、正直どうだっていい。大切なのは人を愛すること、誰かを真心から思いやることの出来る心こそが尊いものなんだ。

      ユリは優しいから……もし自分がデュークに告白したりしたら、あのアラシとかいう見るからに冴えない、生まれつき運の悪そうな男が傷つくと思ってるんだろう?

      でもね、ユリ。彼だってもし、ユリが心の中で本当はデュークのことが好きなんだってわかったら、その時にはもっと傷つくんだよ。

      私の言ってることがわかるかい?」


 ユリ:「うん……でもジュンちゃん、わたし本当にわからないの。

     自分がデュークさんのことを男の人として好きなのかどうか。そういう意味ではアラシさんのこともそう。

     わたし、アラシさんとは同じ凡人としてとても話があうし、あの人もあたしと同じく内気で大人しい感じの人でしょ?だから、一緒にいて話をしてると、芯からほっとするの。

     でも、デュークさんは違う。デュークさんは、わたしにはあまりわからないことをよく言うの。

     ずっと前にね、デュークさんがネズミにネズミ花火を巻きつけて、火をつけていたことがあって……わたし、なんて人なんだろうってその時思ったわ。だから言ったの。「こんな残酷なことをして、ネズミさんが可哀想だと思わないの!?」って。そしたら彼、なんて言ったと思う?」


 ジュン:「(くすりと笑って)なんて言ったんだい?」


 ユリ:「君はなんにもわかってないって。自分はこの実験用のマウスを医学部の教室から命懸けで連れてきたんだっていうの。どのみち麻酔をされた上、解剖されて死ぬ運命なんだから、命を助けた僕が何をしようと自分の勝手だって……それからそのあと、マウスを使ったガン細胞の研究の話もしてたわ。デュークさんの話によると、人間がこれまで医学の向上を名目に、一体何千万匹のマウスを実験材料として使ってきたかとか、そんな話。だから、もしわたしが将来ガンになったとして、その時にガン治療の薬を飲むとしたら、それは何千万匹ものマウスの命を犠牲にして出来た薬かもしれないとかなんとか……」


 ジュン:「まあ、あいつお得意の詭弁という奴だな。

      それでユリ、おまえは奴のそんな話を聞いていてどう思ったの?」


 ユリ:「なんて屁理屈が好きな人かしらって思ったわ。

     でも……どうしてかわからないけど、あの人の言ってることっていつも、どこか正しいのよ。

     もちろん、全部が全部っていうわけじゃないんだけど。

     それに……常識人のアラシさんと違って、デュークさんはあんな人でしょ。アラシさんは将来、別にわたしとじゃなくても、可愛らしい感じのする、いい人が現れて結婚するかもしれないわ。

     でもデュークさんは……確かに頭のいい人だけど、これからもまわりの人に色々誤解されそうだし、それでももし常識人で凡人のわたしがそばにいたら、うまくフォローしてあげられるかもって思うの。

     それに、あの人好みのごはんやおやつを、毎日作ってあげられるかもしれないし……」


 ジュン:「なるほどね。まさか、ユリがいつの間にかそんなに深いところまであいつのことを考えてたとは思わなかったよ。

      じゃあ、あいつに自分の気持ちを伝えるんだね?」


 ユリ:「わからないわ――だってジュンちゃん、怖いもの。

     あの人は本当は心の中で何をどう考えてるか、全然想像のつかない人だから……アラシさんならきっと、もし駄目でも人の心が傷つくようなことは言ったりしないってわかってるけど、デュークさんは違うの。

     あの人はわたしの心をもみくちゃにして踏みつけても、無邪気な子供みたいに笑ってるんじゃないかって思うと、なんだかとても怖いの」


 ジュン:「それはユリの考えすぎだよ。

      あいつは確かにデリカシーのない奴だけど、そこまで馬鹿じゃないさ。

      ユリが怖いのはたぶん――どんな形であれ、デュークに拒絶されたらと思うと、そのことが怖いんだよ。

      でも、怖がってばかりいたら、いつまでも何もできない。

      自分の力で運命を変えたいと思うなら、なんだって勇気を持ってやってみることが一番大切なんだ。

      もし、結果がユリの思ったようなものじゃなかったとしたら、その時には……また私の胸の中に戻っておいで。

      友達っていうのは、そういう時のためにいるものなんだからね」


 ユリ:「(涙ぐみながら)ジュンちゃん……」



(ジュンが、慰めるようにユリのことを抱きしめ、女子寮の明かりが消える。

 そして一方、男子寮ではデュークの部屋にリョウがあぐらをかいて座っていた)


 デューク:「一体どういう風の吹きまわしだい?

       君が僕の部屋へやってくるだなんて、僕の記憶にある限り、これまで一度もなかったような気がするけど?」


 リョウ:「ああ、まあな。こんなタランチュラやら、ヘビやイグアナやら、よくわからない生き物を飼ってるような男の部屋へは、出来ることなら一度も来たくなんかなかったさ」



(ヘビやカメやイグアナ(もちろん作り物)のいるケージをのぞきこみ、ぞっとしてぶるぶると顔を振るリョウ)



 デューク:「ふうん。でもその君が、今日は何故か僕のいる部屋へやってきた……なんだい?もしかして頭の悪い君に代わって、カンニングペーパーでもバレないように作ってほしいのかい?」


 リョウ:「ふん。てめえに同情なんかされなくても、こちとら成績のほうは特に問題ないっつーの。

      それより、アラシから聞いたんだが、デューク、おまえアメリカに留学するって本当か?」


 デューク:「いかにも。偏狭な考え方しか出来ない教授ばかりが、今の日本の大学にはびこっているからね。

       僕は井の中の蛙になるつもりはないんだ……もっと広い世界を見るために、外の世界へ羽ばたいていくことにするよ」


(ここでデュークが、ステッキを持った手をハンカチで隠して、そこから鳩をだすというマジックをしてみせる)



 リョウ:「ふう~ん。まあ俺は、これからはヘビやサソリやタランチュラなんかに囲まれる心配が一切なくなって、ほっとしたってところかもな。

      でもまあ、このベルビュー荘には実に物好きな奴がいてさ、おまえがここからいなくなるのを寂しく思う奴ってのも、いるみたいだぜ?」


 デューク:「そうかね?まあ、仮にもし僕がいなくなっても、明日からも太陽は昇ったり沈んだりを繰り返すだろうよ。

       季節は巡って、春には桜の花が咲き、夏にはミンミン蝉がうるさく鳴くだろう……そうして万物は流転するんだ。

       そして僕たちはその一部だという、それだけの話だよ」


 リョウ:「(溜息を着いて)ほんと、おまえって変な奴な。

      どうやら遠回りに話を続けても、デュークにはさっぱり通用しそうにないから、単刀直入に言わせてもらうぜ。

      もしおまえが近いうちにベルビュー荘を出ていくのだとしたら、複雑な気持ちになる奴がここにはいるってことさ。

      まず、アラシの奴な。あいつは駅のプラットホームでおまえのことを最後まで走って見送りそうな感じの奴だ。

      それからユリさんも、白いハンカチで目尻をしきりと拭いながら、てめーのことを見送るかもしれん。

      おまえ、そういうことについて、本当はどう思ってるんだ?」


 デューク:「別に。第一僕は、そういう湿っぽいやつってのは嫌いなんだよ。

       だから出ていくとしたら、夜逃げ同然にある日突然ここを出ていくさ。

       まるで風みたいに、最初からここにいなかったかのように、そっとね」


 リョウ:「(チッと舌打ちして)だから俺はてめーって男が嫌いなんだよ。

      このカッコつけ虫め!!」


 デューク:「カッコつけ虫だと……?

       そんな虫の存在、生まれて初めて聞いたぞ」


(デューク、本棚から分厚い図鑑を取りだして、虫めがねで真面目に「カッコつけ虫」を索引から探そうとする)


 リョウ:「ああ、カッコつけ虫ってのは、今ベルビュー荘の2号室に存在してる白づくめの格好した奴のことだ。

      あとでてめーの写真を図鑑に貼って、その下に名前でも書いとけ。斉藤タダシってな」


 デューク:「僕の名前のことは言うなといってるだろうが!!

       でもまあ、羽柴くん。君の言いたいことは大体なんとなくわかったよ。

       君は僕がアメリカへ旅立ったあと――大谷くんとユリさんがどうなるか、心配なんだろう?

       それなら何も、問題はないさ。僕がいなくなれば、ふたりはとてもいい似合いのカップルになるだろうから、ハルミさんと幸せいっぱいの君が余計なことにまで気をまわす必要はないんだよ」


 リョウ:「ちゃんとわかってんじゃねーか!!

      だったらなあ、男らしく俺とビシッと勝負したみたいに――ユリさんとのことをはっきりさせろ!!

      俺はてめーに負けた時、潔く自分の負けを認めた……同じように、今度はアラシと勝負しろって俺は言ってるんだ。逃げるみたいにアメリカへ行くんじゃなくな!!」


 デューク:「紳士のこの僕が、逃げる、だと?

       失敬な!!ナポレオンの辞書に不可能の文字がないように、僕の辞書に逃亡という二文字は存在しない!!

       いいだろう、羽柴くん。この勝負、受けて立ったと大谷くんに伝えておいてくれたまえ!!」


 リョウ:「(はあ~と溜息をついて)まったく、変人と話をすると、普通の人間と話すより、三倍は労力使うぜ。

      なんにしても、てめーはアメリカへ行く前にユリさんに告白するってことでいいんだな?」


 デューク:「いかにも。ユリさんの三食の食事とおやつは、僕にとって物理学の研究を続ける上で、貴重なエネルギー源になるだろう。そのためにも男らしく彼女に、プロポーズの申し込みをするさ!!」


 リョウ:「プ、プロポーズ!?い、いや、俺は別にまだそこまでのことは言ってないっつーか……」


 デューク:「なんだね!?人をけしかけておきながら、君はもしや僕がユリさんの貞操だけを弄んで捨てるような最低男だとでも思っていたんじゃないだろうね!?」


 リョウ:「貞操を弄ぶって……デューク、おまえ本当に一回、医者に頭でも見てもらったら?」


 デューク:「(聞いてない)さて、そうと決まれば時間が惜しい。膳は急げ、だ。恋の先手は打たせてもらったと、大谷くんには伝えておいてくれたまえ」


(ポケットから懐中時計をとりだし、ステッキをつきながら外へ飛びだしていくデューク。

 天井からタランチュラが三匹ぶら下がっている部屋で、リョウはぽか~んと呆気にとられたままでいる)


 リョウ:「プロポーズかあ。まあ、あいつらしいっちゃ、あいつらしいような……まあ、むしろユリさんがあいつの今の勢いにビビって、結婚の申し込みを断ったとしたら……なんか俺、すげえ余計なことをしたのかな。

      でも、あいつがある日突然何も言わずにここから消えるよりは、いいっか。

      俺だって、ライバルのあいつがベルビュー荘からそんなふうにいなくなるのは、なんか寂しい気がするもんな」


(デューク、男子寮を飛びだして、女子寮の玄関のドアを叩く)



 デューク:「たのもーう!!」


 ユリ:「あら何かしら?もしかしてまた、道場破り?」


 ジュン:「ユリ、そんな昔のことを言うなよ。いくら私が柔道の黒帯を持っていて、合気道が二段だからって……あの声はたぶんデュークだよ。

      なんの用でこんな夜分に女子寮へ来たのか知らないが、ドアを開けておやり。

      私は自分の部屋へいってるけれど、あの変態……いや、変人がおかしな行動を見せたら、すぐに呼ぶといい。

      こてんぱんにのしてやるから」


 ユリ:「う、うん……」


(ジュンが場面から消えていなくなる。

 そして、ドアを開けようかどうしようか、うろうろドアの前を歩いて迷うユリ)


 デューク:「ユリさん、実はあなたに折り入って……いやいや、込み入っただっけな。

       なんにしても、とにかくあなたに大切な話があるんです。

       ここを開けて、僕のベリーインポータントな話を聞いてください」


 ユリ:「は、はい……」


(ユリ、意を決して玄関のドアを開ける。

 すかさず、そこから飛びこんでくるデューク)



 デューク:「まずは、これを……」


(デュークがステッキを持つ手をハンカチで隠すと、そこから大輪の百合の花が現れる)


 ユリ:「まあ、綺麗!!デュークさん、もしかしてこれをわたしに!?」


 デューク:「ええ、まあ。時にユリさん、あなたは結婚制度というものをどう思われますか?」


(ユリ、花瓶にデュークからもらった白百合の花を飾ると、デュークに居間の椅子へ座るよう、促す)


 ユリ:「そうですわねえ。まあ、一組の男女が愛しあって結ばれるという、とても素晴らしい制度だと思いますけど」


 デューク:「(チッチッチッ、と指を振る)ユリさん、誤解してはいけません。結婚制度というものは、基本的に昔から男に有利なように作られているんですよ。たとえば結婚式の時、女性はヴァージンロードを父親と歩いて、花嫁は花婿の手に渡されるわけですが……これは人間が古来より守ってきた悪しき因習とも呼ぶべきものです。

       つまり、今より遡って遥かな昔の時代、女性は生まれるとまず、父親に彼女を支配する権利があった。

       そして、娘が結婚する時に父親から花婿の手に娘を渡し――彼女の支配権を譲渡したんですよ」


 ユリ:「まあ、あの儀式にそんな深い意味があるとは知りませんでしたわ。

     本当、デュークさんは色々なことをご存じなんですね」


 デューク:「また、それだけではありません。結婚式の時、新郎と新婦は、祭壇の前で例の「病める時も、健やかなる時も……」という誓いの宣誓をしますね。それは何故神父あるいは牧師、また祭壇の前でなされなければいけないのか……」


 ユリ:「結婚の儀式というものが、それだけとても神聖なものだからなんじゃないかしら?」


 デューク:「いかにも。ですが、人間は古来より、神聖とされる祭壇の前で何をしてきましたか?

       動物を屠ってその血と肉を捧げてきたんですよ。つまり、昔からある結婚の儀式、このことの内にはある比喩が隠されているんです。父親から渡された花嫁を、花婿はどうにでもしていいという隠喩がね」


 ユリ:「まあ……じゃあ、デュークさんにとって女性は、人間より一段劣った動物っていうことなんですの?」


 デューク:「まさか。僕の考える女性とは花です。あるいは動物といっても、リスとかうさぎみたいな、そういう感じの可愛い生き物だと僕は思っています。

       ただ、結婚というものは、昔から女性にとって不利な取り決めだったんですよ。それはある部分、今も変わっていないと僕は考えます。

       でも、もしそれでいいなら――ユリさん、僕と結婚してくれませんか?」


 ユリ:「え、えええっ!?」



(ここで突然、剣道着を着たジュンが再び、女子寮の居間へ颯爽と姿を現す。

 そして手に二本持っていた竹刀のうち一本を、デュークに叩きつける)



 ジュン:「黙って聞いていれば、ゴチャゴチャ屁理屈ばかり抜かしおって、この腰抜け野郎め!!

      まともなプロポーズひとつ出来ない男に、私の可愛いユリを渡しはしない!!

      もしユリと結婚したくば、まずはこの私、ベルバラのジュンを倒してからにしろ!!」


 デューク:「でたな、ベルバラのジュン!!

       君とは、アメリカへ発つ前に勝負をつける必要があると思っていたが……今がその時ということか!!」


 ジュン:「一応先に断っておくが、私の剣道の腕前は初段だぞ。そして柔道は黒帯、合気道は二段だ。

      その私に勝てると思うなら、かかってくるがいい!!」


 デューク:「くそっ。僕なんか、僕なんか……そろばん一級、習字が二級だぞ!!

       貴様こそ、その僕に暗算と字のうまさで勝てるなら、かかってくるがいい!!」


(ここでリョウとハルミ、アラシ、レイナたちが女子寮の庭へやってくる)


 リョウ:「なんだ、なんだ!?あいつ、ユリさんにプロポーズするとか言ってたのに、なんでベルバラのジュンと剣道なんかしてるんだ!?」


 アラシ:「プロポーズって、どういうことですか、リョウさん!?」


 リョウ:「あ~いや、なんかおまえが恋と友情の板挟みになってるみたいだったから、ちょっとデュークのことを棒でつついてやったら、いつの間にかこんなことに……」


 アラシ:「ようするに、やぶへびってやつですね!?」


 リョウ:「は、ははっ……そうとも言うかもな」


 ハルミ:「リョウさんってば、何やってんのよ、もう!なんかむしろ逆効果だったみたいじゃない!?」


 レイナ:「よくわかんないけど、ユリのことを巡ってふたりの男が……じゃなかった、ひとりの男と女が勝負してるってわけね!?

      わーっ!!ベルバラのジュン、がんばれーっ!!

      デューク・サイトウみたいな変人のことなんか、ケチョンケチョンにのしちゃえ!!

      宝塚、フォーエバー!!」


 デューク:「くそっ、うるさいぞ、外野!!」


 ジュン:「まったく、口ほどにもない男だ……貴様のような理屈ばかりの頭でっかち男には、絶対にユリのことは渡さん!!

      そろそろ本気で行くぞ!!

      キエェェェッ!!メェン!!!」


 ハルミ&レイナ&リョウ&アラシ:「おおぉぉぉぉっッ!!!!!」


 デューク:「……………!!(まともに面をくらって素っ転び、なかなか立ち上がれない)」


 ジュン:「次、行くぞ!!

      胴ッ!!!

      そして小手!!!」


(スパンスパン、スパパパパン!!!と竹刀でやられ放題のデューク。

 今ではほとんど、ジュンの一方的ないじめにも見える行為と化している)



 ジュン:「どうした、立て!立つんだ、デューク!!」


 ユリ:「や、やめて、ジュンちゃん!!もうやめて!!

     わたし、デュークさんと結婚するから!!!」


 ジュン:「ユリ、目を覚ませ!!

      こんな情けない男の一体どこがいい!?

      一瞬でも、おまえの好いた男ならと思った私が馬鹿だった……この男の頭でっかちな屁理屈根性は一生涯直らんだろう。

      そんな男の嫁なんかになってみろ!!ユリが苦労するのは目に見えている!!」


 ユリ:「そうかもしれない……でもわたし、そんなデュークさんのことが好きなの!!

     こんな人と結婚したら、もしかしたら不幸になるかもしれないし、すごく苦労するかもしれないけど……でもあたし、まわりの多くの無理解な凡人から、こんなおかしなデュークさんを守ってあげたいって、そう思うの!!」


 ハルミ&レイナ&リョウ&アラシ:「(なるほど~!という感じの)おおぉぉぉぉぉ~っッ!!!」


 ジュン:「そうか……おまえがそこまで言うのなら、もはや私の出番はないな。

      デューク、まずはつっぺでもかって、鼻血を止めるがいい。

      そして、つっぺがとれた頃にでも、次はもう少し気の利いた、ロマンチックな話をユリとするんだな」


 デューク:「(ユリにつっぺをしてもらいながら)は、ふぁい……」


(颯爽と去っていくジュン。

 そして、空気を読んだかのように散っていく、ベルビュー荘の住人たち。

 いつの間にか空には星や月がかかり、あたりには虫の鳴く声だけが聴こえている)



 ユリ:「大丈夫、デュークさん?」


 デューク:「うん……あんまり竹刀で殴られすぎて、まだ星が頭のまわりを回ってる気がするけど、まあ、なんとか」


 ユリ:「アメリカへは、いつお発ちになるの?」


 デューク:「来週にはね。でも、僕はまだ学生だし、物理学でごはんを食べていくには、もう少し時間がかかると思う。

       それまで、ここベルビュー荘で君に待っててほしいだなんて、そんな都合のいいことは……僕にはとても言えないと思ったんだ」


 ユリ:「そうだったの……でもわたし、デュークさんがアメリカで、金髪の女性とねんごろな関係っていうのにさえならなかったら、いつまでもずっと待ってられるわ。ここ、ベルビュー荘でね」


 デューク:「本当に!?……でも、てっきりユリさんは大谷くんのことが好きなんだとばかり思ってたよ。

       いつも僕より……彼とのほうが、話していて楽しそうに見えたから」


 ユリ:「そうね。デュークさんがアメリカへ行って、あんまり小まめにお手紙をくださらないようだったら、わたしも浮気しちゃうかもね。大谷くんか、ジュンちゃんと」


 デューク:「……君はてっきり、白百合の花のように清楚な人だとばかり思ってたけど、結構悪女なんだね」


 ユリ:「ふふっ。知らなかった?そして悪女は、自分からこんなこともしちゃうのよ」



(デュークの右頬にキスするユリ。そしてその部分を信じられないというように、震える手で触るデューク)


 デューク:「なんだかまるで、夢みたいだ」


(そう言って、今度は自分からきちんとしたキスをユリにするデューク。

 空には流れ星が流れ、やがてあたりは暗くなる)



   エピローグ


(駅のプラットホーム。

 手に革の鞄を持ち、電車に乗りこむデューク。

 そして、そんな彼を見送るベルビュー荘の住人たち)


 レイナ:「空港まで見送らなくていいの?

      ほら……あたしはともかくとしても、ユリとかさ」


 デューク:「いいんだよ。駅まで見送ってもらうのだって、本当は嫌だったんだ。

       なんか、湿っぽくなるからさ。だからベルビュー荘の庭先で十分だったのに」


 リョウ:「まあ、そう言うなよ。

      おまえのその気障な面は明日から見れないんだから……今のうちにみんなに見せておけよ」


 ハルミ:「元気でね。何かあったら遠慮しないで連絡するのよ。

      あと、ユリのことを泣かせるような真似をしたら、あたしが友達として絶対許さないからっ」


 デューク:「まあ、僕のかわりにユリさんに変な虫がつかないかどうか、よく見ておいてください。

       たとえば……」


 アラシ:「な、なんで僕にビームのような集中光線を送るんですかっ!!

      やだなあ、もう。大丈夫ですよっ。むしろユリさんのことをもっと信じてあげてくださいっ!!」


 ジュン:「そうだぞ。ユリは断じてそんな、恋人がアメリカ在学中に寂しいからといって浮気するような女じゃない。

      むしろ貴様が帰国したら、私とオスカルとアンドレのような関係になってるかもしれんぞ」


 デューク:「ベルバラのジュン、君は本当に女にしておくのが惜しい女だ。

       向こうへ行ったら僕はまず、体を鍛えてアメリカにもあるという空手道場にでも通おうかと思う」


 ジュン:「ふん。私は空手も初段の腕前だぞ?」


 ユリ:「デュークさん、そんなに無理して自己改造しようとしなくても大丈夫よ。

     だってユリは、ありのままの、頭でっかちで屁理屈好きなデュークさんのことが好きなんですもの」


 デューク:「うん。向こうへ着いたら、必ず手紙を書くよ。それからメールも……」


(ここで、プルルルルルル……と、電車の扉が閉まり、発車することを知らせる音がプラットフォームに響き渡る)



 みんなで:「さよなら、デューク!!頭のおかしな、やたらと変に理屈っぽい、デューク・サイトウ!!」


(電車が見えなくなるまで力いっぱい手を振り、みんなが涙を堪えたり、あるいは目尻をハンカチで拭いたりしていた時――ユリがふと、プラットフォームの壁にデュークがいつも持っているステッキがあることに気づく)


 ユリ:「デュークさんったら、もしかして大切なステッキを忘れていったのかしら?」


 レイナ:「まったく、そそっかしい奴よね」


 ハルミ:「物理学の天才だなんて言うけど、あいつはほんと、馬鹿となんとかは紙一重って奴よ!」


 アラシ:「でも僕、デュークさんのこと、好きですよ。あんな変な人とは、人生でもう二度と会えない気がする」


 リョウ:「俺もだ」


 ジュン:「その点は、私も同意見だな」


 ハルミ:「あら、もちろんあたしだって!」


(そしてユリが何気なく、ステッキの頭の部分、銀色の鷲の形をした部分をひねってみると――クラッカーのような音が鳴り響き、そこからたくさんの桜の紙吹雪があたりに散った。その中の白いハンカチをベルビュー荘の住人たちが広げて見た時、そこにはこう書かれていたのだった)



 『みんな、ありがとう』


 


<ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら>・終幕




 ――一度閉じた幕が再び上がり、キャスト全員が手を繋いで頭を下げていると、デューク・サイトウ役の上月くんと、ヒロインのユリ役であるほたるとが、あたしに壇上まで来るよう、しきりに手招きしている。

 後ろには、役は与えられなくても、裏方として最後まで舞台を支えてくれた団員のメンバーが全員揃っている……芝居の中でリョウのワンダーフォーゲル部の後輩こと、謎のレフェリー役を演じてくれた琴野美也子から花束を渡されると――舞台が無事終わったという安堵感もあったのか、あたしはわっと泣きだしてしまった。

 そして、多くの観客たちが立ち上がって拍手してくれる中、なんとか涙を堪えようと服の袖で目元をぬぐっていた時、水色のパーカーに紺色のジーンズ姿の男が、後ろのドアを押しているのが視界の隅に入ってきた。

(………レンっ!!)     

 一応監督ということになってるあたしが、今この場から姿を消すのはまずいと、もちろん頭ではわかっていた。

 あたしにしても、初舞台監督作品をまずは無事やり遂げたという達成感を、団員たちと分かちあいたいという気持ちもあった。でもそれよりも早く、体が勝手に走りだしていた。

「ごめんね、荒川ちゃんっ。あとのことは任せたから、よろしく頼むわっ!!」

「あとのことはって、あんた……サクラちゃん!?」

 このままいくとたぶん、霧島さんが言ってたとおり、団員たちみんなが四方から寄ってきて、あたしは金八みたいに髪を耳の上にかけることになるだろう。互いに涙を見せながら、その感動を共有したいとはもちろん思ったけど――もし今レンのことを捕まえられなくて、あいつがすぐまたアフガンへ行ってしまい、暫くの間会えないとしたら、そんなのは絶対嫌だと思った。

 でも、前方にふたつ、後方に三つあるドアを観客たちが出るのについて歩くだけでも、かなり時間がかかってしまった。顔見知りの人たち(ポスターを貼ってくれた喫茶店のマスターや、その他善意でチケットを配り歩いてくれた人たち)に会ってしまうと、挨拶したり、彼らの舞台の感想も聞かなくてはならず、あたしは本当にだんだん泣きそうになってきた。

 そして、レンのことを追いかけるのをあたしが諦めようかと思った時、ふと公衆電話の横に、セブンスターが置いてあるのに気づいた。

(まさか……!!)

 セブンスターの中身は、まだ十本以上詰まっている。

 そしてレンは仕事で使う以外は携帯を持ち歩かない。もしここで奴が電話をかけてちょっとの間誰かと話し、外へでたのだとしたら――まだあいつは近くにいる可能性があるっていうことだった。

 あたしはレンのものと思しきセブンスターをスーツのポケットに突っこむと、表に出て、レンらしき人物がそのへんを歩いていないかと探してみることにした。

 とりあえず見当たらなかったけれど、どちらにしても、あいつのことだ。もしまたすぐにアフガンへ行かなくてはならないのだとしても、あの舞台を見たあとで、ベルビュー荘へちょっとでも立ち寄らないはずがない。

 そう思ったあたしは、レンの後を追うべく、まずは駅へ向かうことにした。

 運がよければ、そこで奴に会えるかもしれないという望みを胸に抱きながら……。




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