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Act.15

 確かに、焼き鳥屋のアルバイトとアマチュア劇団の舞台監督という二束のわらじは、わたしにとって決して簡単なものではなかった。

 でも劇団レリックでは、むしろそれが当たり前だったといっていい。ほたるとダブルキャストの三枝友紀さんは、普段はOLをしているし、藤堂ジュン役の神崎薫さんもそうだった。霧島さんが別のアマチュア劇団から引き抜いてきたデューク・サイトウ役の上月数馬くんは、引越し屋でバイトをしながらプロの俳優を目指しているし――羽柴リョウ役の東郷氏は、ほたると同じ郵便局で郵便配達員をしているのだった。

 まあ、そう考えたらあたしなどは、週に三回以外は時間に空きがあるというものの、それでもやはり煙草の量は自然増えたし(結局、レンの部屋でセブンスターを吸って以来、禁煙は中止した)、ベルビュー荘内にレンの視線をまったく感じなくなったせいか、どこか不機嫌に眉間にしわを寄せている……なんていうことも多くなったと思う。

 それというのも、あたしは舞台開演の一か月前には、順調に痩せているほたるをヒロインのユリに確定することを、みんなの前で発表しなくてはならなかったからだ。もちろん、このことに異論を挟む団員は誰ひとりいないことはわかっている。むしろ、ユキと交互にユリ役を代えて練習するだけ時間の無駄だと他のみんなが感じはじめていることも、よくわかっているつもりだ。

 正直、最初に「ダブルキャストでいく」と決めた時のあたしの立場というのは、ただの一脚本家というものだったから、まさかそのあとで、こんな苦しい宣告を自分が直接しなければならなくなるとは、考えてもみなかったのだ。

 もちろんあたしは結局、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』という、自分にとって初めての舞台を成功させるため、荒川氏のアドバイスどおり――「鬼になりきる」というか、芸術のために「ビッチになりきる」ことを決めたのだけれど。

「開演一か月前になったので、ここであらためてはっきりとしたキャストの発表を行いたいと思います。もちろん、デューク・サイトウ役は上月くん、羽柴リョウ役は東郷くん、大谷アラシ役は遠藤くんで、男性キャストは他に変更ありません。ヒロイン役の笹谷ユリは、順調に痩せている二階堂ほたるさんにお願いしますが、彼女がもし病気になるとか怪我をするといった不測の事態が起きた場合に備え、代役として三枝友紀さんを立てます。あとは、当初の約束としてユリ役が二階堂さんになった場合、彼女の親友役の藤堂ジュンを三枝さんにお願いする予定でしたが――藤堂ジュン役はそのまま神崎さんにお願いしたいと思います。他の女性キャストに変更はありませんが、もし異議のある方は稽古が終わったあと、わたしかマッサー・アラカワの元まで来てください。以上です」

 マッサー・アラカワというのは、演出家としての荒川氏の名前だった。すでに出来上がっているポスターやチケットのクレジットには、監督・脚本/川上サクラ、演出/マッサー・アラカワと書かれている……正直あたしはそれを見た時、少しぎょっとした。実際にはほとんど何もしないで見ているだけとはいえ、監督のところには霧島さんの名前を、脚本のところにはあたしの名前だけでなく、ほたるやミズキくんの名前も一緒に入れて欲しいくらいだった。

 でも、そのことについてはほたるやミズキくんからも了承を得ているので、とりあえず問題はないにしても――あたしはまたも肩にずっしりと重い何かがのしかかるのを感じて、目に見えない霊を神社で除霊してもらいたいような気持ちになっていた。

『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』のキャストを正式発表した時、ある程度予測はしていたけれど、三枝さんが涙をこらえきれず、体育館脇にある女子更衣室へと一目散に走っていった。そのあとを追いかける、アラシ役の遠藤くん……(やれやれ。高校生じゃないんだから)と、あたしは彼らを見ていていつもそう思ってしまう。

 藤堂ジュン役の神崎さんは明らかにほっとした表情をしており、必死でがんばった甲斐があったというように、どこか清々しい顔をしていた。彼女はジュン役をもしかしたら三枝さんに奪われる可能性があったため、かなりのところ藤堂ジュンという役を自分なりに研究して演じていたようだ。あたしにも、稽古のあとで実際のモデルになった人はどんな感じの人だったのかと聞いてきたことがある。

 その点、ある意味崖っぷちだった薫は役に集中できてよかったのかもしれない。けれどもユキのほうはほたるが痩せられるとはとても思えず、また仮に痩せられたとしても自分にはジュンの役があると思ってしまったのだろう、結局どちらの演技にも集中できず、両方の役を逃してしまったというのは――あたしや荒川氏や霧島さんにも責任のあることなのかもしれない。

 もっとも、そのことでなんとなく罪悪感を感じるあたしが<ピヨっと鶏まる!>で霧島さんにそのことを相談したところ、彼曰く「ヒロインに代役がいるっていうのは、むしろ普通のことなんじゃないのか」とのことだった。「うちは団員同士の関係がヌルいから、今度のことは刺激薬になってちょうどいいくらいだよ」……サドの彼は、良心などこれっぱかりも痛まないとばかり、ビールをぐびぐび飲みながらそう言い切った。

 まあ、なんにしてもこれで、稽古のほうは集中できる環境がかなりのところ整ったといっていい。

 あたしはキャスト発表の時のように、みんなの前であらたまって何かを正式に告げなければならない時には、団員のことを君づけやさんづけで呼ぶけれど――稽古中には誰のことも下の名前で呼び捨てにするか、あるいはあだ名で呼ぶことにしていた。

 といっても、そのくらい親密な何かがあたしと彼らの間には育まれつつあった……などというわけではまったくない。むしろあたしは稽古の時以外はあえて団員とは距離を置くことにしていたし、立場もあくまで<こっちが上>で<あんたたちは下>という見下した態度を絶対に崩さなかった。

 結果として、彼らが影であたしを「スパルタ・ビッチ」と呼んでようが、演技指導がなってないと不満をこぼしてようが、そんなことはあたしにとってどうでもいいことだった。ただ、この時のあたしが少し気になっていたのは、団員たちが更衣室で囁きかわす自分の悪口などではなく――デューク・サイトウ役の上月数馬くんがどうも、ほたるの魅力の虜になりつつあるということだったかもしれない。確かに、ほたるの現在の体重は六十五キロで、舞台開演の一か月後までにはまだまだ体を絞る必要がある。でも、もともとほたるは身長が172センチあるせいか、今のままでもそれほど太っているという印象を見る人に与えないのだ。むしろ、彼女はダイエットに成功して、短期間で本当に綺麗になったと思う。そしてこの、ほたるが必死でしている「痩せる努力」を、自分のためと数馬はどうも誤解している節があるのだ。

 正直、初めて上月くんがほたると顔を合わせた時、「えっ!?この人がほんとにヒロインなんですか!?」というような、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を彼はしていた。でもセリフ合わせをした時には、すぐにほたるの才能を見抜いて、ダイエットが条件というのが何故なのか、よく理解していたらしい。

 稽古の最初の頃、数馬はほたるとよりもむしろ、ユキとの稽古のほうが息があっていたと思うけれど、ほたるが日一日と痩せてくるにしたがって、ほたるとの舞台稽古のほうがよりしっくりくるようになっていた……ここで、まだ二十三歳と若い上月くんが、ほたるが痩せようと頑張っている努力を自分のためだと錯覚しても、もしかしたら仕方ないことなのかもしれない。

 数馬は演技力と舞台を支配する存在感という意味で群を抜いていたけれど、それでいて初々しくて純粋なところが、確かにデューク・サイトウ役に合っていた。しかしながら、劇団レリックには今の今まで、彼のようなイケメンがいた試しが一度としてなかったのだ。いたとすればそれは唯一、「It’s me、オ・レ」だと霧島さんが言っていたとおり――その次がかなり離されて三枚目の東郷氏といったところだったのである。

 しかも数馬は当然、東郷氏が太ってようが痩せてようが関係なく、彼がほたるのことを好きでい続けたという、彼らの愛の歴史を知らない。ゆえに、ほたると東郷氏がつきあっていると知っても、彼女さえその気ならいつでも乗り換えてくれてオッケーというような態度を、彼はいつもほたるに見せていた。

 さらに、今まで劇団にいた試しのないイケメンが登場したということで、当然女性陣は色めきたった。

 友達以上恋人未満といった関係だった三枝友紀と大谷アラシ役の遠藤広夢は、「やっぱりあたしたち、友達でいましょう!」といったプレッシャーをユキから強く受けたせいかどうか、ヒロムのほうは大谷アラシという役柄と同じように、近ごろどうもウジウジ悩んでいることが多いようだ。

 正式なキャスト発表があった日、稽古が終わったあとで――彼はあたしのところまでやってくると、こんな異議申し立てをしていた。

「川上さんは、ほたると同じ下宿で暮らしてるんですよね?だから仲がよくてダイエットにも協力してるほたるのことを、正式にヒロインに決定したんじゃないですか?最初、僕たちが聞かされたのは、ほたるの体重が最低でも五十五キロまで落ちるのが絶対条件だっていうことでした。それなのにこんなの……ユキが可哀想ですよ」

 ちなみにこの日、ユキは「いてもみんなの邪魔になるから」と言って稽古がはじまる前に帰っていた。

 まあ確かに、役を外されただけでなく、気持ちが傾きかけている数馬がやたらとほたるに密着する姿というのは――今の彼女にとって一番見たくないものだろうというのは、よく理解できる。

「遠藤くん、物事にはなんでも、予想外の因子っていうのがあるものなのよ」と、稽古中はヒロムと呼び捨てにしている彼に対して、あたしは突き放すように言った。「正直、あたしも荒川さんも、ここまでほたるの体重が短期間で落ちて、しかも痩せたことと合わせてヒロインにぴったりといっていいくらい、綺麗になるとは思ってなかったの。もしここに三枝さんがいたとしても、まったく同じことを言わせてもらうけど、彼女にははっきり言ってヒロインとしてのオーラがない。それに<スパルタ・ビッチ>のこのあたしが、同じ下宿に住んでるからっていうような甘っちょろい理由で、贔屓なんかすると本気で思ってるわけ?」

 稽古が終わり、掃除当番に当たっている団員たちはモップで床を磨きはじめていたけれど――彼らはみな、しーんとなってあたしと遠藤くんのやりとりを見守っていた。また、隅のほうで体育座りをしておしゃべりをしていた団員や、帰り仕度をしていた団員たちも、それぞれ固まったようになってこちらを見ている。

「ぼ、僕はべつに……」

 彼は完璧に覚えたセリフをしゃべるのは得意だったけれど、もともと性格が内傾向にあるせいもあって、アドリブのきくタイプではないと、あたしにはよくわかっていた。そこで、畳みかけるように言わせてもらう。

「遠藤くんは三枝さんのことが好きなんでしょう?公私混同してるのはあたしじゃなくて、あなたのほうなんじゃない?上月くんが来て以来、彼女の心がどうもそちらになびいているような気がする……それで焦る気持ちはわかるけど、たぶん三枝さんはあなたがあたしに抗議してくれたって聞いても、大して喜ばないんじゃないかしらね。それより、あたしとしては万が一のことを考えた場合、ヒロインの代役がいないと困るの。だからユキにアンダースタディーも十分重要な役割なんだって、あなたから伝えてもらえると、あたしとしても助かるんだけど」

「わかりました……」

 ユキにはたぶん、ヒロムのどこか影のある暗い性格というのは、ストーカーと紙一重であるように見えるかもしれない。

 でも個人的には結構、ヒロムには役者として大成しそうな可能性があるように、あたしは感じていた。

 普段内気な分、舞台で弾ける時の瞬発力がすごいというか――日ごろ鬱屈したものを抱えている分、それをいざ放出する段になると、彼はかなりのところいい物をだしてくれる。

「そうよ。うちは弱小のアマチュア劇団だけど、プロの劇団じゃあ、主役級の役にアンダーがいるのは当たり前なんだからっ」と、荒川氏もあたしの味方をしてくれた。「もし仮にほたるが舞台開演直前で、スパルタ式ダイエットが裏目にでて倒れた……なんていうことがあったら、ユキにはすぐ舞台に立ってもらいたいわ。逆にそういう意気ごみがないんなら、もう稽古には来なくていいってあたしが言ってたって言っておいて」

 ヒロムが顔を赤くしたまま、コートを着て外へ出ていくと、突然凍った氷がとけたみたいに、他の団員たちも再び動きはじめた。あたしはこの時まったく知らなかったけれど、以前レリックでも実際に開演する直前、主役が盲腸で入院したということがあったらしい。そこで中止が検討されたものの、主役のセリフや動きをすべて覚えて密かに練習していた団員が、急遽舞台の中央へ踊りでることになったのだとか。

「いやはや、青春だね」

 ずっと座って稽古を見ていた霧島さんが、パイプ椅子を片付けながらそう言った。

 彼はあたしや荒川氏が団員たちに駄目だしするのを、いつも楽しげに目を細めながら見ている。あたしや荒川氏のやり方に対して、口出しは一切してこないけれど、それはかつての自分以上に新監督が超のつくサドだと認定しているかららしかった。

「仕事のほうも忙しいのに、火曜と木曜と土曜によく来る気になりますよね、霧島さんも」

 稽古が終わったあと、例によって<ピヨッと鶏まる!>で飲みながら、あたしは霧島さんにそう聞いた。

 あたしが稽古が引けたあとに愚痴をこぼせるのは今、このふたり――荒川氏と霧島さんの他には、ほたるがひとりいるきりだった。

「だって、こんなに面白い見世物が他にあるかい?」

 自分でも認めているとおり、霧島さんはSのナルシストではあるけれど、まあ生まれつき顔がよくて(本人談)三十六歳で大手商社の金融開発責任者になれるくらいだから、人や物事を見抜く才覚のある人なんだろうとは思う。

「別に今の俺には舞台に対してなんの責任もないわけだし――それでいて、自分より若い連中が本気で舞台に熱中したり、恋をしたりするのをただ黙って眺めていることほど面白いことはないよ。もちろん、サクラはそういうわけにもいかないだろうけど、まあヒロムのことは心配しなくていいと思うな。あいつは普段自信なさそうに見せかけてる割に本当は自信家だし、もし今回の舞台が成功したら、ユキともうまくいくだろうよ。いや、仮にうまくいかなかったとしても、そんなのは小さなことだと思って、あまり気にしなくなってるだろう」

「……じゃあ、もし失敗したら?」

 さあて、というように、霧島さんは肩を竦めて、ホルモン串にかじりついている。

「失敗だなんてサクラちゃん!縁起でもないこと言わないの!」

 荒川氏は鉄板の上でお好み焼きをうまくクルっとひっくり返している。

 これは本来は店員の仕事なのだが、彼は自分のほうがあんたみたいな若造よりもうまく焼けるといって、バイトの白石くんのことを追っ払っていた。

「誰がなんと言おうと『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』は、劇団レリックはじまって以来のスーパーヒット作になるに違いないわ!これはあたしのオカマとしてのじゃなくて、芸術家としての直感よ!」

 だからユーももっと自信持ちなさいよ!と、荒川氏はあたしの背中を叩いたけれど――最初に脚本を何かに憑かれたように書いて以来、あたしはだんだん自分の書いたものがそんなに面白いのかどうか、自信がなくなってきていた。

 というより、ミズキくんの書いた漫画のほうがずっと面白いとさえ、最近では思うようになっている。問題はまあ、ミズキくんの場合は漫画という二次元での表現形態なので、それを舞台でそのまま再現するのは不可能だという点にあるかもしれない。

 大道具や小道具の係をほとんどボランティアでやってくれてる団員たちは、脚本を読んで以来本当にいいセットを作ろうと努力してくれてるけれど……そうした縁の下の力持ちといっていい、美術の裏方たちの労力にも報いるため、あたしはどんなことをしても『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』という舞台を成功させたかった。

「まあ、なるようになるさ」と、霧島さんがいつもの無責任な口調で言う。「それに、今回の舞台の稽古では明らかに違う空気を感じるんだよな。前の定期公演の『ゼウスとプロメテウス』の時は、俺は稽古を見にきたのなんか、たったの二回か三回だった。というのも、もう何度もやってる舞台だから、これ以上うるさく言ったって出来がよくなるわけじゃないしと思って諦めてたんだ。でも、サクラは本当によくやってくれたよ。いい脚本をほたると一緒に書いてくれたっていうのもそうだけど――それだけじゃなくて、新しい風をレリックに吹きこんでくれたっていうかさ」

「そうかしら?団員たちは影じゃどうも、そう思ってないみたいよ。あたしよりも霧島さんが監督として稽古してくれたらもっといい舞台になるのにって、そんなふうに思ってるみたい」

「本当にか?」ブッとビールを吹きだしそうになりながら、霧島さんは笑っている。「信じられん。あいつら、俺が昔どのくらいのサド・スパルタクスだったか、すでに忘れつつあるんじゃないのか?だが、保証してやってもいいが――もし俺が監督として復帰したりしたら、あいつらは三日後には絶対サクラに電話して泣きついてるぞ。ようするに、演劇なんてものに何人もの人間がかかずりあって熱中すると、必ずどっかに不満がでるっていうことだな。そしてあいつらは今はわかりやすくあんたにその不満をぶつけてるかもしれないけど、まあ舞台が跳ねたらわかるよ。あいつらみんな、金八の教え子が卒業式で泣くみたいにしてあんたに寄ってくるだろうからな」

「金八って、武田鉄矢?」

 あたしがそう聞き返すと、荒川氏が例の髪の毛を耳にかける仕種をしたので、あたしは爆笑した。

「人という字は、互いに互いを支えあって出来ているものなのですぅ」

「やだもう、あたしをあんな油ぎった汚い親父と一緒にしないでくれる?」

 荒川氏が絶妙のタイミングで引っくり返した豚玉を食べながら、あたしはグレープフルーツサワーを飲んだ。

「まあ、そう言わないの。実際あたしもまさか脚本家としてだけじゃなく、あんたに舞台監督としての才能まであるとは思わなかったもの。サクラって団員と変にベタベタしようとしたりしないでしょ?これって結構大切なことなのよ。なあなあでやってると、ただ時間だけが過ぎてなんとなく稽古が終わったりするのよね。今の若い子はみんな人から嫌われることを怖がってて、才能がどんぐりの背比べみたいになってるんじゃないかしら?」

「言えてるな。そういう意味でまあ、東郷も数馬っていういいライバルが現れてよかったんじゃないか?それが単に役者としてだけじゃなく、私的にもライバルだっていうのが、なんとも言えないが」

「そーお?」

 豚玉を切り分けると、荒川氏はそれを霧島さんに渡した。彼はわたしには絶対こんなことをしてくれない。

「あたしは結構、ああいう恋愛の火花バチバチっていうの、好きよ。舞台にもいい意味で緊張感が走ってると思うし、ほたるが意外に男にモテるってわかって、翼にもよかったんじゃない?前までは「つきあってやってる」みたいなとこ、翼にはちょっとあったから。まあ、あたしはてっきりコウちゃんがそこまで計算した上で数馬のことをわざわざ他の劇団から引っ張ってきたのかと思ったけど?」

 翼というのは東郷氏の下の名前で、コウちゃんというのは霧島さんのことだ。一応念のため。

「まさか。確かに数馬は東郷のいいライバルになるとは思ったよ。けどまあ、まさか数馬がほたるのことを女として好きになるなんて、誰が思う?確かにほたるはいい女だよ。でも隣に連れて歩くには、ちょっと勇気がいるっていう意味でのいい女だってことだ。まあ、これはあくまで前まではっていうことだけどな」

 あたしはすぐそばを通りかかった白石くんに、グレープフルーツサワーをもう一杯注文した。

 前までのあたしだったら、自分よりも容姿的に劣っていると感じる女がモテるということに対して、どう思っていただろうと軽く酔った頭でぼんやり考える。それに、他人の恋愛話なんて、基本的に真面目に聞いていた試しがない。いつでも「自分が」とか「あたしは」って、そっちに話を持っていくことしか興味がなかった。

 でも今のあたしが思うのはただ――レンのことだけだった。

 あいつはミドリさんや久臣さんにだけ日本を発つ日を伝えて、あたしには何も言わずに荷物をまとめて突然いなくなった。

 それなのに、2号室の何も描かれていなかったキャンバスには、あたしの横顔を描いた絵が飾ってあって……たぶんあいつにはわかっていたんだと思う。あたしがレンの部屋にこっそり入って、その絵を見るだろうっていうことくらい。

「ま、コウちゃんは来る者拒まずで遊び歩いたあと、隣に連れて歩くのに最高にいい女と結婚したのよね。まったく、あたしの操はコウちゃんに捧げてもいいと思ってたのに、悔しいったらっ」

「ああ、俺は世界一の幸せ者だよ。美しい妻に可愛い娘……おまけにゲイの愛人までいるんだからな。この世で一番の果報者は誰かって言ったら、それはIt’s me、オ・レといったところだ」

「もう、コウちゃんたらっ!」

 酔ってグダグダな会話をしている霧島さんと荒川氏のことは放っておいて、あたしはふたりよりも一足先に<ピヨッと鶏まる!>を出ることにした。一万円均一バーゲンで買った白いコートの襟を合わせ、駅まで歩く……流石に十一月も下旬になると、自転車で走るのは寒すぎた。

 四つ駅を通り越して降りると、そこからベルビュー荘のある丘の上までいってくれるバスが一応出ている。

 でもあたしはいつも、駅から十五分もかけて歩くことにしていた。これもまた、昔のあたしからは考えられない習慣だったといっていい。前までのあたしならたぶん、バスに乗るどころかすぐにタクシーを呼んでいただろうから。

 しかも、最後には厄介な坂道を上っていかなくてはならないというのに――あたしはむしろ、この坂道のためにこそ、歩いているようなものだった。例の小人の灰皿の置物と、緑色のベンチのある場所、そこから街の灯りを見下ろしていると、遠くネパールの空の下にいるであろうレンのことを、身近に感じることが出来たから……。

 でも、この翌日、あたしがとうとう我慢できなくなってレンの所属するNGOの日本事務局に問い合わせてみると(もし緊急の場合、レンと連絡を取りあうことが出来るかどうかと思って)、想像してもみない返答が向こうからは返ってきたのだった。

「ネパールへ井戸掘りですか?確か水嶋さんはアフガニスタンへ行かれているはずですが……」

 驚きのあまり、あたしは聞きたいことを矢継ぎ早に聞くだけ聞くと、すぐに電話を切っていた。

 よくわからないけれど、たぶんあいつは――「そんな危険な場所へ行くなんて、あんた頭おかしいんじゃないの!?」とか、あたしが色々うるさく言うに違いないと思ったのだろう。だからわざと、ネパールへ井戸を掘りに行くなんていう話をしたのだ。

 実際、あいつが前にもネパールへ行ったことがあるというのは本当らしいし、どうやって井戸を掘るのかと聞いたら、随分詳しくノウハウを説明してくれたことから見ても、その点については嘘をついていないと見ていい。

 あたしは嫌な予感がするあまり、一度はニュースで毎日のように取り上げられ、今では再びメディアから捨てられたように見える国について、ネットで色々調べることにした。「一度は安定したように思われたアフガニスタンだが、オバマ米大統領が軍備を増強したことから見てもわかるように――治安はイラクよりも今ではむしろ悪くなっている」とかなんとか……。

「水嶋さんは、孤児院の運営スタッフとして派遣されたんです。ええ、そうですよ。うちの紺野がタリバンに拘束されて、その後無事釈放されたんですが、体調のほうを崩しまして。その、こう言ってはなんですが、本当に水嶋さんと同じ下宿の方なんですよね?時々、雑誌記者の方などが紛らわしく身分を偽って色々聞こうとされる場合があるものですから……」

 紺野、という名前を聞いて、あたしもようやく少しピンときた。確か、もう一か月以上も前になると思うけれど――何日間かTVのニュースで彼の顔写真をよく見た記憶がある。でもこの時あたしは心の中で、(いくら立派な志を持っていても、首を切られて死んだりしたら、目も当てられないわね)というくらいにしか思っていなかった。

 やっぱりレンの奴はあたしにとって、日本からネパール……ううん、アフガニスタンという国くらいに遠い、そんな場所にいる相手なのだと思って、あたしは胸が切なくなった。それは苦しいのか恋しいのかよくわからない、あたしが今まで一度として経験したことのない、つらい恋の味だった。




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