漂白
男は轟音の中で意識を取り戻した。
真っ暗だ、ここは?どこなんだ?
暗闇の中、轟々とノイズだけが響き続けている。
体が重い···俺は、そうだ。
俺は、事故にあって···車に轢かれた。俺はどうなったんだ?
男はヘッドライトの光を思い出し、身震いするが、その思考は耳障りなノイズで掻き乱された。
ここは、病院なのか?俺は今どうなっているんだ?
怪我をした、酷い怪我なのか?うるさいぞ、真っ暗なのもそのせいなのか?
うるさい、目を、やられたのか?うるさい、この音も怪我のせいなのか?
まさか、治るまでこの音を、聞き続けなきゃいけないのか?
男はなんとか体を動かそうとしたが思うように動かない。
必死に動かす手には何の感触もなく、それどころか体に触れている筈のベッドの感覚もなかった。
そんな筈が無い、俺が、こんな目に遭うなんて、このうるさい音を止めてくれ。
俺は治るのか?、うるさい、まさかずっとこのままなのか?
男はもがいた、もがこうとした。男には自分が動いているのかすら分からなかった。
音はますます大きくなってゆく様に感じられた。
どんどん、どんどん音は大きくなる。耳の近くで、頭の中で、幾らでも音は大きくなる。
男は絶叫した。声は出なかった。
耐えられない!なんで、俺が、こんな目に遭わなきゃならない!
音は止まらない。男は泣き叫びたかった。手を振り回して暴れたかった。
男は遂に耐えられなくなると意識を失った。
男は轟音の中で意識を取り戻した。
またここだ、うるさいうるさい、止めてくれ、もう耐えられない。
男は舌を噛もうとした、噛もうとしたが噛めなかった。男の歯は無かった。
なぜ俺の歯、誰が、こんな酷いことを。
そうだ、餓死、餓死だ、何も食べなければそのうち死ねる。
餓死することに一縷の望みを託し、男はこの轟音を眠ってやり過ごそうとしたが、男には自分が瞼を開いているのか閉じているのかすら分からなかった。
そしてどんなに頑張っても、ノイズは消えなかった。そうして意識を何度も失っては、轟音の中で意識を取り戻した。
男は死ななかった。
なぜ死ねない、腹が減っているのかどうかも分からない。
俺はどうしてしまったんだ、まさか、全然時間が経ってないのか?
そんな筈がない、うるさい、俺はおかしくなってしまったのか?
うるさいうるさいうるさいうるさい、地獄だ、ここは地獄だ。
男は半ば発狂していた。意識は幻覚を見せようとするが。轟音が容赦無く現実に引き戻した。
何度も、何度も。
男は忘れた、恐ろしい体験を。しかし意識を取り戻すと再び同じ体験をするのだった。
何度も、何度も何度も。
男は狂った。すべて忘れて何も感じなくなった。
感じるのだがそれが何であるのか認識することはなかった。
そして一つの命がこの世に生を受けた。母の腕に抱かれた赤子はもうあの男ではなかった。