Act.14
それは、十月半ばの月曜日の午後のことだった。
「あんた、今少し時間あるか?」と、珍しくレンのほうがあたしに声をかけてきたのだ。
ミズキくんは両親と話し合うことがあるとかで、片手に原稿を握りしめ、ミドリさんと一緒に大谷氏が迎えにきた車で、一度実家へ帰っていた。夜には戻れると思うけれど、はっきりしたことはわからないから、帰ってこなかったら店屋物をとって食べてね、とミドリさんは言い残していた。
ほたるは当然郵便局で仕事、久臣さんは休日で、今は図書館に新しく小説を書くための資料調べをしにいっている。
つまり今、ベルビュー荘にいるのは――あたしとレンのふたりだけだった。
「べ、べつにっ。時間ならあり余るくらいあるけど?」
まさかベルビュー荘で、レンとふたりきりになれる機会があるだなんて、あたしは今の今まで考えてみたこともなかった。
それに、もしそうなれたとしても、レンはさっさと出かけるなりなんなりして、あたしをひとりぽっちにするだろうと信じて疑いもしなかった。
これは一体、どういう風の吹きまわしなんだろう?
「サクラは、俺の部屋って見たことなかったよな」
(ええっ!?しかもなんなの、この急展開は!?)
あたしは驚きながらも、藍染めののれんの向こうで「ついてこい」というように部屋の方向を指差したレンの後ろについていった。
まさかとは思うけど、これは何かの罠なのだろうか……とさえ、つい疑ってしまう。
ねずみがチーズにつられてうっかり手を伸ばしたら、バネに手が挟まっちゃった、くっすん☆というような事態を想定しつつ、あたしはおそるおそる、ベルビュー荘の2号室のドアから中を覗きこんだ。
「……すごい………」
あたしはそう一言いったきり、馬鹿みたいにぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くしていたと思う。
ドアから入って左の壁には、輪があるからたぶん、土星だろうか?土星から見た他の木星や地球、金星や太陽などが並んだ宇宙世界が、緻密な点描画のように壁にそのまま描かれている。正面の、窓がある壁は趣きが違って、少しメルヘンチックな感じだ。まるで本物にしか見えない美しい樹木が、枝を伸ばして窓全体を囲っている……そして右の壁には、虹のかかった青空が描かれ、その虹を裸の男女が背中を向けて見上げていた。
あたしはこの時、無意識に一歩あるいてレンの部屋の中へ足を踏み入れて――正直ぎょっとした。
最後に残った壁には、一面に悪霊のような手が赤い画面いっぱいに黒や青や緑、紫によって生々しく刻印されていたからだ。
床には安物のカーペットが敷いてあって、片隅にはベッドとソファがある。でもそれ以外には、胸元から上の女性を彫った大理石の彫刻が一体と、まだ何も描かれてないキャンバスがイーゼルにかかっているという、他には何もない部屋だった。
「ねえ、あんたってもしかして、本当にどっか病んでるの?」
あたしは少しの間呆然としたあと、ようやくいつもの自分を取り戻して、さり気なくレンにそう聞いた。
「あたし、芸術家って呼ばれる人には二種類いると思うんだけど……ひとつは、本当にまるっきり病んでいて、そのことが表現をする上で役に立ってる人間。そしてもうひとつは、病んだ振りをした偽の芸術家。この二つ目のほうはね、ある意味最初の本物の芸術家よりも重症よ。だって、自分の体を椅子に縛りつけて、ナイフで死なない程度に手足を傷つけながら――「自分はこんなに病んでる。だから本物の芸術家だ」って口走ったりするんだもの」
「ほたるじゃないけど、あんたって時々、本当に面白いことを言うよな」
そのことにもっと早く気づけばよかった、とでもいうように、どこか後悔した眼差しで、レンがあたしのことを見返してくる。
「ねえ、レン。あんたもしかして、本当にどっか体の調子が悪かったりするんじゃない?最近じゃさっぱりあたしにも突っ掛かって来なくなったし、あたしも張りあいがなくてつまんないんだけど」
「それは悪かったな」
今度はどこか自嘲的な笑みを浮かべて、レンはベッドのヘッドボード側に腰掛けると、そこから煙草と灰皿をだし、セブンスターを吸いはじめた。
実をいうと、あたしは少し前から禁煙をはじめている。だから、なるべく煙の届かない位置――悪霊の手形の前に置かれた革のソファに座ることにした。
「俺、たぶん近いうちにネパールへ行くことになると思う。そしたら、あんたに色々言って悪かったってあとになって後悔しそうだから、今のうちにあやまっておこうかと思ってさ」
「ネパール!?何よ、レン。観光にいくんだったら、もうちょっと気の利いたところにしたら?」
悪かった、という言葉を聞いて、嬉しくなるあまり、あたしの声は少し金属的な響きを持つものになってしまった。
本当はあたしとしても、せめてもう少し落ち着いた振りをしたいのだけれど。あるいはもう少し、大人の女っぽい振りを。
「観光っていうかな、井戸を掘りにいくんだよ。大学時代からの友達が向こうで病気になったらしい。で、帰国する奴の代わりに行くことになったのが、俺ってわけ」
「ふう~ん。井戸ねえ……なんか大変そうね。あたしもTVで見たことあるけど、濁った汚い水を向こうの人は飲んでたりするんでしょ?」
「そうだな。俺が前に行ったところじゃあ、その水を飲んだ日本人全員が下痢になった。まあ、普段それだけ日本は水資源に恵まれてるってことなんだろうな。でも、あんたはこんな話、興味ないだろ?」
本当は(あんたの話すことなら、なんでも興味あるわよ)というのが、あたしの心の中の正解だ。
でもあたしはわざと、レンの中にあるであろう“川上サクラ像”を演じることにしてしまった。
「まあ、正直いってあんまり興味ないわね。もし、あんたの言ってるのが、地球の環境問題とか、そういうことについてならよ?あたしはアフリカの難民が餓死してようと、自分に明日食べるものがあったら、それでいいわ。テレビでその手の番組を見て五分くらい「可哀そう」って思ったあと、すぐにチャンネルを変えて笑ってるタイプ」
「なんか俺、生まれて初めて今、あんたを好きになった気がするな」
本気なのか茶化されてるのかわからなくて、あたしはレンに向かって軽く肩を竦めた。
そんなあたしでも、男次第で百八十度変われるかもしれないなんてことは――レンはたぶん、考えてみたこともないだろう。
「まあ、なんにしてもその話はとりあえず、今の俺とあんたの間ではどうでもいい。俺がなんであんたのことを最初から嫌ってたのか、あんたはわからなくてもしかしたら困惑したかもしれない。でも、ベルビュー荘が選んだのはたぶん俺じゃなくて、他でもないあんたなんだ」
「……えっと、それ、どういう意味?」
首をひねっているあたしに対して、レンは初めてシニカルにではなく、優しく微笑みかけた。
「気がつかないか?あんたがここへ来てから二か月もしないで、ミズキは自分の部屋から進んで出てきた。それも誰に強制されるでもなく……それにあんたはほたるとも仲良くやってるし、実際感心するよ。ほたるはこの一か月で十キロとは言わないまでも、七キロか八キロは痩せただろ?」
「うん、まあね。本人も二重アゴじゃなくなったって言って、すごく感動してるみたいよ」
実際、ほたるはアゴのラインがすっきりして以来――ますます熱心にダイエットに励むようになっていた。
それはあたしにとっても、嬉しい限りのことだった。
「俺はさ、あんたのことを最初から、自分のことしか頭にない自己中女だと決めてかかってた。それというのも、昔あんたによく似た女に夢中になって、捨てられたことがあったからだ。でも俺のそういう過去と、あんた自身は本当はなんの関係もないんだよな……だから、悪かったと思う」
「や、やだ。何よ、急にしおらしくなっちゃって!久臣さんもそうだけど、なんか世の中にはあたしの顔によく似た悪女が三人くらいいるのかしらね」
あたしは自分でも、顔が熱くほてってくるのがわかった。あたしに似た女に夢中になったことがあるっていうことは、可能性がまるでないわけじゃないって、ついそんな気がしてしまって。
「久臣さんが言ってるのはたぶん……容姿が似てるってことじゃないと思うな。俺の言ってるのも、あんたに顔がよく似てたっていう意味じゃない。むしろ顔なら全然似てないな。彼女のほうが清楚で、いかにも上品で洗練されてるような感じだったから」
「何よ!あんた、さっきからあたしを上に持ち上げたり下にどすんと落っことしたり、どっちにするのかはっきりしてくれない!?」
「ああ、悪い。べつにあんたが見るからに下品で洗練されてなくて、おしとやかじゃないって言いたいわけじゃないんだ。ようするに、久臣さんの場合は、あんたみたいないかにもお水系の顔立ちの女性にトラウマがあるってことさ。仮に顔が似てなくても、いかにもそういう系統の女を見ると、久臣さんは避けて歩きたいって思ってるっていうことなんだと思う。それと、俺の場合は――もっと質が悪いんだよな。見た目、いかにも清楚で綺麗な女が、もし実際は自分のことしか頭にない自己中女だったとしたら、大抵の男は騙されるって、そう思わないか?」
「わかったわ。あんたが言ってるのはようするに、テニスコートでパンチラタイプの女よ!絶対そう!」
レンは煙草の煙にむせると、少しの間笑いをかみ殺したような顔をしている。
べつに、笑いたければ思いきり笑ったっていいのに。
「テニスコートでパンチラって、どういうタイプの女だよ?まあ、聞かなくてもなんとなくわかる気はするけどな」
「テニスコートでパンチラするタイプの女には、二種類いるってことよ!ひとつ目はね」と、何故かあたしは熱心に言った。「べつにそんなつもりもないのに、真面目にテニスっていう競技に熱中するあまり、パンチラしちゃってるっていう女。もうひとつ目はね、男が見てるってわかってて、計算してパンチラするって女よ」
「パンチラパンチラって言うけど、たぶんテニスの選手はスコートってやつを穿いてるんじゃないのか?」
「スコートもパンツも似たようなもんじゃないの。とにかくパンチラはパンチラよ。それで、あんたはその後者の質の悪い女に引っかかったってわけ?」
あんたもたぶん、そのタイプに属するんじゃないか、とは言わず、珍しくレンはあたしの言い分を素直に認めた。
「そうだな。確かに俺はあんたの言うとおり、あの人……七津美さんっていうんだけど、彼女が計算してパンチラしてるとは気づかず、その網に引っかかった馬鹿男だったんだろうよ。それに、当時は俺もまだ二十一だったから、綺麗な女性が微笑んで手招きしてたら、フラフラっとついていくしか能がなかったんだと思う。なんでこんな個人的な話を俺がするのか、もしかしたらサクラにはわからないかもしれない。でも最近のあんたを見てて……あんたにならたぶん、わかるだろうっていう気がしたから、俺は今まで誰にも話したことのない話を、あんたにしてみようと思ったわけだ」
「ふう~ん。それは光栄ね」内心では、レンがこれまでどんな女性とどんな恋愛をしてきたのか、好奇心で胸がはちきれそうだった。でもあたしはそういう安っぽい感情を見せないよう、一生懸命努力した。「で、もしかしてそのナツミさんっていう人が、あんたの初めての相手だったりしたわけ?」
「いや、それまでに絵のモデルになってくれた子と、そういう関係には何回かなってた」
(でしょうね)と、あたしはイーゼルにかかった真っ白なキャンバスを見つめて、溜息を着く。
レンのこの、妙にどっしりとした落ち着きは――多分そういうところから来ているのだろうと、あたしは前からなんとなく感じていたのだ。
「七津美さんは、ちょうど俺が大学三年の時、イタリア料理店でウェイター兼皿洗いのバイトをしてた時に知り合った。店の常連客で、イタリア人の店長と時々、イタリア語で話してるっていうような女性で……まあ、いわゆるセレブなマダムっていうか、何かそんな感じだった。ようするに、貧乏な画学生とはなんの縁もゆかりもなさそうにしか見えない感じの人。でもそんな彼女がある時、うちに来ないかって誘ったんだ。自宅に御主人が個人所蔵してる絵がたくさんあるから、絵を描いてるなら絶対勉強になると思うって言って……」
「ご主人ってことは、そのテニスコートでパンチラ女は年上の既婚者だったってことね?」
そういう種類の男と愛人契約を結んでいたことがあるので、あたしは大して驚きもしなかった。
ついでにいうと、この時点でレンの話もある程度先が読めていたといっていい。
「そうだな。正直、俺は今も七津美さんの正確な年齢についてはよく知らない。たぶん当時で三十五、六歳くらいだったんじゃないかな。旦那はIT企業の社長で、年収が数億円クラスっていう人。彼女とは確か年齢が二十歳は違ってたと思うけど……こういう話って俺は、昼下がりのくだらないメロドラマにしか存在しないと思ってた。ようするに七津美さんは金目当てで二十も年の違う男と二十代で結婚して、その後は御主人との間にある退屈な性生活に満足してなかったわけだ。で、時々俺みたいにちょっと気に入った男を見つけると、一流の服や作法や食事のマナー、ワインの選び方を伝授するってわけ」
「だけどレン、そういうのって別に「誰でもいい」ってわけじゃないのよ」
ナツミとかいう女の肩を持ちたいわけではないけれど、正直、彼女はかつてのわたしによく似ている。
正妻か愛人かの違いっていうだけで、男に金で囲われている籠の鳥という意味では。
「らしいね。俺みたいな男がこれまで何人いたのかって聞いたら、彼女も同じことを言ってた。「誰でもいいっていうわけじゃないのよ」って。で、俺は七津美さんに買い与えてもらったアトリエで、彼女の絵を描きながらペットの犬か何かみたいに七津美さんが来るのを待つっていう生活を送るようになったわけだ。当時描いてた彼女の絵は何枚になるかわからないくらいだけど、そこを出る時にそれは全部燃やした。旦那さんが七津美さんの絵を一億で買おうって言ったけど、俺はそれを断ったから」
「……一億ね。でもそれってたぶん、ほとんどがヌードだったんじゃないの?」
「まあ、そうだな。あの男が俺の絵を買おうとしたのは、不倫した罰として彼女のことを苦しめるためだった。そのためなら一億も安いってわけだ。俺にしても、今なら七津美さんに旦那と別れて俺と結婚する意志なんかさっぱりなかったんだってわかるけど……まあ、何分当時は今より若かったんでね。ああいう見た目清楚な女性が本当はどのくらい淫乱なのかとか、そんなことも全然見抜けなくてすっかり夢中になってたってわけだ」
「ようするに、熟女の熟練の手管にすっかり参ってたってこと?」
禁煙して十日にもならないのに、あたしは無言で手を伸ばし、レンに煙草を要求した。
何しろこいつにはマルボロを数本貸してやった恩があるにも関わらず、そのうちの一本も返してもらった記憶がない。
「俺はそれまで、セックスする時にどうしたら女が感じるのかとか、そんなことを相手に聞いたことは一度もなかった。でも彼女は――七津美さんは違うんだ。そんなやり方じゃあ、本当は女は感じないとか、随分色んなことを指図されたな。胸や足の間のなめ方にはじまって、性感帯がどこに走ってるのかを探すやり方まで……体位の違いによって、女のほうでは感じ方がどう変わるかとか、そんなこと、俺はアダルトビデオを見る意外ではほとんど考えたことがなかった。ああいう世界と現実は別だと思ってたからね。でも本当は男は、AVの中にしかないようなファンタジーって奴に弱い。正直、七津美さんが俺に与えてくれたのがそれだった。俺の体のうちのどこまでが彼女で、彼女の体のうちのどこまでが俺なのかわからないくらい愛しあったけど――でもああいう関係っていうのは結局、長続きしないもんなんだよな。俺はファンタジーが現実になって、七津美さんとも結婚できると思いこんでたけど、最後はそううまくいかなかったってわけだ」
「……あんたがそういう話をあたしにするってことは」
泣きそうになるのをなんとか堪えながら、あたしはクールなビッチを装って、うまく煙草の煙を吐きだそうとした。
でも、実際には涙が盛り上がってくるのを、止められそうにない。
「あたしがそういう経験を結構してきてるだろうから、それで話しても問題はないって思ったってことよね?」
「そうだな。たぶんこんな話、俺はもう二度と誰にもすることはないだろう。ただ、あんたは容姿がっていうんじゃなくて、本質的な中身が七津美さんと瓜二つだって、俺はそう思ってた。うまく説明できないけど、彼女と別れて以来、似たようなタイプを見るとすぐにピンとくるんだ。でもまあ、サクラは七津美さんに比べたら、悪女としてはまだまだだってとこだな。あんたはようするに、男の気を引くためにパンチラして何が悪いって公明正大に言うタイプだけど、「そんなふうに見られるだなんて心外」って振りをして男を引っかける女はもっと質が悪いからな」
「それで、その人……ナツミさんと別れてからは、どうなの?」
レンに泣いていることを気づかれないために、あたしは足を組むと、横向きになって煙草を吸った。
幸い、レンも視線を正面にある絵――土星のある宇宙の彼方あたりを見つめて話をしてたから、うまくいけば何も気づかれずに済むかもしれない。
そう思ってあたしは手の甲で、頬に流れ落ちた涙をぬぐった。
「どうっていうのは?」
「だから、彼女と別れてからは誰か真剣におつきあいした人はいるのかってことっ!」
ああ、もう駄目だ。マジでやばい。
流石にこれでレンも、あたしが泣いていることに気づいてしまっただろう……。
「あんた、まさかとは思うけど、泣いてるのか?」
「そうよっ。あんたがそんな当時十歳以上も年増の淫乱女に入れあげて、身も心もボロボロになって捨てられたなんて聞いて――あんまり哀れで可哀そうになるあまり、涙がでてきたわよっ!大体、そのIT企業の社長とかいう男からも、一億くらい金を巻き上げてやれば良かったじゃないのっ。そしたらあんた今ごろ、ネパールで井戸なんか掘らなくても、もっと世界のために貢献できたんじゃないの!?」
「確かに、言われてみれば本当にそうだな。あんたに指摘されるまで、そんなことは考えてみたこともなかったけど」
レンはベッドから立ち上がると、ホストが客に灰皿を差しだすみたいにして、あたしの隣に座った。
あたしは年上の蓮っ葉な女を気どって、モアイ像の灰皿にセブンスターの灰を落としたけど……あたしが泣いているのは本当は、他でもない自分のためだった。
「あんたって本当は、すごくいい奴だったんだな」
ここまで、まさかここまで、相手の男から恋愛対象として見られてないだなんて、そんな目で見ることすら<論外>だって思われてるだなんて――あたしの人生史上、一度としてない、生まれて初めての屈辱だった。
「七津美さんと別れてからは、まあ、暫く女はこりごりって感じだったけど、その、ネパールで井戸掘ってる途中で病気になったって奴がさ。すっかり腑抜けになってる俺の面倒を色々見てくれて、ここベルビュー荘を紹介してくれたんだ。自分は出ていくけど、その代わりにおまえが住めよって言ってくれて……小山内氏とか<ベルビュー新聞>のことを教えてくれたのもそいつなんだ。俺はここに来たお陰で本当に心が救われたから、今度は俺自身がベルビュー荘のために何かしたいって思ってたけど、どうやら俺もそろそろ、ここを出ていく潮時ってやつが来たみたいだ」
「レンっ!!あんたここを出ていくっていうの!?ネパールで井戸掘って、まさか現地の女性と結婚して骨までうずめるつもり!?」
「んなわけねーだろう……」
そう言って本当に何気なく、レンはあたしの髪を撫でた。
これまで行ってた美容室へカラーリングしにいくお金がなくて、今やすっかり栗色から黒くなったあたしの髪。
ううん、もちろん今はバイト料も入ったし、なんなら自分で染めるっていう手もあったけど……このほうがレンの気に入るかもと思って、あたしはそのままにしておいたのだ。
「とにかく、海外にいってるのは長くて半年くらいだよ、たぶん。ミドリさんにはその間に2号室に住みたいっていう人間が現れたら――壁に直接描いてる絵は俺が帰ってきたら全部塗り直すってことで、交渉してもらおうと思ってる。まあ、帰ってきてからもここに住むかもしれないけど……流石に俺もそろそろ、青春ってやつにしがみついてられない年になってきたからな。本当は、あんたがここにやって来る前までは、久臣さんみたいにずっとベルビュー荘に住み続けるっていうのが、俺の夢だったんだけど」
「じゃあ、なによ!?あんたはあたしのせいでベルビュー荘を出ていくっていうの!?」
「違うよ」レンからティッシュペーパーを差しだされて、あたしはそれで思いきり鼻をかんだ。「ただ、あんたのことを見てて、思ったんだよな。そろそろ俺も前に進む時期が来てるんだなって……ミズキもいずれ、プロの漫画家か何かになって、ベルビュー荘をでていくだろう。いつまでも俺が2号室を塞いでたんじゃ、次にここへやって来るはずの夢追い人が、住めないままで終わっちゃうかもしれないだろ。本当は俺も――あんたが脚本を書いて、ほたるがミドリさんの役を演じる舞台、すごく見たいと思ってるよ。でも、ネパールで井戸掘ってるって奴に、俺は物凄い恩義があるからな。あいつが世界のどっかで倒れたり、困ったことに巻きこまれたりした時は……何があっても絶対に助けるって約束してるんだ。もちろんあいつはそんな約束、俺が守らなくてもどうとも思いはしない奴なんだけど」
――レンが本当に、あたしの手の届かないところに行ってしまう。
そう思うと、あたしはまた泣けてきて仕方なかった。あたしが今まで、色々なことを頑張ってこれたのは全部、レンのお陰だ。
そもそも、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』という言葉を教えてくれたのもレンだし、<ベルビュー新聞>を読むよう薦めてくれたのだってそうだ。一応、脚本を書いたりアイディアを出したのはあたしやほたるやミズキくんでも……もしレンがいなければ、ほたるだってあたしに脚本を書いてみない?と薦めたりはしなかったに違いない。
それに、前までのあたしならとても、焼き鳥屋でビールのジョッキを一度に六個も持ったり、馬鹿みたいにうちわで鶏肉をあおぐなんて仕事、一週間と続かなかったはずだ。でもレンが「本当に大丈夫なのか、おまえ。店の連中が迷惑しなきゃいいがな」なんて言ったから――「今に見てろ!」とばかり、せっかくの脚線美がむくむのも構わず、頑張ることが出来たのだ。
そんな色々なことを思いだしてるうちに、あたしは馬鹿みたいにぼろぼろ泣いた。
スッピンだったから、マスカラがとけて顔がお化けのようになるっていう心配だけはなかったけど……それでもあたしはやっぱり、(こんなどうしようもなかったあたしのことを変えたのは、他でもないあんたなのよ、レン!)と言って奴の胸に飛びこむことは出来なかった。
もちろんまだ、チャンスがないわけではないのかもしれない。
でもあたしはこれまで――生まれてから一度も、男と女の間に本物の友情が育ちうるだなんて信じてみたことはなかったけれど、たった今、レンとならそれが可能かもしれないと思っていた。
そしてそのほうが、いわゆる男女の仲なんていうものになって、桜の花がパッと舞い散るように互いの関係がなくなってしまうより、遥かに貴重で大切なことなのかもしれなかった。
「……あんたはきっと、あたしがここで裸になっても、ただ淡々とキャンバスに絵が描けるんでしょうね」
「さあ、どうだろうな」レンは何も描かれてないキャンバスのほうを見ながら煙草を消している。「と言ってもまあ、あんたは俺にとってそういう意味でそそられないタイプだっていうのは確かだ。さっき、あんたが言ったみたいに――俺も、裸にさえなってくれるなら、誰でもいいってわけじゃないんだ。たぶん、人生の中でミューズって呼べるくらいの女に会える可能性は、そう滅多にない。これは美人かブスかとか、あまり関係ないんだ。ただ、俺が最初に会った時、あんたのことを表面はどうあれ七津美さんと同じタイプだと直感したみたいに……見た瞬間にわかるんだよ。そういう女になら俺は、ストーカーと思われるくらいしつこくつきまとうかもしれないな。それで、最初は服を着たままの姿を絵に描いて、次期に向こうがその気になるのを待つと思う」
「やれやれ」と、あたしは呆れたように肩を竦めた。「あんたってそういう方面にはてっきり淡白なのかと思ってたけど――案外粘着質な上級スケベって奴なんじゃないの?なんにしてもまあ、次にあんたのいうミューズとやらを発掘したら、いの一番であたしに知らせなさいよ。あんたがまた変な女に引っかかって泣きを見ないかどうか、鑑識眼のあるあたしの目でじっくり観察してやるから」
「それで、あれは間違いなく計算するパンチラ女だからやめとけとかって、助言するんだな?」
「そうよ。男なんてみんな馬鹿だから、レン、あんたもたぶん、今度はスペイン語を話せるクォーターの美女なんていうのが現れたら――その女がどんなビッチでも、誘われたらやっちゃうと思うわよ。で、「君こそ我がミューズ!」とか昼間から寝言いっちゃって、ろくにお金にもならない絵を描きまくるんじゃない?」
「まあ、そうだろうな」
レンがそんなことはありえないという顔をして、また煙草に火をつけながら笑った。
あたしはレンの、そのどこか余裕綽々たる顔の表情が癪だったので、奴の手からそれを奪って自分で吸うことにした。
「ねえ、ネパールってインドの上あたりにある国だっけ?」
「ああ。向こうの子供っていうのは日本のガキみたいにすれてなくていいよ。もし現地の女性と結婚したら、ベルビュー荘宛てに絵葉書でも送るかな。運命のミューズとの出会いについて、長々と書いた手紙と一緒に」
「……ちゃんと、帰ってくるのよね?」
今もし、この確かに心は繋がっているという感覚を手放してしまったら、レンとは二度と会えない気がしていた。
何故かはわからないけれど、なんとなく直感的に。
「ああ。なるべくだったらあんたが脚本を書いた舞台を見るために、十二月には一度帰ってこようと思ってる。向こうであるのは何も、井戸を掘るっていう仕事だけじゃないから、どうなるのかは実際行ってみないことには今の段階ではなんとも言えないんだ」
「そう。あたしももしこっちで何かつらいことがあったら――レンがネパールくんだりで汗水流して井戸掘って、まずい食事をしながら汚水をすすってるところでも想像して耐えるわね。日本は水資源に恵まれてて良かった、飽食時代で良かったなんて、泣きながら喜ぶことにするわ」
「……あんたって、もしかしたらほんとに脚本家向きなのかもしれないよな。時々、よくそういう言葉をぺらぺらすぐに思いつくなって、つくづく感心するよ」
あたしとレンはこのあと、相変わらずの憎まれ口を互いに叩きつつ、色々なことを話しあった。
『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』の舞台の進行状況、ほたるが日に日に痩せていくにしたがい、綺麗になっていくのを見て――東郷氏が嫉妬していること、実際舞台上だけでなく舞台裏でもその種の火花が散っており、三角関係どころかややこしい五角関係が築かれつつあることなど……あたしはずっとレンに話したいと思っていたことがたくさんあった。
そしてレンはこの翌週、ネパールへ旅立っていき、あたしにとってベルビュー荘の空気はなんとなく、炭酸の抜けたシャンパンのような、少し張りあいのないものに感じられて仕方なかった。せっかくお互いの関係が一段階進んで「友達」っていうところまで来たのに……舞台のことをあれこれレンに相談できないのが、あたしは本当に残念でたまらなかった。
それというのも、トップというものは常に孤独というべきか、今やあたしは劇団レリックの団員たちが影で<スパルタ・ビッチ>と呼ぶくらい、彼らのことを厳しく鍛えるようになっていたので――元祖スパルタ・サドの霧島さんですら、その様子をただ黙って眺め、今ではニヤニヤするようになっていたくらいだ。
「ああ、ほんと、俺に代わって歯に衣着せず物を言える人が監督になってくれて、本当によかったよ」
そうなのだ。今やあたしは演出家の荒川氏とふたりで最強のタッグを組み、団員の全員からも劇団レリックの<舞台監督>であるというように、実質的に見なされつつあったのだった。