Act.13
ほたるが痩せるために、あたしは特別なダイエット・メニューを組むことにした。
現在の体重が八十七キロで、そこから三十キロ以上も瘠せるだなんて――わたしにしても、夢のような話だとしか思えない。
あたしは彼女ひとりにダイエットの苦しみを押しつけるのもどうかという気がしたので、朝は早起きしてランニングにつきあい、また時間のある時にはスポーツクラブで一緒に泳ぐことにした。他にベルビュー荘の居間でDVDを見ながらのエクササイズにもつきあったし、食事のほうも、彼女の前では絶対に甘いものを食べるのを避けることにした。
その甲斐あってか、徐々にほたるの体重は落ちはじめていたけれど……どうしてもある時点で戻ってしまう。あたしは毎日つけているほたるの体重管理表のグラフを見て、たぶん彼女がどこか外でストレスからやけ食いをしていると確信していた。
でも、そのことでほたるを責めるつもりにもなれない。たぶん、劇団員たちに影でスパルタ・サドと呼ばれる霧島さんか、荒川氏のどちらかだったらこんな時、彼女に厳しくこう言ったかもしれない。「主役のユリの役をトンビに油揚げよろしく、誰かにとられてもいいの(か)!?」とでも。
もちろん、ほたるは仮に仲のいい友達のユキさんにでも、今回の笹谷ユリ役を譲るつもりはないのだ。
『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』は、あたしだけでなくほたるのアイディアもたくさん詰まった、彼女にとってもとても思い入れのある作品だった。その劇でヒロインをやれる、そのためならなんだってやってみせる、そう言ってほたるは燃えていた。でも人間、長い間慣れ親しんだ贅肉と、そう簡単に縁を切れたりはしないものらしい。
ダイエットをはじめてから一ヶ月後、ほたるは罪悪感の極みからか、とうとうあたしに自分から懺悔していた。
本当は職場の休み時間にこれでもかというくらい買い食いしていること、でもそうでもしないと働いている最中に時々、気が遠くなって計算を間違ってしまうのではないかと怖れていること……。
「自分がこんなに浅ましい、体だけじゃなく心にも醜い脂肪のついた人間だなんて、思ってもみなかった。ほんと、恥かしい」
ほたるが泣きながらそう告白するのを聞くと、わたし自身は何かもう、ほたるはそのままで十分素晴らしいのだから、ありのままで体当たりにユリの役をやったら?と、喉まで言葉が出掛かってしまうほどだった。
そのことを焼き鳥屋に客としてやってきた荒川氏に相談してみると、彼は「心を鬼にしなきゃダメなのよ、サクラちゃん!」と言って、顔を真っ赤にして怒りだした。
「あんた、ビッチな見かけのわりに、随分余計な仏心を持ってるのね。一応言っておくけど、あたしもコウちゃんも、ほたるが痩せない限りは絶対ヒロインとして認めないわよ。もしあんたが下手な同情心でなしに、芯からほたるのことを思うなら、崖から子を追い落とす親熊の如く、ほたるを突き落とすのよ!そうすればほたるは、今は泣いても、あとから絶対ユーに感謝するようになるはずよ!」
(そんなものかしらねえ)……深夜の二時に店ののれんを下ろし、同じアルバイト二名と手早く掃除を済ませると、あたしは店長から初めてのお給料を受けとった。@900×8h×14日=100,800円。それが週三回<ピヨっと鶏まる!>で働いている、あたしの一月分のお給料だった。
もちろん、キャバ嬢で働いていた頃の給料に比べたら、スズメの涙とは言わないけれど、ニワトリの涙とは言いたいところかもしれない。しかも、髪の毛まで毎回焼鳥くさくなり、足を棒にして働いた結果がたったのこれだけ?と思わなくもない。
でも、これが『肉工場』のトリックの実態なのだと、あたしは勝手にひとりで納得していた。
ようするに、久臣さんの論理としては――鶏が<商品>として人の口元へ運ばれるまでに、人間よりもニワトリのほうが、非人間的(非ニワトリ的?)な扱いを受けて血の犠牲を払った以上は、人間も同じように生命に敬意を払い、労働という代価と犠牲を支払うことから、免れることは決して出来ないということなのだろう。
まあ、正直わたし自身はそんな小難しい哲学的なことはどうでもよく、この日もまた清々しい爽快感とともに、<ピヨっと鶏まる!>の勝手口から外へ出ていた。自転車を三十分ほど漕ぎ、あのキツイ坂道をのぼりきる頃には、夜明けの光が街を照らしはじめている……なんていうことも、珍しくない。
そしてあたしはベルビュー荘へ戻り、ミドリさんが用意しておいてくれた食事を食べ、それから四時頃にほたるを起こしに階段を上っていった。
例によって彼女の寝覚めは悪かったけれど、荒川氏の「心を鬼にするのよ、サクラちゃん!」という言葉を思いだし、あたしはほたるの象のようなお尻を蹴飛ばすことにした。
「ほら、こちとら仕事明けで疲れてるけど、心優しくあんたにつきあってランニングしてやろうとしてるんでしょーが!まったくもう、あんたじゃなくてあたしのほうが体重落ちてるっていうのは、一体どういうことよ!?」
――それは本当のことだった。ほたるにつきあってランニングしたりエクササイズをしているうちに、あたしのほうがウエストが引き締まり、ますますスタイルのほうが良くなってきているのだ。
「うん、今起きるよお。サクラにはほんと、感謝かんしゃ……でもあと五分だけ………」
あと五分と言いつつ、ぐーっとよだれを垂らして眠りに落ちたほたるのことを、あたしは諦め顔で見下ろした。
確かに、毎朝四時に起きてランニングをし、カロリー計算されたほんのぽっちりの食事を食べて出勤――なんていうことを一か月もやっていたら、たぶんあたしもとっくに挫折していただろう。
それでも、ほたるはとりあえず一か月で四キロ痩せることに成功していた。舞台の初演は三か月後の12月23日。そして現在の体重が八十三キロ。そう計算した場合、痩せなければいけないのは残り約三十キロだ。一か月で十キロずつ痩せることさえ出来れば……決して不可能な数字ではない。
「ほら、五分たったわよ、ほたる!」
両目とも3の字にしたまま、眠ってるほたるのことを叩き起こすと、あたしは彼女がのろのろとランニングスーツに着替える様子を見守った。まるで太った泥人形が機械じかけで動いているような、鈍い動作だった。
なんにしてもこのまま、催眠術にかかっているような寝ぼけた泥人形を連れて、近くの桜の木公園まで走りこむしかない。
「ほらー、ファイト!!ほたるーっ!!」
時々、豹柄のスパッツにTシャツという格好のあたしを、同じく早朝からランニングをしているか、ウォーキングをしている中・高年のおじさん・おばさんが、変なものを見たという顔をして通り過ぎていく……。
(ふんっ。なんとでも思いなさいよ、この健康フェチどもが!)と、あたしは思った。何故といって、これもまたほたるを奮起させるための秘策なのだ。ピンク色の豹柄のスパッツ。これを履いていると、ほたるがあたしの払っている犠牲のことを思い、どうやらだんだん目の覚める頃には、死ぬ気で頑張ろうという気になるらしいから。
この日も三キロのランニングを終えて戻ってくると、ほたるは体中汗だくだった。ミネラルウォーターを飲み、それからシャワーを浴びる……この頃になると、久臣さんも夜勤から戻ってきており、ほたるやミドリさん、そしてあたしの四人で朝食の食卓を囲むことも珍しくない。
そしてあたしは郵便局へ出勤するほたるのことを見送ったあとで――シャワーを浴びてようやく眠りにつくのだった。
レンはここのところ、毎日午前さまだった。居間のカレンダーにあたしは<ピヨッと鶏まる!>に出勤する日や時間を書きこんでいるので、どうも奴はわざとあたしとすれ違うようにスケジュールを組んでいるような節がある……(ま、嫌いたければ嫌いなさいよ!)と、あたしは今ではかなりのところ開き直っていた。
考えてみれば、あたしが茶色い髪をしているとか、顔立ちがお水系だからとか、ピンクの豹柄スパッツを履いてるからというような理由で人から嫌われたことなんか、これまで数えきれないくらいある。
正直、あたしは劇団レリックの団員たちにも、似たような理由から毛嫌いされたらどうしようと思っていたけれど――とりあえずこれまでのところ、そういう気配はないと感じている。もちろん、あたしが劇団員の誰かに色目を使ったとか、そんな話の流れにでもなればまた別なのだろうけど、今あたしが恋をしているというか、(やっぱりあたし、こいつのことが好きだ)と思っているのは、レンのことだけだった。
でも、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』の舞台に夢中になるあまり、あたしには今、恋愛にまで幅広く力を傾注するような力が残っていない。今のあたしの願いはただ、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』の舞台が完成し、レンがその舞台を見て褒めてくれたらいいと思う、そのことだけだった。