Act.11
ほたると共同作業する予定だった『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』という舞台の脚本は、いまや信じられないことに、あの超根暗と思われていた3号室の大谷瑞希くんをも巻きこんで、順調に進められていった。
あたしはほたるがいない昼間でも、脚本を書く作業は大体、リビングで行うことにしている。
ミドリさんに「このセリフどう思う?」とか、「小山内氏はこういう行動をとると思う?」とか、細かいことをいちいち聞いて確認をとるためだ。時々、久臣さんがいる時には、彼にも似たような質問をする。
でも彼らは不思議と、実際に当時を体験した人たちだというのに――あたしやほたるの意見に対して、「流石にそれはないんじゃないかしら」といったように反論することはほとんどなかった。むしろ久臣さんなどは、ミドリさんも知らない隠れた裏話をこっそり教えてくれて、彼の話してくれたことは脚本を書く上でおおいに参考になったといってよい。
そしてあたしとほたるがプロローグからエピローグまで、大体のところ起きる事件を時系列順に並べ終わり、舞台の出だしをどうするかとソファの上で悩んでいると、ミズキくんがのれんの向こう側で、うろうろしている姿があたしの目に留まった。
「ちょっと、そこのボク。うろうろしてないで、こっちに来たら?ミドリさんがキミの好きな抹茶のあんみつパフェを作っていってくれたから――おやつにそれを部屋まで持っていって食べたらいいんじゃないかしらね」
抹茶のあんみつパフェの誘惑に負けたのかどうか、ミズキくんは藍染めののれんをくぐって、居間に入ってきた。
何か分厚い原稿のようなものを、震える両手に握りしめている。
「……これ、見てもらってもいいですか?」
嫌だと言われたら、もう二度と立ち直れないといったような気迫を漲らせて、ミズキくんはそれをあたしとほたるに差しだした。
1ページ目の表紙の下のほうに、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』というタイトルが手書きで描かれている。
「ねえ、ちょっとそれって……!!」
続く五分くらいの間、あたしとほたるは息をするのも忘れたような感じで、夢中になってミズキくんが途中まで描いた漫画のネームを読んでいった。
「おっもしろい!!っていうか、サクラ。ミズキくんの考えた、この最初のシーンすごくよくない?「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」っていうの」
「まあ、舞台でやったら、受けるかシーンとなるかはわからないけど、あたしも賛成よ。っていうか、ミズキくんってもしかしてずっと、部屋に閉じこもって漫画描いてたの?だったらそういうことはもっと早くに言いなさいよね!!レンなんかミズキくんが自殺するんじゃないかって勘違いしてたくらいなんだから」
「す、すみません。ご心配おかけして……」ずり落ちた眼鏡を直すと、ミズキくんはどこか落ち着かなげにもじもじしている。「その、決して盗み聞きするつもりじゃなかったんですけど、サクラさんとほたるさんの話を聞いていたら――なんかこう、僕もそのお話を漫画にしてみたいなと思って。でも流石に途中でネームに詰まっちゃったから、サクラさんとほたるさんの仲間に入れてもらえたらな、なんて……」
あたしはほたるとほぼ同時に顔を見合わせた。ミズキくんはびっくりするくらい絵がうまい。この才能を活かそうとしない愚かな人間など、この世に存在するものだろうか?
答えは断じて否だ。
「モチのロンよ!!」
あたしは強引にミズキくんの手を引っ張ると、彼のことを自分とほたるの間に座らせた。
たぶん、内気な彼としては居づらいポジションだろうけど、我慢してもらうしかない。何しろ、もっと早くにミズキくんが仲間になってくれていたら――あたしとほたるは出だしにこんなに悩まなくてもすんだのだから。
「じゃあ次、「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」のあと、そんな小山内氏……もとい、そんなデューク・サイトウのことを、2号室の住人、羽柴リョウが嘲笑うわけね。「なーにが「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ベルビューハイツ!!」だ」っていう感じで……そして1号室の住人、<ベルビュー荘>唯一の常識人を自負する大谷アラシも、彼が自分のことを「僕のことはデューク・サイトウと呼びたまえ!」と言ったのを聞いて呆気にとられる。「何がデューク、あなたの一体どこが公爵様だっていうんですか」……うんうん、それでそれで?」
デューク・サイトウというのは、あたしとほたるが苦心して考えだした名前だ。小山内氏の名前は出来る限りインパクトのあるものにしたい。でも流石にデューク東郷というのでは、ゴルゴ13のパクリになる。そこであたしが「デュークってそもそも、どういう意味?ゴルゴって日本人じゃないの?」と聞いてみたところ、ほたるは「よくわかんないけど、デュークって公爵っていう意味なんじゃない?もっともゴルゴはそういう意味で名乗ってるんじゃないと思うけど」……といったような会話の流れから、デュークなんとかという名前にしようということになり、デューク・コンドウ(なんか間抜けな感じ)、デューク・エンドウ(売れないコメディアンみたい)、デューク・ナイトウ(ドサまわりをしてる歌手?)と悩んだ末に、デューク・サイトウになったのだった。
ちなみに、この会話の流れを聞いていた斉藤さんは、「まあ、いいんじゃないか?」とゲラゲラ笑っていた。久臣さんはああ見えて、結構受け上戸らしい。
なんにしても、こうした一連の会話をミズキくんが実はこっそり聞いていたとは驚きだった。
「次にベルビュー荘のマドンナであるミドリさんが登場して、と……やっだ、ミドリさん可愛い~。もしかしてこれ、今流行りのメイドキャラってやつ?」
「その、僕が描いてるのはやっぱり、現実の舞台ってわけじゃないので……多少はその、僕の好みも反映されると言いますか……」
隣のミズキくんが「そこだけは絶対譲れません」というようにキリッとした顔で眼鏡を上げたので、あたしは思わず笑ってしまった。
ミドリさんが普段、何かと甲斐甲斐しく面倒を見てくれることに対して、彼の反応というのは実に乏しいものだったけれど――そのことに対して、何も感じていないわけじゃないっていうことが、今のミズキくんの表情であたしにもよくわかったから。
「ふう~ん。なるほど!今ミズキくんが言ったみたいに、確かに舞台と漫画じゃ表現の形態が違うと思うから、ミズキくんはミズキくんで自由に描いてもらうのが一番だって、そう思わない、ほたる?」
「そうよね。一応これから三人で話を詰めていって……で、ミズキくんは漫画的に「そこはオイシイ!」っていうところをぎゅっと凝縮したものをアレンジするのがいいっていうのかな。かわりにあたしたちもミズキくんからアイディアをもらって、「そこいただき!」ってところを脚本に反映させてもらうから。もちろん、面白くなかったら面白くないって、駄目だしもさせてもらうけどね」
「そうよ~。あたしよりも意外にほたるのが、そこらへんの鑑識眼が厳しいんだから!でも逆に、ほたるがオッケーを出したとしたら、ミズキくんも漫画をすごく面白いものに出来ると思うわよ。そしたら、プロとして漫画家デビュー出来ちゃうかも!」
「そんな……僕はまだ、絵とか表現方法も、全然未熟だし……」
一応そう謙遜しつつも、彼が実は自分の絵の技量に並々ならぬ自信を持っているらしいことは、あたしにもほたるにもよくわかっていた。また逆にそうでなければ、絶対に自分の描いたものを人に見せようなんて思わなかったに違いない。
「まったまた、謙遜しちゃって!まあ、それはそれとして、なんにしても話の続きを考えなきゃね。ちょっとおやつでも食べて、リフレッシュしながら第一幕から順に考えていきましょうよ」
あたしが上機嫌に鼻歌を歌いながら、三時のおやつを三人分、冷蔵庫から取りだしていると――ミドリさんとふたりで買いだしに出ていたレンが戻ってきた。
大袈裟に驚くようなことはしないけれど、それでもミドリさんとレンは、居間のソファにミズキくんがちんまり座っているのを見て、びっくりしたような顔をしていた。
テーブルの上の漫画原稿をレンが目敏く見やると、ミズキくんは慌てたようにそれを両手でかき集めている。
「こ、こんなのは別に、ちょっと落書きしてみただけのものっていうか……」
「いや、凄いよ。ミズキ」テーブルから一枚こぼれ落ちた原稿を拾い上げて、レンが言った。「おまえはおまえで、とっくに自分のしたいことってのがあったんだな。それならそうと、もっと早くに言ってくれたら良かったのに」
「す、すみません……」
「いや、べつに俺にあやまるような必要はないけどさ」
原稿を手渡すのと同時に、まるで「がんばれよ」って言うみたいにレンがミズキくんの肩に手を置いた。
そしてお盆に抹茶あんみつパフェを三つのせたあたしと目があうと――レンは買い物袋を食堂のテーブルまで運んでいき、そのまま特に何も言わず、またすぐに玄関を出ていった。
最近のレンは、何故なのかよくわからないけれど、元気がない。
奴と最後に喧嘩らしきものをしたのは、もう何日も前のことだった。もしかしたらミドリさんに何か言われたのだろうか、とも思う。
何しろミドリさんという人は、実は物凄いフェミニストで、仮にわたしのようなビッチでも、女性は女性であるというだけで素晴らしいと考えているような人だった。どうもこの思想を彼女に植えつけたのは、<ベルビュー新聞>にも名前のでてくるJ嬢こと須藤潤子嬢で、彼女は女性解放運動のリーダー、グロリア・スタイネムに憧れているといったタイプの女性であったらしい。
この日、あたしとほたるとミズキくんは、夜の十一時半頃までかかって、第二幕の途中までストーリーの流れと劇中の人物のセリフを考えると――ミドリさんが夜食として作ってくれた梅と昆布を散らしたおにぎりを食べて、それぞれの部屋へ戻ることにした。何しろ日曜のことだったので、あたしとミズキくんはともかく、ほたるには明日からまた郵便局での通常業務があったためだ。
それに、ベルビュー荘の舞台のシナリオを書いているわたしたちが、ベルビュー荘での暗黙のルール――居住人は二十三時三十分くらいには眠るべしとの規則を破るのはどうかという気がしたせいでもある。
といっても多分、夢に燃えてるミズキくんは部屋に戻ってからも漫画の続きを描くのだろうし、それはあたしにしても同じだった。エピローグの、小山内氏ことデューク・サイトウがベルビュー荘を去っていくシーンに至るまで、あたしの頭の中では数えきれほどたくさんのセリフが渦を巻いていて、その勢いと興奮がまったく収まりそうになかったからだ。
ベッドに横になってからも、第三幕のあの場面はこうしようとか、第四幕の「女子寮とターザン」では、舞台のセットにかかる費用をなるべく低く抑えるためにどうしたらいいだろうかとか、そんなことばかりが頭をよぎって離れない。
何よりもまさか、演劇の脚本を書くということが、こんなにも面白くて刺激的ことだったなんて、あたしは考えてみたこともなかった。男とデートしてただダラダラと過ごし、してもしなくてもいいようなセックスをして不満足な気持ちで眠りに着くより――よっぽと有意義な休日だったと、あたしは本当にそう思っていた。
そして、あたしが物語のクライマックスでデューク・サイトウがこう言うのはどうだろうとか、まるで過去のベルビュー荘の住人と友達になったみたいに、ああでもなこうでもないと考えていた時……ふと、人の話声が階下から聞こえてきたのだった。
久臣さんは例によって印刷所で夜勤だし、レンは出かけてからまだ帰ってきていないはずだ。
もしかして、ミドリさんが電話で誰かと話しているのだろうかと思ったあたしは、なんとなく下におりてみようという気になった。何しろ、目がギンギンに冴え渡っていて眠れない。その事情を説明して、あたしは寝酒に一杯だけ久臣さんのウィスキーを飲ませてほしいとミドリさんにせがもうと思った。
(久臣さんは器が大きいというか、ケツの穴の大きな人だから、サントリーの角瓶が少しくらい減ってても、なんとも思わないわよね、たぶん)
そんなことを思いつつ、あたしが階段を下りていった時、ミドリさんが電話で話している相手が誰なのか、その話の内容ですぐにわかった。自然、途中で足がとまり、その場に座りこむような格好になる。
「だって、あなたから預かった大切な甥御さんなのよ。それなのに、もしものことでもあったら……ええ、もちろん久臣さんからそのことは聞いてたけど。でもミズキくんがあんなに絵がうまいだなんて、嵐さん、言わなかったじゃないの」
ミドリさんは何故か泣いているらしく、時々鼻をすするような音が聞こえる。
「うん、そうなの。舞台のタイトルが『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』っていって、あなたやわたしも登場人物として出てくるのよ」泣いていながらも、ここでミドリさんは明るく笑った。「まさか、ミズキくんまであんなにあたしたちの若い頃のことに興味を持ってくれてるとは、知らなかったわ。なんにしても、あの子はもう大丈夫。新さんや礼子さんにはまだ、話すのは早すぎると思うけど……でも、どうしてるかって聞かれたら、一緒に住んでる他の人たちと協調して元気にやってるって言っておいて。それじゃあ、また」
ミドリさんが携帯を切り、椅子から立ち上がったらしい気配を感じると、あたしは足音を忍ばせつつ、急いで階段を駆け上がっていった。
どうしてなのかはわからないけれど、胸がものすごくドキドキする。
ようするに電話で話している時のミドリさんの声というのは、普段あたしやほたるやレン、久臣さんを相手にしている時とは、まるで違っていた。お母さんとしての声ではなく、女の人としての声、というか。
(嵐さん、か)
あんなふうに、かつて夫だった人の名前を呼べるのなら、今からでも夫婦としてやり直せるのではないかと、あたしはそんな気がしていた。もちろん、そんなのはただの赤の他人の詮索だっていうのは、わかっているつもりだけれど……そして、ミドリさんが何故泣いていたのかも、あたしはなんとなくわかるような気がした。
あたしはまだベルビュー荘へきて日が浅いから(まだ二か月にもならない)、一年以上もの間部屋からでてこないミズキくんのことをただ見守り続けるっていうのがどんなことかっていうのは、正直よくわからない。でも、そんな彼が部屋から出てきて自己主張をし、あたしやほたるを相手に熱弁を振るうことさえある姿というのは――あたしには想像できないくらい、ミドリさんにとっては嬉しいことだったのだろう。
(この舞台は、絶対に成功させてみせる……)
あたしは、最初から部屋に備えつけの机に向かうと、ほたるからもらった原稿用紙をとりだして、第三幕から第六幕まで大まかなシーンのセリフを何かに憑かれたように一気に書きだしていった。
もしあたしの書く脚本のアイディアがつまらないものなら――自然、ミズキくんの漫画も途中までは面白いのに、最後のほうは尻すぼみになって終わってしまうかもしれない。それより、わたしが先に「これでもか!」というくらい完璧なものを提供して、さらにミズキくんが自分でアレンジを加え、より面白いものにしていくっていうくらいのほうが、絶対にいい。
こうしてあたしはこの夜、その後一度も経験したことのない神がかった集中力を発揮して、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』の舞台脚本を、大筋の部分だけではあるけれど、夜明けまでかかって大体のところ仕上げていた。
たぶん、あれを書いたのは決してあたし本人ではなくて、<ベルビュー荘自身>があたしという人間を通して書かせてくれた物語なんじゃないかと、今もあたしはそんな気がしてならない。